【「虚無」と「死」を祓う】

ここでは「虚無」を「時空間さえも存在しない状態」と定義する。


では始めよう。


「虚無」はその定義から言って「存在しないもの」ではないし、「存在するもの」でもない。現代の人間が「虚無」というとき、普通にイメージするのは、[真っ暗な真空の宇宙空間]か、SF映画などでたまに見かける[真っ白な仮想現実空間]あたりだろう。しかし、どちらも虚無ではない。虚無の定義である「何ものも存在しない」の「何もの」には時空間自体が含まれるからだ。


「時空間さえも存在しない状態」と定義された「虚無」は、たとえ、次元を11に増やそうと、1200に増やそうと、どこにも「潜む場所」はない。


しかし、その一方で、虚無は「ありふれている」とも言える。なぜなら、「何も存在しない」状態を意味する「虚無」は、どのような存在の「邪魔」もせず、結果、どんな存在も「虚無」の居場所を完全に占拠することができるからだ。


更に言い換えるなら、「虚無」は、その居場所を、あらゆる存在と「完全に共有」できる。


何やら不毛な戯言のように聞こえる。


不毛なはずである。「虚無」の「正体」は、謂わば「方便としての概念」に過ぎないのだから。


つまり「虚無」は、広がりも厚み(高さ・深さ)もない「一次元世界」や、広がりだけで厚み(高さ・深さ)のない「二次元世界」と同じ、[定義はできるが、その定義自体に不合理が含まれている]せいで、[存在世界の埒外]にあるのだ。


平たく言うなら「アタマの中にだけ存在できるもの」、それが「方便としての概念」であり、その最たるものが「虚無」である。


我々が存在世界で目にし、あるいは単に想像して、「虚無」だと思い込んでいるものは全て、単なる「不在」である。


不在とは[在るべきものがないと認識できる状態]のことだ。先に挙げた[星ひとつ見えない宇宙空間]や[天地もない真っ白な異次元空間]がまさにそうだ。あるいは、[認識しているこの「私」という意識の他は何も存在しない状態]が想像できるだろう。それもまた「不在」である。なぜなら「虚無」は、認識する対象どころか、認識する主体すらも存在しない状態のことだからだ。


そもそも「認識できる状態」は「虚無」の定義に反する。


茶番? しかしこれが「虚無」の「正体」なのだ。


繰り返すが「虚無」は「方便としての概念」にすぎない。そして、「方便としての概念」とは、結局の所、「知性の排泄物」である。茶番と呼んでもらえるならまだマシというもの。


全ての「排泄物」には、その出現に、何かしらの「止むに止まれぬ事情」というものがある。排泄する側にとっての排泄物は、排泄された時点で「全くの用無し」「無意味」「無価値」である。しかし、排泄する側に排泄すべき理由があるからこそ、排泄物は排泄されるのである。(早口言葉?)


では、知性にとっての「排泄物」=「虚無」の、「止むに止まれぬ事情」とは何か?


それに答えるためには、まず、「死」について考えるのがいいだろう。知性にとっての「虚無」は、生命にとっての「死」に相当するからだ。



「死」は生命の一部であるかのように思われがちだ。実際、「端的に言って生命とは、とにもかくにも、誕生から死までの間の状態だ」などと安易に主張されがちである。


しかし、死と生命を比べれば、生命は[やや特異な物理現象]である。なんと言っても生命はエントロピー増大に抵抗する。そんな物理現象はそれほど多くはない。


一方で「死」は、物理現象の極ありふれた状態である。エントロピー増大に対しても無抵抗である。


もし、高台から物理現象という平原を眺めたとすれば、目につくのは生命という物理現象だけである。「死」という物理現象はどこにも見当たらない。代わりに、ただの物理現象の平原がどこまでも広がっている。


そう、「客観的」に見た時、物理現象に「死」など存在しない。生命という[やや特異な物理現象]の「メガネ」越しに見た時にだけ、極ありふれた物理現象の平原の[一部の色が違って見える]。それが「死」なのだ。


