「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2024年8月31日土曜日
2024年8月29日木曜日
【英語無手勝流】漢字と同じ使い方で英単語を使う
英単語は「漢字」だと気づいたら、英単語のカタカナ表記が、漢字のひらがな表記にしか思えなくなった。そうなると、英単語は、できるだけカタカナ表記はやめて、英単語そのものをalphabetで綴って表記したほうがいいということになる。日本語の文章内の英単語をすべてカタカナ表記にしているのは、喩えるなら、日本語の文章内の漢字をすべてひらがな表記にしているくらい、いろいろと、アレ。
「わたしのおじはさいしょすいえいせんしゅをめざしたが、しんぞうのけっかんにけっかんがあることがわかって、けっかかがくしゃになった」よりも、「私の叔父は最初水泳選手を目指したが、心臓の血管に欠陥があって、結果化学者になった」の方が、断然、文章の「解像度」が高い。理解度も高まる(例えば「叔父/伯父」「化学者/科学者」或いは「血管/欠陥」も?)。
alphabetで綴った英単語が「読めない」可能性がある場合は、カタカナでルビを振ればいい(漢字はひらがなでそうしている)。alphabetで綴られた英単語の意味がわからない場合は、現状、漢字でもカタカナ表記の英語でも大抵「放置」されているので、気にしない(自分で調べろ、ということでしょ?)。
英単語をalphabetで綴る利点の一番は、漢字を漢字で表記する利点と同じ。
例えば、「アンサステナブル」というカタカナ英語。意味は「持続不可能な」ということで、同じカタカナ語の「サステナブル」に、否定を表す「アン」がついているわけだけれど、これなども、alphabetで「unsustainable」と表記したほうが断然いい。というのは、「sustain」(持ち続ける・維持する)という単語を知っていれば、「unsustainable」という単語を全く知らなくても、綴りから「un」(非)+「sustain」(維持する)+「able」(可能な)」を見て取り、大体の意味を読み取れる(「サステナ」からは分からない。そもそも。「アンサステナブル」は知っていなければ、どこが切れ目かもわからない。アンサ+ステナブル? アンサス+テナブル? アンサ+ステナ+ブル?)。漢字では同じことをしている「しゅろ」という単語を知らなくても「棕櫚」という漢字を見れば、どちらも木偏がついているので、木の名前か何かだろうと察しがつくし、「新造」という単語自体は知らなくても、「新」と「造」の意味を知っていれば、教えてもらわなくても「新造」が「新しく造られた」という意味だと分かる。
英単語をalphabetで表記する利点は他にもある。
①単数形と複数形がある。
②冠詞(a, the)がある。
①については、もう、英語を日本語に翻訳するとき、全員が「なんで、日本語には複数形がないんだ!」と叫んでいるので説明するまでもない。②は、ちょっとピンと来ないかもしれないが「分かる人には分かる」とだけ言っておこう(或る名詞に「a」がついているのか「the」がついているのか、それとも何もついてないのかで、すごく文章を理解しやすくなったりすることがあるので、これも実感として「冠詞って便利だなあ」といつも思う)。
英単語の綴りがわからない場合は、今まで通りカタカナで表記すればいい。漢字は「ちゅうちょ(躊躇)」なくそうしているのだから、なんの問題もない。
いずれにせよ、他の誰もやらなくても、私一人は、これから、カタカナ英語はできる限りalphabetで英単語を綴ろうと思う(趣味で)。多少あやふやな綴りの単語が出てきても、今は、netやcomputersで簡単に調べられるし。
(2024年8月28日 穴藤)
2024年8月26日月曜日
【英語無手勝流】月とスッポンではない
「ボキャブライダー」を聞いていたら、「apples and oranges」を「月とスッポン」のような意味だと言っていたが、全然ちがう。どちらも、「比べようがないもの」という意味で使われているが、「比べようがない」理由が違う。
「月とスッポン」は、「スッポンと比べるのは失礼なくらい月のほうが圧倒的に良い」という理由で「比べようがない」のだ。言い換えるなら、わざわざ比較するまでもないくらいはっきりと差がついているから「比べようがない」。
一方の「apples and oranges」は、共通点は「丸い果物」だけで、そもそも違う種類の果物。「採点方法」に公平性を保てないので、言葉の意味通りで「比べようがない」のだ。
