2024年7月20日土曜日

the sales talk(二枚舌がバレバレの、下手くそセールスマンの)

「糖質ゼロ」ビールの行き着く果ては、「ビールを飲んだ体験のデータ」を脳に送るサービス。

因みに、「一番搾り糖質ゼロ」のTVCM(豊川悦司)を観た直後に、「普通」の「一番搾り」のTVCM(岸谷五朗・志尊淳)を見せられたときには、ビール商売の「不毛さ」や、ビール会社の「節操の無さ」「信頼の置けなさ」に失笑してしまった。

顧客の健康のためには「糖質ゼロ」の方が良くて、しかも、味は「普通」と同じだというなら、「普通」の「一番搾り」なんて、一刻も早く製造販売を止めてしまえばいいのに。TVCMなんか、もってのほかでしょうよ…と。


2024年7月13日土曜日

「水ダウ」で"the psycopath"を観た

昔、不義理を働いてしまった「恩人」に十年後しの謝罪に行ってブチギレられる、今週の(2024.07.10)「水曜日のダウンタウン」の説で、二人目に出てきた、謝罪する側の芸人(名前忘れた)が、”the psycopath”で笑った。「恩人」のぴんくさんが、その芸人(名前忘れた)のpsycopathぶりを、ちゃんと、見透かしているところも好かった。と言うか、あそこまで分かり易いpsycopathはなかなかいないので、あの映像は、そういう手の資料として残しておくといいかも。生徒や学生や子供に「サイコパスってどんな人ですか?」と訊かれたときに、「こういう人ですよ」と言って見せるのにウッテツケ。

2024年7月10日水曜日

UFO HOUSE


 

「Next up」の消し方

【memo】AmazonのPrime Videoを観ている時、終わり近くに画面の右下に出てくる、鬱陶しい「Next up」の小窓の消し方:小窓の中の再生ボタンのあたりにカーソルを持って行き、クリックはしないで、キーボードの方向ボタンの「←」か「→」を押す。

2024年7月8日月曜日

何度でも、「アンドロイドは電気羊の夢を見ない」と言う

さっき観た「世界サブカルチャー史:サイバーパンク編」で、(まあ、極当然だけど)『Blade Runner』への言及があり、例の「Deckardは人間か?それともレプリカント(人造人間)か?」問題も紹介された。それでまた思い出して、前にも考えたことをまた考えてみた。


(先に言っておくと、歴史(年表)的価値以外には、もはや顧みる必要のない作品(その点で、ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』と同じ)だと思っている人間の言うことなので、「ブレラン」信者は、この先を読んでも、きっと時間の無駄ですよ)


さて、「Deckardは人間か?それともレプリカントか?」を考えるときに、一番わかり易い方法は、舞台を19世紀(18世紀?)アメリカ南部にして、「人間」を「白人」、「レプリカント」を「黒人奴隷」に置き換えてしまうこと。そうすれば、Deckardが人間なのかレプリカントなのかで、映画のラスト(DeckardがRachelと「駆け落ち」する)の意味合いが根本的に違って、だから、勿論、映画の主題(というかnuance)も根本的に変わってしまう。あとは「そのどっちが自分の好みか?」というだけの問題になる。


①「Deckardは人間」と考えた場合:映画のラストは、白人男性が、恋に落ちた黒人奴隷の女性を連れて、南部を逃げ出す話。


②「Deckardはレプリカント」と考えた場合:自分も黒人奴隷だと気付いた(同僚によって気付かされた)男性が、同じ黒人奴隷の女性を連れて南部を逃げ出す話。


まあ、「アメリカ南部」と「白人」と「黒人奴隷」を、例えば「第二次大戦中のドイツ占領地」と「ナチ党員」と「ユダヤ人」にしても同じなのだが、要は、①は「出自を超越した男女の逃避行」で、②は「同じ出自の男女の逃避行」ということになり、根底が違うお話になってしまう。


最初はRidley派(Deckardはレプリ)だった私が、或時からHarrison派(Deckardは人間)に乗り換えた理由は、①の方が、主人公の「人間性」が広くて大きいものとして受け取れるから。②の方は、その行動からだけでは、〔出自を超越した価値観〕の持ち主なのか、それとも、偏狭な〔「我々と彼ら」主義者〕なのかが分からない(因みに、あの目も当てられない「続編」は、ガッツリと、この「我々と彼ら」の話)。主人公が最後に取った行動が、その作品の主題だと考えているから、当然、①の方が、私にとっては「好い映画」ということになる。だから、Harrison派になった。


