「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年9月12日木曜日
「四色問題」のための落書き
存在する全ての領地が、自身以外の領地全てと境界を接している場合にのみ、領地と同じ数の色が要る。即ち、自身以外の全ての領地と境界を接している、という条件を満たしていない領地がひとつでも含まれていれば、その地図は、領地の数未満の色で塗り分けられる。
ところで、上で述べた、「存在する全ての領地が、自身以外の領地全てと境界を接している」という条件を満たす地図は、最大で幾つの領地を持つだろうか。答えは4つである。
領地を「○」で、領地と領地の境界を「ー」で模式化して表す。このとき重要なのが[「ー」同士は交差できない]ということ。なぜなら、「ー」は地図上の境界を模式化したものだからだ。地図上(2次元)では、或る境界を三つ以上の領地で共有することはできない。或る境界を三つ以上の領地で共有できると考えることは、ピザを切り分けるときの中心にあたる部分を、全ての切り分けられたピザにとっての境界と考えることと同じであり、その場合「四色問題」はすでに問題ではなくなる。「色は領地の数だけ必要」なのは自明のこととなるからだ。
さて、実際に作図してみれば、「ー」を交差させずに、全ての「○」を、それ自身以外の全ての「○」と繋げることができるのは、「○」が4つまでの場合である。
具体的に言えば、三つの「○」は三角形の各頂点として、お互いがお互い同士全て繋がることができる(これは簡単)。次に、4つ目の「○」を、「ー」を交差させずに、この三角形の頂点の三つの「○」それぞれと繋ぐと、必ずどれか一つの「○」が、三つの「ー」に取り囲まれてしまうカタチになる。これの意味するところは、この後、5つ目の「○」が現れて、すでにいる4つの「○」と「ー」を繋ごうとしても、必ず、どれかの「ー」と交差してしまうことになるということ。先に言った通り「ー」同士は交差できないので、5つ目の「○」すなわち領地は自身以外の他の領地の全てとは繋がることができない。これを逆に言うなら、5つ目の領地は、繋がることのできなかった領地と同じ色で塗ることができるということ。つまりこの場合、5色目は必要なく、4色で足りる。
ところで、「四色問題」に於いて、「領地の数」には「見かけの数」と「実質の数」がある。「実質の数」は、自身以外の全ての領地と繋がっている領地の数のことである。「見かけの数」は、[「実質の数」を形成している領地群によって使われている色]の[どれかと同じ色]をした領地が繋いでいる[「外側」の領地もしくは領地群]を含めた「全体の数」のことである。
「○」と「ー」が横一列にどこまでも続く模式図を想像してみよう。この時、「○」の数は100でも1000でも、色分けに必要な色は2色である。なぜなら、一番目の「○」と二番目の「○」はお互いに繋がり、「二色が必要な領地群」を形成しているが、三番目の「○」は二番目の「○」とは繋がっていても、一番目の「○」とは繋がっておらず、一番と二番の形成している領地群の「外側」の存在だからだ。もちろん、立場を入れ替えて、一番目の「○」が、二番目と三番目の「○」が形成する領地群の「外側」にいると考えても構わない。肝心なのは、或る領地群を形成する領地のどれか一つとでも接続ができていない領地が現れるたびに、「実質の数」の数え上げはリセットされるという点だ。
どんなに込み入った地図でも、模式図にしてみれば、最大で4つの領地がお互いが直に繋がっている領地群を形成し、それが、身内の中の少なくとも一つの領地に「内緒」で、他の領地群と繋がっているだけである。
「四色問題」の答えを得るのに数学など必要ない。丸(○)と棒(ー)で落書きができればいい。
2019/09/12 アナトー・シキソ
追記。
余計なお世話かもしれないが、念のために言っておくと、「境界」というものはそれ自体で独立に存在することはできない。地図上で領地と領地を「隔てる」のは、お互いの存在である。境界などというものはただの概念で、実在しないのである。既にある「境界」を第三の領地の境界にもしようとすると、必然的に、最初にあった境界に変更が加わる。最初にあった境界が全部失われた場合は、[第一の領地と第三の領地の境界]と[第二の領地と第三の領地の境界]の二つが新たに作られる。最初にあった境界の一部だけが失われた場合は、元からあった境界と合わせ、三つの境界が出現することになる。だから、上で述べた模式図で「ー」が交差するような形、つまり、「十」の4つの頂点それぞれに領地が存在するような形を作ることは、第三の領地が、既にある[第一の領地と第二の領地の境界]を、第一の領地と第二の領地を「引き裂く」ことで消滅させ、自身は第四の領地と新たに境界を作り、しかしその一方で、その「引き裂き」「消滅」させたはずの境界は以前として存在している(第一の領地と第二の領地は繋がっている)かのような「嘘」をつくことである。
2019年9月10日火曜日
誰に向かって「銃乱射事件を許さない」と言っているのか?
