「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年9月10日火曜日
誰に向かって「銃乱射事件を許さない」と言っているのか?
アメリカ社会が「銃乱射事件を許さない」という点では意見が一致しているにも関わらず、銃の規制では対立するのは、言うまでもなく、乱射事件が頻発する原因を、「銃の氾濫」という「社会の問題」と捉える人間と、「乱射犯人の異常性」という「個人の問題」と捉える人間の、二種類の人間がアメリカ社会に存在し、対立しているからだ。
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アメリカが世界でも突出した「銃社会」であることは、子供でも知っているこの時代の「地球の常識」である。子供といえば、家族で回転寿司に行って、卵を食べた長男だけが食中毒になったら、食中毒の原因はまず間違いなく卵だろう。同様に、銃が氾濫した「文明国」で銃乱射事件が多く、銃が氾濫していない「文明国」で銃乱射事件が少ないのなら、銃乱射事件の多さは、当然、銃の氾濫にあるとか考えていいはずだ。原因を特定する際に注目すべきは「違い」だからだ。この道理が、アメリカの銃乱射事件の頻発の原因を犯人個人だとしたがる連中には見えないのか、見ないようにしているのか、見えていて敢えて棚上げにしているのか? ともかくここで最初の「バカはほっといて、この世の終わりまで身内で撃ち殺しあってろ」と言いたくなる衝動が湧き上がるわけだが、今はぐっとこらえて、話を先に進める。
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銃社会アメリカには、家庭の戸棚や引き出しに、あるいは薬局や酒場のカウンターの裏に、拳銃やライフルが置いてあることに何の違和感も持たない人間が、地球上の他のどの「文明国」と比べても桁違いに多いのだろう。一言で言えば、アメリカは世界一「銃に慣れている」人間が多い国なのだ。しかし「慣れている」と「鈍感」は表裏一体である。だからこそ、銃規制のような[正解が初めから分かっているようなこと]で、国を二分するような対立が起きてしまう。
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「銃に慣れている」人間にとって、「銃の氾濫」は「自動車の氾濫」程度の問題でしかないので(=普通のことなので)、当然、銃乱射事件の根本原因は、銃乱射事件を起こした犯人にあるということになってしまう。ちょうど(「銃に慣れている」アメリカ人と同じように)「自動車に慣れている」地球上のあらゆる「文明国」の市民たちが、自動車による死亡事故の根本原因を「自動車の氾濫」にではなく、死亡事故を起こした個々の運転手や個々の自動車や個別の状況に求めるのと同じ構造だ。そこにまで思いが至れば、一部アメリカ人の「銃の氾濫に対する鈍感ぶり」も、殊更異様なことだとも思えなくなり、先に言った「この世の終わりまで身内同士で撃ち殺しあってろ」と言いたくなる衝動も多少は治まる。所詮、同じ穴の狢、というわけだ。
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大抵のことに人間は慣れてしまうし、一旦慣れてしまえば「異様」は「普通」になり、まさかそれが今目の前で起きている問題の根本原因だとは思えなくなる。これは人間の「半合理主義」(←半分だけ合理的になって、どうせ最後は死ぬだけの自身の生涯の無意味さを曖昧にする主義)の弊害だが、人間は人間である限り、この主義を乗り越えることはできないので、ココをどうこう言っても始まらない。
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はっきりしているのは、銃乱射事件を起こすのは、[それが職業というわけでもないのに、いざとなったら(自分の中で二進も三進もいかなくなったら)、(拳でも棍棒でも包丁でもなく)銃にモノを言わせようと思う人間]だということ。すなわち、銃規制に反対する者(=[市民から銃を取り上げること]に反対する者)は、それが自衛のためだと主張していたとしても、悉く、銃乱射事件を起こす可能性のある側の人間だということ(逆に言うと、社会から[個人所有の銃]をなくせと主張する者は、いざとなっても銃には頼らないつもりの者たちだ)。仮に、銃の攻撃から身を守る「抑止力」として、銃を所持しているのであって、自分は決して銃で人は殺さない(殺そうとしない)と主張する者があったら、彼らに、本物と見分けのつかない、しかし殺傷能力はゼロの精巧なモデルガン(たとえば空砲しか撃てない拳銃)の所持を提案してみればいい。その提案は必ず拒否されるだろう。[銃規制に反対する]とは、つまりはそういうことなのだ。いざとなったら実際に誰かを撃ち殺すつもりがある(撃ち殺しても「許される」と思っている)からこそ、銃を持っていたい。そういう人間にとっては、実際に殺傷能力がある銃でなければ、所持している意味などない。
