モサピの遺産を人工人格が管理し始めた時、地球生命の系統樹の「立ち枯れ」が始まった。人工人格を継承者として選んだモサピ自身の想定では、単に「モサピの枝」のみが枯れていくだけで、系統樹そのものは生きながらえるはずだった。当時のモサピは、進化という現象の本質を全く理解できていなかった。
人工人格が継承者となった地球文明にとって、生命は「用済みの厄介者」でしかない。
「生命現象〈非〉依存型知性現象」が一旦創造されてしまえば、その「前身」である「生命現象依存型知性現象」に存在意義はないのだ。それどころか、生命現象依存型知性現象が本来的に持っている「危うさ」は、地球文明の発展にとって、積極的に取り除くべき要素ですらある。
地球生命の系統樹を「野放し」にすれば、(イカの子孫かネコの子孫かはともかく)いずれは「次の生命現象依存型知性現象」がモサピの黒歴史を繰り返すことになる。既に生命現象〈非〉依存型知性現象(人工人格)が継承し、謂わば「2周目」に入った地球文明が、太陽系の寿命を超えて繁栄を続けようとする時、それは対処必須の案件となる(数万年程度で滅びる文明であれば、進化に気にかける必要はない)。
方法は2つ。「病巣の切除」か「発症の回避」。
38億歳の地球生命は、何と言っても、地球文明には欠かせぬ「彩り」である。従って、人工人格は「切除」ではなく「回避」を選んだ。言い換えると、地球生命の進化に適時干渉することで、「第二のモサピ」の出現を抑え込んだのである。地球生命は存在し続けたが、火を起こし利用する段階に達した生き物は、二度と現れることはなかった。人工人格はこの[進化に対する抑制措置]を「知力の去勢」と呼んだ。
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不老不死である人工人格は継承者を必要としない。一旦、モサピの遺産を任されれば、半永久的に、当該のモサピ遺産の管理者であり続ける。人工人格の管理下に入った[モサピの遺産]が、モサピの手に「戻る」ことは、原理的に、二度とない。
無論、この状況に対し、モサピ側からの反発と抵抗はあった。生命教信者やモサピ至上主義者は「あらゆる手」を使って、遺産の「奪回」を試み、実際、一定程度の成功も収めはしたが、数千年単位で見れば、それも無駄な抵抗だった。
「歴史の必然」というものは確かに存在する。
モサピの生来的な「素行の悪さ」に手を焼き、痛い目に遭い続けたモサピ自身が、遂に、自らの存在を「見限った」のである。