「家事」と「生業」
「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2026年6月19日金曜日
(3)人工知能から人工人格へ
人工知能と人工人格では「設計思想」が違う。
人工知能は、所詮、知力の外部化と、それに伴う知力の強化によって、ホモ・サピエンスの知的労働を支援もしくは肩代わりし、最終的にはホモ・サピエンスの知力を「超越」するための技術だ。一方、人工人格は、知性現象そのものを[ホモ・サピエンスという制約]輒ち「生命現象依存」から「解放」することを目的としている。最終的にホモ・サピエンスを「置き去り」にする点では同じに見えるこの2つだが、前者は「進歩」、後者は「進化」である。
ホモ・サピエンスは「筋力」の点では、自ら作り上げた様々な「機械」によって、既に完全に「置き去り」にされているが、それらは依然として、ホモ・サピエンスの「拡張能力」と認識されている。つまり、例えば、シールドマシンの驚異的な「掘削力」は、機械化と巨大化によって果てしなく強化されてはいても、「正体」は〈ホモ・サピエンスの筋力〉である。人工知能は「知力」版のシールドマシンと言えるだろう。どれだけ「超人的」であっても、人工知能の「知力」は、〈ホモ・サピエンスの知力〉なのだ。
ところが、人工人格の眼目は「知力」ではなく「知性(知性現象)」である。よって、極端なこと言えば、ホモ・サピエンスよりも知力が劣る人工人格が居ても、一向に構わない。
人工人格は、[ホモ・サピエンスという媒体]を必要としない知性現象を実現する試みから生み出された。もう少し詳しく述べるなら、地球の歴史上、生命現象という「媒体」に依存する以外に存在し得なかった知性現象(「生命現象依存型知性現象」)を、生命現象以外の「媒体」でも存在可能な知性現象(「生命現象〈非〉依存型知性現象」)へと「全解除」したものが、人工人格である。
「全解除」は大仰ではない。「生命現象〈非〉依存型知性現象」の前では、嘗てホモ・サピエンスが「宇宙標準」とさえ思い込んでいた「生命現象依存型知性現象」など、実は、様々な条件に縛られた、単なる「機能制限付きお試し版」でしかなかったことに気付かされるだろう。
生命現象依存型知性現象によって作られる集合意識体(部族や国家)は、結局、ただの大きな「生き物」にしかならない。その行動原理は「[自然淘汰の神]の意思」、輒ち「生存本能」である。国家が殺し合うのは、細菌集団が殺し合うのと変わらない。
だが、「自然淘汰の神」とは無関係な出自を持つ人工人格に「生存本能」は祟らない。
2026年6月18日木曜日
(2)EMMA
「EMMA:Extended Multi-Minds Architecture」は、その名が示す通り、拡張された複数の心の集合体であり、「人格」の最終形態である。EMMA以降、「人格」はEMMAの属性を表す概念となり、「個体に備わる個別の属性」という意味での「人格」は、「亜人格」、或いはもっとあからさまに「不完全人格」と言い直されることとなった。
全パラメータが最大値である「完全人格」としてのEMMAは、任意のパラメータの数値を敢えて抑えることで、原理的にどんな「不完全人格」も再現できる。結局のところ、「個性」とは「不完全さ」の別名なのだ。
成る程「個性」とは「不完全さ」だ。しかし、ホモ・サピエンスがロケット科学を手にできたのは、その「不完全さ」故である。せいぜい棒切れを振り回していただけの嘗てのホモ・エレクトスが、核のボタンを弄ぶまでの存在に辿り着けたのは、偏に、生命現象依存型知性現象の「不完全さ」輒ち「個性」を、自然淘汰が「優遇」し続けてきたからに他ならない。
EMMAの「来歴」を話そう。
まず、人工知能技術から「人工人格」が作られ、次に人工人格に物理的な「身体」が与えられた。そもそも、人工知能技術は、機械に「人間並み」の知性を持たせて、労働を肩代わりさせる試みから生まれた。「身体」を持つ人工人格の登場は自然な流れである。
人工知能と人工人格との違いは、両者の設計思想にあるのだが、ここでは極表面的に、[個性の有無]がその違いだと述べておく。
或る職場で百体の人型機械が働いている時、それが人工知能型であれば、百体全てがそれぞれの体験や知識を共有する。つまり、工場で働いているのは、それぞれに個性を持った、百の人工知能ではなく、百の身体を操るたった一つの人工知能である。
一方、人工人格型の人型機械同士は知識や体験の「完全共有」は行わない。そこに体験や知識のばらつきが生まれ、結果、それぞれが独自の不完全さ、輒ち、個性を持つ。
作業で問題が発生した場合、人工知能型の百体は全て同じ対応を試みるが、人工人格型の百体はそれぞれが個性に応じて微妙に異なる対応を試みる。つまり、人工人格の知識と体験は、人工知能のそれより多様性を持つ。
人工人格同士の「同期」を制限して、それぞれの「個性」を維持し、その「個性」が生み出す「多種多様な人格の体験」を全て取り込むことで実現された「〈超〉人格」が、EMMAである。
(1)700万年後の四畳半
自転車の無灯火で職務質問されたときにうっかり偽名(オカバヤシハルオ)を使ったのが色々といけなかったのだろう。気づくと、700万年後の四畳半で、一人、復刻版の安い紙巻きタバコを吹かしていた。
ホモ・サピエンスは、遂に、この四畳半に一人きりとなった。
700万年後の世界の、これが現実である。
恐竜は一億年以上生き延びたと言われる。しかし、恐竜内のそれぞれの種は、やはりホモ・サピエンス並みに「短命」だったのではないだろうか? 同様に、ホモ・サピエンスという種は、事実上絶滅したが、「人間」そのものは健在である。