まあ、もしかしたら、英語話者には、applesは〔果物の女王〕で、orangesは〔果物の庶民〕みたいな認識があるのかもしれない。もしそうなら、「月とスッポン」と同じ意味になるけど、英文での使われ方を見るとそういう感じはない。「あの二人は月とスッポンぐらい違う」の「月とスッポン」は「優劣の強調」として使われているが、「We’re just comparing apples and oranges」の「apples and oranges」は「優劣をつけようとすることの無意味さ」を表すために使われているように見える。
(2024年8月26日 穴藤)
2024年8月22日木曜日
助動詞の否定文のこと
この前、いつものように「ラジオ英会話」を愉しく聴いていたら、あの「日本一の英語教師」の大西泰斗が、「will not」を(多分、うっかり)「willの意思を否定する」などと説明していて驚いた。別の日には、「can not」を(きっと、うっかり)「可能性の否定(輒ち、canの否定)」と説明していた。言うまでもなく、「will not」の「not」は「will」を否定しているわけではないし、「can not」の「not」は「can」を否定しているわけではない。なぜなら、大西泰斗自身が何度も説明している通り、英語の「not」は後ろに来る「単語・文」を否定する単語だからだ(因みに、日本語話者が「will not」や「can not」の「not」が、前にある(向かって左側にある)「will」や「can」を否定すると考えがちなのは、日本語の否定文で用いられる「〜ない」の「ない」が、直前の(向かって左側の)単語や文章を否定するからだろう)。
英語教師や英語学者や英語のnative speakersが何と言おうと、助動詞の否定文の「not」は助動詞を否定しているわけではない。だからこそ、助動詞の否定文は、助動詞の意味合いを持ち続けていられるのだ。日本で「will notはwillの否定」とか「can notはcanの否定」などを説明された気の毒な英語学習者は、ときどき、単語それぞれの意味は分かるのに、〔助動詞の意味が否定された形の日本語の文〕にしようとするとわけがわからなくなる〔英語の助動詞否定文〕に出会うことになる(実体験は数々あるが、今急には思い出せないので、具体例は出さない)。
「I will not go there」を、日本式の「will not はwillの否定」と理解して、「私はそこへ行くつもりはない」と訳しても理解に困ることはない。「I can not go there」も大丈夫(「私はそこへ行けない」)。「I may not go there」になると、少し怪しくなってくる(私はそこへ行くことが許されていない?)。「I shall not go there」になると、もう、なんとなく、機械的に訳しているだけで、ニュアンスを掴みきれなくなっている(私はそこへ行けない?行くべきではない?)。最後に「I must not go there」になると、英語教師の「特別な説明」がないと完全に意味を取り違える。輒ち、この場合、「私はそこへ行く必要がない」ではなく「私はそこへ行くべきではない(=変な日本語だが、要するに、私はそこへ行かない必要がある)」ということになる、と。「mustの否定文」は「例外扱い」にされるのだ。しかし、勿論、そんなことはない。mustの否定文が「例外」に見えてしまうのは、そもそも、〔他の助動詞〕の否定文の方の「認識」が間違っているからだ。
「will notはwillの否定」と思い込まされている脳には、例えば、「I will not go there」は「I will not + go there」のように見えてしまう。「can not」や「may not」「shall not」の文も同様。「must not」の文もそれは同じで、だから、「I must not + go there」と見えてしまい、結果、「そこへ行く必要がない」と誤読してしまう。
〔「not」は、後ろの〔単語・文〕を否定する〕という大原則からすれば、それぞれの文は、「I will + not go there」「I can + not go there」「I may + not go there」「I shall + not go there」であり、だから、「I must + not go there」となる。それぞれを、不自然な日本語になることを恐れず直訳すれば、「私は、そこに行かない、つもりがある(will)」「私は、そこに行かないことが、可能である(can)」「私は、そこに行かないことが、許されている(may)」「私は、そこに行かないことに、なるだろう(shall)」、そして「私は、そこに行かない、必要がある(must)」。「must not」は例外どころか、「must not」の訳し方のほうが「本来の」「正しい」訳し方なのだ。
