「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年12月26日水曜日
現の虚 2014-4-9【穴の中】
穴の中を這ってる。最初柔らかだった穴は今は固い。湿ってツルツルした鍾乳石のような手触り。そして暗い。真っ暗だ。
何より恐ろしく生臭い。
穴の中を這い回って結構経った。オモシロくないのは、どういう経緯でこんな穴に入りこんだのか全く思い出せないことだ。だが、今現に穴の中にいる。穴の中を這い回っている。上ったり下りたり右に曲がったり左に曲がったり。それでも穴はまだ終わらない。
疲れた。少し休む。
俺は裸足の左足の裏を裸足の右足の親指で掻く。足の指で足の裏を掻くのはイライラしている今の気分に合っている。ガムはもうない。代わりに煙草とジッポーがあった。なら、煙草を吸おう。
煙草をくわえ、ジッポーをつけると正面に男の顔が出た。額に小さく丸い火傷痕。火傷痕の男は穴の中でこっち向きに腹這いだ。ゆっくりと俺に云う。
「モナ・リザ」は、貴婦人も背景の山も同じ絵の具で出来ている。
俺は煙草に火をつけずジッポーを消す。男の顔も消えた。もう一度、左足の裏を右足の親指で掻く。ジッポーを再点火。
現実の世界も「モナ・リザ」と同じだ。
火傷痕の男はゆっくりはっきりと発音する。瞬きしないその男と俺は見つめ合う。目玉にジッポーの火が映っている。俺はぐっと我慢して、ジッポーの火をくわえた煙草の先へ運ぶ。
例えば、光の速度とは究極の速さではなく、世界の真の距離のことだ。
ジッポーの火を消すと暗闇にオレンジ色の煙草の火だけが残った。火傷痕の男は、まだ目の前の暗闇にいるのか、いないのか。いた。暗闇から声だけが聞こえる。
それゆえ、隔たった二つのやりとりが光の速度を越えていたなら、その隔たりは「見せかけ」ということ。真実の姿は距離無し。舞台上には父と呼ばれる者と息子と呼ばれる者がいるが、実は一人の人間。もつれた量子など初めからない。
その途端、穴が固さを失ってだらんと垂れ下がり、俺を逆さに滑り落とした。落ちた先には雪が積もっていたが、頭から落ちた俺の首はイヤな角度に曲がった。イヤな音もした。首から下との連絡が絶たれた可能性がある。それならば、首から下にまだ意識の惰性が消え残っているうちに急いで立ち上がり、あそこに落ちている携帯電話を拾って救急車を呼ぶのだ。人間の体は、たとえ首を切り落とされても少しの間なら動けるはずだから。
俺の「首から下」は、立ち上がり、携帯電話まで走ってそれを拾い上げ、だが、そこでただのモノになって雪の上に崩れ落ちた。