アメリカ社会が「銃乱射事件を許さない」という点では意見が一致しているにも関わらず、銃の規制では対立するのは、言うまでもなく、乱射事件が頻発する原因を、「銃の氾濫」という「社会の問題」と捉える人間と、「乱射犯人の異常性」という「個人の問題」と捉える人間の、二種類の人間がアメリカ社会に存在し、対立しているからだ。
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アメリカが世界でも突出した「銃社会」であることは、子供でも知っているこの時代の「地球の常識」である。子供といえば、家族で回転寿司に行って、卵を食べた長男だけが食中毒になったら、食中毒の原因はまず間違いなく卵だろう。同様に、銃が氾濫した「文明国」で銃乱射事件が多く、銃が氾濫していない「文明国」で銃乱射事件が少ないのなら、銃乱射事件の多さは、当然、銃の氾濫にあるとか考えていいはずだ。原因を特定する際に注目すべきは「違い」だからだ。この道理が、アメリカの銃乱射事件の頻発の原因を犯人個人だとしたがる連中には見えないのか、見ないようにしているのか、見えていて敢えて棚上げにしているのか? ともかくここで最初の「バカはほっといて、この世の終わりまで身内で撃ち殺しあってろ」と言いたくなる衝動が湧き上がるわけだが、今はぐっとこらえて、話を先に進める。
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銃社会アメリカには、家庭の戸棚や引き出しに、あるいは薬局や酒場のカウンターの裏に、拳銃やライフルが置いてあることに何の違和感も持たない人間が、地球上の他のどの「文明国」と比べても桁違いに多いのだろう。一言で言えば、アメリカは世界一「銃に慣れている」人間が多い国なのだ。しかし「慣れている」と「鈍感」は表裏一体である。だからこそ、銃規制のような[正解が初めから分かっているようなこと]で、国を二分するような対立が起きてしまう。
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「銃に慣れている」人間にとって、「銃の氾濫」は「自動車の氾濫」程度の問題でしかないので(=普通のことなので)、当然、銃乱射事件の根本原因は、銃乱射事件を起こした犯人にあるということになってしまう。ちょうど(「銃に慣れている」アメリカ人と同じように)「自動車に慣れている」地球上のあらゆる「文明国」の市民たちが、自動車による死亡事故の根本原因を「自動車の氾濫」にではなく、死亡事故を起こした個々の運転手や個々の自動車や個別の状況に求めるのと同じ構造だ。そこにまで思いが至れば、一部アメリカ人の「銃の氾濫に対する鈍感ぶり」も、殊更異様なことだとも思えなくなり、先に言った「この世の終わりまで身内同士で撃ち殺しあってろ」と言いたくなる衝動も多少は治まる。所詮、同じ穴の狢、というわけだ。
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大抵のことに人間は慣れてしまうし、一旦慣れてしまえば「異様」は「普通」になり、まさかそれが今目の前で起きている問題の根本原因だとは思えなくなる。これは人間の「半合理主義」(←半分だけ合理的になって、どうせ最後は死ぬだけの自身の生涯の無意味さを曖昧にする主義)の弊害だが、人間は人間である限り、この主義を乗り越えることはできないので、ココをどうこう言っても始まらない。
