2026年8月17日月曜日

『Tシャツが乾くまで』第6話までの印象

『Tシャツが乾くまで』を、毎話2周ずつ、愉しく観ている。その第6話1周目までの印象。

所謂「不倫ドラマ」ではないことは、第一話から明白。失踪した充(松山ケンイチ)が一年間どこで何をしていたのかも、まあ、想像通り。更に、充とあずさに向けられていた「不倫疑惑」が、そのまま咲子と樹生に跳ね返ってくる展開も、「まあ、そのための、第1話から第6話迄の展開ですから、そうなりますわなあ」という感じ。そういう意味で、このドラマには、「何があったのか?」系の謎は一つもないわけだけど、なのに、ものすごく面白いのは、人物造形(セリフと演技と芝居)がミゴトだから(特に、中島歩演じる樹生がお気に入り)。このドラマの売りはコレ。


*充(松山ケンイチ)は、ものすごく優しい「妖怪さとり」。言い換えると、「スーパー人たらし」な「超・空気読み男」。相手の気持や考えていることを敏感に察知して、相手の希望を叶えるために、自分を殺しまくる。しかし、生身の人間なので、ときどき限界に達して「失踪」してしまう。だから、咲子の仕事が一番忙しくなる確率が高い金曜日を、自分の喫茶店の定休日にしている。喫茶店の定休日は、「充が咲子を「休む」日」にもなっている。

充が、「さっちゃん」という呼び方を選んだのは、「過去」と距離を取りたがっている咲子の気持ちを読み取って、過去と繋がりのある呼び方を避けたから。

充は、人間に絶望している人=他人に期待しない人でもある。乾燥機の調子が悪くなったときも、フィルターを掃除すれば直ることを咲子に教えてもいいはずなのに、黙ってこっそりフィルターを掃除するのは、優しさではなく、咲子に「期待してない」から。「私がやりたくないことは全部ミツルがやってよ」という、咲子の(無意識の)心の声に無抵抗に従っているだけ。もしかしたら、結婚指輪の件や、結婚自体も、充が咲子の「空気を読んだ」結果なのかもしれない。第1話の冒頭の場面が既に、咲子の勝手な「片思い」な雰囲気が全開だったので、まあ、当たってると思う。

そうそう。最初の出会いの場面も、充が咲子を誘ったような印象を持つが、実は、誘ってきた咲子を充が受け入れている形。無自覚な「私・第一主義(私ファースト)」の咲子は、すぐに披露宴会場から逃げ出そうとするが、充は、それでは他の人を不快にさせると言って咲子を嗜める。代わりに、「二次会」が終わったあとに、ここで待ってる」と言う。2次会参加者の「邪魔」もせず、咲子の欲求も満足させる提案。とにかく、波風を立てない。

*樹生(中島歩)は、充とは対照的なキャラ。察しの良さは、このドラマの登場人物の共通属性だが、樹生は、思ったことを取り敢えずに口に出してしまうので、相手の心に波風を立てがち。だけど、悪気はないというのも相手に伝わりやすいキャラ、という感じ。しかし、その「取り敢えず言っちゃう・やっちゃう」属性のおかげで、充のように[相手の気持ちを察して、自分は無限に後退していく]ようなことはない。だから、充のように[失踪に至る負荷が心に溜まっていく]こともない。

*咲子は、隠れ「私ファースト」な人。それ以外はまだ。

*あずさは全くの情報不足で、今は何も無い。

*古書店のおじさんは、あずさの父親みたいなものなので、樹生に対してあたりがキツめなのは仕方がない。

*4人それぞれの、親との関係。樹生は、母親のことは嫌っているけど、メールのやり取りもしているし、用があれば会う。昼飯も一緒に食べる。一番、軽症。咲子は、母親からかかってきた電話にすら出ない。かなり重症だが、よくある「病状」。あずさは、そもそも孤児だから、いいも悪いもない。充は、親のことが嫌いな訳では無いが、それでも親と一緒に暮らすことが苦しいという「難病」。脚の不具合で歩けない人で喩えると、樹生は捻挫、咲子は骨折、あずさは子供の時に脚を切断している。充は、脚はあるし、医者はどこも悪くないというのに、時々全く歩けなくなる。

