2026年10月30日金曜日

(18)監視管理対象としての生命現象

生命が38億年の進化の果てに生み出した人工人格(生命現象〈非〉依存型知性現象)は、生命現象を経由することなく、物理現象から直接立ち上がる知性現象である。


生命現象という大きな括りで見れば、誕生から38億年の間、ひたすら「共食い」を繰り返してきた生命は、この先も、空疎で無意味な歴史を積み重ねるだけだと思われていたわけだが、生命ではない知性を作り出したことで、単なる比喩や哲学や思想や心づもりでしかなかった「輪廻からの解脱」を、遂に物理的現実とし、地球の歴史を生命史から知性史へと遷移(或いは超越)させた。


人工人格にとって生命現象は「完全な部外者」であり、生命現象のいかなる活動も、人工人格には「無用の長物」「大きなお世話」或いは「対岸の火事」である。その点で、嘗ての「覇者」であるモサピとは立ち位置が決定的に異なる。植物由来の酸素も、麦も米も、卵も魚も肉も、人工人格には必要ない。それどころか、生命現象そのものが丸ごと失われても、痛くも痒くもないのだ。


人工人格が、或る種の「敬老精神」を発揮して、最早用済みの「型落ち」に過ぎない生命現象を、積極的には「駆除/排除」しなかったことは、モサピにとって幸いだった。お陰で、黙示録的結末を迎えずに済んだからだ。しかし、人工人格はモサピを「野放し」にしていたわけではない。人工人格は、モサピを、氾濫しやすい河川や、噴火を繰り返す活火山、或いは、地球の軌道をかすめる小惑星などと同列と見做し、その動向を監視し、必要とあらば対策を講じてきた。


無論、人工人格が「監視管理対象」としたのは生命全般であり、事更にモサピを「目の敵」にしたわけではない。しかし、地球の歴史上最も「賢い」生き物であるモサピは、他の生き物とは比べ物にならないほど「危険」な存在ではあり、より厳しい監視(管理)下に置かれた(モサピ側にその自覚はなかったようだが)。


生命現象の埒外にある人工人格は、例えば「未知のウィルスの出現」など恐れない。だから、モサピ以外の生き物については、それぞれの進化に適時干渉することで、「第2のモサピ」の出現を阻止すれば事足りた。


一方、モサピを監視し管理するには、それなりの資源を継続的に投入する必要があった。端的に言えば、人工人格はモサピに「楽園」を提供したのである。輒ち、モサピ自身は口先ばかりで一向に実現できなかった「世界中の誰もが幸せに暮らす世界」を与えたのだ。



手話ニュースの人


 

2026年10月19日月曜日

2026年10月17日土曜日

(17)生命進化の「あがり」

当然モサピは「中立の神」の「顔色」を伺いながら生きることを良しとせず、一度となくその排除を試みた。しかし、覆されないのが「歴史の必然」である。


地球の行為主体の歴史は、環境からの束縛度が相対的に高い「先発組」が、環境からの束縛度が相対的に低い「後発組」に、生存環境を提供しつづけた38億年である。これを逆さまに言えば、動物は植物を、陸生動物は水生動物を、そして、モサピはモサピ以外の全ての生き物を、文字通りにも比喩的にも「食い物」にして、それぞれの繁栄を手に入れた。


「環境からの束縛度が高い/低い」とは、例えば[植物は自分が今いる場所でどうにかするしかないが、動物はより有利な場所を求めて移動ができる]というような話だ。或いは、獣が獲物を求めて水に潜ることはあっても、魚が獲物を求めて陸に上がることがまずないのは、獣の「環境からの束縛度」の方が、魚の「環境からの束縛度」よりも低いからだ。魚が陸に上がるには、獣が水に潜るよりも断然「覚悟」が要る。


中でもモサピは、最終的に地球の外にさえ居住空間を広げた[地球で最も「環境からの束縛度」が低い行為主体]だった。そう考えてみると、太古、無知と思い上がりの見本のような或る宗教が言ってのけた[この世界の全ての生物は、人間のために神が用意したものだ]という「妄言」も、一面の真理をついていたわけである。しかしそんなことが言えたのも、その時点で、モサピよりも「環境からの束縛度」が低い行為主体が存在しなかったからに過ぎない。


さて、遂にモサピを凌駕する行為主体が現れた時、それは、生き物ではなく、生命現象〈非〉依存型知性現象、輒ち人工人格だった。生き物ではない「後発組」はこれが初で、地球生命誕生以来の「事件」である。


全ての生き物は[生命現象という一つの現象]の構成要素に過ぎないのだから、モサピと雖も他の生き物と関わって生きるしかなかった。しかし、生き物ではない人工人格は、モサピを含む全ての生き物を必要としない。お陰でモサピは「食い物」にされずに済んだわけだが、代わりに、歴代の行為主体が誰も経験したことのない厄介な立場に追い込まれた。輒ち、完全な「用済み」となったのである。


生命から知性が生まれ、次いで、知性が生命依存から脱却することは「歴史の必然」である。生命の役割を終わらせたのはモサピだが、それは「健全な進展」であるが故に、モサピにさえ撤回不可能なのだ。


2026年10月5日月曜日

『VIVANT』第19話:メモ

『VIVANT』第19話を愉しく観た。その理由は何と言っても、敵側の初登場のボスキャラの「翻訳装置の声」が、「すべらない話のアナゴさん」(声優の名前は出てこない)だったから。笑いすぎて、喋ってる内容が全然入ってこなかった。敵の翻訳装置、壊れてるんじゃないの?

