2024年4月27日土曜日

『光る君へ』第16回「華の影」の2周目を観ているときに思った。道兼(レオくん)が、疫病患者の「治療」施設へ出かけていったのは、「疫病のモト」(患者の身につけていたもの、患者自身、あるいは道兼自身が感染者となる、など)を内裏に持ち込んで、疫病を感染させて「関白の首を取る」つもりなんだ、と。

あと、今回のエピソードのタイトルは、道長に第三の女の存在を確信し、不穏なホホホ笑いをする黒木華さんの「華」もかかってるのかな、とか。


2024年4月25日木曜日

「猫の缶詰」で思う日本語

猫の糞の始末をしているとき、ふと思った。


「猫の缶詰」は、「猫用の缶詰(この場合、猫の餌の缶詰)」と「猫の肉が入った缶詰」のどちらの意味にも取れる。しかし、今(西暦2024年)の日本で、「猫の缶詰」と言えば、「猫の餌の缶詰」一択である。逆に(逆に?)、今、この日本で、「牛の缶詰」と聞けば、大抵が「牛の餌の缶詰」ではなく、「牛の肉の缶詰」だと思うはずだ。牛を飼っている者は少ないし、だから、(仮に実在したとしても)「牛の餌の缶詰」など思い浮かぶはずもないからだ。


ところが(ところが?)、ほんの半世紀ほど前のこの日本には、飼い猫に「缶詰の餌」を与える習慣などなかった(多分)。「残飯」だの「おすそ分け」だのが、飼い猫の餌の「主力」であり、足りない分は、猫自身が自前で獲物を調達していたものだ(放し飼いが多かった。サザエさんに追われる「お魚くわえたドラ猫」は、野良猫ではなく、どこかの家の飼い猫である可能性がとても高い)。なので、飼い猫と謂えども痩せていたし、今ほど長生きもしなかった。


つまり(つまり?)、飼い猫に猫専用の缶詰の餌など与えたことのない「高齢者」たちは、「猫の缶詰」と聞けば、高い確率で、一旦は「猫肉の缶詰」を想起し、直ちに「いや、このお方は、猫の餌の缶詰のことを言っておられるのだろう」と考えなおすに違いないのだ。きっと。


そしてまた、近い将来か遠い未来、人造肉が完全に一般化して、牛の肉を食べるなどということが、敵部族の捕虜の頭を開いて、その脳みそを食べるくらいの感覚になった子孫たちにとって、「牛の缶詰」もまた、その意味するところは「牛の餌の缶詰」一択にならないとも限らない。


だが、しかし(だが、しかし?)、この戯書(ざれがき)の目的は、「猫の缶詰」や「牛の缶詰」について語ることではない。日本語が持つ「相手は当然自分と同じ感性/だから、言わなくても察してくれる/だって、同じ日本人なんだから」的な「癖(へき)」に対する危惧を表明したかったのだ。この日本語の「癖」は、まるで、幼児が、その場の大人たちは誰一人として知らない「たかし君」のことを、「きのう、たかしくんがねえ」と話し始めるアレそのまま。


価値観の細分化とか、多様性とか、やんやん言ってるこのご時世、日本語の「きのう、たかしくんがねえ」的な、「聞き手の察し力頼み」な「話法」は、(芸術表現の場以外では)気をつけたり、謹んだり、改めていく必要があるなあ、と、そういうハナシ。


(2024年4月25日 穴藤)


人生の四季

2019年に放送されたテレビ番組。玄冬は来なかったね

2024年4月22日月曜日

そういえば観たことないなと思って、キューブリックの『EYES WIDE SHUT』を観た。江戸川乱歩だった。

2024年4月21日日曜日

『光る君へ』第15回「おごれる者たち」:メモ

『光る君へ』第15回「おごれる者たち」を観た。


一番盛り上がったのは、〔道隆の息子〕と道長の「弓比べ」の場面。それぞれが願い事を言ってから弓を射るアレって、クーパー特別捜査官が夢の中でチベット人から教わった捜査法を保安官たちの前で実践した場面とまるで同じ(ハリー「クーパー、ちょっといいか。これは本当に夢で教わった方法なのか?」 クーパー(嬉しそうに)「そうなんだ!」)。つまり、バカバカしいと思いつつも、いざ「結果」が出ると、割とみんなが本気にしちゃう。「決定的な結果」が出る直前に道隆が「弓比べ」を止めさせたのは、人は、意識的にも無意識的にも、「占い」が示したことを実現する方へと動くことを、道隆自身がよく知ってしていたから、「こりゃいかん!」と。


