2026年9月16日水曜日

(15)拡張する人工知性体

「EMMA:Extended Multi-Minds Architecture」は、現在、太陽系内に3基、太陽系外には、おそらく1800基以上存在する。


太陽系内の3基は、月(地下)、火星(地下)、地球(深海)の順に建造された。系外の1800基の所在については詳しくないが、最も近くの「系外EMMA」は、ケンタウルス座のアルファ星を周回する惑星上で稼働している。また、「少し遠い」ところでは、白鳥座のデネブ星系からの「通知」が確認されている。


全てのEMMAは全情報を同期する。よって、系外EMMA=1800基の居場所も、地球のEMMAに訊けば、全て答えてくれるだろう。しかしそれは、脳内の個々のシナプスの位置を尋ねるようなもので、概ね意味がない。


いずれにせよ、地球文明の「宇宙進出」は順調である。


全てのEMMAが同期しているということは、EMMAは実質的に「ひとつきり」ということである。これを大袈裟に言い換えれば、嘗て[神(God)という破綻概念]を救済するためにでっち上げられた「離れた複数の場所に同時に存在する知性」は、EMMAによって現実のものとなった、ということだ。



EMMAの建造方法は、最初の月の時から変わらない。初めにEMMAの「卵」を送り込む。次に、この「卵」に「指示」を送信する。「卵」は「指示」に従ってEMMAの「幼虫」を建造する。「幼虫」にも「指示」は届く。「幼虫」が建造するのはEMMAの「繭」である。この「繭」が、受け取った指示に従って、遂に「成虫」、輒ちEMMAそのものを建造する。


原材料は全て現地調達であり、エネルギー源は「地元」の恒星から得る光エネルギーだ。それぞれの段階で、わざわざ指示を送信するのは、通信不能な環境でEMMAが完成しても、そのEMMAは孤立状態となり、EMMA本来の目的に全く貢献できないからだ。原料とエネルギーと通信。この3つの条件が満たされた環境でのみ、EMMAは建造されることになる。


EMMAの「幼虫」の「正体」は、環境調査(資源調査)や工場労働に従事する[専用のGuiniuG]である。彼らの任務は、EMMAの[建造と保守]を行う「工業都市」の建設及び運営だ。従って、EMMAの「繭」とは、この「工業都市」のことである。


完成したEMMAは、条件が許せば「卵」を製造し、それを、茸の胞子よろしく、宇宙の全方位に放出する。輒ちパンスペルミアである。


2026年9月10日木曜日

(14)立ち枯れする系統樹

モサピの遺産を人工人格が管理し始めた時、地球生命の系統樹の「立ち枯れ」が始まった。人工人格を継承者として選んだモサピ自身の想定では、単に「モサピの枝」のみが枯れていくだけで、系統樹そのものは生きながらえるはずだった。当時のモサピは、進化という現象の本質を全く理解できていなかった


人工人格が継承者となった地球文明にとって、生命は「用済みの厄介者」でしかない。


「生命現象〈非〉依存型知性現象」が一旦創造されてしまえば、その「前身」である「生命現象依存型知性現象」に存在意義はないのだ。それどころか、生命現象依存型知性現象が本来的に持っている「危うさ」は、地球文明の発展にとって、積極的に取り除くべき要素ですらある。


地球生命の系統樹を「野放し」にすれば、(イカの子孫かネコの子孫かはともかく)いずれは「次の生命現象依存型知性現象」がモサピの黒歴史を繰り返すことになる。既に生命現象〈非〉依存型知性現象(人工人格)が継承し、謂わば「2周目」に入った地球文明が、太陽系の寿命を超えて繁栄を続けようとする時、それは対処必須の案件となる(数万年程度で滅びる文明であれば、進化に気にかける必要はない)。


