「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2024年12月28日土曜日
2024年12月27日金曜日
2024年12月22日日曜日
『光る君へ』#48(最終回)「物語の先に」:memo
『光る君へ』#48(最終回)「物語の先に」:memo
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』全48話を無事「完走」した。おめでとう、ありがとう。
最終話は、[real timeの現場を描かない]演出にこだわっていた。道長の死も、乙丸の嫁の子も、いとさんの認知症発覚も、[既に起きてしまったあとのこと]として、視聴者に提示された。
特に秀逸だなあと思ったのは、道長の死の描写。倫子さんに頼まれたまひろさんが、初めて死の床の道長に会いに行ったときに、道長が布団の中から伸ばした左手を、まひろさんが握り、それで道長が心の底から安心する場面を先に描いているので、のちに、倫子さんが、布団から左手を出して事切れている道長を「発見」したときに、[道長がどうやって「一人で」死んだか]が、視聴者にはちゃんと分かるようになっている。輒ち、道長は、まひろさんが「続きは、また明日」と言って帰っていった誰もいない部屋で、「幻」のまひろさんに向かって左手を伸ばし、そしておそらく「幻」のまひろさんにその左手を取ってもらい、心から安心して息絶えたのだ。ちなみに、だから、視聴者は勿論、まひろさんも(当然倫子さんも、多分百舌彦も)、誰一人として、道長が息を引き取るその現場には居合わせてない。
乙丸の嫁の死の描写も「気が利いて」いた。最初いきなり、乙丸が仏像を彫っている場面が示され、視聴者は「?!」となる。「死んだのは嫁かな。それとも、もういつ死んでもおかしくない為時かな? まさか、いとさん?」などと考える。視聴者を焦らすように、その3人共がなかなか画面に現れないが、やがて、為時が姿を現し、トドメで、年老いた乙丸が、旅に出るまひろさんに何がナンでもついて行くと言い張る。それで視聴者は、乙丸の彫っていた仏像が乙丸の嫁だったと分かる仕掛け。で、視聴者が「ああ、じゃあ、いとさんは無事だったのね」と思ったところで、[認知症を発症した]いとさんを登場させて、ハッとさせる演出。意地悪だよねえ。
いずれにせよ、[道長の死や、乙丸の嫁の死や、いとさんの認知症発覚]の「現場」に視聴者を「立ち会わせない」ことで、人の世の無常感みたいなものがうまく出ていた。ような気がする。
*自分の書いた作品が「枕草子」や「源氏物語」ほどには評価されないのではないかと心配している[白髪頭になった赤染衛門]を、倫子さんが「大丈夫よ」と励ましている場面も好かった。
*最後の最後が[不自然な静止画面]で終わったのは、動画配信全盛期のこの時代ならではの演出。あの[いかにも中途半端なところで止まっている映像]を、令和に生きる我々は日常的に目にしている。その「見た目」から受ける一番の印象は、「動画は途中で止まっている」=「再生ボタンを押せば、すぐに続きが始まる」=「物語は、まだ終わってない」。「不自然な4秒間の静止映像」で終ることで、『光る君へ』は、「本当はまだ続きがあるけど、今は、一旦、停止しているだけ」という印象を残して物語を閉じた。
(2024/12/22 穴藤)
2024年12月19日木曜日
2024年12月16日月曜日
2024年12月13日金曜日
2024年12月7日土曜日
『光る君へ』#46「刀伊の入寇」:memo
今回、一番好かったのは、「作家魂」に火がついて、実はやる気満々な赤染衛門に対し、倫子さんが、最初驚き、しかし、やさしく微笑む場面。『光る君へ』が、平安時代とか藤原家とか天皇とか言いつつ、正体は〔女流作家(たち)の物語〕だということを、再確認した。
それで言うと、『源氏物語』を元ネタにして、そこから逆に、「『源氏物語』のネタになった、作者(まひろさん)の実体験の物語」を作り上げたのが、この『光る君へ』という大河ドラマなのに、今回、そのドラマの中で、周明がまひろさんに書けばと勧めている物語が、何のことはない、『光る君へ』という物語そのものなのが、面白かった。『源氏物語』と『光る君へ』との間でぐるぐる回る「ウロボロス」的矢印。
(2024/12/07 穴藤)
2024年12月5日木曜日
「デイヴィッド・リンチ 幻想と混沌の美を求めて」:memo
定価3200円(税別)で決して安くない本。カラー写真がいっぱいあってそれはよかったが、そのカラー写真につけられたキャプションがデタラメ。特に、映画の場面につけられた類のキャプションがかなりオカシナことになっている。そのどれもが〔映画をちゃんと観てないのがバレる間違い方〕なのが、Lynch本としては致命的。
例えば、「the Straight story」の章で、〔主人公が旅先で知り合った同世代の老人とお互いの戦争体験を語り合う重要な場面〕という意味のキャプションがついている写真に実際に写っているのは、主人公と戦争体験を語り合う老人ではなく、物語の最終盤で、主人公が注文した「ミラーのライト(ビール)」を出す老店主。どちらも老人には違いないが、顔が全く違う(渋川剛気と愚地独歩くらい違う)。つまり、映画をちゃんと見ていればすぐに分かる間違い。
この手の間違いが一つやふたつどころではない。今、数えてみたら、20個ほどあった。キャプションがこんなテイタラクなら、本文も怪しいものだと思わずにはいられない。なので、映画のパンフレットだと思って、文章は二度と読まないことにして、写真だけ眺めてる。見れば、何の、どんな写真かはたいてい分かるし。四半世紀超えのEraser Headerをナメるなよ。
(2024/12/05 穴藤)