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はっきりしているのは、銃乱射事件を起こすのは、[それが職業というわけでもないのに、いざとなったら(自分の中で二進も三進もいかなくなったら)、(拳でも棍棒でも包丁でもなく)銃にモノを言わせようと思う人間]だということ。すなわち、銃規制に反対する者(=[市民から銃を取り上げること]に反対する者)は、それが自衛のためだと主張していたとしても、悉く、銃乱射事件を起こす可能性のある側の人間だということ(逆に言うと、社会から[個人所有の銃]をなくせと主張する者は、いざとなっても銃には頼らないつもりの者たちだ)。仮に、銃の攻撃から身を守る「抑止力」として、銃を所持しているのであって、自分は決して銃で人は殺さない(殺そうとしない)と主張する者があったら、彼らに、本物と見分けのつかない、しかし殺傷能力はゼロの精巧なモデルガン(たとえば空砲しか撃てない拳銃)の所持を提案してみればいい。その提案は必ず拒否されるだろう。[銃規制に反対する]とは、つまりはそういうことなのだ。いざとなったら実際に誰かを撃ち殺すつもりがある(撃ち殺しても「許される」と思っている)からこそ、銃を持っていたい。そういう人間にとっては、実際に殺傷能力がある銃でなければ、所持している意味などない。
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もちろん「自分が殺されるくらいなら相手を殺すべき」は、生命現象の根本原理である。「黙ってやられるくらいなら、先に相手のやっちまえ」ルールは、人間が生命現象である限り否定できないし、排除もできない。しかしだからこそ、人間に銃など渡してはダメなのだ。「いざとなったら誰かを殺す」という本性を人間から取り除くことは不可能(それがソモソモの本性の定義だ)。しかし、そういうふうにアタマに血が上りがちの存在である人間に与える「手段=道具」は、選ぶことも制限することもできる。「手段=道具」は、人間の本性には属していない「外部」だからだ。そして、与えられる「手段=道具」としての銃は、その殺傷能力の高さ(逆に言えば、お手軽さ)ゆえに問題なのだ。それを使えば、誰もが手軽に誰かを大量に殺せてしまえる。
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更にここで気づかなければならないのは、銃乱射事件を起こすのは、必ず「自分には他の誰かを銃で撃ち殺すだけの/当然の/やむにやまれぬ理由がある」と考える人間だということ。イカれていようと「正常」だろうと、銃乱射事件の犯人達は、間違いなく「自分が大切だと思うモノを守るために」他人を撃ち殺している。銃規制に反対する者の考え方と全く同じである。ことによると、銃乱射事件の犯人たちを突き動かすのは、犠牲的精神ですらあるのかもしれない。自ら無法者として裁かれ殺されるコトを覚悟の上で、「大切なもの」を守るために「凶行」に及ぶわけである。であるなら、そこにあるのは悪意どころか、悲壮的な善意である。やれやれ、ここでも人間の半合理主義が祟ってる。
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銃規制に反対する者は、悉く、銃乱射犯予備軍だと見做して構わない。しかし、だからと言って、ただちに全員を牢屋ヘぶち込めというのではない。彼らは、人間存在に対する認識が単純で、「善人」や「悪人」などという[定義が曖昧で幼稚な概念]を用いて社会を理解し、全ての「犯罪者」が、彼ら自身にとっての「正当な」「理にかなった」「他の何よりも重要な」「止むに止まれぬ」理由で「犯行」に及ぶのだということも洞察できないが、それ以外は、我々と変わることのない善良な市民だ。
