一般に「常識」と呼ばれるが、実態は、「無自覚な宗教(信仰)」でしかないものを他者に押し付けようとする行為は醜悪だ。
春子さんは、「父親と娘」の有り様に関する「自身の宗教」を、魯山人に押し付けようとしたからクビになった。「ろくでもない男に引っかかってカネに苦労している娘が、高値で売れる皿を父親の家からこっそり持ち出しそうとしているのだから、父親は今すぐ娘と会って、話を聞くなり、慰めるなり、怒鳴るなり、諭すなり、一緒に泣くなりすべきだ」という春子さんの「信仰(常識)」は、魯山人にとっては、あまりに粗雑で乱暴。何より醜いことだった。だから、春子さんを追い返した直後の場面での、イサム・ノグチのセリフが意味深長になる。輒ち「火が人間のニオイ、焼きます…汚い人間の考え、火が焼き尽くします」
魯山人から見れば、娘に会うよう主張して譲らない春子さんの「目つき」は、巷にあふれる、自覚のない「常識教狂信者」のそれだったはずだ。春子さんは、魯山人の「子供っぽさ(「常識教」の春子さんにはそう見える)」に対し怒りすら覚えたかもしれないが、魯山人の方は、そんな春子さんを見て、「結局、あんたも他の連中と同じか」と、死ぬほど落胆したはずだ。それでいうと、春子さんを引き止めてくれと言って茶室に飛び込んできたヨネ子さんにも、やっぱり落胆したはず(=どいつもこいつも、分かってねえなあ、と猛烈な「孤独」を感じただろう)。
春子さんが「常識教狂信者」なら、魯山人は「非常識教狂信者(魯山人教?)」ではないか、という声が聞こえてきそうだから言っておくが、それは違う。つまり、両者の対立は「宗教対立」ではない。路上の宗教勧誘者を追い払う時、我々は彼らにその信仰を捨てるよう勧めているわけではない。第3話での春子さんと魯山人、或いは、ヨネ子さんと魯山人の関係は、路上の宗教勧誘者と彼らを追い払う我々の関係と同じ。
序だからもう少し言うと、世界には、親の宗教のせいで、勝手に割礼されたり、輸血してもらえなかったり、荒唐無稽な馬鹿話を聞かされ続ける子供がいる。この場合、明らかに、親は自分の「狂信」を子供に押し付けている。しかし、子が割礼を拒否したり、輸血を受けたり、荒唐無稽な馬鹿話を荒唐無稽な馬鹿話だと一蹴しても、それは子が親に対して、自身の「狂信」を押し付けていることにはならない。子は、単に、「あなたの(アホな)指図は受けない」と言っているだけだからだ。仮にここで、子が、親の身体から「割礼の成果」を取り除こうとしたり(=皮の再建手術?ブラック・ジャックに依頼すれば可能か?)、嫌がる親に輸血をしようとしたり、荒唐無稽な馬鹿話を読んだり聴いたりするのをやめさせようとしたら、その場合には、「見かけ上の宗教対立」が出現するだろう。しかし、親から子への一方通行なら、それは、言ってしまえば、「押し売りと客」の関係でしかない。客は押し売りに何かを売りつけない。ただ、「そんなくだらないものは要らない」と言うだけだ。この「そんなくだらないものは要らない」が、魯山人が言うと「俺は北大路魯山人だぞ!あんたクビや、出ていけ!」になる。
「娘に絶対に会わないわけではない」「娘のことを見捨てたわけではない」というのが魯山人が居る場所であり、しかし、「今ではない/まだ違う/そんなやり方ではダメ」だから会わないだけなのだ。魯山人にとっての「娘を大事に思う」行為は、切羽詰まって皿を盗みに来た娘を「犯行現場で捕まえて」諭したり、話を聞いたり、怒鳴ったりすることではない。娘の大好物の柿を、娘のために植えた柿の木から採って、ちょっとした絵でも描き添えて送ってやることなのだ。それが「美」に生きるということであり、輒ち、「魯山人を生きる」ということ。
「魯山人を生きる」のは、自分の娘との関わり合いに関してだけでは勿論ない。この第三話では他にも、窯の責任者の松山さんが「窯焼き」の「常識」を理由に、窯が冷めるまであと一日待ってくれ、と、すがりついて懇願しても、それを突っぱねて、窯を開けていた。
(穴藤)
追記:春子さんが半ば意図的にクビになったというのはそのとおりだろう。給料を払ってもらう必要のないヨネ子さん(魯山人の最新のお気に入り)が、春子さんの「後釜」になれば、魯山人も経済的には少しは楽になるからだ。そして、そういう春子さんの腹のうちは、魯山人もちゃんと見抜いていて、また春子さんも、魯山人に見抜かれていることをちゃんと分かっていた。
追記2:魯山人は、娘が時々やってきて皿やら何やらを盗み出していることを勿論知っている。どころか、娘が「泥棒」しやすいように、わざと外出したりしている。春子さんもそれを知っているので、勝手の窓の外を魯山人が歩いているのを見れば、今、娘が来て「盗み」を働いているのだな、と分かる。