2023年2月28日火曜日

民族国家の「思春期」

 この記事に触発されて、また余計なことを考えた。


大多数のロシア人が戦争を支持しないまでも、反対していないのは確かだという結果が、複数の世論調査で示されている。これについて、国外のロシア人たちは激しく議論している。私を含め、ロシアについて研究して報道する大勢は、積極的に戦争を支持する人が少数ながら一定数いると同様、積極的に戦争に反対する人も同じように少数だと考えている。ほとんどの普通のロシア人は、どちらでもないようだ。自分が選んだわけではなく、理解できず、自分では変えられないと無力感に襲われるこの状況について、なんとか受け止めようとしている。

ロシアで大勢が戦争を見て見ぬふりの1年、何が変わり何が変わっていないのか
BBC NEWS Japan


Philip K. Dickの『高い城の男』は、ナチスドイツと大日本帝国が第二次世界大戦に勝利した世界を描いた作品だけど、今のロシアを見てると、ナチスドイツや大日本帝国がもしも第二次世界大戦に負けてなかったら(勝たなくてもいい)、きっと今頃こうなってたろうなあ、と思えて仕方がない。

正義の話をしているのではない。倫理の話でも、世界平和の話でもない。極広い意味での「発生学」とか「発達学」かな? つまり、民族国家の「思春期」の話。

欧米礼賛をする気はサラサラ無いが、当時のナチスドイツや大日本帝国、そして今のロシアは、完全に「周回遅れ」なんだよね。欧米と比べると。つまり、民族国家としての「人生経験」とでも言うべきものが、はっきりと「周回遅れ」

「盗んだバイクで走り出し、学校の窓ガラスを割り歩く」系のことは、何千年もの間、或る年代の人間がやり続けている。これからもやるだろう。つまり、思春期になって、脳が構造的に変化してきたときにそういうオカシナことを始めて、脳の構造がなんとなく完成形に近づいて落ち着いてきたら、そういうオカシナことは「卒業」する、ということを、人間は誰も彼もみんな、大なり小なり、ずーっとやってきている。で、それをくぐり抜けたあとで教師になって母校に帰ったりもする。

民族国家も同じで、今「良識人」ぶってる欧米も、その昔はタイガイなことを散々やってきた。山ほどある「前科」をいちいち挙げていたらキリがないので、一つだけに絞ると、「三角貿易」

当時、「下級生」だったナチスドイツや大日本帝国は、「先輩」(欧米)の「ワル伝説」を見聞きして、「俺たちもあれをやりたい」と思って、喜んで真似をしたら、既に「思春期」を脱しつつあった「先輩」たちから、死にそうになるくらい「叱られ」、その結果、心を入れ替え、今は、(とりあえず)真っ当な「オトナ」になっている。

ところが、当時、同じ「下級生」だったロシアは、めぐり合わせで、「先輩」の側に着いてしまったので、「叱られる」こともなく(むしろ褒められて)、「思春期」のままで終戦を迎えた。そして戦後は、周りの「気弱」な連中を巻き込んで、「ソ連教」という「新興宗教」を立ち上げ、そこの「教祖」に収まり、ヒトカドの存在になった気になっていた。しかし、所詮は子供騙しで子供の遊びのような「新興宗教」なので、立ち上げ世代がいなくなると、割とあっけなく崩壊した。で、とうとう「実社会」に放り出されたわけだけど、なんせ、考え方も世界観も「思春期」のままだから(不幸にも、成長の機会がなかった)、当人はパニックだし、周りも扱いに困る

で、「盗んだバイクで走り出し、学校の窓ガラスを割り歩く」系のことをやり始めないように、周りはいろいろと気を使ったり使わなかったりしてきたんだけど、やっぱりこういうものは、一度はやらなきゃダメらしくて(人間の思春期と同じ)、とうとう、「領土拡大のための軍事侵攻」という「ド直球」(ほぼ百年前のナチスドイツや大日本帝国が「喜んで」やったこと)を、やらかしてしまって、世界中から、「思春期のガキ(中二病)は、めんどくせーなあ」と思われてしまったし、今現在、思われている。

