2022年9月30日金曜日

創作の用心

作家(creator)にとっての最大の脅威は、未来の自分自身。30才の自分が心血を注いで作り上げた作品を、40才や50才の自分が「お気に召さなかった」場合、「彼ら」は、当然の権利を持っているかの如く、それを「改善」したり、場合によっては「抹殺」したりするからだ。予防策が要る。

2022年9月26日月曜日

私立探偵 濱マイクの「今更感」

『オリバーな犬』から「逆流」する形で、『私立探偵濱マイク』の第1話を20年ぶりに見た(Amazon Primeで)。所謂豪華キャストでそれなりに楽しめたが、やはり、今更感があった。いや、当時から、この今更感はあったのだ。つまり、遅れてきたハードボイルド探偵モノ感。ちなみに、パチンコ屋の景品交換書の顔を見せない女が多分、小泉今日子だと思うのだが、あのドラマの時点で、永瀬正敏の「将来の嫁」だったか「当時の嫁」だったか、それとも「元嫁」だったかは、今となっては忘れた。

2022年9月21日水曜日

公道の方はパイロンすらないからネ

子供が運転するゴーカートがコースを外れて、見物していた子供が死んだ事故があった。コース図などを出して、安全面での不備を指摘しているニュースを見たら、日本中にある道路や交差点と特に違いはなかった。道理で通行人が轢き殺される事故がなくならないワケだ、と思った。

2022年9月20日火曜日

2022年9月18日日曜日

「モンティ・ホール問題」に関する昔のメモ

「モンティ・ホール問題」。

そもそもの情況はこう。

テレビ番組でアナタは高級自動車を勝ち取るゲームに挑戦している。ドアが三つあり、一つのドアの後ろには高級自動車(アタリ)、残り二つのドアの後ろにはヤギ(ハズレ)が隠されている。高級自動車が隠されているドアを選べば、アナタはその高級自動車を手に入れることができる。無論、アナタは「アタリ」のドアは知らない。一方、司会者は、「アタリ」のドアを知っている。

アナタは三つのドアの中から一つを選ぶ。ドアはまだ開けない。ここで司会者が、アナタが選ばなかった二つのドアのうちの一つを開けて、その後ろにヤギ(ハズレ)がいることを示す。残ったドアは二つ。どちらかに高級自動車が隠されている。アナタが最初に選んだドアか、選ばなかったドアだ。ここでおもむろに司会者がアナタに提案する。「ご希望なら、今、ドアを選び変えても構いませんよ」

さて、アナタはドアを選び変えるべきか?

これが「モンティ・ホール問題」。つまり、二択になった時点で、最初の選択をそのままキープするのと、最初に選ばなかったドアに乗り換えるのとでは、アタリを引き当てる確率に違いがあるだろうか、という話。

三択問題の最中に一つの選択肢がハズレだと判明し、「形として二択問題になっただけ」なので、直感から云っても、確率の〈常識〉から云っても、最初の選択を放棄する理由はない。つまり、アタリを引きあてる確率は、最初にそれぞれ3分の1だったものが、次にはそれぞれ2分の1になっただけなのだから…と大勢が考えた。

だが、当時、人類最高の知能指数(228)を誇ったマリリン(女性)が「この場合は、二択になった時点で選びなおした方がアタリを引き当てる確率が高い」と新聞(のコラムか何か)で云ったもんだから大騒動になった。大騒動というのは、世界中の数学者や博士と呼ばれる連中が、マリリンあんたはマチガッテル、IQが高くても数学に関しては所詮素人だ、などと新聞に投書したのだ。

で、スッタモンダの挙げ句、結論としては、やっぱりマリリンのほうが正しくて、異議を唱えたりマリリンをバカにしたりした数学者や博士の方が間違っていたということになった(だから、多分、本当はここまで含めての「モンティ・ホール問題」なのだろう)。

