「控訴はしません。万歳三唱をします」の裁判についてテレビの人たちの言うことを眺めていて、どうも、21世紀になってもイマダに刑罰に対する認識が統一されていないと思った。
もっと原始的な、ただの「罰」というとき、誰の目にもよくわかるのは「懲らしめる」という要素。人間に限らず、野生動物は「不適切」な振る舞いが原因で、仲間や敵や自然から「罰」を受ける。このとき「罰」を受けた対象は「懲らしめられた/痛い目に遭わされた」ように見えるし、当人も実際そう感じているだろう。しかしこれは「罰」の表層に過ぎない。
罰の本質は「排除」。「懲らしめ」は手段・経過・過程・方便に過ぎない。一見そうは見えないがそうだ。罰の目的は「排除」(ちなみに、罰の「抑止効果」は「あらかじめなされる排除」「未然の排除」)。
罰が排除を目論む対象は「好ましくない現象・不適切な現象・不愉快な現象」つまり現象それ自体。具象物としての或る生物個体は、その現象を生み出した源ゆえに「排除」の「途中経過」である「懲らしめ」を体験する。消防士は火を懲らしめているわけではなく、排除している。
法律を持たない野生動物が別の野生動物に与える「罰」は、「痛い目に合わせる」という手段を経由して、自身にとって不快で不適切な現象を、自身の生活圏や活動圏から「遠ざけて」いるだけ。繁殖期のオス同士の争いが滅多に「殺し合い」にならないのは、不愉快な現象を生み出す対象を「遠ざければ(排除すれば)」用が足りるから。
「排除」には究極のカタチがある。排除の対象となる存在を、存在世界全体から排除することだ。すなわち完全なる消滅。生き物に伴って起きる現象を完全に消滅させようとするとき、もっとも手っ取り早くて確実なのは、当該の生き物もろとも消滅させること。言い換えるなら、当該の生き物を殺してしまうこと。これを人間の持ち物である刑罰の用語で言えば「死刑」になる。
人間が死刑を手放せないのは、特定の人間が生み出す「不適切な現象・不快な現象」を対象にした「究極の排除手段」を、死刑以外にまだ手に入れていないから。すなわち、相対的にテマ・ヒマ・カネのかからない「永久的な排除手段」として、死刑を超えるものを手に入れてないから。なんと言っても、生命教に骨の髄まで毒された「文明人」にでもならない限り、無反省の殺人鬼を社会全体で養い続けるのは、不合理且つ不条理だと思うのが「人情」で、だから人間(社会)は現状、「死刑」は手放せない。
これをひっくり返すと、不快で不適切な現象の「完全な排除」が実現できる方法が他にあるなら、「死刑」はもちろん、方便としての「懲らしめ」すら要らない。かつて「治療」と称して行われた「犯罪者」に対する無知でガサツな外科手術や薬物投与がソレ(ついでに言えば、だいたい、異教徒や同性愛者を犯罪者扱いしていじめるのは、架空のサッカー帝国の法廷が、手を使ってボールを運んだ者を有罪にしているようなもの)。今現在行われている[犯罪者に対する精神鑑定やそれに続く「治療」の類]も実は同列。ここにあるのは、不適切で不快な現象を「排除」するのが目的なら、何も手段は「罰」に限らない。「治療」でいいじゃないか、という発想。その発想自体はケッコウ。しかし「治療」する側の実力がまるで伴ってなくて、「治療」ではなくやっぱり「罰」(犯罪者自身やその被害者にとって)になってるのがオモシロイ(というか情けない)。
さらに不穏なことを付け足せば、そもそも「治療」される犯罪者は「罰」が効かないから治療するんだという側面もあったりなかったりする。
だらだらと喋り続けるなら、刑罰の目的が「懲らしめ」や「復讐」だとみんなに「誤解」されていた過去には、死刑囚をそう簡単には死なせない様々な死刑方法が考案され、実施された。すなわち、できるだけ苦しめて、ゆっくりと殺す方法だ。
過去に於いて、殺し方(死刑方法)が様々に工夫されてきた理由は簡単で、「懲らしめ(罰)」に対する反応(苦しみ具合)が人によって様々だからだ。人前で嘲笑されただけで死の苦しみを味わう者もいれば、鞭打ちに快感を覚える者もいる(『ヘルレイザー』)。そして「なによりも死こそが安らぎ」という変わり者まで稀にはいる。つまり、「懲らしめ」目的の残忍な死刑方法が「工夫」されたのは、死刑をあたえる側(社会や体制)が、万人が死の苦しみを確実に味わう方法を探し求めたからだ。「排除」はどこに行った? 典型的な本末転倒。
刑罰(罰)を「懲らしめ」だと認識するのは、歴史的に見ても誤りであり、自然史的に見てもlost highway状態。人間が生み出す「不快な現象・不適切な現象」を社会から排除することが刑罰の目的だから、「死刑」が「イヤだ」という[純度を増した生命教信仰社会]では、殺人鬼を税金で養い続けるのが「正しい」刑罰のやり方という結論になる。しかし、生命教の呪いから脱却し、物生知現象論的な「家事」の煩わしさから自由になれば、件の[万歳三唱の人殺し]は、人間の「生業」にとって邪魔な存在でしかないわけだから、生かしておく理由は何もない。
何度でも言うが、物生知現象論から言えば、生命にとりわけの価値はない。生命の価値は知性の認証に依存する。実際、当の生命は「生命は尊い」などとは思いもしない。生命が尊ぶのは生命ではなく「身内=遺伝的繋がり」だけ。だから、或る知性が生命の価値を損なうなら、当該知性が依存している当該生命の価値を、知性によって構成されている人間社会が認証を与える続ける理由はない。
おまけで言えば、殺人鬼に対する死刑を嫌がるのは、宗教を理由に、子供への輸血を拒否したり、牛やら豚やらの肉を食べたがらなかったりするのと同じ「信仰」がもたらす歪み。人間にとって生命は大事だが、生命の神聖視は、知性にとっては「命取り/致命的」。
2019/12/25 アナトー・シキソ