2019年8月27日火曜日

『ガンダムUC』を観た


『ガンダムUC RE:0096』を観た(GYAO!で。カネないので)。「節操ナイくらい阿った作品」というのが第一印象(で、最後までその印象は変わらなかったけど)。阿る対象は無論『富野ガンダム』。まあ、それはしょうがない。この作品のそもそもの「出自」(「制作動機」)がそうなんだから。

良く言えば(良く言えば?)、コネタ満載(と言うか「もう、オナカいっぱいです」ってくらい大量にガンダムコネタが出てくるから、もしかして実はバカにしてるのか? 実はパロディなのか?って思っちゃうくらい)の、ガンダムファンによるガンダムファンのための、『ガンダム』という作品それ自体がモチーフのガンダム作品。一言で言えば「メタ・ガンダム」。

で、結末まで見終わった時の印象は「随分、こぢんまりしたお話になっちゃったなあ」。フル・フロンタル(いやあ、full frontalって、English nativeにはどんな語感なんだろうと要らぬ心配までしてしまう)をパクって言えば、なんだか、ちいさな「器」の世界になちゃったね、と。

先に言った「ガンダム」要素を全部取っ払った時のこの作品の「正体」は何かって言ったら、結局、「戦争歴史物」ってことになる。つまり、NHKスペシャルでありそうな「激動の昭和史」的な。戦後70年が過ぎ、その当時は分からなかったことが、取材の結果色々分かって、実は裏であの軍人やあの政治家やあの大実業家たちがこんな画策をしてとか、あの国とこの国があんな密約を交わしていたとかっていう、歴史に埋もれた巡り合わせだの陰謀だの策謀だのを「へえーそうだったんだ」とか「なんて愚かなんだ」とか言って面白がるアレ。でも、そういうデキゴトは、『ガンダム』という作品の基準からすると、なんだろ、「背景」というか「方便」であって、まあ、また同じ単語を別の意味で言ってしまえば、料理に於ける「器」のようなもの。

でも、『ガンダム』ファンの結構な割合が、戦争マニアや兵器マニアや戦記マニアの類なので、こういう人たちが作る「続編」はどうしても、この「器」の方が凝ったものになる。こういう人たちは、使いたい「器」はたくさんあるけど、作れる「料理」(「人間」に対する独自な思想みたいなもの)はサホドないから、ドッカから(大抵は本家の『富野ガンダム』から、あるいは実際の戦記などから)借りてきたような登場人物たちが、ドッカから借りてきたようなセリフを吐きながら、死んだり、泣いたりすることになって、それを見せられてる方は、わりとシラケる。で、さっきも言ったけど、「これってもしかしてガンダムを貶めてる(バカにしてる)のか」って一瞬思ったりもする。

富野さんの手による『ガンダム』はどれも、その作品世界に「訳のわからない野蛮な壮大さ」みたいなものがある(『イデオン』もそう)。しかしこの『UC』にそれはない。「激動の昭和史」が「激動の宇宙世紀」になっただけのことだからだ。というと多少語弊があるが、しかし事実そうなんだから仕方がない。

ついでだから言ってしまえば、Nスペなんかで「激動の昭和史」的なものを見ている時の視聴者は必ず「上から目線」。つまり、前の時代や前の世代の人々の「愚かさ」「分かってなさ」に対して、やれやれと首を振る、という気分が必ずどこかにある。「歴史の後ろから来た者たちの特権」みたいなものを享受/悪用しているのだ。「激動の昭和史」的なものを見てると、驚くような陰謀策謀が渦巻き、たくさんの人が死んで、伸るか反るかの大勝負が展開されるけれど、その人々の「ツモリ」や「思い」が「(誤解にせよ)分かる」という感覚がある(構造は野球解説者の解説と同じ)。それが「作品世界の器」を「小さく」する正体で、まあ、本当はコチラ(見る側)の問題。

で、『ガンダムUC』にハナシを戻すと、この手の「激動の昭和史」的な物語を描いていると、戦いに巻き込まれた人々の陰謀や殺し合いや苦悩という「目眩し」に、おそらく製作者たち自身も騙されて「何か言ってるような気分」になってしまう。しかし、そういう「目眩し」から自由な目で作品世界を見てみると、案外「大したことは何も言ってない」ことに気づく。つまり、その作品ならではの独自性というか、一回では消化しきれないほどのデカかったり深かったりする思想性みたいなものはない。作品が提示する思想も解釈もどこか「既製品」的ということ。この『ガンダムUC』もそうした作品の一つ。作品の中で起きている事実は大掛かりで壮大っぽいけど、学校の屋上で中学生が、ただ大きな声で「好きだー」って叫んでる、あの感じに似てる。

物語は最後の最後に「千手観音=赤いネオ・ジオング」が、仏教説話よろしく、主人公を「世界の果て=時間の果て」に連れて行き、世の無常・人の無常を説くというオヤオヤな展開。通俗仏教の世界観は嫌いじゃないけど、アレをやっちゃって、「成仏しそこなったシャア」(フル・フロンタル)が、「ニュータイプ=仏陀(悟った人)」的なことを口走ってしまったら、もうただの法要の時の坊主の法話。この『ガンダムUC』で一番「ズッコケタ」のは、このシャア(の亡霊)に拠る「真のニュータイプ」解釈。

この宇宙の無常を悟ったものが真のニュータイプって話はまあいいとしても、真のニュータイプになったら、途端に肉体から自立した純粋な「個性=自我」だけの存在になって宇宙を飛び回るってのはナントモお粗末。けど、映画版の『イデオン』の最後の「とって付けたような場面」(富野さんが登場人物たちを「成仏」させようと思ったんだろう)にも通じるから、つまりは、ソウイウコトなのだろう。まあ、典型的な「生命教信者が作った生命教信者の世界観の作品」だよね。

ついでだから言うと、生命教信者による生命教信者のための生命教信者の世界観を描いた作品は、まあ、とことんまで行くと、結局みんなこうなる。なぜなら、生命教信者たちは、生命現象と知性現象の区別がついてないから、生命現象がいずれ必ず破綻するという事実に対して、どうしても「本当の生命」とか「生命の根源」みたいなものを夢想して、そこに「活路」なり「希望」なりを見出そうとするから。つまり、いずれ滅びる「肉体としての生命」とは別に、永遠性を持つ「肉体から自立した真の生命」というものが存在するはずだという「信仰」で、なんとか「虚しさ」を切り抜けようとする。そうとでも考えないとヤッテラレナイからね。でも、「永遠の命」つまり「死後の命」という概念は、生命現象型知性現象にのみ必要とされるもので、日本のお正月の門松のようなものでしかないことはキモに銘じておいたほうがいい。

まとめると、「激動の昭和史」的な「戦争歴史物」という車体に、「仏陀思想/悟り思想」というエンジンを載せて、ガンダム関連のステッカーをベタベタ貼った「ガンダム」型のカウルを被せて走らせたのが、この『ガンダムUC』という作品。ニセモノって言えばニセモノだし、ホンモノって言えばホンモノ。

2019/08/27 アナトー・シキソ