数学は好きじゃないから、面倒な計算抜きで、正しいとされたマリリンの主張を説明すると、こういうことだろう。

最初の三つのドアから一つを選んだ時、それがアタリである確率は3分の1。一方、選ばれなかった二つのドアも、アタリである確率はそれぞれに3分の1ずつ。しかし、こちらはその3分の1が二つ(ドア二つ分)ある。この「選ばれなかったこっちは二つある」という認識が重要。つまり、気付くべきは、司会者がハズレのドアを一つ除外したあとの「二択」が、実は、残った二つのドアの間の単純な二択ではなく、アナタが最初の選択で手に入れた「当たる確率」を、アナタが最初に放棄した「当たる確率」と入れ替えるかどうかという意味での二択になっているということ。具体的に言うなら、「最初に選んだドアをやめて、最初に選ばなかったドアに選びなおす」は見せかけで、司会者からの提案の真意は「最初に三つから一つを選んだけれど、それは今キャンセルして、最初に選ばなかった方の二つをまとめて選んだことにしてもいいですよ」ということ。それに気付けば、マリリンの云い分が正しいと知るのに、コンピュータ・シミュレーション(具体的には「モンテカルロ法」)は要らないし、面倒な数式も要らない。もっともっと単純化して言ってしまえば、マリリンは「三本のクジから一本だけ引くのと二本引くのとでは、二本引く方が当たる確率は二倍でしょ」と言っているだけなのだ。

なんでこんな簡単なことでモメタのか? そっちの方がナゾなくらい。

で、ここからは、わかっている人には余計な続き。

「モンティ・ホール問題」でたくさんの数学者が間違った。でも、では、どの道に迷い込んで間違えたのか?

こういう例を考えてみよう。アナタは二人兄弟だ。父親が、1番から3番までの三つの箱を示す。一つの箱には一万円、他の二つには1円ずつ入っている。どれでも一つだけ選んで、その中身が貰えるというゲーム。つまり、大枠は「モンティ・ホール」と同じ。アナタが欲しいのは当然一万円。アナタは兄で、先に箱を選ばせてもらえた。アナタは1番を選ぶ。次に弟が3番を選ぶ。せっかちな弟は、アナタが1番の箱を開ける前に3番の箱を開け、そこに1円が入っていることがわかる。さて、このとき、アナタはマリリンのご託宣を思い出す。情況がとてもよく似ている、というか全く同じに思えるからだ。アナタは、1番を放棄し、2番を選びなおすべきだ、と判断する。あなたのこの判断は正しいのだろうか?

答えは、1番を選んだままでも、2番に選びなおしても、一万円を当てる確率に違いはない。この場合は、マリリンの主張は通用しないし、マリリンも前のようには主張しないだろう。マリリンをバカ呼ばわりして、結果大恥をかいた多くの数学者が思い描いたのはこの「兄弟」のケースだ。これこそが日常生活でふつうに体験することだから無理もない。

では、マリリンの主張が適用出来る「モンティ・ホール」の場合と、マリリンの主張が適用出来ない(ということは多くの「間違えた数学者」の主張が間違いでない)「兄弟」の場合とでは何が違うのか? それは、残った二つのうちの一つを開けた「司会者」と「弟」のそれぞれが持っていた情報だ。司会者はどのドアがアタリかを知っていたが、弟はどの箱にアタリかを知らなかった。つまり、司会者の〔ハズレのドアを開けるという行為〕は確率には支配されていないが、弟の〔アタリを知らずに自分で選んだ箱を開けたという行為〕は確率に支配されている。これだけ。

マリリンの主張が成立するためには、上でも述べたように、のちの「二択」が、最初の三択の時に生じた「当たる確率」の「入れ替え」になる必要がある。どのドアがアタリかを知っていた司会者の〔ハズレのドアを開ける行為〕はそれを実現するが、どの箱がアタリ(一万円)かを知らなかった弟の〔ハズレの箱を開ける行為〕からはそうはならない。

全く同じに思える情況、つまり、「アナタが最初の三択から一つを選んだあと、アナタが選ばなかった二つのうちのハズレの一つが除外される」という情況は、その情況を生み出したのがアタリを知っている者か、アタリを知らない者かで、確率的に全く違ってしまう。そして、この〔「ハズレを除外した者」が「司会者(アタリを知っている)」なのか「弟(アタリを知らない)」なのかを、アナタが知っているかどうかで、アナタが見当をつける確率に違いが生じる〕というのが、所謂「ベイズ確率」の真髄なのだけれども、長くなったので、今日はやめとく。

(アナトー・シキソ)2012年5月22日
(穴藤)2022年9月18日

2022年9月13日火曜日

時短捜査

『大川と小川の時短捜査』(松重豊/浜田岳)を愉しく観た。週ーのテレビシリーズであと8話くらい観てみたいな。

2022年9月10日土曜日

キグされるAIの偏向

ボーダイな数の画像や動画や文章を解析して、日々「修練」しているGoogleのAIは、将来、まずまちがいなく「猫好き」「猫びいき」になるよ。

2022年9月7日水曜日

「ではまた、あの世で」(by 水木サン)

