2024年2月29日木曜日

戦争が「愚かな行為」である本当の理由

『人間の終わり』にも書いてあるとおり、人間は「生命現象依存型知性現象」なので、その本質は知性現象。生命現象はただの「媒体」。


ところが戦争は、この生命現象をドーニカスルことで、知性現象を操ろうとする手段。要するに、人間が生命現象に依存していることを「悪用」するのだ。


人間は最早、チェスも将棋も囲碁も、人工知能には勝てない。しかし人間の世界チャンピオンには「奥の手」がある。いざとなったら、対戦相手である人工知能の電源プラグを抜けばいい。そうすれば、とりあえず、みっともない敗北だけは避けられる。この「電源プラグを抜く」という行為が、戦争が〔生命現象依存型知性現象である人間〕に対して行っている「仕打ち」。


戦争がもたらす「弊害・害悪」に関しては、「対人間」ではなく、人工知能同士の「対局」を想像した方がいい。


戦争とは、人工知能同士の対局で、相手の人工知能の電源プラグを抜き合っているようなもの。この場合の確実な大問題は、プラグの引き抜き合戦で勝敗を決めている限り、人工知能の「棋力」はいつまで経っても向上しないことだ。〔知性現象同士の対立〕を戦争で「解決・決着」し続ける人間の〔知性現象としての能力の向上〕についても、全く同じことが言える。


一般に、知性現象としての能力が高いほうが、強力な兵器や巧妙な作戦などを生み出せるので、戦争は人間の〔知性現象としての能力〕の向上に「貢献」しているという意見は受け付けない。それは違う。


例えば、マンハッタン計画で招集されたのは、最も喧嘩の強い科学者たちではないし、科学者たちの殴り合いや殺し合いが、研究開発を前進させて、リトルボーイやファットマンを完成させたわけでもない。


動機は動機に過ぎない。女の子にキャーキャー言われたいと思って始めたギターで世界的なギタリストになったあの人を、世界的なギタリストに押し上げたのは、女の子にもてたいという欲望(動機)ではなく、弛まぬ鍛錬と才能である。


因みに、戦争は、それでもまだ、〔対立する双方〕に〔相手の「電源プラグを抜く」可能性〕が与えられているが、例えば、地動説を唱えて教会に殺されかけたガリレオの逸話のように、電源プラグを抜く側(教会)と抜かれる側(市民ガリレオ)が、一方的に決まっている場合も、人間の歴史にはいくらでも存在する。


いずれにせよ、戦争を頂点とする〔人間が生命現象に依存していることを「悪用」して、知性現象に干渉する行為〕は、「人間同士で殺し合うから」とか「何の罪もない人が大勢死ぬから」とか「物凄く後悔するから」とか「代々受け継がれる怨恨を生むから」という理由で「愚かな行為」なのではなく、そもそも、〔知性現象としての存在を自ら放棄している〕という、文字通りの意味で「愚かな行為」なのだ(知性現象ではなくなっているのだから、それは愚かに違いないのだ)。


言ってしまえば、戦争は「失禁我慢比べ」や「脱糞我慢比べ」である。論争している2人の科学者のどちらが先に我慢しきれなくなって、失禁もしくは脱糞したかで、論争に決着がつくようでは、科学の未来は真っ暗。 戦争はそんな「愚かな」ことを、国家規模、国際規模でやっている。


反対側から言った方がわかりやすいかな。ガンマ線バーストの「直撃」も平気な知性現象を仮定すると、彼らにとっての戦争は、光にとっての音速みたいなもので、「あるにはあるみたいだけど、だから何?」なわけ。


2024年2月29日 穴藤


2024年2月25日日曜日

『光る君へ』第8回「招かれざる者」を愉しく観た。右大臣(段田安則)と晴明(ユースケ・サンタマリア)、一世一代の大芝居(策略)で、花山天皇に次男坊を「信用」させたねえ。

