さっき観た「世界サブカルチャー史:サイバーパンク編」で、(まあ、極当然だけど)『Blade Runner』への言及があり、例の「Deckardは人間か?それともレプリカント(人造人間)か?」問題も紹介された。それでまた思い出して、前にも考えたことをまた考えてみた。
(先に言っておくと、歴史(年表)的価値以外には、もはや顧みる必要のない作品(その点で、ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』と同じ)だと思っている人間の言うことなので、「ブレラン」信者は、この先を読んでも、きっと時間の無駄ですよ)
さて、「Deckardは人間か?それともレプリカントか?」を考えるときに、一番わかり易い方法は、舞台を19世紀(18世紀?)アメリカ南部にして、「人間」を「白人」、「レプリカント」を「黒人奴隷」に置き換えてしまうこと。そうすれば、Deckardが人間なのかレプリカントなのかで、映画のラスト(DeckardがRachelと「駆け落ち」する)の意味合いが根本的に違って、だから、勿論、映画の主題(というかnuance)も根本的に変わってしまう。あとは「そのどっちが自分の好みか?」というだけの問題になる。
①「Deckardは人間」と考えた場合:映画のラストは、白人男性が、恋に落ちた黒人奴隷の女性を連れて、南部を逃げ出す話。
②「Deckardはレプリカント」と考えた場合:自分も黒人奴隷だと気付いた(同僚によって気付かされた)男性が、同じ黒人奴隷の女性を連れて南部を逃げ出す話。
まあ、「アメリカ南部」と「白人」と「黒人奴隷」を、例えば「第二次大戦中のドイツ占領地」と「ナチ党員」と「ユダヤ人」にしても同じなのだが、要は、①は「出自を超越した男女の逃避行」で、②は「同じ出自の男女の逃避行」ということになり、根底が違うお話になってしまう。
最初はRidley派(Deckardはレプリ)だった私が、或時からHarrison派(Deckardは人間)に乗り換えた理由は、①の方が、主人公の「人間性」が広くて大きいものとして受け取れるから。②の方は、その行動からだけでは、〔出自を超越した価値観〕の持ち主なのか、それとも、偏狭な〔「我々と彼ら」主義者〕なのかが分からない(因みに、あの目も当てられない「続編」は、ガッツリと、この「我々と彼ら」の話)。主人公が最後に取った行動が、その作品の主題だと考えているから、当然、①の方が、私にとっては「好い映画」ということになる。だから、Harrison派になった。
ところで、映画(『Blade Runner』)と原作小説(『Do Androids Dream of Electric Sheep?』)では、レプリカント(アンドロイド)に仮託されたものが「真逆」になっている(のは、どちらも知っているヒトには有名な話)。
映画の「レプリカント」が、〔人工物でありながら、全ての人間を超越しうる潜在能力を持った、或る種の「超人」〕として描かれている一方で、原作小説の「アンドロイド」は、一見、あらゆる点で人間を超越した能力を持っているように見えて、しかし、人間にとって最も重要な能力(共感力=他者に感情移入する能力)を決定的に欠いた、「人間の出来損ない」として描かれている。
もっと広い目線で言い換えると、映画版は、そもそも人間というものは全員ダメだという立場。だから、登場する人間のキャラクターは皆、病気持ちのような顔をしているし、Sebastianはしっかり難病を患っている。自然淘汰の行き当たりばったりでなんとなく出来上がった〔天然の人間〕より、一人の天才(Dr. Tyrell)によって〈ちゃんと〉作られた〔人工の人間(レプリカント)〕の方が、〔より完全な人間〕なのだから、本当なら、最低でも人間と同等に扱われてもいいはずなのに、その出自だけを理由に、差別を受け、虐げられている、という作品思想。一方、原作小説版は、人間一般に対してそんな絶望はしてない。人間は、細々した欠陥を持つ、弱い存在で一向に構わないのだ。しかし、そんな人間の中にも、或る独特の冷徹さや邪悪さや無関心さを持った、掛け値なしにタチの悪い者たちが存在している。人間そっくりだが、根本が人間とは違う連中だ。そんな「人間未満」の連中を「人間ならざるもの」輒ち「アンドロイド」として描いている。
映画版のレプリカントは、謂わば「Posthuman」なのだが、小説版のアンドロイドは「未熟な人間」「体だけ大人になった邪悪で小賢しい子供」、所謂、ゴリッゴリの「サイコパス」のことなのだ(だからこそ、昔の早川SF文庫版の表紙絵はアレなのだ。アレが「分かる・分からない」が小説版の最重要なテーマだから)。
(2024年7月6日 穴藤)