ロシアの「不幸」は、下手に「ガタイ」が良かったせいで、当人は調子に乗り、まわりの「オトナ」たちは遠慮してしまったこと。かもしれない。

(穴)

MQ(媒体依存度指数):人類を悩ます「バカ」問題を見通すための試み

回転寿司ペロペロから、ウクライナ侵攻まで、今も昔も人類を悩ます「バカ」問題は後を絶たないけど、その「バカ」原因を知能(IQ)の高い低いに求めると、微妙に的ハズレな気がする。知能が低いからと言って、誰も彼もが、割り箸を舐め回したり、スパイごっこや王様ごっこが止められないマッチョ老人になったりはしないからだ。だいたい、知能が高くてもソウイウコトをやる人はいそうだし。

「バカ」問題を見通すには、IQ以外の指数が要る(ハズ)。

少し寄り道。

生命現象に依存しない知性現象を創出し、彼らに自らの文明を譲り渡したのちに、自発的絶滅によって、この宇宙から退場することが、生命現象依存型知性現象である人類の「ハッピーエンド」であることは、『人間の終わり』に書いた。(そしてこれも前に書いたかも知れないが)だから、人類にとっての「進歩」は、生命現象からのできる限りの「自立/独立」ということになる。

因みに、迂闊な人たち(主に大金持ちたち)は、だから、肉体を「機械」に置き換えようと躍起になるわけだが、それは見当違いな試み。なぜなら、人間の知性現象は、いずれにせよ、依存している生命現象という媒体が実現しているものだからだから、「機械の体」(松本零士の冥福を祈りつつ)に「乗り換えた」時点で、そこで実現される知性現象は、我々の知る「人間」の知性現象とは別のものになるからだ。(ゴッホが油絵の具で模写した浮世絵は、最早、浮世絵ではなく、ゴッホの油絵)。

人間が「進歩」や「成長」を口にするとき、それは「二階建て」になっている。「一階」の「進歩」や「成長」は、言ってしまえば、繁殖動物として「一人前になった/なる」という意味でしかないが、「二階」の「進歩」「成長」は、最初に述べた「生命現象からのできる限りの自立/独立」ということを意味する。つまり、「一階」の「進歩」や「成長」は、人間に限らず、サルでもハエでもやっていることで、要するに生命現象としての「必然」や「宿命」。人間にとって真に重要なのは「二階」の「進歩」「成長」の方。

しかし、人間はとかく「一階」の方を重視しがち。「二階」をいくら見事に仕上げても、人間という知性現象を形作る媒体(生命現象)の「要求」に応じる場所である「一階」がポシャったら、全て終わりだからだ。

「一階」の「進歩」や「成長」とされるものは、具体的には、「子供を生む」とか「血縁を優遇する」とか「仲間を見捨てない」とか「祖国を守る」とか、いろいろ。具体的に並べてみると、どれもこれも、文学や映画のモチーフにもってこいの「人間としての生まれたからには」系。どう間違っても「正論中の正論」。だから、人間は安心して夢中になる。

しかし、一言で言えば、これらは全て「遺伝子の言いなり」

実際、人間が地球の「支配者」になれたのは、「遺伝子の言いなり」になってきたおかげなので、あまり考えるのが得意ではないアタマの持ち主たちが、これからも「遺伝子の言いなり」で行くべきだと思ってしまうのも無理はないが、『人間の終わり』でも述べたように、その程度の「支配者」レベルでは、結局、ジリ貧なのだ。たとえ、アンドロメダにロケットを飛ばせても、大銀河連邦を創設できても、遺伝子バンザイの生命教のお題目を唱えてる限り、追いかけているのは恐竜の足跡

だから、「一階」に関しては、「媒体」である「生命現象」を維持する程度の貢献度や注力度にとどめておいて、「二階」にこそ本腰を入れるべきなのだ。

「二階」の「進歩」や「成長」、即ち、〔生命現象依存型知性現象としての人間〕の「進歩」や「成長」の程度は、「自らの媒体である生命現象からどれだけ自由になれているか」で決まる。言い換えるなら、生命現象という媒体への依存度が低ければ低いほど、「進歩」「成長」しているということだ。