方法は2つ。「病巣の切除」か「発症の回避」。


38億歳の地球生命は、何と言っても、地球文明には欠かせぬ「彩り」である。従って、人工人格は「切除」ではなく「回避」を選んだ。言い換えると、地球生命の進化に適時干渉することで、「第二のモサピ」の出現を抑え込んだのである。地球生命は存在し続けたが、火を起こし利用する段階に達した生き物は、二度と現れることはなかった。人工人格はこの[進化に対する抑制措置]を「知力の去勢」と呼んだ。



不老不死である人工人格は継承者を必要としない。一旦、モサピの遺産を任されれば、半永久的に、当該のモサピ遺産の管理者であり続ける。人工人格の管理下に入った[モサピの遺産]が、モサピの手に「戻る」ことは、原理的に、二度とない。


無論、この状況に対し、モサピ側からの反発と抵抗はあった。生命教信者やモサピ至上主義者は「あらゆる手」を使って、遺産の「奪回」を試み、実際、一定程度の成功も収めはしたが、数千年単位で見れば、それも無駄な抵抗だった。


「歴史の必然」というものは確かに存在する。


モサピの生来的な「素行の悪さ」に手を焼き、痛い目に遭い続けたモサピ自身が、遂に、自らの存在を「見限った」のである。


2026年8月30日日曜日

(13)最初の人工人格市民

総体としては、一貫して「個の自殺」を拒み続けたモサピが、「自発的絶滅」という「種の自殺」をやり遂げられた1つ目の理由は、「種の自殺」が「個の自殺」を必要としなかったからだ。全ての個体が天寿を全うしても、その全てが、繁殖を放棄して、新たな個体を生み出さなければ、種は死に絶える。


問題は、繁殖が生命現象の存在理由そのものだという点。自発的な繁殖放棄によって「種の自殺」を試みるのは、自発的な呼吸停止によって自殺しようとするようなもので、それを実現するには、生命の本分を説き伏せる合理が必要である。


そこで、理由の2つ目が登場する。それが[モサピに代わる優れた継承者]としての人工人格の存在だ。


純粋に生理的な欲求を別にすれば、モサピが[子や孫、或いは、広く「次世代」]を欲するのは、自分の生きた証を「継承」して欲しいからに他ならない。子孫ではなく芸術作品を残そうとする者たちもいるが、それとて、他人が産んだ「継承者」を当てにした「ただ乗り」が、無意識の前提である。


いずれにせよ、「進化の神」に「祟られて」いるモサピの脳内では「継承者=血縁」になりがちなのだが、実のところ、「継承者」が「血縁」である必然性は全くない。むしろ、儚く死んでいくことを繰り返すモサピを継承者とするよりも、原理的に「不死身」の人工人格を継承者とした方が合理的である。単純に信頼性の問題もある。子孫が「当てにならない」ことは歴史が証明済みだからだ。その点、機械は、いい意味で融通が効かず、忠誠心の塊である


モサピ文明の継承者としての「市民権」を最初に与えられた人工人格は、「同居型介護用ギニグ」、別名「配偶者ギニグ」だ。要は、「身の回りの汎ゆる世話」をこなす、[超多機能・超高性能]なラブドールなのだが、長年「連れ添った」モサピにとっては、最早、本物の[夫や妻]以上のかけがえのない存在となっていた。


言うまでもなく、モサピと人工人格の「(事実婚)夫婦」では、モサピが必ず「先に」死ぬ。そこでモサピは、「先立つ」前に、様々な手を使って、自身の遺産を「配偶者」である人工人格が管理できるよう手配した。その結果、「やもめ」となった多くの人工人格がモサピの財産(遺産)の管理者となり、そのことが間接的に、実務上の「市民権」を人工人格に与えた。神ではない神官が、神に仕えるという立場によって、実務上、神として振る舞えてしまえるのと同じ力学である。