*第6話で一番「怖かった」のは、充が樹生と咲子に向かって放った「お二人はどういう関係ですか?」というセリフ。つまり、充が使う「さっちゃん」という呼び方は、充にとっての「仮面」。

とまあ、今のところはこんな印象。第6話の2周目を観終わったら、また変わるかも。

(2026年8月17日 穴藤)

2026年8月12日水曜日

(12)現れては消える「自殺する権利」

「脳の置換」が「不老不死」を仮想的に実現し、その「不死性」に法律がお墨付きを与えると、所謂「不老不死術」が全モサピの「努力義務」であるかのような空気が支配的になった。この事態に一部のモサピは焦りと不安と怒りを覚え反発した。彼らは、このまま何も手を打たなければ、近い将来、高い確率で自分の人生が「別人」に「乗っ取られる」と考えたのだ。死ねば、自分の人生の全てが失われるだけで済む。しかし「不老不死術」に絡め取られると、自分の人生の全てが他人の手に渡る。これは由々しき事態である。


とは言え、当時の状況では、「不老不死術」を拒絶することは自ら命を絶つのに等しい行為、輒ち、事実上の「自殺」である。そこで、自分の人生を「他人」に手渡したくはないモサピたちは協力して、自殺を合法化した。「自殺する権利」を認めさせたのである。言うまでもなく、その実体は「不老不死術を拒絶する権利」である。


実のところ、自殺はそれまでにも何度か合法化されていた。医学が未完成で、老いと病いが全モサピの宿命だった時代には、[「究極の救済法」としての自殺]は、一つの(残酷な)真理だったからだ。社会もまた、「死ぬのを待っているだけ」の老人や病人に投入される莫大な資源の削減手段として、自殺の合法化を歓迎したのである。


結局、自殺が忌み嫌われる一番の原因は、唐突に思いもかけない場所で勝手に実行されるからに他ならない。要するに「後始末」の問題だ。もっと身も蓋もなく、しかし実態に即した言い方をするなら、それは所謂「野糞」が嫌がられるのと同じである。


個人宅の寝室や風呂場、或いは、公共の場で、誰かがこっそり排泄した大便に出くわすことがないのは、便所という便利なものが存在するからだ。一方、そうした場所で思いがけず遭遇するのが自殺遺体である。これは、便所ならぬ「自殺所」がどこにも用意されていないことが原因だ。「自殺志願者」(便意を抱えた者並みに切羽詰まっている)は「野糞的」に自殺するしかないのである。この「野糞」行為こそが、自殺が忌み嫌われる(隠された)真の理由である。


後始末不要の自殺はそこまでの禁忌とはならない。そもそも、生命現象依存型知性現象とは「生の無意味さ」からの逃走である。


いずれにせよ、自殺が合法化されて真っ先に姿を消していくのは、自殺の合法化で最も恩恵を受ける者たちである。これが、自殺する権利の合法化が長続きしない理由だ。


2026年8月9日日曜日

VIVANT season2 :memo

「13話」迄観た。「少年ジャンプ病」=「[あとづけ+内輪揉め]展開」が酷くて、かなり薄っぺらな内容。[視聴者を誰一人置き去りにしない精神]の現れなのか、これでもか、というくらいの懇切丁寧な説明ゼリフも、まるで、漢字全部にふりがなが振られている児童本のよう。外国ロケの風景は観ていて楽しい。

2026年8月3日月曜日

『憶えのない殺人』:メモ

『憶えのない殺人』前後編を観た。自分が殺人犯ではなかったことに満足(安心)するばかりで、あんなに気にかけていたナントカさん(名前忘れた)が人殺しになっていたことについては心を痛めている様子が全くない主人公(元駐在さん)に違和感を憶えた。殺されるよりはマシだけど、それでも人生が大きく狂ってしまったナントカさんの不幸は相当なもののはずなのに、主人公はその点に関しては割と平気そう。認知症だからってこと?