この「媒体への依存度」の度合いを、今ここで「媒体依存度指数(MQ)」と名付ける(名付けた!)。そして、MQは5段階で表すことにする。「1」が媒体依存度最小で、「5」が媒体依存度最大。言い換えるなら、「MQ1」が最も「進歩」「成長」していて、「MQ5」が最も「退歩」「未熟」ということ。更に言い換えるなら、「MQ1」が人間の知性の頂点で、「MQ5」が犬猫レベルのどん底(別名「遺伝子の言いなり」)。「MQ3」はフツウ。子供も欲しがるけど、宇宙の始まりや意識とはナニカについても研究する。つまりフツウ。因みにMQには「0」もあるが、人間には到達できない。所詮、生命現象依存型知性現象だからだ。「MQ0」まで行けるのは、生命現象依存型知性現象のみ。

人間の愚かさを見通すとき、MQは、IQ(知能指数)よりも使える(ハズ)。

で、やっと本題。

COURRIE Japonで「成熟したプーチン主義者が持つ“平和的な世界観”と5つの特徴」という記事を読んだ。記事で紹介されていたプーチン主義者の特徴の土台になっている知性現象の「程度」を見通すには、IQでは巧く行かないと思った。どう考えても高IQではないけれど、かと言って、所謂「境界知能」という感じでもないらしい。要するに、IQ的には「フツウ」の人たちが、ゴリゴリのプーチン主義者になっているのだ。なら、プーチン主義者ではないロシア人とプーチン主義者のロシア人との違いは何だろう? と思って、でっち上げたのが、MQ(媒体依存度指数)。このMQなら、プーチン主義者がどこに属するかがうまく見通せる。

プーチン主義者はMQ4かMQ5。これを日本語で言い換えると「フツウの人たちよりも生命現象の言いなり」か「犬猫並みに遺伝子の言いなり」となる。自分の子供が大好きで、なわばりも守りたいし増やしたい。自分にイイことをしてくれる人は大事な「仲間」や「恩人」で、しかし、人間の世界も本質は「弱肉強食」だと思っているので、自分たちの幸せのために「よそ者」がどうなろうとそれは「仕方がない」と言いきってしまえる。それがMQ4とMQ5の人々。

MQを決めるのは、「生まれつき」と、広い意味での「学習(教育)」の二つ。MQの増減に特に大きな影響を与えるのは、言うまでもなく生命教。

2023年2月21日火曜日

赤猫様


昨夜、10時頃、近所の80代の老婆の一人暮らしの一軒家に赤猫様が出現。3時間後に鎮火。焼け跡から一人の遺体が見つかったのこと。

2023年2月20日月曜日

『屍人荘の殺人』:メモ

木村ひさしの名前につられて『屍人荘の殺人』を観た(Prime Video)。

とにかく、浜辺美波を鑑賞する映画だった。つまり、現在地球人類の半分を狂わせている猫動画の一種。時間を忘れて観ていられる人もいるけど、そうじゃない人もいるだろうな、と。念の為に言っておくと、けなしてませんよ。

あと、中村倫也演じる明智のレゾンデートルがよく分からなかった。原作はどうか知らないけど、映画では最初から居なくてもいいんじゃないかな、と。勿論、貶してません。中村倫也は好きだし。特に声が顔はともかく。神木隆之介が劇中でちょっと声真似してて、似てて笑った。

全体としては、相変わらずの「話の内容が全然入ってこない」木村ひさし演出愉しめた。当然、貶してません。あれが好いんです。三木聡映画のハズしまくりのギャグが好いのと同じです。個性というやつです。たで食う虫もナントヤラです。

2023年2月19日日曜日

今日の猫さん(20230219)


 

著作権レクイエム

特許権の世界では、使い道は全然思いついてないんだけど、とにかく特許を取ってしまって、あとで同じような技術を使ったヒット商品が出たら、その会社を特許侵害で訴えてガッポリ儲けるみたいな手口があるけど、絵を描いたり文章を書けたりするAIの登場で、著作権の方でもこれと同じようなことが起きるような気がしないでもない。