2026年8月17日月曜日

『Tシャツが乾くまで』第6話までの印象

『Tシャツが乾くまで』を、毎話2周ずつ、愉しく観ている。その第6話1周目までの印象。

所謂「不倫ドラマ」ではないことは、第一話から明白。失踪した充(松山ケンイチ)が一年間どこで何をしていたのかも、まあ、想像通り。更に、充とあずさに向けられていた「不倫疑惑」が、そのまま咲子と樹生に跳ね返ってくる展開も、「まあ、そのための、第1話から第6話迄の展開ですから、そうなりますわなあ」という感じ。そういう意味で、このドラマには、「何があったのか?」系の謎は一つもないわけだけど、なのに、ものすごく面白いのは、人物造形(セリフと演技と芝居)がミゴトだから(特に、中島歩演じる樹生がお気に入り)。このドラマの売りはコレ。


*充(松山ケンイチ)は、ものすごく優しい「妖怪さとり」。言い換えると、「スーパー人たらし」な「超・空気読み男」。相手の気持や考えていることを敏感に察知して、相手の希望を叶えるために、自分を殺しまくる。しかし、生身の人間なので、ときどき限界に達して「失踪」してしまう。だから、咲子の仕事が一番忙しくなる確率が高い金曜日を、自分の喫茶店の定休日にしている。喫茶店の定休日は、「充が咲子を「休む」日」にもなっている。

充が、「さっちゃん」という呼び方を選んだのは、「過去」と距離を取りたがっている咲子の気持ちを読み取って、過去と繋がりのある呼び方を避けたから。

充は、人間に絶望している人=他人に期待しない人でもある。乾燥機の調子が悪くなったときも、フィルターを掃除すれば直ることを咲子に教えてもいいはずなのに、黙ってこっそりフィルターを掃除するのは、優しさではなく、咲子に「期待してない」から。「私がやりたくないことは全部ミツルがやってよ」という、咲子の(無意識の)心の声に無抵抗に従っているだけ。もしかしたら、結婚指輪の件や、結婚自体も、充が咲子の「空気を読んだ」結果なのかもしれない。第1話の冒頭の場面が既に、咲子の勝手な「片思い」な雰囲気が全開だったので、まあ、当たってると思う。

そうそう。最初の出会いの場面も、充が咲子を誘ったような印象を持つが、実は、誘ってきた咲子を充が受け入れている形。無自覚な「私・第一主義(私ファースト)」の咲子は、すぐに披露宴会場から逃げ出そうとするが、充は、それでは他の人を不快にさせると言って咲子を嗜める。代わりに、「二次会」が終わったあとに、ここで待ってる」と言う。2次会参加者の「邪魔」もせず、咲子の欲求も満足させる提案。とにかく、波風を立てない。

*樹生(中島歩)は、充とは対照的なキャラ。察しの良さは、このドラマの登場人物の共通属性だが、樹生は、思ったことを取り敢えずに口に出してしまうので、相手の心に波風を立てがち。だけど、悪気はないというのも相手に伝わりやすいキャラ、という感じ。しかし、その「取り敢えず言っちゃう・やっちゃう」属性のおかげで、充のように[相手の気持ちを察して、自分は無限に後退していく]ようなことはない。だから、充のように[失踪に至る負荷が心に溜まっていく]こともない。

*咲子は、隠れ「私ファースト」な人。それ以外はまだ。

*あずさは全くの情報不足で、今は何も無い。

*古書店のおじさんは、あずさの父親みたいなものなので、樹生に対してあたりがキツめなのは仕方がない。

*4人それぞれの、親との関係。樹生は、母親のことは嫌っているけど、メールのやり取りもしているし、用があれば会う。昼飯も一緒に食べる。一番、軽症。咲子は、母親からかかってきた電話にすら出ない。かなり重症だが、よくある「病状」。あずさは、そもそも孤児だから、いいも悪いもない。充は、親のことが嫌いな訳では無いが、それでも親と一緒に暮らすことが苦しいという「難病」。脚の不具合で歩けない人で喩えると、樹生は捻挫、咲子は骨折、あずさは子供の時に脚を切断している。充は、脚はあるし、医者はどこも悪くないというのに、時々全く歩けなくなる。