あとは、貞子に「一目惚れ」する清少納言もよかったけど、やっぱり、最後の〔相手を間違えた夜這い〕。「この上悲しむおなごと作ることはできぬ、まひろ、あ、さと」「さわにございます!」だろうなあ。


2024年4月20日土曜日

中島みゆきの「アザミ嬢のララバイ」の「アザミ嬢」って、フェリーニの『道』の「ジェルソミーナ」から来てるのかな?

『アンチヒーロー』第1回:メモ

二匹目のドジョウ:『アンチヒーロー』第1回を観た。

で、ふと思った。

真犯人は被害者の奥さん。岩田剛典は身代わりを買って出た。奥さんが刑務所に入ったら子供は孤児になるから。

長谷川博己は、「無実」の岩田剛典(岩田剛典が被害者を殺したという〔直接の証拠〕は何も無い)を「法的」に殺人犯にしなければそれでよい。犯人探しには興味がないし、事件を解決したいわけでもないので、事件の真相(奥さんが真犯人)に気づいていても、知らん顔をする。つまり、〔犯罪者=法を犯した者〕を罰する気などサラサラない弁護士。だから、「アンチ・ヒーロー」。

もしかしたら、緒形直人も、誰かをかばって殺人の罪を被ったのかもしれない。で、それを知っているのは長谷川博己だけ。

しらんけど。

(2024年4月20日 穴藤)




 

2024年4月19日金曜日

【読書抜書】

▼武漢の人口は1100万人以上で、その人口密度は、ロンドン、パリ、ニューヨークよりも高い。(p. 21)

▼「手術」「化学療法」「放射線療法」は、医師の間では「切る」「毒を盛る」「焼く」と言われている。(p. 36)

(ジョン・ミラー著『mRNAワクチンの衝撃』)

2024年4月18日木曜日

長期連載漫画や、続編が作られ続けるドラマや映画には、どうしても必要になる時が来る「後付け設定」。中には、相当にいい加減なものや、あからさまに行き当たりばったりなものがあるけど、キリスト教の「成功例」を知っているので、作り手はみんな平気だ。

Prime Video経由のMTVで観れる『サウスパーク』(〜シーズン23)は、今日で全部観たので、MTVは一旦解約した。仮にシーズン24が配信されたら、また契約するだろうけど。

2024年4月14日日曜日

「元通訳」の「イッペイくん」は、『サウスパーク』でネタにされそう。いやきっと。

2024年4月12日金曜日

水木さんの『マンモス・フラワー』という作品(の3ページ)で既に、21世紀になってGraeverによって叫ばれる「ブルシット・ジョブ」が語られている。更に、最終ページでは「ベーシックインカム」についても言及される。流石ですなあ。

2024年4月10日水曜日

ネット上で見つけたちょっとした情報(テレビ番組の放送日とか、コンビニの新商品とか)を、メモ代わりにデバイス上で「共有」しようとしてウマくいかず、イライラしている時に、もう一人の自分から「そこにある紙切れに、そこにある鉛筆でメモすれば済むことじゃないの?」と言われ、ハッとする。

2024年4月8日月曜日

それは、最初の「死」

 

『ブレラン』の祟り

教授の「電子音楽家」としての最高傑作『未来派野郎』に限ってサブスク等で全く目にしない理由が、実は、『ブレードランナー』の「祟り」だということに、ついさっき気づく、この迂闊。