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もちろん「自分が殺されるくらいなら相手を殺すべき」は、生命現象の根本原理である。「黙ってやられるくらいなら、先に相手のやっちまえ」ルールは、人間が生命現象である限り否定できないし、排除もできない。しかしだからこそ、人間に銃など渡してはダメなのだ。「いざとなったら誰かを殺す」という本性を人間から取り除くことは不可能(それがソモソモの本性の定義だ)。しかし、そういうふうにアタマに血が上りがちの存在である人間に与える「手段=道具」は、選ぶことも制限することもできる。「手段=道具」は、人間の本性には属していない「外部」だからだ。そして、与えられる「手段=道具」としての銃は、その殺傷能力の高さ(逆に言えば、お手軽さ)ゆえに問題なのだ。それを使えば、誰もが手軽に誰かを大量に殺せてしまえる。
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更にここで気づかなければならないのは、銃乱射事件を起こすのは、必ず「自分には他の誰かを銃で撃ち殺すだけの/当然の/やむにやまれぬ理由がある」と考える人間だということ。イカれていようと「正常」だろうと、銃乱射事件の犯人達は、間違いなく「自分が大切だと思うモノを守るために」他人を撃ち殺している。銃規制に反対する者の考え方と全く同じである。ことによると、銃乱射事件の犯人たちを突き動かすのは、犠牲的精神ですらあるのかもしれない。自ら無法者として裁かれ殺されるコトを覚悟の上で、「大切なもの」を守るために「凶行」に及ぶわけである。であるなら、そこにあるのは悪意どころか、悲壮的な善意である。やれやれ、ここでも人間の半合理主義が祟ってる。
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銃規制に反対する者は、悉く、銃乱射犯予備軍だと見做して構わない。しかし、だからと言って、ただちに全員を牢屋ヘぶち込めというのではない。彼らは、人間存在に対する認識が単純で、「善人」や「悪人」などという[定義が曖昧で幼稚な概念]を用いて社会を理解し、全ての「犯罪者」が、彼ら自身にとっての「正当な」「理にかなった」「他の何よりも重要な」「止むに止まれぬ」理由で「犯行」に及ぶのだということも洞察できないが、それ以外は、我々と変わることのない善良な市民だ。
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自動車事故がそうであるように、銃乱射事件も人間自体の制御を試みてもなくなりはしない。自動車事故に関して言えば、人間社会はそれが一定程度発生することを「受け入れて」いる。自動車そのものは社会から排除せず、人間の振る舞いによって自動車事故を回避しようとするなら、そうする(受け入れる)他ないからだ。しかし、銃乱射事件はどうか? その発生を、自動車事故並みに「受け入れる」ことは、殆どの人間や社会にとって悍ましいことであるはずだ。自動車事故だって、できればゼロにしたい。しかし、銃乱射事件は、「できれば」ではなく、是が非でもゼロにしたいはずだ。なら、人間をどうにかしようとしてもダメで、銃をなくすしかない。なんと言っても、ないものは使えないのだから。(ちなみに、乱射殺人は故意だが、交通事故殺人は過失であり、同列に考えるべきではないと思うなら、とんだお人好しである。飲酒運転、スピード違反、あおり運転、過積載、信号無視などはもちろん、たとえ交通ルールを守って制限速度で走っていても、生身の人間がウロウロしているすぐ横で1トン前後の重量物を、猛烈な速さで動かしているのは、ショッピングモールの真ん中で誰もいないところを狙って水平に拳銃をぶっ放してるのと変わらない。これで誰か死ねば、表面上は過失でも、実質は故意である。)
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もう一度言おう。[いざとなったら撃つ]人間だけが銃乱射事件を起こす。そして、それは大抵ごく普通の善良な人間だ。銃乱射事件を起こす可能性があるからと言って善良な人間をあらかじめ社会から取り除くことはできない。だから、銃の方を社会から取り除くのである。
銃規制に反対する者たちの意見を聞き入れることは、銃乱射事件の犯人の云い分を聞き入れることに等しい。銃乱射事件を許さない立場なら、銃規制に反対する者たちの意見は無条件で退けて構わない。
また、銃規制に反対を表明することは、自分が銃乱射事件の犯人予備軍であることを表明するのに等しい。だから、銃規制には反対しつつ、しかし銃乱射事件は許さないと表明するのは、銃規制反対者とはすなわち銃乱射事件犯人予備軍という構造に気づかないほど、自分は愚かなのだと表明するのに等しい。
2019/09/10 アナトー・シキソ
ひとつ言い忘れた。
銃の所持や射撃は、たとえばラジコンヘリを蒐集したり飛ばしたりすることと同じで、趣味=道楽の一つだと主張する輩には、他人の道楽のために自分の子供が殺されるのはごめんだと言えば充分。また、銃の所持や射撃は、古くからの守るべき伝統だと主張する輩には、チベットの鳥葬だって、日本の晒し首だって伝統だった。ヨーロッパの決闘もそうだ。そうそう、世界中にある「名誉殺人」の類は悉く伝統だ。「女は家庭を守るもの」も伝統だったし「父親の意見は絶対」も伝統だった。「結婚相手は親が決める」も「赤ん坊にハイハイをさせない」も「殺した敵部族の脳を食べる」も伝統だった。伝統は必ずしも[守り続けるに値するもの]ではない。むしろ、何かが行われ続けているとき、その理由が「伝統だから」の一つきりなら、その「真価」を問い直してみるべきだ。アメリカの「伝統」である「個人の銃の保持」は、はた迷惑という点で、「名誉殺人」の伝統とどう違う?