喋りすぎ。
陳腐なmonologueを延々と聞かされて苦痛。ヴィム・ヴェンダースと言えば、小津安二郎を敬愛していることで有名らしいけど、いったい小津作品の何を観てんだろう? と本気で思った。
小津映画の醍醐味は、変哲のないセリフや振る舞いの背後から「聞こえて」くる登場人物たちの「心の声(当人も気づいてないかもしれない本当の気持ち)」を、観客それぞれが自分なりに感じられる点にある。しかし『ベルリン・天使の詩』では、観客は、登場人物たちの「心の声」を「実際の音声」として聞かされる(なにしろ、人間の心の声を記録する天使の映画だから)。観客が聞かされる他愛のないmonologueは、小津作品の登場人物たちのセリフとは違って、登場人物たちの「心の声」そのものなので、奥行きも裏も何も無い、もう、ただそれだけのもの。観客はひたすら、「ああそうですか」「でしょうね」と呟いてやり過ごすしかない。それが『ベルリン・天使の詩』を鑑賞する際の第一の苦痛。第二の苦痛は、映像作品としての「行間」のなさ。この作品はセリフ劇なので、映像には何の必然性もない。喩えるなら、本の「紙(page)」(本の紙は、白くても茶色でも、マット紙でもコート紙でも、書かれた内容には影響しない)。要するに、わざわざ映像を観る甲斐がないのだ。映画なのに。観る甲斐のない映像を見続けなければならない苦痛。
言葉だけでは到底表現しきれないものを映像と音声(の抑揚と間)を総動員して表現するのが小津作品で、本当は「気の利いた(もったいつけた)」言葉を聞かせたい(言いたい)だけなんだけど、映画なのでそれっぽい映像も撮って流します、というのが『ベルリン・天使の詩』。要するに両者は正反対。
楽曲をテレビや動画サイトで流すために作られる music video というものがあるけど、『ベルリン・天使の詩』は、謂わば「monologue video」。映像は方便。問題は(いや、大問題は)、monologue videoである『ベルリン・天使の詩』の肝心のmonologueが、とにかく陳腐なこと。楽曲がツマラナイmusic videoと同じで、鑑賞者は、ひたすら、忍耐を強いられる(今思いついたけど、だから、逆にセリフの全くない映画にすればよかったのかも)。
(2024/10/20 穴藤)
追記:『ベルリン・天使の詩』がこんな感じだったので、観ようと思っていた役所広司主演の『Perfect Days』を観る気が、すっかり失せた。