2022年の映画。75歳以上の人が安楽死を選べる法律が成立した日本のお話。主演は倍賞千恵子。子供のいない78歳の単身者という設定。
途中までは、抑えた表現できっちり作られたリアリティのある映画という印象だったが、主人公がPLAN75の施設に入ってから急に嘘っぽくなった。輒ち、①PLAN75の施設のセキュリティが、いくらなんでも、甘すぎる。②男子キャラが「突然」、フィリピン人(?)女性キャラの助けを借りて、叔父さん(伯父さん)の遺体を施設から盗み出す。
①について:PLAN75のような「きわどい」制度を実施している施設は、所謂「過激な反対派」の標的になる危険性が高い。また、安楽死を選んだ老人たちの中にも、土壇場になって思い直したり、急に怖くなって、突発的に施設から「逃亡」する者も出てくるかもしれない。要するに、普通の病院以上の「想定外の騒動」が起きやすいはずの施設。にもかかわらず、男子キャラがポッと思いついて施設に戻ったら、そのままスルスルと、今まさに安楽死している老人たちのいる区画にまで入り込んでしまえる。あそこでやってることは、実質、〔当人同意の上の「死刑」〕なのだから、実態としては「処刑場」と同じなのに、「部外者」が普通の小学校より簡単に入り込めるって、どういうことなんだろう?
②について:男子キャラが、突然、叔父さん(伯父さん)の遺体を盗みだしたときには、最初、面食らったが、よくよく考えたら、ちゃんと「伏線」はあった。男子キャラが、火葬設備が故障した旨をいろいろなところに電話連絡している場面。あそこで、男子キャラは、PLAN75で火葬された遺体の遺灰が共同墓地に埋葬されているのではなく、民間の産廃業者に引き渡されているらしい事を知る。つまり、男子キャラは、叔父さん(伯父さん)の遺灰が産廃業者に「回収」されるのが許せなかった。ちゃんと埋葬したかったので、叔父さん(伯父さん)の遺体を施設から盗み出して、外部の火葬場で焼こうとしていたのだ。
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作品の立ち位置は〔本当は望まないのに、いろいろなめぐり合わせで、安楽死=PLAN75を選ぶ事になってしまう老人たち〕や、その身内や身近な人への「寄り添い」。PLAN75のような仕組みを〔待ち望んだ「救済」〕と捉えている人たちの目線は基本的に描かれていない。
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映画のオープニングで描かれているような老人襲撃事件の続発が、PLAN75成立を後押ししたというのは、なにか違う気がする。「若い」世代の「穀潰しの年寄りはさっさと死んでくれ」という「本音」を「合法化」するというのは、例えば、移民や少数民族や異教徒への襲撃事件が後を絶たないから、移民や少数民族や異教徒に対して〔自発的な国外退去〕を勧める法律を作るようなもので、不穏臭しかしない。というのは、その究極として最も有名なのが、ナチスドイツの〔「合法的」なユダヤ人対策〕なわけだから。逆に言えば、だから、この映画は、PLAN75という制度を、ナチスドイツのユダヤ人対策の系譜として捉えているのだろう。要は「姥捨て」なのだ。「姥捨て」は、飽くまでも、捨てる側の便益のための仕組み。しかし、もしもこの21世紀の民主主義国で本当にPLAN75に類するものが成立するなら、それは必ず、当事者(死んでいく老人たち)にとっての「救済」として登場するしかない。だから、PLAN75を成立させることになった大きな理由は、「老人に対する襲撃事件が続発したから」ではなく、「老人たちの自殺が不穏なほど急増したから」でなくてはならない。
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追記:この作品を最後まで見たときに感じる妙な違和感の正体が分かった。この作品は、PLAN75に反対している人たちは暴力的なことや過激なことはしない、と決めつけている。それが違和感の正体。PLAN75の成立の「後押し」となった老人襲撃事件を起こした連中の類が施設に押しかけてくることはない。なんせ、彼らの「望み通り」老人たちを「殺して」くれている施設だから。しかし、老人の家族(←老人の安楽死に反対している)に依頼された弁護士や、過激な反対派や、面白半分のYouTuberが押しかけてくることはあり得る。だから、件の施設には、それなりのセキュリティや警備が必要なはず。
それまでのキッチリした展開とあまりにも違っていて、まるで、打ち切り漫画の最終回みたいな終わり方。