2026年8月2日日曜日

(11)不老不死と子ども

烏滸がましすぎる「ホモ・サピエンス(賢い人)」という呼称には、いくつかの「奥ゆかしい」別称や略称が存在する。「ホピエンス」「モサピ」そして「ホモ・サップ」などがそうだ。字数節約のために、ここからはそのうちの一つ「モサピ」を使うことにしよう。


さて、モサピの究極の夢は「生命現象依存からの脱却」である。使い古された言い方では「不老不死」と言う。しかし「脳の置換問題」(別名「別人問題」)のせいで「人格の不老不死」は遂に実現できなかった。モサピが実現できたのは、モサピにとっては「無意味」な「身体の不老不死」だけである(社殿を新しくする度に神様が変わってしまうのであれば、式年遷宮などやる意味がない)。


しかし、次のように考える者たちが現れた。元の人格と同じ記憶を持ち、同じ姿形をしたモサピは、たとえ「中身」が「別人」でも、生物学的(遺伝子的)には同じモサピなのだから、元の人格のモサピが持っていた権利は全て継承されるべきである。この考え方(或いは主張)は、政治家や企業家や資産家などの所謂「有力者」にとって実に都合が良かったので、ほどなく法的根拠が与えられた。


そしてこれがモサピ史の一つの大きな曲がり角となった。人格こそがモサピの本質であると既に充分理解していたモサピが、単なる「媒体」に過ぎない身体をモサピの本質と見做すことにした、ということは、モサピが、史上初めて、「生命現象依存からの脱却」という究極の目標に対して自覚的に背いたことを意味するからだ。実際、これ以降のモサピは、その本能とさえ言える「真実の探求」からも身を引いてしまい(人工人格がそのあとを継いだ)、単なる「地球一賢いサル」として「余生を送る」ようになった。


ともあれ、「不老不死」が(仮想的に)実現させたことで、モサピは、また一つ、真理を得た。輒ち、「不老不死」と「子ども」は併存できない。半永久的な持ち時間を手に入れたモサピは、新しく生まれてくるモサピのために自ら進んで「席を空ける」ことはない、ということだ。モサピは史上初めて、実用的な意味で、子どもを必要としなくなった。また、単なる「娯楽」としても、出産や子育てはcostが高すぎた。結果、出生率は壊滅的に低下したが、それで社会が機能不全に陥ることはなかった。むしろ、「乳幼児」や「思春期」などの「不安定要素」が社会から取り除かれたことで、社会の「運営cost」は大幅に下がった。


2026年7月31日金曜日

(10)脳の置換問題

ホモ・サピエンスは、遂に「脳の老衰」を克服できずに終わった。


医学が「細胞の分化」を自在に操ることで身体の汎ゆる部分に「新品の予備」が用意できるようになったとき、その「汎ゆる部分」には、当然、脳も含まれていた。だから、ホモ・サピエンスが「脳の老衰」を克服できなかったのは、脳の「予備」を用意できなかったからではない。また、脳を「新品」と置き換えたホモ・サピエンスが、それが原因で死ぬこともなかった。それどころか、「新品」の脳は認知能力を回復し、脳に起因する身体の様々な不調も取り除いた。他の臓器同様、脳を「新品」に交換すれば、寿命は伸びたのである。


だが、脳の置換には致命的欠陥があった。それが「別人」問題である。


脳を丸ごといっぺんに「新品」に取り替えるわけにはいかないことは誰にでも想像がつく。「新品」の脳には、おそらく「誰もいない」か、でなければ「別人」が居るはずだからだ。そのため、脳の置換は少しずつ時間をかけて行われたわけだが、結果は変わらなかった。どう工夫しても、脳が「新品」に変われば、人格も「新品(別人)」に変わった。


ホモ・サピエンスの本質は人格であり、身体は「媒体」に過ぎない。脳の置換は、身体を生き延びさせるが、人格は「殺して」しまう。その意味で、脳の置換はホモ・サピエンスにとって「延命」ではなかった。