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自動車事故がそうであるように、銃乱射事件も人間自体の制御を試みてもなくなりはしない。自動車事故に関して言えば、人間社会はそれが一定程度発生することを「受け入れて」いる。自動車そのものは社会から排除せず、人間の振る舞いによって自動車事故を回避しようとするなら、そうする(受け入れる)他ないからだ。しかし、銃乱射事件はどうか? その発生を、自動車事故並みに「受け入れる」ことは、殆どの人間や社会にとって悍ましいことであるはずだ。自動車事故だって、できればゼロにしたい。しかし、銃乱射事件は、「できれば」ではなく、是が非でもゼロにしたいはずだ。なら、人間をどうにかしようとしてもダメで、銃をなくすしかない。なんと言っても、ないものは使えないのだから。(ちなみに、乱射殺人は故意だが、交通事故殺人は過失であり、同列に考えるべきではないと思うなら、とんだお人好しである。飲酒運転、スピード違反、あおり運転、過積載、信号無視などはもちろん、たとえ交通ルールを守って制限速度で走っていても、生身の人間がウロウロしているすぐ横で1トン前後の重量物を、猛烈な速さで動かしているのは、ショッピングモールの真ん中で誰もいないところを狙って水平に拳銃をぶっ放してるのと変わらない。これで誰か死ねば、表面上は過失でも、実質は故意である。)
*
もう一度言おう。[いざとなったら撃つ]人間だけが銃乱射事件を起こす。そして、それは大抵ごく普通の善良な人間だ。銃乱射事件を起こす可能性があるからと言って善良な人間をあらかじめ社会から取り除くことはできない。だから、銃の方を社会から取り除くのである。
銃規制に反対する者たちの意見を聞き入れることは、銃乱射事件の犯人の云い分を聞き入れることに等しい。銃乱射事件を許さない立場なら、銃規制に反対する者たちの意見は無条件で退けて構わない。
また、銃規制に反対を表明することは、自分が銃乱射事件の犯人予備軍であることを表明するのに等しい。だから、銃規制には反対しつつ、しかし銃乱射事件は許さないと表明するのは、銃規制反対者とはすなわち銃乱射事件犯人予備軍という構造に気づかないほど、自分は愚かなのだと表明するのに等しい。
2019/09/10 アナトー・シキソ
ひとつ言い忘れた。
銃の所持や射撃は、たとえばラジコンヘリを蒐集したり飛ばしたりすることと同じで、趣味=道楽の一つだと主張する輩には、他人の道楽のために自分の子供が殺されるのはごめんだと言えば充分。また、銃の所持や射撃は、古くからの守るべき伝統だと主張する輩には、チベットの鳥葬だって、日本の晒し首だって伝統だった。ヨーロッパの決闘もそうだ。そうそう、世界中にある「名誉殺人」の類は悉く伝統だ。「女は家庭を守るもの」も伝統だったし「父親の意見は絶対」も伝統だった。「結婚相手は親が決める」も「赤ん坊にハイハイをさせない」も「殺した敵部族の脳を食べる」も伝統だった。伝統は必ずしも[守り続けるに値するもの]ではない。むしろ、何かが行われ続けているとき、その理由が「伝統だから」の一つきりなら、その「真価」を問い直してみるべきだ。アメリカの「伝統」である「個人の銃の保持」は、はた迷惑という点で、「名誉殺人」の伝統とどう違う?
2019年9月4日水曜日
「スタンド論 〜『ジョジョの奇妙な冒険』考〜」
この長大な物語の全てを一度に論ずることは難しい。しかも一旦は終了したはずが、まるでプロレスラーの引退と復帰のように、新シリーズとして再開され、今現在連載されているのだ。とてもここで全てを賄いきれるものではない。
そこで今回は第3部から登場した「スタンド」に的を絞って考えてみたい。作者自身が語っているように、第1部、第2部はいわば、肉体対肉体がテーマだった。あるいは圧倒的に強力な肉体を持つものに「貧弱な」人間が知恵と勇気で戦いを挑む物語だ。戦うべき相手はあくまでも強力な肉体を持った存在だった。
それが第3部では「精神力」の戦いへと変わった。
「スタンド」とは精神力が映像化したものだ。強いスタンドは強い精神力から生まれる。スタンドはそのスタンドの本体となる人間の精神そのものなのだ。本当に恐ろしいのは肉体ではない。それを操る精神すなわち心なのだ。だから肉体と肉体の戦いは、実は心と心の代理戦争に過ぎなかった。ならば、その心を目に見える形で直に戦わせれば、どうなる?