さっき、目が覚めてふと思った。

将来死んで、もしも「あの世」とか呼ばれている所に行ったら、そこには人間は誰もいないだろうけど、歴代の3匹の猫たちはちゃんと待っていて、「いつも通りに」出迎えてくれるにちがいない、と。

妙に安心した。

2022年9月6日火曜日

今日の猫さん(2022.09.06)

GoStop事件

昭和の初めに陸軍と警察がヤリ合った騒動。キッカケは、大阪での陸軍将校の赤信号無視。とことん馬鹿らしい。

謎のテグス

茶碗や壺などを「謎のテグス」で固定して展示している美術館の「美学・美意識」に全く共感できず困っている。

2022年9月5日月曜日

手仕事(20220904)

アムロ、行きま〜す!

昨日(9/4)の「ガンダム講座」で岡田斗司夫が、〔「アムロ、行きま〜す」の「行きます」が、神風特攻隊員が使ったコトバだということを、今年の8月に放送されたNHKの「戦争とアイドル」(歴史探偵?)を観て知った〕と話していて、オドロイタ。

というのは、〔アムロの「行きます」は特攻隊パイロットの「行きます」〕説なら、もう40年近く前から「知って」いて、てっきりガンダムファンなら誰でも知っている「常識」だと思っていたからだ。

いや、この〔アムロの「行きます」〕の「由来」を岡田斗司夫が「知らない」訳がない。きっと、「知ってた」けど、トシのせいでスッカリ忘れて、この夏、「再発見」したのだろう。晚年の水木サンが喜んでいた\〔ボケのせいで毎日が新しい発見〕というアレなのだ。|境地《きょうち》だね。


予告編ではあの独特の面白さが伝わらない沖田修一

大抵の映画は本編よりも予告編の方が面白いが、沖田修一の映画(だけ)は予告編よりも本編の方が断然面白い。言い換えるなら、沖田修一の映画は予告編が(いつもだいたい)好くない(褒めてるのか貶してるのか分からないかもしれないが、褒めている)。だから、今度の『さかなのこ』も予告編を見ただけで「きっとつまらないだろう」と判断するのは早計。と、自分に言い聞かせている。

「沖田修一の映画の好さは予告編ではまるで出ない」説は、さっき、我が「邦画部門オールタイムベストテン」にランクインしている『モヒカン故郷に帰る』の、その予告編をYouTubeで観て確かめたから間違いない。『モヒカン』の予告編もやっぱり、全く好くなかった。別に見なくていいよな、と思わせるような予告編。危なかった。考えてみれば、細野さんがエンディング曲を歌っているのに釣られて観たのだ。ありがとう細野さん。(繰り返すけど、貶しているのではないよ。『モヒカン』は少なくとも4周はしているし。「お恥ずかしい!」「持てるかねえ〜」「えさ?」「家族とかっぱ寿司に行くんで」「ち〜ん/ちんちん」ほら、いくらでも「名場面の名台詞」が出てくる)

理由はわかっている。沖田修一の作品の「好い」場面は、どれも「時間を食う」のだ。だから、予告編で、ぱっぱっぱとはやれないのだ。

コアホウドリのカップル

オスの激減(メスの4割しかないない:原因は海洋ゴミを食べてしんでしまう)したコアホウドリでは、カップルの三割がメス同士。一方が餌を食べている間にもう一方が卵を抱くのだが、コアホウドリは一度に一つの卵しか温められない。カップルになったメスがどちらも卵を産んだ場合は、どちらか一方の卵は温められずに死ぬ。コアホウドリのメスは一個だけ卵を産む。

(NHKスペシャル)

L-pill

 エルピル:CIAのスパイなどが、スパイツールである万年筆などに仕込んでいた自殺用の薬。Lethal-pillだから、L-pill。

the little gray man

「小さい灰色の男」とは、CIAが理想とした変装である「記憶に残らない人物」のこと。

catsuit

 キャットスーツ。所謂「Catwoman」の衣装。ピチッとした、腕胴体足を覆うワンピースの服。素材は色々。もともとは、bodysuitと呼ばれていたが、1950年代以降は、Catwomanの影響で、そう呼ばれるようになった。たしい。