動物学者の離地宿銅金洲(リチヤドドウキンス)氏に会った。
「もしこの宇宙に神が居るにしても、もはや宗教の出番はないね。科学こそが神の言葉の翻訳者であり通訳者だからさ。南アフリカのマンデラ元大領の葬儀でデタラメの手話をやって有名になったインチキ手話通訳がいただろう。アレが神にとっての宗教の実像だよ。デタラメなんだ。天文学と星占い。気象学と雨乞い。発生学と河童の子」
河童の子?
「昔の日本では、重度の奇形児が生まれると、河童のタネを宿したとか云って、川に流したり、畑の隅に生き埋めにしてすぐに殺していたんだ。しかし今ならそれも発生学的に説明できる。原因を厳密に特定できない場合でも、少なくともそれは発生学的な不具合であって河童は関係ないと云える。ともかく、僕が云いたいのは、宗教は人間の怠慢ということなんだ」
怠慢?
「そう。まだ手がうまく使えない赤ん坊は誰かに食べ物を口に運んでもらって当然だけど、成長して自分で箸やスプーンが使えるようなってもまだそんなふうに食べさせてもらっていたら怠慢だろう。科学誕生以前の人間はこの赤ん坊と同じだから、宗教にしがみ付いていてもカマワナイさ。カマワナイというか、ショウガない。それしかないんだから。けれど、科学誕生後も宗教にしがみ付いているのは、もう自分で食器が使えるのに、未だに母親に食べ物を食べさせてもらっているオッサンと同じだよ。だから、怠慢なんだ」
なるほど。
「宗教の最大の動機ってのは、神に仮託してはいるけれど、結局は、人間を取り巻く世界の有り様とか隠れた仕組みとかを知りたいってことだろう。するとこれは科学の動機そのものなんだよね。その意味で宗教ってのは科学の前身なんだ。それはアナロジーとか歴史的な解釈ってコトではなく、本質としてそう。いや、宗教と科学はむしろ〈同一人物〉だね。で、その同一人物である双方の間のいったい何が違うのかというと〈年齢〉さ。理解力や知識の量と云ってもいい。つまり、同じ一人の人間の、宗教は幼児で、科学は成人なんだ。潜在的には既に成人なのに、幼児に留まろうとするのは、人として重大な怠慢行為と云わざるをえない」
そうではない可能性もある。つまり、人間の生まれつきの障害(handicap)だ。
「うん。でも、僕としてはそうであって欲しくはないんだ。あくまでも[できるけどやらない]=[怠慢]であって欲しい。そこまで人間を諦めたくはないもの」