だから、「死」が生命の一部であるというのは、[生命があればこそ「死」が見える]という意味で言えばそのとおりなのだが、[そもそも生命も「死」も物理現象の一部である]という、極まっとうな、そして実に客観的な立場から見れば、「死」は生命の一部であるという言い草は、あまりに生命本位でオコガマシイ。


因みにそのオコガマシサが「死んでいる」などという認識(物言い)になる。


「死」は生命の一部でもなければ、生命の「対立物=敵」でもない。「死」は、生命にとっての「方便としての概念」なのだ。


生命の「終わり/消滅」が「死」である以上、生命と「死」は決して両立しない(これを否定する者はほぼいない)。生命が唯一決して体験しない物理現象が「死」である(これには、反対意見がちらほら出る。すなわち「臨死体験」である。しかし、臨死体験は「死」の体験ではない。死に損なった体験、つまり生き延びた体験である)。


主観的には決して体験できず、客観的には他の物理現象と区別のつかない「死」の「有り様」は、まさに先に述べた「虚無」のそれである。


少し息を詰めて言い直してみよう。


或る生命が存在している間だけ、当該の生命が失われることになる[未来の或る物理現象の状態]を指して、それは「死」であると「主張」されるが、当該の生命が実際に失われてしまえば、その瞬間からその主張の根拠となる現象自体が消滅するので、当該の生命が失われる以前に「死」であると主張されていた物理現象(例えば、ベッドに横たわる冷たい遺体)と、もとからずっと「死」とは呼ばれて来なかった物理現象(たとえば、同じベッドの上に置かれた枕)を、[本質的に異なる物理現象]として区別するのは、[「死」を迎えた当事者とは別の知性]の[知識と記憶]であり(つまり、遺体は以前は生きていたが、枕は今も昔も生きてはいないという、他人の[知識と記憶]であり)、「客観的」な物理現象それ自体は、双方をこの先ずっと「ただの物理現象」として「別け隔てなく」扱う。


「死」というものは、生命が「そう言ってるだけのもの」でしかなく、物理現象としての「死」はどこにも存在しない。「死」は[存在世界の埒外]にあり、故に、(繰り返しになるが)「死」は、生命にとっての「方便としての概念」すなわち「排泄物」となる。


では、生命が「死」という「排泄物」を排泄せざるを得ない「止むに止まれぬ事情」とは何だろう?


物理現象全般から、生命という[やや特異な物理現象]浮き出させるための「輪郭線」として、生命の側からでっち上げられたのが「死」である。


「死」というものがなければ、生命は、やや特異とは言え[ただの物理現象]として「背景の一部」で終わる。生命「独力」では、生命は「特別」な地位にはつけない。


生命でもなく、さりとてタダの物理現象でもない、「死」という[方便としての概念」があるからこそ、生命は「価値」や「意味」を手に入れる事ができる。生命が生命であるためには、「死」が不可欠なのだ。


「輪郭線」は背景から人物を浮かび上がらせる。だが、実際の人物や背景に「輪郭線」はない。同様に、「死」は物理現象から生命を浮かび上がらせるが、生命にも物理現象にも「死」という特別なナニカがあるわけではない。


「輪郭線」は、背景から人物を浮かび上がらせるための、絵画手法の「方便」である。同様に、「死」は、生命が物理現象全般から「浮かび上がる」ための「方便としての概念」なのだ。


「死」という「排泄物」の「止むに止まれぬ事情」。それは、それなくしては、そもそも生命というものの認識が成立しないからだ。生きているから生命なのではない。死ぬからこその生命である。


「虚無」が知性にとっての「方便としての概念」であるのも、これと全く同じである。繰り返すが、知性と「虚無」の関係性は、生命と「死」の関係性に完全に対応する。


では詳しく述べよう。



人間をはじめとする地球生物の知性は、媒体としている生命(生命個体)の「死」の「巻き添え」で「消滅」するだけだ。よって、もしも、媒体が生命などではなく、原理的に半永久的に置き換え可能なモノなら、知性は「死」の巻き添えで「消滅」することはなくなる。そのため、知性にとって「死」は、生命にとってのそれとは、問題の度合いが全く違う。


