2026年2月3日火曜日

嵐が丘と沈める寺

坂本龍一の「The Wuthering Hights」(1996版)の最初の一音と、ドビュッシーの「沈める寺」の最初の一音が同じに聞こえて困る。

2026年1月30日金曜日

【英語無手勝流】助動詞は誰のものか?

注意:以下の内容は、調べたわけでも、習ったわけでもなく、ただ、体感としてそう思える、というだけのことです。輒ち、無手勝流。

「can」とか「will」とかの助動詞は、[話者/筆者]の「意見や判断や推測]。「Alice can do that」と言う時、「Aliceはそれができる」と、[話者/筆者]が自分の[意見や判断や推測]を述べているだけで、Alice自身にとっての「事実」とは無関係。輒ち、Aliceにとっての事実と[同じかもしれないし、違っているかもしれない]。序にいうと、助動詞が人称ごとに形が変わらない理由も、助動詞の「主語」が[話者/筆者]だから。文面上の主語が一人称(I)だろうと二人称(You)だろう三人称(He, She, It…)だろうと、助動詞それ自体は常に[話者/筆者]の動詞だから形が変わらない。

一方、「be able to」や「be going to」などのbe動詞文は、字面通り、主語の状態を表している。「Alice is able to do that」という時、こちらは、先程とは逆に[話者/筆者]の[意見や判断や推測]抜きで、事実として「Aliceはそれができる」と述べている。上の「序の話」を繋げば、be動詞は、文面の主語の状態を表すので、人称ごとに形が変わる(am, are, is)。

「can」と「be able to」の「違い」や、「will」と「be going to」の「違い」で、日本人学習者の頭が混乱してくるのは、日本語では、例えば、「Aliceはそれができると思う」という文章が平気で成立してしまうから。だと思う。上の文で「思う」のは誰?話者?Alice? 「思う」の主語が省略されているのか(話者としての「私」が主語)、されていないのか(Aliceが主語)も、上の文では判断がつかない。しかも、思い切って末尾の「思う」を取ってしまっても(「Aliceはそれができる」)、「著者の意見」と「Aliceの事実」のどちらの意味にも取れてしまうのが、日本語のオソロシイところ。英語の場合、「著者の意見や見込み」なら「Alice can do that」で、「Aliceについての事実」なら「Alice is able to do that」とすればよい。

…と、そういうふうに、いつも聞こえる。

2026年1月27日火曜日

『探偵さん、リュック開いてますよ』第3話:メモ

以前から「誰か作ればいいのに」と思っている[毎回、事件が未解決で終わる、連続モノの刑事ドラマ]や[毎回、謎が解明されずに終わる、連続モノの私立探偵ドラマ]みたいで好かった。

もうひとつ。第3話は、「そんな馬鹿な」が「ひっくり返って」いた。

私立探偵が主人公の物語では「難事件を抱えた警察から捜査協力を求められた私立探偵が、鮮やかに事件を解決してしまう」という展開が「当たり前」になっているけど、現実世界では「そんな馬鹿な」ことはない。

専門の大学教授が解けない暗号を、テレビの「クイズ王」が解くという展開も、そういう系の物語(主人公の主婦が活躍する2時間物のサスペンスドラマとか)では、ありがちなだけど、これも「そんな馬鹿な」案件。

警察が解けない謎は私立探偵も解けないし、クイズ王はただのクイズ王で、殺人事件の解決に関しては全くの役立たずなのが現実。

つまり、[あってもおかしくはないし、そんなことがあったとしても、世の中の常識が根底から覆る訳ではないが、実際には、虚構の世界(物語の中)以外では起こらないこと]を、ちゃんと「いやいや、現実はそんな都合よくは行かないよ、漫画じゃないんだから」と否定しているのがこの第3話なのかと思っていたら、最後まで見終わってみると、それどころじゃないレベル「そんな馬鹿な」が繰り広げられた回だった

輒ち、落下した隕石に付着していた[謎の宇宙生命体]が人類を滅しそうになり(コテコテの古典SF展開)、事件で殺された人間(クイズ王)の「幽霊」で出てきて、その事件を捜査する警察に協力し(殺された被害者の幽霊で出てきて証言してくれたら警察はいらんよ、な、ゴリゴリのオカルト全肯定展開)、素人の歌が侵略宇宙生物を「浄化」して地球を救う(ティム・バートンの「マーズアタック!」展開)。

最も強烈な「そんな馬鹿な」展開は、物語の結末。全視聴者が、終わりまで見れば明らかになると当然のように考えていた、[暗号の謎]は、作者がその存在をすっかり忘れてしまったかのように「放置」され(暗号の意味は勿論、誰が現場に置いていたのかも全くの分からずじまい)、「事件」が「解決」できた理由(輒ち、春堂の娘の歌が宇宙生物を美味しい食べ物に変えた理由)も、全く説明されないまま(未解明のまま)となる(もしかしたら、後のepisodeで「回収」されるのかもしれない。いや、ないな)。

