2024年10月31日木曜日

「完全メシ」=「ベタベタメシ」になりつつある

2024年10月25日金曜日

或る姉弟についてのメモ

或る所に勝ち気な姉とぼんやりした弟がいました。

姉は、4歳下の弟を性のオモチャにして日々のウサを晴らしました。

弟は成長すると、少年を性のオモチャにする「怪物」になりました。

困惑した姉に弟は言いました。

「でも、今の僕を作ったのはお姉ちゃんだよ」

姉は人生をかけて「弟を守る」覚悟を決めました。

自分自身を守るために。


ジャニー喜多川とメリー喜多川を取り上げたNHKスペシャルを見てたら、こんなベタな妄想storyが心に浮かんだ。


とは言え、あの番組で一番怖かったのは、元フォーリーブスのおじさんを見たとき。「ジャニー喜多川、死んでないやん!」とか、思った。「ジャニー喜多川って、BOB(『Twin Peaks』)やアサクラ(『ケイゾク』)の類?」とか、思った。


(2024/10/25 穴藤)


2024年10月20日日曜日

『ベルリン・天使の詩』:メモ

喋りすぎ。


陳腐なmonologueを延々と聞かされて苦痛。ヴィム・ヴェンダースと言えば、小津安二郎を敬愛していることで有名らしいけど、いったい小津作品の何を観てんだろう? と本気で思った。


小津映画の醍醐味は、変哲のないセリフや振る舞いの背後から「聞こえて」くる登場人物たちの「心の声(当人も気づいてないかもしれない本当の気持ち)」を、観客それぞれが自分なりに感じられる点にある。しかし『ベルリン・天使の詩』では、観客は、登場人物たちの「心の声」を「実際の音声」として聞かされる(なにしろ、人間の心の声を記録する天使の映画だから)。観客が聞かされる他愛のないmonologueは、小津作品の登場人物たちのセリフとは違って、登場人物たちの「心の声」そのものなので、奥行きも裏も何も無い、もう、ただそれだけのもの。観客はひたすら、「ああそうですか」「でしょうね」と呟いてやり過ごすしかない。それが『ベルリン・天使の詩』を鑑賞する際の第一の苦痛。第二の苦痛は、映像作品としての「行間」のなさ。この作品はセリフ劇なので、映像には何の必然性もない。喩えるなら、本の「紙(page)」(本の紙は、白くても茶色でも、マット紙でもコート紙でも、書かれた内容には影響しない)。要するに、わざわざ映像を観る甲斐がないのだ。映画なのに。観る甲斐のない映像を見続けなければならない苦痛。


言葉だけでは到底表現しきれないものを映像と音声(の抑揚と間)を総動員して表現するのが小津作品で、本当は「気の利いた(もったいつけた)」言葉を聞かせたい(言いたい)だけなんだけど、映画なのでそれっぽい映像も撮って流します、というのが『ベルリン・天使の詩』。要するに両者は正反対。


楽曲をテレビや動画サイトで流すために作られる music video というものがあるけど、『ベルリン・天使の詩』は、謂わば「monologue video」。映像は方便。問題は(いや、大問題は)、monologue videoである『ベルリン・天使の詩』の肝心のmonologueが、とにかく陳腐なこと。楽曲がツマラナイmusic videoと同じで、鑑賞者は、ひたすら、忍耐を強いられる(今思いついたけど、だから、逆にセリフの全くない映画にすればよかったのかも)。


(2024/10/20 穴藤)


追記:『ベルリン・天使の詩』がこんな感じだったので、観ようと思っていた役所広司主演の『Perfect Days』を観る気が、すっかり失せた。



2024年10月16日水曜日

『光る君へ』#39「とだえぬ絆」:メモ

今回、前半では、「人を呪わば穴二つ)」で伊周(コレチカ)が息絶え、後半では、本場所の国技館並みに死亡フラグを立てまくった惟規(ノブノリ:まひろ君)が旅立ったのだけれど、それ以上に「衝撃的」だったのは、第二子を生んで藤壺に帰ってきた彰子さんの前に現れた敦康親王の「変わり果てた」御姿


あんた、誰?!


二人が極近距離で差し向かいに座っている様は、托卵された事に気づかずに、自分の何倍も巨大化した雛(カッコウ)に餌を与えている親鳥(ホオジロ)のように見えた。逃げて! いや、逃げないでいいから、騙されないで! と。


(2024/10/16 穴藤)