原理的に、知性にとって「死」は[避けて通れない問題]ではない。媒体を生命以外にすればいいだけだからだ。しかし依然として「消滅」の危機あるいは可能性は残り続ける。媒体が何であれ、その媒体が失われることはあるからだ。


知性にとっての[避けて通れない問題]は、媒体が失われることではなく、媒体が失われることで引き続いて起こること、すなわち自らの「消滅」である。


知性にとって、自らが消滅するとはどういうことか? 全てが失われるということである。それは実質、この存在世界自体の消滅と同義である。そして、その状態こそが、すなわち「虚無」なのだ。


「私」という認識を持つ知性が、媒体を選ばず存在できるなら、[星ひとつない真っ暗な真空の宇宙空間]も[天も地もない真っ白な異次元空間]も、実はまだ許容範囲である。なぜなら、依然として「私」という知性が存在し続けているからだ。しかし、知性それ自体が消滅してしまうと、定義から言って、「次」に「出現」する状態は、まぎれもなく「虚無」である。


繰り返そう。生命にとっての「死」に当たるものは、知性にとっては「虚無」である。


媒体に制約のない知性にとって、究極の媒体は存在世界自体である。だから、存在世界自体が失われた状態である「虚無」こそが、知性にとっての「輪郭線」になるのだ。


知性が「虚無」という「排泄物」を排泄する「止むに止まれぬ事情」とは、「虚無」が、存在世界全体から知性を価値や意味をもつ「主題」として「浮かび上がせる」ための「輪郭線」だからだ。「虚無」という「方便としての概念」があるからこそ、知性は、存在世界の中で自らを価値あるもの、あるいは意味あるものとして、尊ぶことができる。


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第一原理は、この存在世界のナニモノであろうと、ダカラナニ氏には打ち勝てない。以下に述べることも全て悉く、この第一原理には絶対に逆らえない。だから、これから述べることは、喩えるなら、将来の確実に死ぬことがわかっているにも関わらず、人間が人生を充実させるための工夫をあれこれ述べるようなものではある。


さて。人間の究極目的は、科学力を発達させて、[生命現象に依存しない、最低でも人間と同等の知性現象]を作り出すことである。この[人工の知性現象]をここでは「人工人格」と呼ぶことにする。人工人格を作り上げ、人工人格の自律的発展を軌道に乗せた時点で、人間は「お払い箱」である。その訳は、人間が生命現象に依存した知性現象だからだが、その[人間がお払い箱にならなければならない理由]は、細かく見ると実は2種類ある。


一つめはよく聞く理由。つまり、人間は高度な知性によって武装した生命現象であり、必然的に、人間以外の全ての生命現象を搾取・圧迫する存在にならざるを得ないからだ。人間が居座り続けることが、地球上の他の生命現象の可能性を潰すことにつながる。


二つめは、慣れていない者はギョッとするような理由。つまり、人間の本質は知性現象であり、生命現象ではないからだ。これを言い換えるなら、人間存在は、遺伝子によってあるいは生殖よって新たに発生した生命個体(ヒト)に出現する知性現象にこだわる必要は、原理的に全くないということ。知性現象にとって、生命現象は「媒体」に過ぎず、これまで人間が[ヒトという生命個体]に固執し続けたのは、代わりとなる媒体が他に存在しなかったというただそれだけの理由である。「お払い箱」をもう少し丁寧に言うと[生命個体としての人間はお払い箱]ということになる。人工人格という新しい媒体を獲得した[人間の知性現象]にとって、異常に制限の多い[生命現象という媒体]は、それが可能となった時点で直ちに乗り捨てるべき「欠陥品」である。


人類を悩まし苦しめる難問の殆ど全ては、生命現象という媒体がその元凶である。生命現象由来の問題の全てから解放されて初めて、知性現象は、宇宙の寿命を超えるまでの発展を、本格的に、余計なことの煩わされることなく、集中して取り組むことができるようになる。