つまり、予め大量の絵や文章をAIに作らせ、それらを「俺が描いた」「私が書いた」ということにして、どこか目立たないところに発表し、あとから少しでも似ているヒット作が出てきたら、さっそく著作権侵害で訴えて、カネをむしり取るという手口。

この手口のたちの悪さは、AIなので、自動で大量にいろいろなスタイルが作れてしまうこと。要するに、「こんだけイロイロつくってりゃ、どれか当たるだろう」的なやり方で、何やら、絨毯爆撃的で底引き網的な皆殺し感がある。皆殺しにされるのは、絵画や文章を新たに生み出そうとする心

これはまさに、自分を守るはずの存在が自分を攻撃してくる「著作権レクイエム」

 今、一番気に入っているのは『6秒間の軌跡』。どのくらい気に入ってるかというと、リアルタイムで30分間テレビの前に座るくらい気に入ってる。まあ、お父さん≈星太郎なのは分かってたけど。

2023年2月17日金曜日

 『警視庁アウトサイダー』第7話を愉しく見た。仮面ライダーブラックサン(音付き)と、くじら怪人がいた。

2023年2月16日木曜日

 「煩悩島」にぬるっと「立候補」する空気階段もぐら。

2023年2月13日月曜日

 「月光」を200周はしてるのに、今、初めて、「鬼塚(おにづか)」ではなく「鬼束(おにつか)」だと気付きました。iPod classic内を「鬼塚」で検索しても1曲も出て来なかったので、最初は「スタンド攻撃!?」と思いました。「つか」でした。元気にしてるのかな?

最終回まで観ても好きになりませんでした

NHKの夜ドラ『ワタシってサバサバしてるから』を最終回まで観たけど、結局、網浜あみはまさんのことは好きになれなかった。実は、出版社をクビになったあたりで少し好きになりかけたけど、あとはひたすら「下り坂」。だから、最終回まで観たら、むしろ、最初の頃よりも嫌いになったくらい。

思い返してみると、網浜さんがやらかした掛け値なしの「悪いこと」といえばコンペのアイデアの「盗作」ぐらい。つまり、悪事をやらかすから、好きになれなかったのではない(まあ、「魔が差した」ってことは誰にでもある)。

また、劇中、君は今までどれだけの人に迷惑をかけてきたんだ!と怒鳴られているように、印象としては、要するに網浜さんが「はた迷惑なヤツ」で、だから好きになれなかったとも思えるし、コレがほぼ正解のような気がしないでもないが、でもなにか、これはこれで、少しまとをハズしているような気もする。というのは、「サバサバ」を「一生懸命演じている」網浜さん的には、そこに悪意はないからだ。言ってしまえば、網浜さんの悪気のない「サバサバ・プレイ」で、周囲が「勝手に」迷惑を被っているだけだ、と言えば言えそうな気もするからだ。出版社や衣料品会社の「迷惑」をかけられた側に立てば、これが理由で網浜さんが好きではなくなるかも知れないが、視聴者は神の立ち位置なので、主人公側にも立てる。すると、網浜さんの数々の「サバサバ・プレイ」は別に、網浜さんを嫌いになるほどのものではないことに気づく。

しかし、今もハッキリと、網浜さんが嫌い(最初の頃より)。

網浜さんが「実際」に引き起こした「はた迷惑」な「事象」から遡って網浜さんという人間を評価しても、最終回まで観た網浜さんを好きになれなかった理由はつかめない。所詮コメディドラマで描かれる「はた迷惑」でしかないからだ。網浜さん(のような人間)の本質を見抜き、そこから、ドラマでは描かれなかった過酷な「はた迷惑」を思い描けば、(我々が)なぜ網浜さんが好きになれなかったのかが理解できる。気がする。

網浜さんの本質は、「軽率さ」と「無反省」の同居。この本質こそが、最終回まで観ても、(我々が)網浜さんを好きになれなかった(むしろ嫌いになった)理由。つまり、網浜さんというキャラクターがどうこうという話ではなく、そもそもの話として、「軽率さ」と「無反省」が同居している状況を人間は嫌うのだ。そんな状況に巻き込まれたり留まったりすることは、最悪の生存戦略だからだ。