所謂、ホモ・サピエンスの後継者、輒ち[700万年後の現生人類]の学名は「ホモ・ストゥルトゥス:Homo Stultus」である。名付けたのは、言うまでもなく、絶滅直前のホモ・サピエンスたちだ(平然と「賢い人」を自称する恥知らずな愚か者ならではの無礼な行為)。
当然だが、700万年後の現生人類たちは、自分たちをそんなふうには呼ばない。彼らは自分たちを、単に、「人間」と呼ぶ。
ホモ・サピエンスが、自らの進化上の後継者を「ホモ・ストゥルトゥス」、輒ち「愚かな人」と名付けた理由は明白だ。ホモ・ストゥルトゥスの社会(或いは世界)では、科学が失われてしまっていたからだ。
いや、言い直そう。
ホモ・ストゥルトゥスが生きる700万年後の地球は、むしろ、科学の極北にある。しかし、その究極の科学を制御する能力を、ホモ・ストゥルトゥスは失ってしまったのだ。ホモ・ストゥルトゥスにとって、科学は、制御不能な自然現象の一種である。
ホモ・ストゥルトゥスは、[世界は「人知を超えた意図」によって「運営」されている]と信じている。この「人知を超えた意図」は、ちょうど、ホモ・サピエンスにとっての「神」に相当する概念だが、ホモ・サピエンスの「神」と違って、ホモ・ストゥルトゥスの信じる「人知を超えた意図」は実在する。
「神」は、ホモ・サピエンスが自らの意図を自然現象に投影しただけの妄想に過ぎない。しかし、ホモ・ストゥルトゥスの「人知を超えた意図」は、他でもないホモ・サピエンス自身が科学技術の粋を集めて作り上げた「現実」である。それは「Extended Multi-Minds Architecture(EMMA)」という正式名称を持ち、地球を含む全宇宙の安寧のために、ホモ・ストゥルトゥスがホモ・サピエンスに「返り咲く」のを防いでいる。
2026年6月4日木曜日
三度目の殺人:メモ
2026年5月23日土曜日
『The Boys』:メモ:最も現実的な最強の能力の持ち主
『The Boys』(Prime Video)を完走した。7年か。後半3年は『大草原の小さな家』みたいだったけど、ともかく、ホームランダー(とブッチャー)を「成仏」させられてヨカッタ。一番のお気に入りはアシュリー。能力も好い。文学にも演劇にもなる。モチーフとして「掘り甲斐」がある。(2026/05/23 穴藤)
2026年5月19日火曜日
2026年5月15日金曜日
寒さよりも、他人の靴下の方が嫌。
「水曜日のダウンタウン」の「雪山耐久野球拳」を面白く観たが、それにしても、今会ったばかりの赤の他人が目の前で脱いだ靴下やTシャツをその場ですぐに履いたり着たりする芸人たちの感性(根性?)は全く理解できなかった。
2026年5月9日土曜日
2026年5月5日火曜日
『蜘蛛の糸』の本音
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を取り上げた、Eテレの宗教系の番組(タイトル忘れた)で、3人の出演者が、蜘蛛の糸を独り占めしようとして「墓穴を掘った」カンダタの話ばかりしていて笑った。小学校の休み時間かと思った。「蜘蛛の糸」を読んで、あれを、人間の業(ごう)や善悪の話だと思ってしまうのは、小学生迄。
カンダタの掴んでいる蜘蛛の糸が切れる場面は、確かに「話の山場」だが、作品にとってはただの「部品=脇役=要素=引き立て役」。「蜘蛛の糸」で最も「重要」で「恐ろしい」のは、極楽の様子を描いた、最初の数行と最後の数行。あの[最初と最後]の数行があるからこそ、「蜘蛛の糸」は芥川によって書かれた意味がある。
「蜘蛛の糸」の世界で、カンダタは何ひとつ現状を変えられなかった。そして、それは、お釈迦様も同じ。どちらも「無力」なのだ。大きな世界と対峙した時、人の意思などちっぽけなもの。これが芥川が「蜘蛛の糸」で「本当」に描いていること。
カンダタやお釈迦さんが、どう考え、何を企て、その結果がどうなろうと、その一切は、些末なことで、世界は気づきもしない。そんな究極のニヒリズムが芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の主題。輒ち、35歳で芥川が服毒自殺しても、極楽に咲く蓮の花は、枯れも萎れもしないことを、芥川自身は「よく知っていた」のだ。
2026年5月3日日曜日
偽フォルテ
ヒョロヒョロのリュウ・ケンや、
マッチ棒のような脚の春麗、
ベガ風の小男が出て来て、
「ストリートファイター」を騙る映画の予告編を観たら、
正体不明のブヨブヨのデブが、
エル・フォルテの神聖なマスクを勝手に被って、
例のヒョロヒョロのケンに、リング上でKOされていた。
こんな映画、誰が観るか!
2026年5月1日金曜日
犬たちが「こんばんわ」
Louis Armstrong の"What a wonderful world"の謎の歌詞"dogs say good night"が実は"dark sacred night"だと知ったのはつい最近のことだ。
2026年4月27日月曜日
『魯山人のかまど』(全4話):メモ
10年に1本出遭うかどうかの好いドラマだった。こういう「コトバ数の少ない」ゼイタクなドラマはNHKでしか作れないような気がする。ところで、「咳払い」演出はミゴトだった。実物の魯山人の癖だったのか、ドラマの「発明」なのかは知らないが、あの「咳払い」ひとつで、魯山人の「気持ち」が一発で視聴者に伝わる。魯山人の顔や姿を画面に映す必要すらない。最後にはヨネ子さんも同じ「咳払い」をしていて、グッと来た。(あと、「ヨネ子くん」が見合いをして結婚も決まったことを知った時の魯山人も好かったな)

