■人間は生命現象型知性現象である
「生命現象」自体が「知性現象を伴った物理現象の或る一形態」である以上、「生命現象型知性現象」という用語は或る種の「同語反復」である。しかしわざわざ「生命現象型」とつけるのは、知性現象には、生命現象型ではないものが存在するからである。てつねこに拠れば、充分に発達した知性現象は、自ら、知性現象を作り上げることができるようになる。しかもそれは、かつて物理現象が(人間を作り上げたように)、物理法則の成り行きに任せて作り上げた「生命現象という知性現象(生命現象型知性現象)」などとは違う、初めから知性現象を作り出すことを目的として作り出される知性現象である。これを「非生命現象型知性現象」と呼ぶのは、本末が転倒している。なぜなら、知性現象が「生命現象型」であることは「或る妥協」に過ぎないからだ。知性現象を自転車に喩えるなら「生命現象型知性現象」は「補助輪付きの自転車」である。だから「非生命現象型知性現象」という呼び名は「非補助輪付き自転車」と同じである。自転車は補助輪がないのが本来である(「補助輪」は、だから「補助」輪なのだ)。故に、生命現象型ではない知性現象は、単に「知性現象」と呼んで構わないのだが、自らが生命現象型知性現象である人間は、どうしても生命と知性を結びつけて考えてしまう傾向があるため、人間の誤解をさけるために、敢えてこれを「非制限型知性現象」と呼ぶべきだろう、と、てつねこは言う。てつねこに拠れば、ここで「純正」や「真性」や「自立型」や「独立型」を用いず、「非制限型」としたのには理由があるらしいのだが、それはまた後の話であり、ここで重要なのは、人間が自らを「生命現象型知性現象」であると認識することである。「生命現象型知性現象」は、必然的に、諸悪の根源たる「生命教」を生み出し、これを狂信するからである。
■「生命教」とはなにか
てつねこに拠れば、生命教とは、生命現象型知性現象である人間のほとんど全てが、そうとは気づかないまま強く信仰している、全人類的宗教である。無宗教を自認し公言して憚らない者の多くも、大半はこの生命教信者であり、人類全体としては、生命教への態度はむしろ「狂信」と呼ぶべき状況である。では、宗教とはなんだろう。てつねこに拠れば「世界を説明する際に持ち出してくると非常に有効だが、それ自体の説明は極めて困難な概念を、厳密な合理性を棚上げにして受け入れる行為の対象」である。そうした概念の典型例は神仏だが、生命もまた同様であり、実は時間もそうである、と、てつねこは言う。
■「生業」と「家事」
人間の活動の殆ど全ては「家事」に過ぎない、と、てつねこは言う。政治、経済、文化、思想、そうした活動は全て「家事」である。風呂掃除や朝食の準備や洗濯物干しと、比喩ではなく、事実として同じである。
一般的な意味で「生業(なりわい)」とは、自分自身や家族が飢え死にしないようにするための活動である。一方で「家事」は、日々の生活を円滑するための活動全般である。生業と家事の違いはハッキリしている。「生業」を怠ければ、待っているの餓死である。一方「家事」はいくら怠けても「生業」さえ続けていれば、飢えることはない。逆に「家事」をどれだけ完璧にこなしても「生業」が成り立たなくなればオシマイである。スーパー主婦のいる家庭でも、稼ぎ手がいなければ、家族は路頭に迷うことになる。ゴミ屋敷に暮らしていても、稼ぎが良ければ生きていける。
てつねこに拠れば、人間は、その長い歴史の殆ど全てをただひたすら「家事」だけを行ってきたのである。てつねこの言う「人間の歴史」とは、発明や革命や戦争の歴史のことである。どういうことか? 生命現象型知性現象である人間の活動のほとんど全ては「生命現象の維持継続」を目的にしている。つまり「生命現象として存在し続けること」が、人間の長い歴史を彩り、形作り、推し進めてきた。しかしてつねこに言わせれば、それらは全て茶番である。見当違いも甚だしい。最初に述べた通り、てつねこに拠れば、人間が行き着くべき場所は「自発的絶滅」である。