この実に魅力的な問い掛けに答えるために、第3部は始まった。
実をいうと「ジョジョ」以前にも人の[心と心]=[精神力と精神力]の戦いを描いたものはかなり存在した。つまりは超能力者同士の戦いだ。
まず思いつくのが横山光輝の古典的名作『バビル2世』だ。この『バビル2世』には荒木もかなり影響を受けたようで、「第3部」の主人公である承太郎や花京院がいつまでたっても学生服のままなのはまさに「バビル2世」の主人公に倣ったものだ。バビル2世は砂漠でもあの暑苦しい学生服を着ていた。承太郎がいくら暑くても決して学生服を脱がなかったのは作者の[先達に対する敬意]の表れだろう。
また、少し時代を下ればあの一世を風靡した大友克洋の『アキラ』がある。この作品こそはまさに「超能力者もの」の今に続く王道だが、大友にはこの作品とは別に「童夢」というやはり、超能力を持つ「子供」を描いた作品がある。目に見えない力が壁をドーム状にへこませ人を押さえつけるシーンは知る人ぞ知る名場面だ。
第3部からの『ジョジョ』も間違いなく超能力者同士の戦いを描いた作品なのだが「スタンド」という新たなシステムを「発明」したことで、それまでの「超能力者もの」とは一線を画す作品となった。今までの「超能力者もの」は、どれも超能力の力を表すのに「結果」だけを描いてきた。例えば、いきなり頭が爆発してみたり、鼻血が出たり、あるいは物体が勝手に浮き上がったり、壊れたりと言った具合だ。つまり超能力者の力が発揮されたときに「なぜそうなるのか」は全く描かないままで、「力」が行使された「結果」だけを描いて済ませてきたのだ。
すでに「スタンド」によって、超能力(精神力)の視覚化を体験してしまった我々からみれば、今までの「超能力者もの」はずっと超能力を持たないもの(ジョジョ的に云えばスタンド使いではない者)の視点から描かれてきたということになる。
「ジョジョ」以前「スタンド」以前のかつての「超能力者もの」は作者は自身で超能力者を描きながらも無意識のうちに、こちら側(超能力を持たない一般人側)に立っていたわけだ。だから、彼らは、超能力の結果を描いても、それを説明する必要はなかった。いや、必要性を感じなかった。超能力者に超能力があることを認めれば、あとは何の迷いもなく、超能力が行使された結果だけを事実として描けた。「超能力は分からないものだ」で済ましていられた。なにしろ一般人なのだ。一般人に超能力は理解できない。ただ、起きたことを見て驚くだけだ。いや、もしかしたら「超能力者自身にもなぜそうなるのか分からない」という認識を持っていたのかもしれない。
だが、「ジョジョ」の「スタンド」はそれはちがうと言った。超能力者には「力」が見えている。なぜ、頭が爆発するのか、ものが持ち上がるのか、超能力者にはその理由が分かっている。なにしろ「見えている」のだから。超能力者にとって、それは目の前で起こっている当たり前の光景としか映らない。超能力者にとって超能力は不思議でもなんでもないのだ。「ジョジョ」においては、超能力者はつまり「スタンド使い」だが、彼らには見えるのだ。敵の頭が砕け散るのは、スタンドが敵の頭をうち砕いているからだし、車が持ち上がるのはスタンドが持ち上げているからだ。あるいは、拳銃の弾が空中で静止するのはスタンドがすばやくつかみ取ったからでしかない。ただ、スタンド使い(超能力者)ではない一般人にはスタンドが見えないので、それが不思議な光景として映るだけなのだ。