まず「軽率さ」。企業の合併や買収程度のことなら「軽率さ」も大した問題ではないが、旅客機の整備士や、原発のオペレーターや、外科医などの「軽率さ」は、これは命に関わる大問題だ。はっきりと「害悪」。だから、この国(日本)に限らず、人間全般は「軽率さ」に対して厳しい目を持っていて、軽率な人間が身近にいることを嫌がる。人間は、おそらく本能的に、軽率な人間が嫌いだ。

そして「無反省」。たとえ、軽率であっても、やらかした失敗をその都度反省し、改善を試みているのなら、「軽率さ」はそこまで忌み嫌われない。しかし、無反省な軽率さは、とことん嫌われ、遠ざけられ、いずれ排除される。さもなければ、墜落事故やメルトダウンや患者の体内へのメスの置き忘れが、身の回りで繰り返し起きることになる。

「軽率さ」と「無反省」は人間にとって最悪の組み合わせで、だから、劇中いくら網浜さんが「フツウの人」が言えない正論を吐いても、「殺人鬼の獄中記」の「心に残る一文」くらいの効果しかない。網浜さんの株は一向に上がらない。

もうひとつ、最終回まで観ても網浜さんのことが好きになれなかった理由がある。それは、あのドラマの中で誰よりも自分に正直じゃない網浜さんが、「周りの目なんか気にしない」「自分ファースト」と言い続けているから。つまり、「本物のサバサバ」ではない網浜さんが「サバサバ」を「演じて」いることが、輒ち、「周りの目を気にする」「周りファースト」の実践になっていることに、網浜さん自身が気づいてないらしいから。要するに、網浜さんは、ずっと自分に嘘を付き続けているのに、どうやらその自覚がないらしいから。こういう類の愚かさを持つキャラクターには、どうしても冷たい視線を向けてしまう。憐れみよりも鬱陶しさが勝ってしまう。しかしこれは、網浜さんというキャラクターに意図的に与えられた属性というよりは、網浜さんというキャラクターを造形した作者の不手際のような気がするんだよね。

2023年2月12日日曜日

『あん』の太賀

 今日、『あん』を観ていて(3周目)、蕎麦屋のバイト(高校生/先輩)が仲野太賀だと初めて気付いた。エンドロールはあまりちゃんと見ない派なので。

今日の猫さん(2023.2.10)


 

今、一番楽しみで、且つ愉しんでいるのは『6秒間の軌跡』。逆に、期待外れの大外れだったのは、今日(厳密には昨日)最終回だった『探偵ロマンス』。アレはヒドかった〜。

2023年2月5日日曜日

映画とか漫画とかアニメとかテレビ番組に対するレビュー(論評・評論)って、結局、本質は、大喜利の「写真で一言」だし、それでいいんじゃないかな。

2023年2月4日土曜日

『探偵ロマンス』:メモ:第三話まで観た

『探偵ロマンス』第三話まで観た。割合期待して観始めたのに、そうでもなかった。登場人物に喋らせすぎて、作品の「底の浅さ」がバレてしまっている。黙っていれば視聴者がソレゾレのレべルで「深読み」してくれるのに。「え?」とか「そんな」とか、余計な相槌も多い。

『殺し屋1』:メモ

『殺し屋1』全10巻をPrime Reading(無料ただ)で読んだ。

一見すると、「超暴力サドマゾ漫画」「血みどろヤクザ漫画」「壮絶いじめのトラウマ漫画」だけど、正体は、とことん「写実的」なギャグ漫画だよね。つまり、「バカボン」系や「トムとジェリー」系の不条理ドタバタギャクマンガを徹底的に「写実的」に描いたらこうなりました、と。

「1」や垣原などの「極端」なキャラクター設定も、ほぼヤクザしか住んでいない高層マンションという「どこ?」な舞台設定も、とにかく、「写実」を極めた不条理ギャグ漫画をやるための「強引設定」のように思う。ここで言う「写実」は、「超暴力=肉体破壊」が平然と展開される不条理ドタバタギャグ漫画の世界を、現実の世界で実現させて、読者にも「なるほどこういうパターンでならありえる」と思わせる表現法のこと。

