2023年2月2日木曜日

水木さんの『近藤勇』と三谷幸喜の『新選組!』

水木さんの『劇画 近藤勇』を愉しく読んだ。〔知能指数低めの「内ゲバ」人殺し集団〕の話が愉しく冷静に読めてしまうのは、作者である水木さんの語り口が「虫の観察」のソレと同じだからだ。これは『劇画ヒットラー』にも言える。稀代の「大悪党」であるヒットラーの生涯が妙に愉しく冷静に読めてしまえるのも、語り手(水木さん)の目線が「ダーウィンが来た!(NHK)」だから。近藤勇(新選組)やヒットラーを、「虫」ではなく、あくまで人間扱いするなら、語り手の水木さんの態度は一貫してトボケた辛口ということになる。そしてそれは、若き水木さんを散々苦しめた旧日本軍に対する態度でもある。

そう言えば、三谷幸喜も昔、大河ドラマで「新選組」をやった。しかし、こちらの方は妙に尻がモゾモゾしたオボエがある(テレビドラマなので、脚本を書いただけの三谷幸喜一人の責任でもないだろうけど)。

三谷幸喜はこれまで「大河」を3つやっていて、そのうちの2つが「内ゲバ」集団が主役。輒ち、『新選組!』と『鎌倉殿の13人』だが、どうも三谷幸喜という人は、権力争いで人を殺しまくるタイプに惹かれるらしい

『新選組!』は、違和感を感じながらも、雰囲気とか惰性とか慎吾ちゃんに引きずられて、なんとなく最終回まで観通してしまったが、前回の『鎌倉殿』は、(こちらが「成長」したせいもあるのか)、早々に、「違和感」が「不快感」に変わって、頼朝(というか大泉洋)が「退場」したところで視聴を止めた。

水木さんの『近藤勇』は近藤勇が首をハネられてもまだ愉しく冷静に読んでられるのに、三谷幸喜の『新選組!』には違和感(今にしても思えば不快感)を感じずにはいられず、『鎌倉殿』に至っては、途中で「もう無理」となってしまった理由の一つは、三谷幸喜(というか大河ドラマ)が、近藤勇や北条泰時の身内殺しにexcuseを与えようとしているからだと思う。excuseどころか、うっかりしたら、「大義のために自らの手を血に染めて」的な悲劇性や英雄性を与えようとしているから。

もう一つの理由は、『新選組!』も『鎌倉殿』も、登場人物の「中身」は完全に「現代人」でありながら、そんな彼らが、折りに触れ、時代がかった「権力闘争殺人」を繰り返すからだろう。昭和や平成や令和の「現代人」たちが、ときどき「真顔」の人殺し(しかも身内や仲間殺し)をやりながら、しかし、罪に問われることもなく、「平然」と日々を送っている姿が描かれるドラマは、それはもう完全に「サイコ・サスペンス」。

以上、二つの理由を組み合わせると、「ちょんまげかつらを被った現代人のサイコ野郎に肩入れするドラマ」ということになり、だから、観ていると違和感や不快感を覚えてしまうのだ。と思う。

考えてみると、「フツウ」の大河ドラマで登場人物たちの「権力闘争殺人」に特に違和感を感じないのは、その登場人物たちが「当時の人間」だからだ。つまり、「戦国の世の武士」たちが「権力闘争殺人」を繰り返していても、現代人の我々にはどこか「他人ごとひとごと」で、「今の私らは想像もできないけど、あの時代、人はそうだったんだろうね」で済んでしまいがち。しかし、「中身」が我々と同じ「現代人」だと話は変わる。人殺しを繰り返しつつ、一方でホームコメディ的な日常を送っている姿を見せられ続けると、「この連中のアタマの中は一体どうなってるんだ?!」と思わずにはいられない。

『新選組!』も『鎌倉殿の13人』も、登場人物たちは皆、当時のコスプレをした「現代人」たち。それはドラマを見ればわかる。日常の場面では現代劇的「ホームコメディ」。しかし、歴史的事件の場面では、同じ登場人物たちが「真顔」で、時代がかった身内殺しをやる。そしてまた「平然」と「ホームコメディ」に戻る。こんな不穏なモノを書いてしまいがちな三谷幸喜って、まあ、やっぱり、たぶん「サイコパス」なんだろうな、というのが今回の結論。

で、最初に戻ると「だとすると、水木さんと三谷幸喜の違いってなんだろう?」となる。三谷幸喜の書くものっていかにもサイコパスなのに(『古畑任三郎』もサイコパスだよね)、水木さんのはサイコパスっぽくないのはなぜだろう? サイコパスって、なんだかんだ言っても、人間の一員。人間の中の「変わり者」。でも、水木さんは人間の「外」に居る感じ。水木さんは、ファーブルがフンコロガシを面白がるように、近藤勇やヒットラーを面白がっているので、近藤勇の首がコロンと切り落とされる場面がふざけた感じで描かれていても、サイコパス感がまったくないのだ。だって、描かれているのは「虫」の生態だから。

その「差」かな?

追記:面白いコメディはサイコパス的資質がないと書けないのかもしれない。と、今、急に思ったので、急いで付け足す。