「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2025年1月30日木曜日
2025年1月19日日曜日
2025年1月18日土曜日
2025年1月9日木曜日
NHKスペシャル「量子もつれ」:memo
去年の暮れに録画して放置していたNHKスペシャル「量子もつれ」を観た。
「量子もつれ」を「葬り去ろう」と奮闘した人たちのなかでは、「理論家」たちよりも「実験屋」の人たちに感服した。頭の中であれこれしつこく考え続けるのは全く苦痛ではないけれど、例えばガラクタから[使いモノになる装置]を組み上げたりする根気は、自分には全くないから。
「Nスペ史上最高難度」とか言ってから、てっきり[「量子もつれ」(非局所性)が何なのかを解説する番組]なのだと思ったら、何のことはない、[「量子もつれ」(非局所性)という現象はほぼ間違いなく実在する]ということが「わかった」ことを伝える番組だった。ちょっと肩透かし。
「量子もつれ」(非局所性)を理解するためには、「距離」とか「空間」とか「隔たり」というものの認識を改める必要が、多分、ある。光が「時間」を「体験」しないのは直感的にわかりやすいが、たぶん、「空間」も「体験」しないのだろうなあ。量子以外には、宇宙の端っこと端っこに「別れた」ように見えても(思えても)、当の量子の「体験」としては、「別れてもいなければ、移動もしていない」のだろう。
因みに、春風亭一之輔はナレーションに向いている、と思った。そして、宇多田ヒカルは違う、とも思った。
(2025/01/07 穴藤)