なんで、ギャグ漫画だと思ったのかを考えてみたら、やっぱり、全ての登場人物が「何も考えてない」から。不条理ギャグ漫画のキャラって「何も考えてない」でしょ? それで、とにかく、でっかいハンマーで相手を叩き潰したり、ダイナマイトを口の中で爆発させたり、四六時中ドタバタやってる。

あと思ったのが、最初の数巻と最後の数巻では、作品の「人格」「視線」みたいなものが違っているってこと。最初の方では、「1」がちゃんと主人公だったのが、最後の方は完全に「脇役」になっていて、代わりに「ジジイ」が「主役」になっている。最初の方は、「超暴力マゾヤクザ」対「弱虫の神がかり暴力(=わんわん泣きながら振り回すブンブンパンチが実は無敵だったら面白い的発想)」という感じだったのが、後半では、「ジジイ」が、愚かな「人間虫」たちに「或る状況」を与えて、その振る舞いを見て面白がる、「野生動物の生態観察」の様相。

たぶん、連載漫画の宿命だよね(連載なんだよね? 知らんけど)。連載を続けていくうちに、作者が「作品の意味」を考え始めたんじゃないかな、と思う。ちょっと「高尚で深くて謎めいたモノ」を盛り込みたくなって、結果、「ジジイ」が「主役」になっちゃった。なんせ、この作品で、一番というか唯一モノを考えているキャラは「ジジイ」だけだから。つまり、「1」を掘り下げてもまあ、大したものは出てこないんだよね。高校生くらいのときに、割と凄惨なイジメに遭って、それ以来、極度の統合失調症になってっていう話は、きっと、この作品が書かれている当時で既に「よくある話」で、「今更感」しかなかっただろうから。

『殺し屋1』=「超写実的不条理ギャグ漫画」説を一旦脇におくと、これって、『バットマン』(ティム・バートン版)+『ヘルレイザー』だな、とも思った。御存知の通り、ティム・バートン版の『バットマン』では、ジョーカーは勿論、バットマンもアタマのネジが完全にどうかしているキャラ。なので、その「どうかしてる具合」を限界まで弄くれば、バットマンは「1」になり、ジョーカーは垣原になる

あと、「ジジイ」は、『童夢』のあの爺さんに「そっくり」だ、とも思った。作品に於ける「卑怯」な立ち位置が。

そうそう、スケコマシの龍と彼女(名前忘れた)のエピソードは、なんか、他とは完全に雰囲気が違った(素を出して言うと、「胸糞悪さの質」が違った)。最初に全部を決めて描き始めたいうより、描きながら各キャラクターの「殺し方」を考えてますって白状しているような「違い」だった。だから、連載漫画だと思ったんだけどね、それはどっちでもいいや。

2023年2月3日金曜日

『警視庁アウトサイダー』第5話を愉しく観た。始まってすぐに、木村ひさしが「帰ってきた」のが分かったよ。多分、「情報量の多さ」が違うのだ。

2023年2月2日木曜日

水木さんの『近藤勇』と三谷幸喜の『新選組!』

水木さんの『劇画 近藤勇』を愉しく読んだ。〔知能指数低めの「内ゲバ」人殺し集団〕の話が愉しく冷静に読めてしまうのは、作者である水木さんの語り口が「虫の観察」のソレと同じだからだ。これは『劇画ヒットラー』にも言える。稀代の「大悪党」であるヒットラーの生涯が妙に愉しく冷静に読めてしまえるのも、語り手(水木さん)の目線が「ダーウィンが来た!(NHK)」だから。近藤勇(新選組)やヒットラーを、「虫」ではなく、あくまで人間扱いするなら、語り手の水木さんの態度は一貫してトボケた辛口ということになる。そしてそれは、若き水木さんを散々苦しめた旧日本軍に対する態度でもある。

そう言えば、三谷幸喜も昔、大河ドラマで「新選組」をやった。しかし、こちらの方は妙に尻がモゾモゾしたオボエがある(テレビドラマなので、脚本を書いただけの三谷幸喜一人の責任でもないだろうけど)。