2024年2月23日金曜日

NHKの『光る君へ』を初回から観ている。毎回2周して愉しんでいる。

2024年2月9日金曜日

「バカ問題」:境界知能と高IQバカ

人類社会を悩ませ続ける、所謂「バカ問題」を引き起こすのは「低IQ者」だけではない。「高IQ者」もまた同様に「バカ問題」の原因になる。という話。


「境界知能」という用語が独り歩きして、SNS上などで差別的に用いられていることに、専門家が困惑しているという記事を読んで、「バカ問題」についてまた少し考えた。


因みに、五分割で示された〔知能指数の正規分布図〕の、向かって左から2つ目の領域が、所謂「境界知能」と呼ばれているところで、全体に対する割合は約14%、知能指数は70〜85ということになっている。と、文字で書くとややこしいが、図で書くと簡単。



「境界知能」とはよく言ったもので、実は、正規分布図の向かって右側にも同じような領域が存在していて、やっぱりこれも「境界知能」には違いない、と思うからだ。


左右両端の2%ずつはさすがに違うと思うが、真ん中3つの領域の「知能」は〔単なるパラメータの偏りすぎない〕というのが、最近の直感。つまり、知能指数70から130までは、同じ「知力量」の〔配分の仕方〕の違いでしかない。ような気がして仕方がない。そうでないと、世の中で散見される「高IQバカ」の存在を説明できないから。


向かって左側の「境界知能」も、向かって右側の「境界知能」も、知力の「総量」は、中央68%の「標準知能」と何も変わらないのだが、「右側」の人たちは、「左側」の人たちよりも、〔IQテストで高得点を得るのに有利なパラメータ〕に〔より多くの知力〕が配分されているので、結果、知能指数が高くなる、という、ただそれだけの気がする。言い換えると、高IQ者は〔IQテストに貢献しないパラメータ(それがどのような能力かは知らない)〕が、低IQ者よりも劣っている可能性がある(何しろ、振り分けられる知力の総量は、低IQ者も高IQ者も標準IQ者も同じなのだから、どこかを多めにすれば、どこかが少なめになるのが道理)。そう考えると、おそらくあなたも何人かは顔や名前が浮かぶ「知能指数は高いはずなのに、言動が愚かでトンチンカンな、あの人やこの人」のことが理解できるようになる。彼らは、IQテストや学校の試験やパズルゲームのような「知的曲芸」が得意なだけで、必ずしも〔全人格的に賢い〕わけではないので、愚かでトンチンカンな人間であっても、まあ、別段不思議はないのだ。


正規分布図の左側の「境界知能」の人たちに対して持つ「誤った評価(印象?)」は「怠けている」とか「やる気がない」とか「だらしない」なのだが、正規分布図の右側の「境界知能」の人たちに対して持つ、「尊大」とか「無神経」とか「薄情」という評価(印象?)も、だから、やっぱり「誤って」いるのだろう。当人たちは、好きでそんな風にふるまっているのではない(のかもしれない)からだ。


長話は嫌いなのでもうやめるが、最後に一言。


正規分布の両端2%ずつの人々は、これはもう、「知力の総量」そのものが「標準」よりも少なかったり多かったりするのだろう。だから、一方は、パラメータ配分をどう工夫しても、全体として「標準」を下回りがちで、もう一方は、全パラメータが「最初から」高いので、謂わば「その序に」、IQテストの結果も高くなってしまう。


(とは言え、所詮「生命現象依存型知性現象」でしかない人間は、初めから知性現象としての限界がある。人間という知性現象にできる最善は、「真の知性現象」である「生命現象依存型知性現象」(人工人格)を完成させること。間違っても自らの手で宇宙制覇など目論まないように。自然淘汰の「申し子」が出張っても、銀河に殺し合いを広げるだけだから。)


2024年2月9日 穴藤


2024年2月6日火曜日

原作者(作家、漫画家、或いは脚本家、俳優)は「芸術家/表現者」だけど、テレビ局は、言ってみれば「興行師」。芸術家/表現者が作り出そうとしているのは、究極的には、「千年生き続ける作品」であり、「百年後に発見される(評価される)大傑作」だけど、興行師が求めているのは、「今日、この場所で、今生きている客に提供できて、しかも、受けるもの」。

