「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2020年1月16日木曜日
二つある死
医学や科学が人間の死を克服する、などと言う時の「死」は、実は二つある。寿命と事故死だ。このうち、医学や科学で克服が可能なのは、寿命の方だけだ。事故死は、あらゆる物理的破壊をはねのけねばならないので、原理的に不可能。宇宙を含め[破壊不可能な実在]は存在しないからだ。寿命に関していえば、それは人間の問題というよりも、人間という生命に適用されている、生命のイチ仕様の問題なので、実はどうにでもなる。寿命のない生命は現に居る。問題は、寿命が克服された時、その生命は、もはや人間ではないだろうということ。なんであれ、生命である限り、人間は死を克服できない。寿命は退けても、事故死からは逃れられないからだ。これが、人間から見た場合の、生命の弱点。生命は個体を顧みない。人間にはそれが許せないし、受け入れられないわけだが、生命という現象にとっては、なんの問題もない。人間は、自覚なく、生命の埒外にいる。
もしも事故死からも逃れたいなら、生命ではなく、情報になる必要がある。情報は、事故死すなわち物理的破壊を、何よりも巧みにすり抜けることができる。無論、事故死を完全に克服することはできないが、媒体の破壊(生命も所詮はイチ媒体である)に否応なく巻き込まれて「死ぬ」ことは、最大限回避できるようになるだろう。うまくいけば、この宇宙の死の巻き添えさえ回避できるやもしれない。
2020/01/16 アナトー・シキソ