人間の多くが誤解している。科学の真の目的は、この存在宇宙の理(ことわり)を解き明かすことではない。それは単なる過程。料理で言えば、「下ごしらえ」。
この存在宇宙の理の全てを解き明かせば、この存在宇宙の全てを制御することができるだろう。しかし、この「存在宇宙の全てを制御すること」もまた、科学の真の目的ではない。やはり、単なる「下ごしらえ」。
科学の対象が、存在宇宙ではあまりに広大無辺でイメージが湧きにくいだろうから、対象を「身の回りの自然」に限定してみよう。
人間は、科学によって、身の回りの自然を理解し、それを制御する。これは一般に、「生活を豊かにするため・便利にするため」などと言われるが、それは「微妙に間違った理解」だ。
例えば人間は、「コーヒーミルは珈琲豆を挽くための道具だ」などと理解している。しかし実はこれも、微妙に間違った理解。コーヒーミルは珈琲豆を挽くための道具ではない。コーヒーミルは珈琲を淹れるための道具だ。物事の本質を正しく理解するとはこういうことだ(ついでに言えば、そして、今はこれ以上は進まないが、所謂「科学の悪用」は、この「コーヒーミルは珈琲豆を挽くための道具」の類の「理解」の延長線上にある)。
科学が「生活を豊かにすること」や「生活を便利にすること」は、「珈琲豆を挽いて粉にすること」に相当する。君は、粉になった珈琲豆を眺めたり嗅いだりするために、豆を挽いたのではないはずだ。その先に「真の目的」があるからこそ、君は、コーヒーミルのハンドルを回した。
目先の理解を超えて、本質を理解すれば、科学によって自然を制御する行為は、「身体の拡張」に他ならないことに気づける。科学的に「ハダカ」の人間が制御できるのは自身の身体(の一部)のみ。科学で「装備」を強化していくごとに、人間は制御可能な範囲を拡げていく。即ち、身体の拡張である。
知性にとって、制御可能な物理現象は、自身の「媒体」と見做せる。科学とは、宇宙それ自体を、自身の「媒体」として取り込むために知性が用いる「道具・武器」。よって、科学の真の目的は、存在宇宙それ自体まるごとを、当該の科学を用いる知性現象の「身体=媒体」にしてしまうことだと言える。
(『人間の終わり』抜粋)