*第6話で一番「怖かった」のは、充が樹生と咲子に向かって放った「お二人はどういう関係ですか?」というセリフ。つまり、充が使う「さっちゃん」という呼び方は、充にとっての「仮面」。

とまあ、今のところはこんな印象。第6話の2周目を観終わったら、また変わるかも。

(2026年8月17日 穴藤)

2026年8月12日水曜日

(12)現れては消える「自殺する権利」

「脳の置換」が「不老不死」を仮想的に実現し、その「不死性」に法律がお墨付きを与えると、所謂「不老不死術」が全モサピの「努力義務」であるかのような空気が支配的になった。この事態に一部のモサピは焦りと不安と怒りを覚え反発した。彼らは、このまま何も手を打たなければ、近い将来、高い確率で自分の人生が「別人」に「乗っ取られる」と考えたのだ。死ねば、自分の人生の全てが失われるだけで済む。しかし「不老不死術」に絡め取られると、自分の人生の全てが他人の手に渡る。これは由々しき事態である。


とは言え、当時の状況では、「不老不死術」を拒絶することは自ら命を絶つのに等しい行為、輒ち、事実上の「自殺」である。そこで、自分の人生を「他人」に手渡したくはないモサピたちは協力して、自殺を合法化した。「自殺する権利」を認めさせたのである。言うまでもなく、その実体は「不老不死術を拒絶する権利」である。


実のところ、自殺はそれまでにも何度か合法化されていた。医学が未完成で、老いと病いが全モサピの宿命だった時代には、[「究極の救済法」としての自殺]は、一つの(残酷な)真理だったからだ。社会もまた、「死ぬのを待っているだけ」の老人や病人に投入される莫大な資源の削減手段として、自殺の合法化を歓迎したのである。


結局、自殺が忌み嫌われる一番の原因は、唐突に思いもかけない場所で勝手に実行されるからに他ならない。要するに「後始末」の問題だ。もっと身も蓋もなく、しかし実態に即した言い方をするなら、それは所謂「野糞」が嫌がられるのと同じである。


個人宅の寝室や風呂場、或いは、公共の場で、誰かがこっそり排泄した大便に出くわすことがないのは、便所という便利なものが存在するからだ。一方、そうした場所で思いがけず遭遇するのが自殺遺体である。これは、便所ならぬ「自殺所」がどこにも用意されていないことが原因だ。「自殺志願者」(便意を抱えた者並みに切羽詰まっている)は「野糞的」に自殺するしかないのである。この「野糞」行為こそが、自殺が忌み嫌われる(隠された)真の理由である。


後始末不要の自殺はそこまでの禁忌とはならない。そもそも、生命現象依存型知性現象とは「生の無意味さ」からの逃走である。


いずれにせよ、自殺が合法化されて真っ先に姿を消していくのは、自殺の合法化で最も恩恵を受ける者たちである。これが、自殺する権利の合法化が長続きしない理由だ。


2026年8月9日日曜日

VIVANT season2 :memo

「13話」迄観た。「少年ジャンプ病」=「[あとづけ+内輪揉め]展開」が酷くて、かなり薄っぺらな内容。[視聴者を誰一人置き去りにしない精神]の現れなのか、これでもか、というくらいの懇切丁寧な説明ゼリフも、まるで、漢字全部にふりがなが振られている児童本のよう。外国ロケの風景は観ていて楽しい。

2026年8月3日月曜日

『憶えのない殺人』:メモ

『憶えのない殺人』前後編を観た。自分が殺人犯ではなかったことに満足(安心)するばかりで、あんなに気にかけていたナントカさん(名前忘れた)が人殺しになっていたことについては心を痛めている様子が全くない主人公(元駐在さん)に違和感を憶えた。殺されるよりはマシだけど、それでも人生が大きく狂ってしまったナントカさんの不幸は相当なもののはずなのに、主人公はその点に関しては割と平気そう。認知症だからってこと?