ところで、映画(『Blade Runner』)と原作小説(『Do Androids Dream of Electric Sheep?』)では、レプリカント(アンドロイド)に仮託されたものが「真逆」になっている(のは、どちらも知っているヒトには有名な話)。


映画の「レプリカント」が、〔人工物でありながら、全ての人間を超越しうる潜在能力を持った、或る種の「超人」〕として描かれている一方で、原作小説の「アンドロイド」は、一見、あらゆる点で人間を超越した能力を持っているように見えて、しかし、人間にとって最も重要な能力(共感力=他者に感情移入する能力)を決定的に欠いた、「人間の出来損ない」として描かれている。


もっと広い目線で言い換えると、映画版は、そもそも人間というものは全員ダメだという立場。だから、登場する人間のキャラクターは皆、病気持ちのような顔をしているし、Sebastianはしっかり難病を患っている。自然淘汰の行き当たりばったりでなんとなく出来上がった〔天然の人間〕より、一人の天才(Dr. Tyrell)によって〈ちゃんと〉作られた〔人工の人間(レプリカント)〕の方が、〔より完全な人間〕なのだから、本当なら、最低でも人間と同等に扱われてもいいはずなのに、その出自だけを理由に、差別を受け、虐げられている、という作品思想。一方、原作小説版は、人間一般に対してそんな絶望はしてない人間は、細々した欠陥を持つ、弱い存在で一向に構わないのだ。しかし、そんな人間の中にも、或る独特の冷徹さや邪悪さや無関心さを持った、掛け値なしにタチの悪い者たちが存在している。人間そっくりだが、根本が人間とは違う連中だ。そんな「人間未満」の連中を「人間ならざるもの」輒ち「アンドロイド」として描いている。


映画版のレプリカントは、謂わば「Posthuman」なのだが、小説版のアンドロイドは「未熟な人間」「体だけ大人になった邪悪で小賢しい子供」、所謂、ゴリッゴリの「サイコパス」のことなのだ(だからこそ、昔の早川SF文庫版の表紙絵はアレなのだ。アレが「分かる・分からない」が小説版の最重要なテーマだから)。


(2024年7月6日 穴藤)


YMO:メモ

 


2024年7月6日土曜日

「口裂け女」の「正解」

たまたま映ったテレビ番組で「口裂け女」を取り上げていた。マスクをした赤いコートの若い女が「私、キレイ?」と訊いてくる都市伝説のアレだ。こちらが気を使って「はい(キレイです)」と答えると、「これでもキレイ?」とマスクを外して、耳まで裂けた口を見せられ、不快な思いをする。かと言って、「いいえ(ブスだよ)」と答えると、鎌を手に追い回され、更に困ったことになる。どちらを答えてもダメなので、正解がないと思っていたのだが、実は、あった。


ということを、この〔たまたまほんの少しだけ観たタイトルも局も知らない番組〕で知った。つまりこうだ。


番組に出演していた漫才師の錦鯉のそれぞれが、口裂け女の「私、キレイ?」に大喜利的に答えを返すことになった。まさのりさんは、例によって例の如く、全員の予想通りの「こんにちわ〜」だったのだけど、次に答えたたかしの答えが、「笑点」の歌丸さんばりの「口が裂けても言えません」だったのだ。最初はテレビの前の自分もただ「うまいねえ〜」と面白がっていたけど、ハタと気づいた。ウマイとか、歌丸さんみたいとかじゃなく、そもそも、これが「口裂け女」の「正解」、輒ち「オチ」なのだ!


きっと、「口裂け女」は、元々、『古畑任三郎』の「赤い洗面器の男」のような「ダジャレ小噺」だったのだ。それが、どこかでどうにかなって、〈本当〉の「恐怖の都市伝説」になってしまった。でも本当は、「むこうの空き地に囲いができたね」「へえ〜」(志ん生)の一族なのだ。


「21世紀になって解明された20世紀の謎」のリストに一行加えられた気分。無論、確認はしない。調べもしない。これが正解で、もう済んだ。


(2024年7月5日 穴藤)