動詞の直前に置かれた「not」が、直後の動詞を否定する形に違和感を覚えるのは、助動詞文の中の「主役」の動詞を見誤っているから。助動詞文の「主役動詞」は、実は、助動詞(「助教授」みたいで、名前が良くない)の方で、助動詞のあとから出てくる動詞は、或る種の「形容詞(或いは、説明)」。助動詞文の話者の「気持ち」を考えてみれば分かる。話者の気持ちが一番乗っているのは助動詞である。助動詞文の「主役動詞」が助動詞だということは、所謂「be動詞」で考えると、ピンとくるだろう。「be動詞文」の「主役動詞」は、無論、be動詞であり、その後に来るのは、形容詞でも副詞でも動詞ingでも、とにかく「ただの説明」。そして、be動詞の否定文でも、notが否定するのは、前にあるbe動詞ではなく、後ろにある〔単語・文〕。或いは、禁止を表す命令文を考えてみてもいい。「Don’t go there」という文の場合、「主役」の動詞は「go」っぽいが、実は「Do」であり、真の意味は、「Do + not go there」、輒ち、「そこに行かないということを、やれ!」なのだ。そうそう、肝心なことを言い忘れていたけど、「主役動詞」は否定されない。だから「主役動詞」。
どうしても「I will + not go there」のように見えないときは、所謂「to不定詞」の否定文を思い出すといい。例えば、「I try not to go there」は「I try + not to go there」であり、意味は「私はそこに行かないようにする(変な日本語に直訳すれば、私はそこに行かないよう試みる)」である。これを、〔「will not」は「willの否定」〕式に、「try not」は「tryの否定」と誤解すれば、「私はそこに行くことを試みない」と誤読する(因みに、「私はそこに行くことを試みない」は「I do not try to go there」で、「not」はちゃんと、後ろの「try」を否定している)。
と、このように理解すれば、例えば「must not」と「don’t have to」を混同することもなくなるし、「can not」と「be not able to」は「言ってることの根っこがまるで違う」ことも簡単にわかるようになる。
結局、助動詞はどれもこれも、「正体」は「I think」や「I feel」の意味の「挿入句」を一語で表したものでしかないのだから、それを否定したら、その「挿入句」をまるまる文から取り除いただけになって、単なる「助動詞なしの文」になる。
(穴藤 2024年8月21日)
2024年8月5日月曜日
2024年8月2日金曜日
2024年8月1日木曜日
エル・フォルテの「正体」
最初に、断っておくと、便所臭い「ゲーセン」で「トランキライザーガン」とか「ルパン三世」とか「クレイジークライマー」を50円でやっていた「ゲーセン第一世代」なので、「テレビゲーム」というのは、誰が何と言っても、「鬱陶しい生身の人間を相手にしなくていいことこそが最大のウリの〔夢の遊び〕」という認識。だから、「対戦型格闘ゲーム」と呼ばれるジャンルの実質的な「元祖」とでもいうべき「ストリートファイター2」が、酒屋のハゲ親父(いつも不機嫌)が経営する謎のゲーセン(自宅を改装したもの?)に登場したときも、対人対戦には何の興味もなく(対戦で盛り上がっている連中を尻目に)、ひたすらCPU戦(今で言うところの「アーケードモード」?)をやっていた。
というわけで、以下の「ウルトラストリートファイター4」の話に「対戦」の要素は皆無なのでその手の話を期待した方々とは、ここでお別れです。
さて、本題。今年の6月に入ってから、YouTubeにゴマンとある「ストリートファイター6」の対戦動画とか解説動画とかを面白がって毎日色々観ていたら(おかげで、ウメハラとかカワノとかクボとかナルオとかの名前を覚えた)、或時、Amazonが「レバーレスコントローラ」というものを薦めてきて、「レバーレス?! いつの間にこんなものが?」と驚いた。「ストリートファイター」シリーズは「3」で「卒業(スト3幼稚園)」していたが、俄然興味が湧いて、どうしても試したくなった。つまり、「ゲーム」の方ではなく、「レバーレスコントローラ」の方を。格闘ゲームのコマンド入力にとって、レバーやパッドは最低の入力装置だとずっと思っていたから。