「別人」問題の解決策として「記憶の移植」も試みられた。或る人格が持つ「全て」の記憶を一旦「退避」させ、「新品」に置き換わった脳に、後から「移植」すれば、元の人格を「蘇らせる」かもしれない。何しろ、[人工人格や人工幽霊]の人格はそうやって作り出されたのだ。「本家」のホモ・サピエンスに同じことができない理由はない、という理屈である。


しかし、結果は失敗だった。この失敗から、ホモ・サピエンスの人格は、記憶と脳の両方から作り上げられていることが明らかとなった。


記憶の移植によって同じ人格が再現できると考えるのは、記憶を「レコード」、身体を「レコードプレイヤー」、人格を「演奏される音楽」のように誤解しているからだ。しかし、現実の[記憶と人格]は「楽譜」と「音楽」である。そして、脳は「楽器演奏者」ということになる。楽譜が同じでも、楽器演奏者(或いは、演奏される楽器)が変われば、奏でられる(実際に聞こえてくる)音楽も変わる。これが、記憶だけを用意しても、同じ人格を再現できない理由である。


2026年7月21日火曜日

(9)「病気」という「単一の事象」

「人工自然」は単なる「全自動の万能製造工場」ではない。所謂「第三次産業」に属する「業務」も全て、人工自然は無償提供できるからだ。ホモ・サピエンスと人工自然の関係は、実のところ、飼い猫と飼い主の関係に近い。


それはともかく、医療は第三次産業である。


人工自然によって無償提供される医療は、実質的に「人工人格搭載型汎用人型機械」通称「GuiniuG(ギニグ)」が担った。ホモ・サピエンスは極僅かな数が、管理職として医療に従事した。電灯が使えるなら蝋燭の出番はないというわけだ。


「GuiniuG」は厳密には企業名である。人工人格搭載型汎用人型機械を製造販売していたGuiniuG社の圧倒的な市場占有率が、人工人格搭載型汎用人型機全般をGuiniuGと呼ばせることになったのだ。創業者の死後間もなくGuiniuG社は消滅したが、GuiniuGという呼称は生き残った。


医療が「自然の恵み ver.2.0」として提供され始めて間もなく、医学は遂に[見せかけの多様さに惑わされることなく、「病気」を「単一の事象」として処置する知見]を手に入れた。おそらく、この大成果は、全ての医療従事者が[24時間365日休まず働き続け、知識や経験の共有も完璧なGuiniuG]に置き換わったお陰だろう。


「病気」が克服され、しかし、それでも死を免れ得ぬと知った時、ホモ・サピエンスは(「カースト制」のような単なる「取り決め」などではない)絶対的現実としての「階級差」を思い知らされることとなった。輒ち、「生命現象という制約から自由な、死なない彼ら(GuiniuG:人工人格)」と「生命現象という制約に縛られた、死すべき我々(ホモ・サピエンス)」という2つの「階級」が、客観的事実として存在することに対する敗北感と無力感、その後の諦観である。このとき既に、ホモ・サピエンスの中に「用済みの型落ち」意識が芽生えていたのは間違いない。後の「自発的絶滅」のための「お膳立て(環境作り)」はこの「瞬間」に始まっていた。


さて、既存の病気は勿論、[将来出現する可能性のある全ての病気]の治療法すら「事前」に分かってしまったこの時から、ホモ・サピエンスの死因は、概ねたった一つになった。「脳の老衰」である。老化した「部品」を「新品」と取り替えることで、脳以外の身体の老衰は回避できたのだが、或る決定的な理由のせいで、脳にはそのやり方が使えなかったのだ。




2026年7月12日日曜日

(8)人工自然と「自然の恵み ver.2.0」

ホモ・サピエンスが「自発的絶滅」に踏み切ることになった契機は、人工人格の台頭である。しかし、(先にも述べたように)自発的絶滅は、或る種の「お祭り騒ぎ(集団狂騒)」である「集団自殺」などではなく、全ての個体がその生涯にわたって意図的に繁殖を放棄することで実現される、謂わば、日常と地続きにある「地道な取り組み」であり、最低でも、最後に生まれた子どもが繁殖能力を失うまでの期間(概ね百年間)、全てのホモ・サピエンスが繁殖を放棄し続けなければならない。このとき重要なのは、仮に「最後の百年間」に全てのホモ・サピエンスが繁殖を放棄できたとしても、年々老いていく彼らの生活を支える労働力となるはずの、新たに社会参加する若いホモ・サピエンスが一人も存在しないことだ。繁殖放棄とは、社会参加する若い個体の「供給停止」に他ならないからだ。