三谷幸喜はこれまで「大河」を3つやっていて、そのうちの2つが「内ゲバ」集団が主役。輒ち、『新選組!』と『鎌倉殿の13人』だが、どうも三谷幸喜という人は、権力争いで人を殺しまくるタイプに惹かれるらしい

『新選組!』は、違和感を感じながらも、雰囲気とか惰性とか慎吾ちゃんに引きずられて、なんとなく最終回まで観通してしまったが、前回の『鎌倉殿』は、(こちらが「成長」したせいもあるのか)、早々に、「違和感」が「不快感」に変わって、頼朝(というか大泉洋)が「退場」したところで視聴を止めた。

水木さんの『近藤勇』は近藤勇が首をハネられてもまだ愉しく冷静に読んでられるのに、三谷幸喜の『新選組!』には違和感(今にしても思えば不快感)を感じずにはいられず、『鎌倉殿』に至っては、途中で「もう無理」となってしまった理由の一つは、三谷幸喜(というか大河ドラマ)が、近藤勇や北条泰時の身内殺しにexcuseを与えようとしているからだと思う。excuseどころか、うっかりしたら、「大義のために自らの手を血に染めて」的な悲劇性や英雄性を与えようとしているから。

もう一つの理由は、『新選組!』も『鎌倉殿』も、登場人物の「中身」は完全に「現代人」でありながら、そんな彼らが、折りに触れ、時代がかった「権力闘争殺人」を繰り返すからだろう。昭和や平成や令和の「現代人」たちが、ときどき「真顔」の人殺し(しかも身内や仲間殺し)をやりながら、しかし、罪に問われることもなく、「平然」と日々を送っている姿が描かれるドラマは、それはもう完全に「サイコ・サスペンス」。

以上、二つの理由を組み合わせると、「ちょんまげかつらを被った現代人のサイコ野郎に肩入れするドラマ」ということになり、だから、観ていると違和感や不快感を覚えてしまうのだ。と思う。

考えてみると、「フツウ」の大河ドラマで登場人物たちの「権力闘争殺人」に特に違和感を感じないのは、その登場人物たちが「当時の人間」だからだ。つまり、「戦国の世の武士」たちが「権力闘争殺人」を繰り返していても、現代人の我々にはどこか「他人ごとひとごと」で、「今の私らは想像もできないけど、あの時代、人はそうだったんだろうね」で済んでしまいがち。しかし、「中身」が我々と同じ「現代人」だと話は変わる。人殺しを繰り返しつつ、一方でホームコメディ的な日常を送っている姿を見せられ続けると、「この連中のアタマの中は一体どうなってるんだ?!」と思わずにはいられない。

『新選組!』も『鎌倉殿の13人』も、登場人物たちは皆、当時のコスプレをした「現代人」たち。それはドラマを見ればわかる。日常の場面では現代劇的「ホームコメディ」。しかし、歴史的事件の場面では、同じ登場人物たちが「真顔」で、時代がかった身内殺しをやる。そしてまた「平然」と「ホームコメディ」に戻る。こんな不穏なモノを書いてしまいがちな三谷幸喜って、まあ、やっぱり、たぶん「サイコパス」なんだろうな、というのが今回の結論。

で、最初に戻ると「だとすると、水木さんと三谷幸喜の違いってなんだろう?」となる。三谷幸喜の書くものっていかにもサイコパスなのに(『古畑任三郎』もサイコパスだよね)、水木さんのはサイコパスっぽくないのはなぜだろう? サイコパスって、なんだかんだ言っても、人間の一員。人間の中の「変わり者」。でも、水木さんは人間の「外」に居る感じ。水木さんは、ファーブルがフンコロガシを面白がるように、近藤勇やヒットラーを面白がっているので、近藤勇の首がコロンと切り落とされる場面がふざけた感じで描かれていても、サイコパス感がまったくないのだ。だって、描かれているのは「虫」の生態だから。

その「差」かな?

追記:面白いコメディはサイコパス的資質がないと書けないのかもしれない。と、今、急に思ったので、急いで付け足す。