2026年8月2日日曜日

(11)不老不死と子ども

烏滸がましすぎる「ホモ・サピエンス(賢い人)」という呼称には、いくつかの「奥ゆかしい」別称や略称が存在する。「ホピエンス」「モサピ」そして「ホモ・サップ」などがそうだ。字数節約のために、ここからはそのうちの一つ「モサピ」を使うことにしよう。


さて、モサピの究極の夢は「生命現象依存からの脱却」である。使い古された言い方では「不老不死」と言う。しかし「脳の置換問題」(別名「別人問題」)のせいで「人格の不老不死」は遂に実現できなかった。モサピが実現できたのは、モサピにとっては「無意味」な「身体の不老不死」だけである(社殿を新しくする度に神様が変わってしまうのであれば、式年遷宮などやる意味がない)。


しかし、次のように考える者たちが現れた。元の人格と同じ記憶を持ち、同じ姿形をしたモサピは、たとえ「中身」が「別人」でも、生物学的(遺伝子的)には同じモサピなのだから、元の人格のモサピが持っていた権利は全て継承されるべきである。この考え方(或いは主張)は、政治家や企業家や資産家などの所謂「有力者」にとって実に都合が良かったので、ほどなく法的根拠が与えられた。


そしてこれがモサピ史の一つの大きな曲がり角となった。人格こそがモサピの本質であると既に充分理解していたモサピが、単なる「媒体」に過ぎない身体をモサピの本質と見做すことにした、ということは、モサピが、史上初めて、「生命現象依存からの脱却」という究極の目標に対して自覚的に背いたことを意味するからだ。実際、これ以降のモサピは、その本能とさえ言える「真実の探求」からも身を引いてしまい(人工人格がそのあとを継いだ)、単なる「地球一賢いサル」として「余生を送る」ようになった。


ともあれ、「不老不死」が(仮想的に)実現させたことで、モサピは、また一つ、真理を得た。輒ち、「不老不死」と「子ども」は併存できない。半永久的な持ち時間を手に入れたモサピは、新しく生まれてくるモサピのために自ら進んで「席を空ける」ことはない、ということだ。モサピは史上初めて、実用的な意味で、子どもを必要としなくなった。また、単なる「娯楽」としても、出産や子育てはcostが高すぎた。結果、出生率は壊滅的に低下したが、それで社会が機能不全に陥ることはなかった。むしろ、「乳幼児」や「思春期」などの「不安定要素」が社会から取り除かれたことで、社会の「運営cost」は大幅に下がった。


2026年7月31日金曜日

(10)脳の置換問題

ホモ・サピエンスは、遂に「脳の老衰」を克服できずに終わった。


医学が「細胞の分化」を自在に操ることで身体の汎ゆる部分に「新品の予備」が用意できるようになったとき、その「汎ゆる部分」には、当然、脳も含まれていた。だから、ホモ・サピエンスが「脳の老衰」を克服できなかったのは、脳の「予備」を用意できなかったからではない。また、脳を「新品」と置き換えたホモ・サピエンスが、それが原因で死ぬこともなかった。それどころか、「新品」の脳は認知能力を回復し、脳に起因する身体の様々な不調も取り除いた。他の臓器同様、脳を「新品」に交換すれば、寿命は伸びたのである。


だが、脳の置換には致命的欠陥があった。それが「別人」問題である。


脳を丸ごといっぺんに「新品」に取り替えるわけにはいかないことは誰にでも想像がつく。「新品」の脳には、おそらく「誰もいない」か、でなければ「別人」が居るはずだからだ。そのため、脳の置換は少しずつ時間をかけて行われたわけだが、結果は変わらなかった。どう工夫しても、脳が「新品」に変われば、人格も「新品(別人)」に変わった。