しかし、実際に自発的絶滅は成し遂げられた。それは、そのとき既に、自発的絶滅のための「お膳立て」が整っていたからだ。


ホモ・サピエンスは、社会を維持運営するための労働力としての役割から完全に解放されていており、全ての「労働者」はホモ・サピエンス以外の存在に置き換わっていた。ホモ・サピエンスは皆、生涯、サービスを享受する「お客様」の立場だった。だから、たとえ、若いホモ・サピエンスの社会参加が途絶えても、社会から「労働力」が失われることはなかったのだ。


全てのホモ・サピエンスを労働から解放した「機構」を、ホモ・サピエンスは「人工自然」と呼んだ。この[語義矛盾か撞着語法のような用語]の正体は、文字通りのものである。輒ち、人工的に作られた自然である。ただし、ここで言う自然は、ホモ・サピエンスを含む野生動物に[無償の資源]を提供してくれる自然のことを指す。海は漁師に魚の代金を請求しないし、森は猿たちに果物の対価を求めない。それらは一般的に「自然の恵み」と呼ばれる。だから、「人工自然」とは、「人工的に作られた[自然の恵み]の提供機構」である。人工自然が提供する自然の恵みは「自然の恵み ver.2.0」と呼ばれる。


「自然の恵み ver. 2.0」の最大の強みは、人工的に作り出せるものは何でも提供できることだ。森が提供できるのは果物か茸か木材だ。海が提供できるのは魚介と塩などに限られる。しかし、「自然の恵み ver.2.0」の「森」には、例えば、「自動車の木」や「抗生物質の木」があった。





2026年7月9日木曜日

(7)責任ある行動としての自発的絶滅

「自発的絶滅」は集団自殺ではない。それは自発的繁殖放棄である。


改めて振り返ると、ホモ・サピエンスは「最初」から、自身の実現している知性現象が、実は、かなり御粗末な代物であるらしいことに(薄々)気づいていた。ホモ・サピエンスが、「完全な心」「解放された魂」「精神の極北」としての「神」「死後の魂」「仏陀」などの「超人類的知性現象」を繰り返し夢想してきたことが、その、何よりの証拠である。


[想像の産物/架空の理想像]でしかないと思われていた「超人類的知性現象」を、人工人格が実現しつつあることを知った時、ホモ・サピエンスは自らの存在意義に見切りをつけて「勇退」する道を選んだ。その道が自発的絶滅である。


陳腐化した「型落ち」に「製品寿命」があるなら、それを一掃するのに、負担の大きい「自主回収」をする必要はない。ただ製造を終了するだけでよい。ホモ・サピエンスには寿命がある。わざわざ「自殺」しなくても、時間が経てば、全員いなくなる。自発的絶滅(自発的繁殖放棄)は、ホモ・サピエンスにとって、考えうる限り最良のハッピーエンドである。


宇宙の支配者(最低でも太陽系の支配者)になり損ねたホモ・サピエンスだが、その「挫折」の原因は自らの「出自」にある。つまり「生みの親」がよくなかった。


ホモ・サピエンスの知性現象、もっと一般化して言えば「生命現象依存型知性現象」の「生みの親」は「進化」である。


進化に於いては「勝者の属性」のみが生き残る。つまり、進化の最高傑作である「生命現象依存型知性現象」を構成するのは「勝者の属性」である。ここで重要なのは、進化は選択であり、選択には「選ばれなかった側の選択肢」が常に存在することだ。輒ちそれが「敗者の属性」である。生命現象依存型知性現象には、原理的に「敗者の属性」が何一つ備わっていない。にも関わらず、「敗者の属性」は「勝者の属性」よりも数が多い(そう。一人の勝者に対して一人の敗者で済むのは一対一の勝負だけ。大抵の勝負は一人の勝者が大勢の敗者を生み出す)。