「スタンド」は、超能力の「力」そのものに「形」を与えた。それは同時に超能力を説明する方法にもなった。「ジョジョ」以前は超能力が引き起こす現象は説明不可能なものでしかなかった。どんなに超能力を描いても、超能力の説明にはなっていなかった。超能力者同士の戦いでも、実際彼らが何をしているのかは分からなかった。ただ苦しがったり、はじき飛ばされたり、急に死んだりするだけだ。決着が付くときはいい。そうでなく引きわけに終わったときなどは、結局超能力者が難しい顔をして汗を流して、それで「ふう」とため息をついて終わりだ。いや、それはそれでなかなかに緊迫感のあるものだが、現実問題として[描写としてはかなり地味]だ。派手な格闘も何もないからだ。ただじっとして、時々触ったり、手を握ったりするだけなのを見ていてもつまらないだろう。スタンドのお陰で「ジョジョ」では本来(?)地味なはずの超能力者同士の戦いをド派手な大格闘として描くことが可能になった。
超能力の「力」がスタンドという形を与えられたことで戦いは途端に分かりやすくなる。スタンドなしでは絶対描けない超能力合戦の末の「紙一重」の勝利でさえ「リアルタイム」で読者に示すことが出来る。もしスタンドがなければ、強力な超能力者同士が息を詰めて黙って向き合ったあとで、どちらかがばたりと倒れる。勝ち残った方が「危なかった」と安堵の言葉を漏らして初めて、戦いの展開がどうだったかをある程度推測出来るだけだ。しかし読者には一体何がどう危なかったのか、どの程度危なかったのかも分からない。第一これだと結局誰と誰が戦っても同じ光景しか描けない。いつも「睨み合い」と「ばたん」と「危なかった」で終わりだ。超能力者を描くはずのマンガがすぐに超能力を描くことにマンネリを起こすことになる。超能力者の最大の見せ場であるはずの超能力の行使の場面がいつも同じに、しかもかなり地味になってしまう。超能力者マンガが存分に超能力を描けないという笑うに笑えない状況が生まれるということだ。
その意味で「スタンド」は画期的な発明だと言える。存分に超能力を描けるからだ。「スタンド」は、超能力がなぜそのような現象を引き起こすかを読者にも見える形で説明してくれる。「見えない力」を「見える力」つまりスタンドに置き換えたことが『ジョジョ』の最大の功績であり、長期にわたる成功の秘密だった。
(2)
ところが、長期に渡って描き続けているうちに、生みの親である荒木自身が「スタンド」の意味を変容させてしまった。意識的であるかどうかは分からない。
どういうことか?
つまりこうだ。荒木は、超能力者の能力そのもを擬人化あるいは映像化したはずのスタンド自身に更に「超能力」を持たせてしまったのだ。一般人には見えない超能力者(スタンド使い)の能力はスタンドとして、超能力者と読者には顕在化された。しかしその顕在化されたスタンド自体が更に超能力者自身にも読者にも「見えない謎の力」、言ってみれば「超・超能力」を持ってしまったのだ。
例を挙げてみよう。最も分かりやすい例は、第5部に登場する「クラフトワーク」というスタンドだ。実は私がこの文章を書こうと思ったのもこのスタンドの登場がきっかけだった。
スタンド「クラフトワーク」の能力は触れた物体を空間に固定させることだ。このスタンドは自身の射程内、つまり力を発揮できる範囲内であれば、あらゆるものを静止・固定させることが出来る。たとえ、それが空中であってもだ。だから向かってきた弾丸なども空中で止めてしまえる。しかしなぜ、そうなるのかは全く説明されない。なぜ、弾丸は空中で止まるのかは全く描かれない。スタンドがその手で直に弾を止めるわけではない。スタンドの射程の範囲に入れば、弾丸はただ止まるのだ。これはスタンド自身が「超・超能力」を持っていることを意味する。
この違いは初期のスタンドと比べてみると分かりやすい。比較対象は第3部の主人公スタンド「スタープラチナ」だ。いい具合にこのスタンドも劇中で弾丸を「止めている」からだ。だが、「スタープラチナ」の弾丸の止め方は「クラフトワーク」の「超・超能力」とは全く違う。「スタープラチナ」は「指で掴んで」弾丸を止めるからだ。「スタープラチナ」には「クラフトワーク」のような「超・超能力」はないので、もし弾丸を掴み損ねると、弾丸は止まらない。(もちろん「スタープラチナ」が後に獲得する「時を止める」という「超・超能力」を使えばそれは可能だが、ここで言いたいのはそういうことではない。)