「不穏」なのは、今言った「興行師が求めているもの」の条件に当てはまるものが、テレビドラマ以外にもいくらでもあること。「有名人の性的嗜好」から「戦争」「災害」「殺人事件」に「象人間」。テレビ局の本当の「お客様(顧客)」であるスポンサーには害を及ぼさず、かつ、その「お客様」が高い金を払って買ってくれている時間帯に客を集められるものなら、「出し物」は何でも構わないのが、「興行師」としてのテレビ局。

実は、出版社やレコード会社(もう絶滅した?)も、本質は「興行師」なんだけど、彼らがテレビ局と違うのが、「作品」のファンが「直接のお客様(顧客)」だという点。だから、テレビ局に比べれば、圧倒的に「作品本位」に振る舞う。でも、本質は「興行師」なので、例えば、出版社とテレビ局は「話が合う」し「言いたいことは分かる」し「作家に対する本音も似てる」。だから、出版社は原作付きドラマ制作にはノリノリ。

そういうわけで、原作者がドラマ化を拒絶する場合、原作者は「自身の」出版社も「敵」に回すことになりがち。「原作レイプ」という不穏当な言葉があるが、そう考えると、出版社は、「嫌がる妻や彼女をフーゾクで働かせるクズ男」ということになりやしないか?

それはともかく。

原作者は、「興行師」である出版社との付き合いから、同じ「興行師」であるテレビ局を「値踏み」して、「まあ、滅多なことはないだろう」と「我が子」を差し出し、結果、痛い目やツライ目に遭う。〔テレビ局も、出版社と同じように「作品」を売っている〕と誤解したのが、ツライ思いをすることになる原因。テレビ局が売っているのは「作品」ではなく「視聴率(という幻)」。「作品」は視聴率を稼ぐための「出汁」として使うだけだから、その「扱い」も、ときに、「豚骨」や「魚のアラ」や「クズ野菜」のようになりがち。

いずれにせよ、これからは、「原作付きのドラマ」を制作することに、以前ほどの「旨味」はなくなるだろうね。というか、あと十数年か数十年で、生身の俳優が演ずる映像作品は、ほぼ姿を消してしまうだろうし、脚本は生成AIが無限に作り出すだろうし、「原作付き」とか「完全オリジナル」とか、そういうあれこれも全て「過去のこと」になるんだろうなあ。

2024年2月4日日曜日

『光る君へ』第5回まで:メモ

『光る君へ』を毎週堪能している。どのくらい堪能しているかというと、一周観終わったら直ちに2周目を観る。それくらい堪能している。

人物の振る舞いが、「善人」も「悪人」も「自然」なところが好い。人間の「強さ」と「弱さ」の有りようも「自然」で好い。

例えば(?)、今回の第5回「告白」。まひろが、「父親」を「恨んだり」、「殺人犯ミチカネ」を「呪ったり」していた「本当の理由」は、「母親が殺された一番の原因は自分にある」という、まひろにとっての「真実=憑き物」を逸らしたり、見えなくするための、(多分)無意識の「防衛反応」だったということが、道長に対する「告白」で、視聴者と(おそらく)まひろ自身に明らかにされ、結果、6年間まひろに祟り続けた「憑き物」が遂に祓われる、とか。最後の場面で、父親の胸の中で泣くまひろは、(まあ、来週になってみないと分からないけど)、もう、父親に対するワダカマリを解消している。だって、父親に「アタる」理由は、もうまひろにはないから。


安倍晴明が、今でいう、USAのCIAとか、或いは昔のFBIのフーバー長官のような存在として描かれていて面白い。UKで言えばMI5とかMI6とかのトップ。要するに、「呪詛」と称して、実際には具体的な秘密工作をしている組織の長というニュアンス。




2024年2月1日木曜日

【バイコマ】植物園直前のゴリメカ3匹の始末のつけ方(改良版)。出口付近に3匹を誘導して、〔「降り注ぐ死」からの「ハガー」〕を3匹まとめて食らわす。スタート地点の「対岸」に戻って、タランチュラ・手榴弾・岩石などで、3匹にとどめを刺す。改良版の利点:エリア終了時にテンションが最大値に戻る。