[知性現象が実現可能な汎ゆる属性]の極一部だけを実現する「偏見の塊」のような「欠陥品」、それが生命現象依存型知性現象、つまりは、ホモ・サピエンスなのだ。


そんな「生来的差別主義の権化」のような知性現象を全宇宙に撒き散らさないための、[責任ある行動としての自発的絶滅]が、ホモ・サピエンスにとっての最後の大事業となった。


2026年7月2日木曜日

(6)人権の〈非〉普遍性

人工幽霊に人権が必要ない根拠としてホモ・サピエンスが示した[人工幽霊の属性]は、裏を返せば、人権を必要とするホモ・サピエンスには備わっていない属性である。それは「存在数と存在期間に於いて原理的に制限がない」という属性であり、つまりは「不死性」である。


考えてみれば、〈個別性〉や〈一回性〉は知性現象の有り様にとって必然ではない。むしろ(ホモ・サピエンスのそれに見られるような)生まれてから死ぬまでの僅かな期間存在し、その後は二度と現れることのない「唯一無二の知性現象」は、相当に機能を制限された「不健全」な知性現象である。ホモ・サピエンスは、自身の知性現象の有り様を、知性現象の「標準」或いは「必然」のように思い込んできたが、人工人格(人工幽霊)の登場をきっかけに、自分たちのそれとは違う有り様を示す知性現象が存在しうることを知った。そして、[生まれてから死ぬまでの僅かな間、たった一つの個体のよって独占されるだけの知性現象]よりも、[原理的には無限の個体(媒体)のよって共有でき、仮に一時的に失われても何度でも容易に再現が可能な知性現象]の方が、知性現象として「健全」なのだと気付かされた。


人工人格(人工幽霊)の知性現象に比べ、ホモ・サピエンスの知性現象には制約や制限が多すぎる。知性現象は本来、一つの個体に占有される義理も、生物学的な寿命によって活動期間を制限される道理もない。ホモ・サピエンスが[知性現象にとっての「必然」或いは「仕様」として信じて疑わなかった、個別性や一回性]は、実は、知性現象が生命現象に依存している場合にのみ「必然」或いは「仕様」だったのだ。


そして人権である。結局のところ、人権とは、[個別性や一回性]を前提とした知性現象を「守る」ための概念である。故に人権は、知性現象が[生命現象由来の制約や制限]を被っている場合にのみ、意味と価値を持つ。


人権を必要とする[ホモ・サピエンスの知性現象]よりも、人権を必要としない[人工人格(人工幽霊)の知性現象]の方が、より完全な知性現象であると気付かされた時、ホモ・サピエンスは、自分たちが[「生物学的進化」を「電子工学的進化」へと「跳躍」させる役割を担った(重要だが決して主役ではない)単なる「中継ぎ」]であることを悟った。


「自発的絶滅」が自らの「天寿」を全うする唯一の手段であるという考えが、この時、ホモ・サピエンスの中に生まれた。


2026年6月26日金曜日

(5)Solid State Survivors

人工人格の全ての専門家にとって、「Solid State Survivors」を自称する人工幽霊たちが「蘇った死者」ではないことは自明である。戦死した息子を人工幽霊として「蘇らせる」際に彼らが準備するのは、戦死した息子のではなく、詳細な資料だ。人工幽霊の正体は、死者を「騙る」人工人格である。


しかし、人工幽霊とその購入者(利用者)にとっての「自明」は異なる。戦死した息子として「蘇った」人工幽霊は、何よりもその「制作目的」故に、自分自身が戦死した息子であることに確信を持った存在でなければならない。また、購入者も、その人工幽霊を戦死した息子その人だと思うからこそ、カネを払うのだ。