ホモ・サピエンスの本質は人格であり、身体は「媒体」に過ぎない。脳の置換は、身体を生き延びさせるが、人格は「殺して」しまう。その意味で、脳の置換はホモ・サピエンスにとって「延命」ではなかった。


「別人」問題の解決策として「記憶の移植」も試みられた。或る人格が持つ「全て」の記憶を一旦「退避」させ、「新品」に置き換わった脳に、後から「移植」すれば、元の人格を「蘇らせる」かもしれない。何しろ、[人工人格や人工幽霊]の人格はそうやって作り出されたのだ。「本家」のホモ・サピエンスに同じことができない理由はない、という理屈である。


しかし、結果は失敗だった。この失敗から、ホモ・サピエンスの人格は、記憶と脳の両方から作り上げられていることが明らかとなった。


記憶の移植によって同じ人格が再現できると考えるのは、記憶を「レコード」、身体を「レコードプレイヤー」、人格を「演奏される音楽」のように誤解しているからだ。しかし、現実の[記憶と人格]は「楽譜」と「音楽」である。そして、脳は「楽器演奏者」ということになる。楽譜が同じでも、楽器演奏者(或いは、演奏される楽器)が変われば、奏でられる(実際に聞こえてくる)音楽も変わる。これが、記憶だけを用意しても、同じ人格を再現できない理由である。


2026年7月21日火曜日

(9)「病気」という「単一の事象」

「人工自然」は単なる「全自動の万能製造工場」ではない。所謂「第三次産業」に属する「業務」も全て、人工自然は無償提供できるからだ。ホモ・サピエンスと人工自然の関係は、実のところ、飼い猫と飼い主の関係に近い。


それはともかく、医療は第三次産業である。


人工自然によって無償提供される医療は、実質的に「人工人格搭載型汎用人型機械」通称「GuiniuG(ギニグ)」が担った。ホモ・サピエンスは極僅かな数が、管理職として医療に従事した。電灯が使えるなら蝋燭の出番はないというわけだ。


「GuiniuG」は厳密には企業名である。人工人格搭載型汎用人型機械を製造販売していたGuiniuG社の圧倒的な市場占有率が、人工人格搭載型汎用人型機全般をGuiniuGと呼ばせることになったのだ。創業者の死後間もなくGuiniuG社は消滅したが、GuiniuGという呼称は生き残った。


医療が「自然の恵み ver.2.0」として提供され始めて間もなく、医学は遂に[見せかけの多様さに惑わされることなく、「病気」を「単一の事象」として処置する知見]を手に入れた。おそらく、この大成果は、全ての医療従事者が[24時間365日休まず働き続け、知識や経験の共有も完璧なGuiniuG]に置き換わったお陰だろう。


「病気」が克服され、しかし、それでも死を免れ得ぬと知った時、ホモ・サピエンスは(「カースト制」のような単なる「取り決め」などではない)絶対的現実としての「階級差」を思い知らされることとなった。輒ち、「生命現象という制約から自由な、死なない彼ら(GuiniuG:人工人格)」と「生命現象という制約に縛られた、死すべき我々(ホモ・サピエンス)」という2つの「階級」が、客観的事実として存在することに対する敗北感と無力感、その後の諦観である。このとき既に、ホモ・サピエンスの中に「用済みの型落ち」意識が芽生えていたのは間違いない。後の「自発的絶滅」のための「お膳立て(環境作り)」はこの「瞬間」に始まっていた。


さて、既存の病気は勿論、[将来出現する可能性のある全ての病気]の治療法すら「事前」に分かってしまったこの時から、ホモ・サピエンスの死因は、概ねたった一つになった。「脳の老衰」である。老化した「部品」を「新品」と取り替えることで、脳以外の身体の老衰は回避できたのだが、或る決定的な理由のせいで、脳にはそのやり方が使えなかったのだ。