「脳の置換」が「不老不死」を仮想的に実現し、その「不死性」に法律がお墨付きを与えると、所謂「不老不死術」が全モサピの「努力義務」であるかのような空気が支配的になった。この事態に一部のモサピは焦りと不安と怒りを覚え反発した。彼らは、このまま何も手を打たなければ、近い将来、高い確率で自分の人生が「別人」に「乗っ取られる」と考えたのだ。死ねば、自分の人生の全てが失われるだけで済む。しかし「不老不死術」に絡め取られると、自分の人生の全てが他人の手に渡る。これは由々しき事態である。
とは言え、当時の状況では、「不老不死術」を拒絶することは自ら命を絶つのに等しい行為、輒ち、事実上の「自殺」である。そこで、自分の人生を「他人」に手渡したくはないモサピたちは協力して、自殺を合法化した。「自殺する権利」を認めさせたのである。言うまでもなく、その実体は「不老不死術を拒絶する権利」である。
実のところ、自殺はそれまでにも何度か合法化されていた。医学が未完成で、老いと病いが全モサピの宿命だった時代には、[「究極の救済法」としての自殺]は、一つの(残酷な)真理だったからだ。社会もまた、「死ぬのを待っているだけ」の老人や病人に投入される莫大な資源の削減手段として、自殺の合法化を歓迎したのである。
結局、自殺が忌み嫌われる一番の原因は、唐突に思いもかけない場所で勝手に実行されるからに他ならない。要するに「後始末」の問題だ。もっと身も蓋もなく、しかし実態に即した言い方をするなら、それは所謂「野糞」が嫌がられるのと同じである。
個人宅の寝室や風呂場、或いは、公共の場で、誰かがこっそり排泄した大便に出くわすことがないのは、便所という便利なものが存在するからだ。一方、そうした場所で思いがけず遭遇するのが自殺遺体である。これは、便所ならぬ「自殺所」がどこにも用意されていないことが原因だ。「自殺志願者」(便意を抱えた者並みに切羽詰まっている)は「野糞的」に自殺するしかないのである。この「野糞」行為こそが、自殺が忌み嫌われる(隠された)真の理由である。
後始末不要の自殺はそこまでの禁忌とはならない。そもそも、生命現象依存型知性現象とは「生の無意味さ」からの逃走である。
いずれにせよ、自殺が合法化されて真っ先に姿を消していくのは、自殺の合法化で最も恩恵を受ける者たちである。これが、自殺する権利の合法化が長続きしない理由だ。