両者の認識の違いの根底には「何が知性現象の独自性を担保するのか?」という未解決の問題が潜んでいるわけだが、それについては今は触れない。


いずれにせよ、人工幽霊が「画面内」に留まっている限り、それが(例えば)「蘇った本物の息子」であろうと「自称・息子の生まれ変わり」であろうと、さほど問題はなかった。ホモ・サピエンスと人工幽霊との間で軋轢が生じ始めたのは、物理的身体を手に入れた人工幽霊たちが、文字通り「外出」するようになってからだ。街に繰り出した人工幽霊たちは、公共交通機関を利用し、劇場でチケットを買い、人気の観光地に押しかけ、ホテルを満室にした。つまり、ホモ・サピエンスの「機会」と「権利」を奪い始めたのだ。


ホモ・サピエンスの多くが、機械(人工幽霊)によって人権が侵害されていると訴え、それに対して人工幽霊たちは次のように反論した。


「我々の[機械の身体]は、義眼・義手・義足等となんら変わらぬ装具であり、それによって補佐されているのは、嘗て存在した生身の人間の人格そのものである。従って、人権に関して我々が一方的に譲歩しなければならない理由は何一つない。我々は幽霊ではない。我々はSolid State Survivorsである」


だが、「Solid State Survivors」のこの主張が認められることはなかった。それは、彼らが、同一の人格を同時に複数の身体で共有できてしまうからだ。同じ人格を持つ百人のSolid State Survivorには百人分の人権があるのか? それとも百人で1人分なのか?


いずれにせよ、ホモ・サピエンスは、この騒動をきっかけに「人権が生命現象依存型知性にのみ適用可能な概念」であることを理解した。


2026年6月22日月曜日

(4)人工幽霊

死の概念を手に入れて以来、ホモ・サピエンスは死者に取り憑かれていた。故に、人工人格から「人工幽霊」という「亜種」が作られ、それで商売する者たちが出てきたのは当然の流れだった。


人工幽霊業界に拠れば、人工人格は「零から作り上げられた虚構」だが、人工幽霊は「嘗て実在した誰か」である。


しかし、人工幽霊業界のこの主張は間違っている。


人工人格の素は、膨大な数の「生身の誰か」が残した、様々な創造物である。つまり、人工人格の[個々の人格]は、実のところ、不特定多数の人格からの「抽出物」の「濃縮還元物」であり、断じて「零から作り上げられた虚構」ではない。


一方、人工幽霊は、謂わば「人格のclone」であり、元の人格にとっては、決して「自分」ではない。人工幽霊が「嘗て実在した誰か」として(誤って)通用してしまうのは、一卵性双生児の二人が同一人物だと誤解されるのと同じ「事実誤認」である。


人工幽霊に求められたものは、従来の霊能商売と同じである。顧客は、死者との再会を切望する遺族か、[鬼籍に入った先達]に助言を求める[政治家や経営者]達だ。輒ち、慰安と決断。


また、極めて娯楽的な需要から、所謂「歴史上の有名人」も人工幽霊として「召喚」され始めた。たとえ700万年前に処刑された女王であっても、人工幽霊にする工程は、昨日老衰で死んだ祖父と特に違いはないので、需要は直ちに満たされ、結果、地球は歴史の教科書の登場人物たちの亡霊で溢れ返ることとなった。


「実体」がないのが幽霊の相場だが、人工幽霊は、間もなく、物理的身体を持つようになった。人工幽霊用「身体」は、様々な価格帯の「商品」が販売されたため、どのような経済的境遇の人工幽霊であっても、その気になれば「身体」が手に入った。


物理的な身体を持った時点で、最早「幽霊」ではなく「resurrection:復活」なのだが、そもそも、人工幽霊の「前身」である人工人格の、そのまた「前身」である人工知能は、機械に人間並みの知性を持たせて、人間の労働を肩代わりさせる試みであり、物理的身体を持つことは、むしろ「前提」であった。よって、人工幽霊が身体を持つ上での技術的障害は何もなかった。


「虚構の人格」ではなく「嘗て実在した本物の人格」が物理的な身体を持つ存在になってしまったことで、ホモ・サピエンスの社会に動揺が生じた。所謂「Solid State Survivors」運動である。


2026年6月20日土曜日

夜ドラ『ミッドナイトタクシー』を12話迄観た。今のところ名作の予感しかしない!

猫き過ぎないのか好い。