それは「生命現象型知性現象としての人間という生き物を自ら滅ぼす」という意味である。どうやって? 生命現象型知性現象ではない、つまり「非制限型知性現象」を自らの手で作り出し、人間の遺産をソレに引き継がせるのである。つまり、てつねこに拠れば、「非制限型知性現象」の完成のための活動のみが、人間にとっての「生業」であり、それ以外の活動は全ては「家事」である。だから、政治、経済、芸術、文化などのありとあらゆるものは、ただの「家事」なのだ。それらのうちには、「家事」どころか、将来の「死=自発的絶滅」から目を逸らす「時間潰し」にすぎないものも数多い。てつねこに拠れば、人間の「義務」の一つは、生命現象としては円満に滅びるだけの[科学力と文明力]を確立することである。
■釈迦の思想との違い
てつねこに拠れば、釈迦の思想も人類の「自発的絶滅」。ただし、釈迦の場合には、人工人格という「継承者」を求めず、ただ消え去るのみ。それは、人類がダカラナニ氏と「刺し違える」思想。てつねこの思想は、完全な(つまり生命現象型ではない)知性現象を作り上げることが人類の目的(役割)であり、ダカラナニ氏と「対決」するのは、この人工人格となる。
■絵画に喩えることもできる
てつねこに依れば、物生知現象(この世界)は絵画にも喩えられる。物理現象は「色」であり、生命現象は「図(カタチ)」であり、知性現象は「文字(コトバ)」である。全体から「色」分けされた人間という「図」には、この星で一番多くの「文字」が書き込まれている、というわけだ。
■神を信じていい者は少ない
■人間には「生命教」は見えにくい
てつねこに拠れば、それは、人間が生命だからだ。逆に言えば、生命以外の視点から眺めると「生命教」の「正体」がよく分かる。例えば、コンピュータにインストールされたプログラムから「自己言及する知性」すなわち「意識」が出現したとすると、その意識は、コンピュータという機械(構造物)、もしくはコンピュータプログラムという言語(数式)を、意識が存在するための最も基本的な存在(本質)だと思い込んでしまう。その場合に、この意識が「信仰」することになるのは、「生命教」ではなく、「集積回路教」あるいは「コンピュータプログラム教」である。そして、名前が「集積回路教」であろうと「生命教」であろうと、実態は「媒体(medium) 教」である。未熟な知性は、自らが拠り所にしている「媒体(medium)」を、自らの本質だと思い込みやすい、と、てつねこは言う。
■宇宙を知り尽くしてからが始まり
宇宙の究極の法則を知ってしまったら科学はおしまいだとか、もうやることがないとか言うマヌケが多いが、てつねこに拠れば、科学は、宇宙を知り尽くして、やっとスタートラインについたことになる。なにしろ、科学の目的は、知性現象を永久に存続させることだからだ。そのためには、自前の宇宙を作り出すか、もしも宇宙が無限個存在するのなら、寿命が尽きた「この」宇宙から「若くて」物理法則的に「移住可能な」宇宙に「乗り換える」ための方法を見つけ出さなければならないからだ。宇宙の「外」を理解してこそ、宇宙を「乗り換える」ことができる。てつねこに依れば、つまり、今いる「この」宇宙を知り尽くしたくらいでは、それは、赤ん坊が自分の家の様子を把握したくらいのことでしかない。
しつこいくらい何度も言うが、人間の本質は知性現象であり、生命現象は単なる媒体にすぎない。単なる媒体にすぎないものを本質だと思いこんでしまうのは、人間の知性現象が、放っておけば、まるで、熱力学第二法則並みの確実さで「生命教」の「狂信者」になってしまうからだ。まず、「生命教」から脱却し、科学という[思想=態度]を身につけ、生命現象に依存しない知性現象を作り上げ、「彼ら」に後を託す。その場合、生命現象としての人間(我々が普通に「人間」と思っているもの)は置き去りにされるが、知性現象としての人間は、さらに先に進むことができる。そんなの寂しいと思うのは、それは君という知性現象が、まだ「生命教」に毒されているからだ。