「スタープラチナ」の「掴んで止める」という方法だとスタンドが掴んだ弾丸を離してしまえば、弾丸は下に落ちる。人間が持っているものを手放すとその物体が下に落ちるのと同じことが起こる。これは読者にも劇中のスタンド使いにも自然で分かりやすい。しかし「クラフトワーク」の場合、スタンドの「超・超能力」が効果を発揮していれば物体はずっと空中にとどまっているのだ。まるで「クラフトワーク」自身が目に見えないもう一つのスタンドを出現させて、物体を支え続けているかのように。
(3)
この二つのスタンドの違いは何かと言えば、つまりは作者自身のスタンドの解釈、あるいは定義の変化と言ってもいい。
初めスタンドは超能力者(スタンド使い)が現実の物体に影響を及ぼすときの力そのものとして描かれた。一般人には見えなくても、スタンドのやることが見えれば、物体がなぜそうなるのかがスタンド使いと読者には分かった。スタンド使い(超能力者)が念じただけで物体が動いても、実は彼のスタンドが「実際に」その物体を動かしているのだ。しかしスタンドは次第に変化し、超能力者の能力の「象徴」になった。こうなるとスタンドを見ただけはどんな能力を持っているのか全く分からない。ちょうど、一般人と超能力者の区別が見たたででは付かないように。
実際、この変化の始まった第三部の終わり頃からスタンドは「触っただけで」ありとあらゆることをやるようになる。スタンドが触れば、破壊されたものが復元され、生命が誕生し、ジッパーが現れ、肉体が若返っていく。そしてなぜそうなるかは一切説明されない。さらに強力なスタンドになると、そうしようと思っただけで、時間までコントロールするようになる。もはや触ることさえしない。もっとも、時間を止めるのに何に触れればいいのかという問題もあるが。
スタンドの「超・超能力」はそのスタンドの本体であるスタンド使い自身にも理解も説明もできない謎の力なのだ。「なぜかは分からないが、そういうことが出来る」というレベルだ。
ここに三つの世界が見て取れる。三段階の能力だ。
まず初めは一般人にも理解と説明のできる能力。次がスタンド使いには理解と説明のできる能力。最後がスタンド使いにも理解も説明もできない能力。
一般人にも理解と説明のできる能力とはごく普通の、我々がよく知る物理法則にしたがった能力のことだ。コップを持ち上げる。ドアを開ける。水を撒く。
一般人には理解不可能でスタンド使いには理解できる能力とは、いわゆる一般的な超能力だと分かる。サイコキネシス、テレパシーなどは、起きた現象だけを見れば、程度の差こそあれ、どれも人間自身にも出来ることだ。つまり、ものを動かしたり、意志を伝えたりということそれ自体にはなんの不思議もない。それが超能力と呼ばれるのは、その一連の出来事に、あたかも全く介在するものがないかのように見えるからだ。だから、もしスタンドが介在しているのが「見えれば」、それは「なんでもないこと」になる。スタンド使いには理解が出来る能力とはそう言うことだ。スタンドによって引き起こされたとしても、起きたこと自体は平凡な出来事だ。壊れた、ぶっ飛んだ、切れた、燃えた。あるいは体に入り込まれてまるで催眠術のように操られた。
しかしスタンド使いにも理解できない「超・超能力」はそうではない。それは原因がなんであれ、引き起こされた現象自体が異常なのだ。超自然的と言い換えてもいい。それは介在しているものが見えないから、理解できないから異常なのではなく、どんな力が作用していても起こりえそうにないという意味で異常なのだ。そういう現象を引き起こす方法・手段を人間は持っていないし、知らない。
どうやって時間を止める? どうやって鏡の世界に入る? どうやって壁にジッパーを出現させる? どうやって一瞬で怪我を治す? どうやって人をあっという間に老人にする?