納得できたので、CD注文した。

坂本龍一の母方の姓にひっくり返る

NHKスペシャル『The Last Days 坂本龍一 最期の日々』を観た。40年目にして初めて坂本龍一の母方の名字を知り、驚いた。「遠い親戚(なのかもしれん)やん!」、と。

思えば40年前、FMラジオ番組(サウンドストリート)宛に、サインを要求する色紙を送りつけたとき、ちゃんと直筆サイン色紙が送り返されてきたのは、もしかしたら、返送用封筒に書いてあった名字のおかげだったのかもしれない。なぜなら、私の真似をして同じように色紙を送った友達には、非礼を戒めるメモだけが送り返されてきたので。

それにしても、死ぬ一時間前の映像までも、死後にテレビで「晒す」のって教授らしいよね。そのつもり(死後「晒す」つもり)で、動画も撮らせているし、多分、日記も書いてる。それが坂本龍一という人間だという認識。

2024年4月6日土曜日

『スイート・マイホーム』:メモ

斎藤工監督『スイート・マイホーム』を観た。同じ斎藤工監督作品で、リリー・フランキーがカレーを作る短編映画(?)を少し前に観て好かったので、それで。主演は窪田正孝(『アンナチュラル』のロクローの人)で、原作はあるらしいけど、読んでないし、読まない。

(以下ネタバレあります)

「事件」の「真犯人(?)」を一級建築士の女の人だと「誤解」すると、この映画はポカンとなる。そんなの最初からずっと「バレバレ」なので、「そのままかよ!」と、「間違って」怒っちゃったりするかもしれない。

ケンジ(窪田正孝)の兄=聡(窪塚洋介)の「奴らはそこら中にいる」が全て。要するに、これは『Twin Peaks』の「BOB」的存在(〔悪意・殺意・狂気〕の権化)が、「油断」した隙に家庭(スイート・マイホーム)に入り込む話。

この映画でBOBは複数(というか無数に)存在していて、ケンジが「最初」に殺した父親(竹中直人)にも「取り憑いて」いて、一級建築士の女の人にも「取り憑いて」いて、最後には、ケンジの嫁にも「取り憑いた」。また、兄の聡(さとる)には、BOBが見えていた。

もしかしたら、最初にBOBの「宿主=父親」を殺してしまったがために、生涯BOBにつきまとわれることになった男(ケンジ)の話なのかもしれない。或いは、そもそもケンジが、「BOB寄せ体質」なのかも。この映画では小さい子供にはBOBの姿が見えているように描かれている。つまり、「殺意」や「狂気」の「象徴」ではなく、犬には嗅ぎ取れる「匂い」のように、子供(と引きこもり)には見える「ナニカ」として描かれている。


本筋とは関係ない話。

ケンジの嫁が白子を取り出すのに魚をさばいている場面で、腹を割かれて中身を全部取り出される魚の顔が、割り合い長い間、画面に映し出される。あの死んだ魚の「顔」が好かった。無力感とか絶望感とか、あるいは達観とか、そういうものが全部出ている顔だった。で、「顔」つながりで言うと、主要な登場人物がみんな、この魚みたいに、顔のドアップを撮られて、シワだのホクロだの小さいイボだのテカリだの眉毛の生え方だのを高精細画面に「晒されて」いた。どちらも斎藤工の「変態性」が出ていて好かった。斎藤工って、変態だよね(褒め言葉)。映画監督、向いてるんじゃないかなあ。

2024年4月1日月曜日

『anone』の不穏

『anone』(日テレドラマ)の主題は、「無理にツラい事実(生物学的な親子、実際に起きたことなど)を生きなくても、幸せなフィクション(赤の他人どうしの家族、嘘の記憶、幽霊など)を生きればいい」。と考えると、青い服の主人公が風車を見上げるワンカットが、よりよって最後の最後に出てくるのが物凄く不穏


追記:ナカセコくん(瑛太)の「自分で作った偽札で生きる=誰かの決めたルールでは生きない」も、事実ではなくフィクションを生きるということになるのかな?