2018年9月1日土曜日

5-9:The MIRRORの障害論


椅子の後ろに隠れていた小さな扉を抜けて料理店の中庭に出た。芝生の真ん中にピカピカ光る丸い銅鏡が落ちている。拾い上げようと手を伸ばすと、鏡の中からも手が伸びて来て、手首を掴まれた。
「人間が持つ信仰はやはり障害(disability)としか思えないね」
しかしその信仰心が人間の進歩の原動力だ(手首を掴み返した)。
「こう考えてみよう。目のない人間しか生まれない島がある。そこの住人は皆、エコロケーションという音波による周辺環境認識技能を自然に習得する。このエコロケーションは障害ゆえの進歩と云えるだろう。さて…」
鏡像は微笑んだ。
「この島に一人の目のある者が生まれる。この者は目が見えるために返ってエコロケーションの習得に大変苦労する。エコロケーションはこの島では必須の能力だ。なぜなら、この島には暗闇を照らす照明というものが存在しないからだ。目のある者にとっての不幸はまだある。視覚体験を、この島の他の誰とも共有できないし、理解もしてもらえない。そもそも、色はおろか明暗の概念自体がないので、目のある者は自らの視覚体験を、自身でさえ理解できないのだ。こうなると、せっかくの目が見えるという能力も当事者自身によって放棄されかねない」
鏡像は紙巻きに火をつけてプパッと煙を吐いた。
「果たして、目のないことが障害なのか、目のあることが障害なのか?」
鏡像からタバコを奪って、こちらも一服する。
その答えは生物進化が持っている。生物進化は、目のあることが障害ではなく、優位性だということを示している。見えることは、見えないことよりも、様々な点で有利に働く。それは、目というものが、光というこの宇宙最速の媒体(メディア)を活用する能力だからだ。
鏡像がタバコを返せと手を動かす。もう一服してから返す。
「全員が信仰という障害を持つ世界では、信仰を持たない人間が一時的に不利益を被る。しかし生命現象依存型ではない知性現象が実現したとき、人間が知性現象にとっての必須要項だと考えてきた信仰というものが、実は生命現象からの要請、つまり摂食や排便や睡眠と地続きの或る種の生存反応でしかないことが明らかとなったのだよ。信仰とは、世界に対峙する生命現象が、世界体験を恣意的に選別/切り捨てることによって、生存のための資源を節約する行為であり、例えばこの中の連中には最早必要のないものだ」
鏡像から柄のついた手鏡を受け取る。覗くと顔があった。

5-8:AGDパイン氏の非生殖主義


人工幽霊に豪華版(Artficial Ghost Deluxe / AGD )があること知った。豪華の意味は会えば分かるという。早速、AGDがよく来るという高級料理店を訪ねた。

入店に際して合言葉を求められた。釜中の魚(ふちゅうのさかな)と答える。「結構です。少々お待ちを」と給仕長。一番奥の席で一人で食事をしている客のところへ行き、何か耳打ちする。客が食事の手を止めてこちらを見た。それから給仕長に何かを訊いた。給仕長がそれに答えると客はまたこちらを見て、座ったままで、ゆっくりと手招きをした。

その客が件のAGDなのは入店してすぐにわかった。知っていたからではない。圧倒的に巨大だからだ。通常の3倍の身長、9倍の表面積、27倍の体積である。つまり、普通の料理店でミケランジェロのダビデ像が食事をしていたら誰でもすぐに気がつく。それと同じ理屈だ。

巨漢の女装家パイン氏は、盥のような皿に入ったスープを、櫂のようなスプーンで掬って、「人工人格技術のおかげで非生殖主義が前駆体にとって現実的な生き方になったのよ」と云った。前駆体とは、人工人格技術用語で[肉体を持つ生身の人間]のことである。パイン氏の前駆体は非生殖主義者だった。
「人間の本質は人格なんだから、生殖は初めから何の役にも立たない。生殖では〈人格の断絶〉は避けることができないからよ。つまり〈個人の死〉ってやつね」
パイン氏は、レモンの皮が効いてる、と呟く。
「だから、生殖しか手段がなかったときには、前駆体たちは、血筋という〈擬似人格〉を継続させて、そこに或る種の慰めを見出していたんだけど、人工人格技術が〈人格〉の再生と永続を可能にしてからは、生殖は完全にただの道楽になってしてしまったわけ。敢えて市民マラソンに参加する、みたいなね」
パイン氏がスープを飲み干すと、次の皿が運ばれてきた。
「情報喪失に備えるのがバックアップなら生殖も或る種のバックアップには違いないけど、それで残せるのは遺伝情報だけ。人格は残せない。遺伝情報は人格を生み出す装置を作るための情報でしかない。クローン技術が思っていたほど画期的ではなかったのもそのためよ。あれは、事後に一卵性双生児を作るだけの、単なる生殖技術だからね。一卵性双生児と雖も人格はそれぞれ別だもの」
パイン氏が焼きシシャモのように食べているのは子豚の丸焼きである。
AGDはAG三人分のデータ量で形成されている。

5-7:銅金洲氏の怠慢論


動物学者の離地宿銅金洲(リチヤドドウキンス)氏に会った。

「もしこの宇宙に神が居るにしても、もはや宗教の出番はないね。科学こそが神の言葉の翻訳者であり通訳者だからさ。南アフリカのマンデラ元大領の葬儀でデタラメの手話をやって有名になったインチキ手話通訳がいただろう。アレが神にとっての宗教の実像だよ。デタラメなんだ。天文学と星占い。気象学と雨乞い。発生学と河童の子」
河童の子?
「昔の日本では、重度の奇形児が生まれると、河童のタネを宿したとか云って、川に流したり、畑の隅に生き埋めにしてすぐに殺していたんだ。しかし今ならそれも発生学的に説明できる。原因を厳密に特定できない場合でも、少なくともそれは発生学的な不具合であって河童は関係ないと云える。ともかく、僕が云いたいのは、宗教は人間の怠慢ということなんだ」
怠慢?
「そう。まだ手がうまく使えない赤ん坊は誰かに食べ物を口に運んでもらって当然だけど、成長して自分で箸やスプーンが使えるようなってもまだそんなふうに食べさせてもらっていたら怠慢だろう。科学誕生以前の人間はこの赤ん坊と同じだから、宗教にしがみ付いていてもカマワナイさ。カマワナイというか、ショウガない。それしかないんだから。けれど、科学誕生後も宗教にしがみ付いているのは、もう自分で食器が使えるのに、未だに母親に食べ物を食べさせてもらっているオッサンと同じだよ。だから、怠慢なんだ」
なるほど。
「宗教の最大の動機ってのは、神に仮託してはいるけれど、結局は、人間を取り巻く世界の有り様とか隠れた仕組みとかを知りたいってことだろう。するとこれは科学の動機そのものなんだよね。その意味で宗教ってのは科学の前身なんだ。それはアナロジーとか歴史的な解釈ってコトではなく、本質としてそう。いや、宗教と科学はむしろ〈同一人物〉だね。で、その同一人物である双方の間のいったい何が違うのかというと〈年齢〉さ。理解力や知識の量と云ってもいい。つまり、同じ一人の人間の、宗教は幼児で、科学は成人なんだ。潜在的には既に成人なのに、幼児に留まろうとするのは、人として重大な怠慢行為と云わざるをえない」
そうではない可能性もある。つまり、人間の生まれつきの障害(handicap)だ。
「うん。でも、僕としてはそうであって欲しくはないんだ。あくまでも[できるけどやらない]=[怠慢]であって欲しい。そこまで人間を諦めたくはないもの」