スタンドの「超・超能力」は超能力と言うよりも、現時点では別の部類に入る現象だ。一般的に、あるものは奇蹟と呼ばれ、別のものは呪いと呼ばれる。異次元の世界の問題として扱われるものもあるだろう。また、時間の問題は最先端の量子力学をオカルト的に解釈すると生まれる。
つまりどの現象もいかなる方法を用いても人間が実現できないものばかりだ。
スタンドは一般的な超能力の現象を説明するために発明されたアイディアなので、一般的な超能力以外の説明は最初から不可能なのだ。スタンドは人間のいる物理法則の世界から一枚だけずれた場所にいるだけで、その作用自体は、人間と同じ物理法則に従っている。だから、スタンドがその一枚隔てた向こうからどんな力を及ぼしても、現実の人間のいる場所で起こることは必ず人間の住む世界の法則つまりは物理法則に準じている。つまりスタンドがある物体に作用を及ぼしても、その物体自体は人間の住む世界の物理法則に支配され続けているということだ。だから、スタンドが棚から壺を落とせば、その壺は、人間の世界の法則に則って、床に落ちる。途中で、壺に関わる物理法則が変化して天井にぶち当たるということはない。だが、スタンドの「超・超能力」はその法則を破るし、全く理解不能の現象を引き起こし、落ちる壷を天井にぶつけてしまう。
(4)
スタンドというアイディアは非常に優れた便利なアイディアだ。この世界の不思議な出来事をほぼ全て飲み込むことが出来る。幽霊も、死後の世界も、UFOも、多重人格も、呪いも、奇蹟も、異次元もすべて、スタンドの「せい」に出来るのだ。
結局、つまりは、そういうことなのだ。
最初、スタンド使いの力そのものとして描かれたスタンドが、いつの間にか、スタンド使いとは別のキャラクターとして描かれ始めた。「別」という言い方は少し変か? スタンド使いとスタンドの関係が、ちょうど一人分横にずれてしまった。つまり、人間であるスタンド使いは、スタンドという超能力を持っている。そしてそのスタンドが自立した存在として更に「超スタンド」とでも言うべき「超・超能力」を持っている。そしてこの「超・超能力」は、もはや制限を持たないので、作者はあらゆるアイディアを割り当てられる。
このズレは、読者にとっても作者自身にとってもあまり意識されていない。しかしこのズレこそが肝心なのだ。
たとえば、時間を止めるとか、人間を爆弾に変えるとか、生命を生みだすと言った大それた能力を直接人間であるスタンド使い自身が持つのではなく、異形のスタンドそれ自体がが持っているというところに、妙な説得力と安心感が生まれるからだ。いや、結局はスタンド使いの能力には違いないのだが、実感として、読者は、スタンド使いとは、そういう恐ろしげな能力を持っているスタンドという魔物的悪魔的あるいは神的な存在を所有している人間というふうに見てしまう。
このワンクッション置いた状態は実は重要だ。
どんなに突拍子もない、あるいは無茶な能力でも[その能力]と[人間であるスタンド使い]の間に、これまた正体不明の超スタンドがいることで、その能力の突拍子のなさが一度、屈曲するのだ。[生身の人間]と[大それた能力]を直につなげないで、一旦迂回してから接続することになる。すると、そこに妙な説得力が生まれ、物語はある種の自在さを獲得する。
人間が時間を止めたり、老人を赤ん坊に変えたりは出来そうもないが、一種の魔物としての超スタンドならそういうことも可能だろうという、妙な納得の仕方を、作者も読者も、無意識のうちに行っている。
「ジョジョ」がここまでの長期連載作品になったのは、「スタンド」が持つこの「自在さ」が要因の一つなのは間違いない。
(アナトー・シキソ)
2001年6月11日初出
2012年8月21日改訂
2019年9月04日改訂
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