ウチのゲーム機はPS3が「最新機種」なので、当然「スト6」なんかできない。調べたら、「ウルトラストリートファイター4」ってのがPS3版にあったので、それと、5千円くらいの「レバーレスコントローラ」を買って、6月の末くらいからプレイしてみたら、最初から昇龍拳だの波動拳だの、真昇龍拳(的なパワーアップ版の必殺技)だのが思い通りに出せて感激。トレーニングモードで、前後に歩いたり飛んだりしゃがんだり、撃ったり避けたりを1週間くらい練習した。最初はリュウでやっていたけど、途中でルチャリブレのプロレスラーっぽいやつ(エル・フォルテ)が居るのに気づいて、そいつに乗り換えた。2週間くらい飛んだり跳ねたり、ブルブル回ったりを練習して、まあまあ動かせるようになったので、「アーケードモード」に挑戦した。一日30分トレーニングモードをやって、最後に2クレジット分アーケードモードをやるというふうに決めて、一週間くらいプレイしたところで、「ライバル」のザンギエフを初めてやっつけたら、その次に出てきたのが、もう、大塚明夫の声のラスボス「セス」だった。このセスがびっくりするほど弱かった。こんなに弱いラスボスは初めて。初対面で2連勝してエンディング。エンディングムービー(?)のエル・フォルテも、セスなどいなかったかのように、本田に習ったらしいチャンコ(のようなもの)を作ったりしていて、なんか、のどか。
で、いろいろ腑に落ちないものを感じたので、ネットで「エル・フォルテ」の「評判」を検索したら、なんと「ストリートファイター4」では、名うての「クソキャラ」で、「全員」から「嫌われて」いる様子。驚いた。そして笑った。
思い返せば、最後のセス戦同様、「ライバル」のザンギエフとの戦いも「攻略法」がわかってしまえば、手玉に取るように(殆どハメのように)勝てたし、そもそもそこに行くまでの戦いも、一人だけ「やってることが違う(世界が違う)」印象がずっとあった。
で、考えて、気付いた。エル・フォルテは、格闘ゲームのキャラクターではなく、所謂「横スクロールアクションゲーム(アスレチックゲーム)」のキャラクターなのだ。往年の「ストライダー飛竜」(大好き)とか、「忍者龍剣伝」(大嫌い)とか、まあ、「スーパーマリオブラザーズ」とか、「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」とか、そういうゲームの主人公キャラの一人。それが、格闘ゲームに乗り込んできて、好き放題やってる。今挙げた諸ゲームとの違いは、エル・フォルテはずっと「ボス戦」だけをやっているということ。ボスまでの「道中(雑魚キャラ戦や、危ない足場を飛び越えるようなアスレチック場面)」はない。だから、まあ、『ワンダと巨像』だよね。
エル・フォルテは、対人対戦用のキャラクターではなく、「アーケードモード」用のキャラクターなのだと思う。つまり、対CPU戦用のキャラクター。だから、「敵=ボスキャラ」よりも攻撃力(火力)が低い。正面からまともにやり合っても勝てない(横スクロールアクションゲームのボス戦にそういう攻略法、輒ちボスと正面からまともにやり合う戦法は絶対に存在しない)。ちょこまか動き回っては、「硬い」ボスキャラに何度も何度も攻撃を当てる必要がある。横スクロールアクションゲームの「ボス戦」って、だいたいそんな感じでしょ? エル・フォルテは、各キャラクター(CPU)との格闘戦で、いちいちそれ(中ボス戦)をやっているだけ。
一番最初にも書いたけれど、著者は「対人対戦」には全く興味がない(観戦は好き)。〔テレビゲーム(コンピュータゲーム)とは、機械を相手に遊ぶもの〕という「主義」なのもそうなのだが、何より、人間を相手に勝っても負けても、どうしても、「だから何?」と思ってしまって、だめなのだ。自分よりも上手い人や頑張ってやり込んだ人には負けるだろうし、自分よりも下手な人や初心者やその日腹具合がおかしかった人には勝つだろう。
人間に勝ったとて、と。テレビゲームにそういうものを全く求めてない。
今の目標は、エル・フォルテを、ネイサン・スペンサー(『Bionic Commando』)くらい自由自在に使えるようになって、CPUが操る「ボス」たちを翻弄しまくること。
2024年7月31日 穴藤
【追記(2024年8月3日)】:さっき思いついたのでメモしておくと、『ストリートファイター4』は、コロ助(エル・フォルテ)とコロ助以外のキャラとの間の、真の意味での「異種格闘技戦」ゲームなのだろう。