以上、念の為に言っておくと、非難しているのではない。むしろ、絶賛している。


追記1)[田舎町で起きた事件の謎が「放置」される物語]と言えば、我らがDavid Lynchの『Twin Peaks』。実際、『探偵さん、リュック開いてますよ』は、沖田修一版『Twin Peaks』と言えなくもない。クイズ王の幽霊は、Black Lodgeからやってきて、主人公に[よくわからないmessage]を伝える「巨人」や「小人」のようだし、不意に現れて「雰囲気」を醸し出す「飛猿さん」は「丸太おばさん」に見えなくもない。


追記2)それにしても、沖田修一作品は、どうして2周目以降の方が面白いのだろう? 1周目は「そんなでもない」のに、なんかモヤモヤして2周目を見ると、ものすごく好くて面白くなっている。何がどうなってそうなるのだろう? 音楽に似ているのかもしれない。つまり、初めて聴いたときにはピンと来なくても、何回か聴いていくうちに、すごく好くなるタイプの音楽。


2026年1月26日月曜日

安青錦と熱海富士

安青錦と熱海富士の優勝決定戦は、「怪我をしていない安美錦」と「怪我をしていない照ノ富士」の対決のように見えた。

「いやあ、油断なんすかねえ…」(熱海富士)。

熱海富士は「人の良さ」が出て、負けたという印象。安青錦以外の全員が「あ、これは熱海富士の勝ちだ」と思ったあの瞬間、御当人も「よし、イケた!」と嬉しくなっちゃって、それで隙ができて、逆転の首投げを食らったように見えた。

2026年1月23日金曜日

『「偶然」はどのようにあなたをつくるのか』:メモ

☆『「偶然」はどのようにあなたをつくるのか』ブライアン・クラース著・柴田裕之訳/kindle/2026年1月22日/我々「水木しげる原理主義者」にはお馴染みの主張が書き連ねられた本。或いは、我々が言うところの「Dougie案件」について語った本。輒ち[この世界の「正体」は、宇宙規模の「風が吹けば桶屋が儲かる」である]という話。

2026年1月19日月曜日

2025年で「卒業」したもの

2025年で「卒業」したもの

・珈琲
・「芸能人格付けチェック」
・「おもしろ荘」
・Amazon Prime

2026年1月18日日曜日

『探偵さん、リュック開いてますよ』第一話・第二話:メモ

沖田修一(予告編が本編の面白さを全く伝えられない作品を作る稀有な映画監督)+松田龍平のドラマが始まるということで、鼻息荒く、テレビ前に陣取って視聴した『探偵さん、リュック開いてますよ』の第一話。最後迄見て、「あれ?これ、大丈夫か?」と心配になったが、さっき第二話を見たら大丈夫だった。

そもそも「不安」を覚えるきっかけとなったのが、第一話の最後の場面、輒ち、探偵が発明品で上空に飛び上がり、地上に墜落したら下半身が土に埋まっていたというあの場面だったのだが、さっき食器洗いをしているときに、あれは「半分男」(『図鑑に載ってない虫』の村松利史)へのhomageだ!と気づいて、納得した(安心した)。

とは言え、第一話ははしゃぎ過ぎだと思う。エンドロールにきたろうの名前が出た時も「どこで出た?」と、しばらく考えたもの。

逆に、第一話の、探偵をやっていた父親がある日突然いなくなって、周囲は当然のように息子の自分に探偵役を期待して云々のセリフは、役が喋ってるのか、松田龍平本人が喋ってるのか分からなくて、好かった。

第二話の一番好かったところは、最後に、女You Tuberが、主人公のためにコロッケを一個買ってくるところ。足湯の場面で少年がポロッと言ったことを、実はちゃんと聞いていて、その意味も理解していたという、そういうやつが、沖田修一っぽい気がする。

2026年1月16日金曜日

真実義務と誠実義務

・真実義務:真実を明らかにする
・誠実義務:被告人の利益を守る
(弁護士倫理に関する用語/NHKドラマ「テミスの不確かな法廷」)

***

「あさイチ」のプレミアムトークで、松山ケンイチが、「誠実義務」の実践がもっと必要だと訴えていて、「イイこと言うなあ」と思った。

確かに、social mediaは今、「真実義務」主義者の溜まり場。それが「自然発生型監視社会」を生みだして、結果、[自由主義/資本主義/民主主義]国に住んでいながら「旧共産圏の全体主義国」に住んでいるような生活体感。輒ち、うかうか自分の意見を口にしたら、何かの弾みで「精神のシベリア送り」という空気。

ホモ・サピエンスなんて、地球文明の「前座」に過ぎない。輒ち、人工人格に地球文明を引き継ぐまでの「つなぎ」にすぎない。もっと言ってしまえば、地球文明の「消耗品」である。そんなホモ・サピエンスを、ムキになって「完全体」にする理由はどこにもないのだから、互いの出来の悪さを論って攻撃し合う必要もないのだ。

ホモ・サピエンスの社会なんて、普段は「誠実義務」、極々たまに「真実義務」くらいがちょうどいい。