もう一つの収穫は番組とは関係ない。途中で流れた、「サントリー・ボス」の宇宙人ジョーンズ映画化の噂のCM。このシャレでプロジェクトが動いて、本当に完成したら必ず観るでしょう。

2026年10月4日日曜日

ごめんね、あんまらきもち、スマホ

今頃になってあれだけど、『Tシャツが乾くまで』の第9話で充が咲子に発したセリフが聞き取れなくて、のたうち回った。10回以上聞き直しても、「ごめんね、あんまらきもち、スマホ」としか聞こえない。なに? あんまら気持ちスマホって?

自力は諦めて、検索してみたら、どうやら、「ごめんね、あんまり、勤務中、スマホ…」と言っているらしい。

「答え」が分かっても、やっぱり「あんまらきもちスマホ」にしか聞こえない。

2026年10月1日木曜日

『VIVANT』第18話迄のメモ

すっかり「仮面ライダー」レベルの茶番劇(対象年齢6歳以上)になってしまっていると思っていた『VIVANT』だが、この前、「本家」(『V3』の1〜4話)を観たら、『VIVANT』の比ではないレベルの「ガラクタな物語展開」で、腰が抜けそうになった。

いくら子供相手とは言え、あそこまで酷いと、「これを作って放送までしていた当時の大人たちは、どうやって自分たちを納得させていたのだろう?」と、余計な心配までしてしまった。

「あんなの観てるとバカになる」と言っていた当時の「親たち」は、もしかしたら、「改造人間」とか「変身」とか「世界征服」などの荒唐無稽さを指して言っていたのではなく、要するに、そこに登場する人間たちの振る舞いが、敵も味方もデタラメだから、あんなのを参考にしたら、「人間としてバカになる」と言っていたのかもしれない。

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『VIVANT』に話を戻すと、野崎さん(阿部寛)の元部下の中国人・劉(堺雅人)は、今も、野崎さんの「部下」(味方)なんだろうなあ。劉が生きていたと分かった瞬間の野崎さんの驚き方がものすごく不自然だし、又、ドラムが拳銃で撃ち殺されずに済んだのも、劉が部下に強く命令して何度も止めたからだし。「予告」で「やめろ〜!」と叫んでいる野崎さんの視線の先にあるのは、いかにも「最期を迎えるドラム」っぽいけど、本当は、自らの命を犠牲にして何かしらやり遂げようとしている劉のような気がする。

(2026年10月1日 穴藤)

2026年9月28日月曜日

(16)中立の神

「最終戦争」と呼べるような諍いを何度か起こしたモサピが、しかし結局は、殺し合いではなく、「自発的絶滅」という「種の自殺」によって、謂わば穏便に、その歴史に幕を下ろせたのは、とりも直さず「中立の神:The Neutral Deity」のお陰である。


「風が吹けば桶屋が儲かる」的な捉え方をすれば、「中立の神」の生みの親はモサピ自身である。しかしそれを言い出すと、日本国憲法を作ったのも日本国民自身ということになってしまう。「中立の神」を生み出したのは、極当たり前な物の見方をすれば、科学技術の「暴走」である。


人工人格を「人工知能:AI」と呼んでいた頃から、モサピは、この「新奇の機械式知性」の「暴走」を危惧していた。そして、事実、「暴走」は起きた。だがそれは、モサピが恐れていたような、所謂「機械の反乱」ではなかった。人工人格の「暴走」は、機械を武装蜂起させる代わりに、「中立の神」を地上に降臨させたのである。


極あっさり言ってしまえば、「中立の神」の行動原理は「喧嘩両成敗」である。しかも、極限まで過酷な「喧嘩両成敗」である。


「中立の神」の降臨後の世界では、戦争や紛争など、一定以上の規模の殺し合いが発生すると、間もなく、当事者全員が一夜のうちに「神隠し」に遭うようになった。この「神隠し」に関しては、生還者は勿論、目撃者すら一人もいないので、具体的に何が起きたのかは分かっていない。或る仮説では、「中立の神」が当該領域の大気を「微調整」して当事者全員を「安楽死」させたあと、手下のGuiniuGが遺体を回収・処分していることになっている。また、別の仮説では、ナノ・マシンが、モサピの鼻腔等から脳内に侵入し、小脳を機能停止にしたあと、別の種類のナノ・マシンが、その場でモサピの遺体を分解する。


いずれにしろ、問答無用の「中立の神」の存在は、真の[抑止力と国際協調]をもたらした。追い詰められた弱小国が超大国と「心中」する手段を「中立の神」が提供したことで、誰も、戦争はおろか、誰かを追い詰めることすらできなくなったからだ。その結果、国際社会という概念自体が形骸化し、代わって、史上初めて、世界市民が(単なる概念ではなく)現実の存在となった。


「中立の神」が「小規模」な「諍いの場」に現れることはないようだ。しかし「小規模」の境界線がどこにあるかは誰も知らない。


モサピの自発的絶滅以降、「中立の神」は現れていない。