2023年4月30日日曜日

「泣ける映画」の「泣ける」について

これも以前からモヤモヤしていることなので、この際、成仏させる。

「泣ける映画」や「泣ける小説」の「泣ける」は「泣くことができる」という意味ではない。例えば、落語の江戸っ子が「くー、泣ける話じゃねえか!」と言う時、彼は「思わず涙が出てしまうような話=泣かせる話」だと言ってるのであって、「泣くことができる話」だとは言ってない。

今は、発信する側も受け取る側も、大抵の場合、「泣くことができる映画」のつもりで「泣ける映画」と言ったり書いたりしているように見える。つまり、「笑える映画」の「笑える」と同じ〈「可能」のニュアンス〉で、「泣ける」を使っている。その流れで、「泣ける映画」=「泣くための映画」批判になったりもする。

しかし、「泣ける映画」の「泣ける」は、実は、例えば、「妬ける」と同じ〈「否応無し」のニュアンス〉の「泣ける」。「妬ける映画」や「妬ける話」あるいは「妬ける関係」の「妬ける」を、「妬くことができる」と理解する人は、多分、今のところ、いないはず。どう間違っても、「否応なく妬いてしまう=妬かずにいられない=嫉妬せずにいられない」の意味だ。

因みに「妬ける映画」の「妬ける」と「泣ける映画」の「泣ける」は、〈「否応無し」のニュアンス〉という点では同じだが、それぞれの対象が微妙に違う。「妬ける」は作品の「出来」を対象にしているが、「泣ける」は作品の「内容」を対象にしている。ただ、「妬ける話」と「泣ける話」になると、「妬ける」と「泣ける」にそのような違いはなくなる。どちらも話の「内容」を対象にしている。

考えてみると、そもそも、「泣く」という人間の行為に〈可能・不可能〉の要素が入り込む余地はなさそうだ。いや、〈不可能〉側の「泣くことが出来ない=泣けない」はありそうだが、〈可能〉側の「泣くことができる=泣ける」は、限りなくフィクションのような気がする。

つまり、現実の事象として、「泣いて当たり前なほど悲しいのに、泣くことが出来ない」はあり得るが、その状態を脱して実際に涙したときに、それを指して「泣くことができる=泣ける」というのは、後付けの「嘘」に思える。

人間が「泣く」とき、それは常に「否応無し」ではないか? だから、「泣くことができる」という状態を指す言葉としての「泣ける」は、本来的に、存在しないのではないのか?

「泣く」とか「妬く(嫉妬する)」という感情・行為は、一般的には否定的なもので、基本的に、〔積極的に実行するもの〕ではない。だから、それらの行為の属性には、最初から〈「可能」のニュアンス〉が付与されていない気がする。

「泣ける映画」の「泣ける」を、「泣くことができる」と「誤解」してしまうのは、単に、言葉のカタチが、「笑うことができる」の「笑える」と似ているから、という、ただそれだけのことが理由。「泣く」という行為の現実を少しでも知っていれば、「泣くことができる」という状況の特殊性を意味する言葉として「泣ける」を(例えば)映画の形容詞として使うことの異様さにもすぐに気づけるはずで、であるなら、そもそもの「泣くことができる」という解釈を、〔ありえない誤り〕として退けることもできるのではないか?

2023年4月29日土曜日

『ラ・ジュテ』:メモ

「ラ・ジュテ」をPrime Videoで観た。言わずとしれた、テリー・ギリアムの『12モンキーズ』の元ネタ。時間旅行者の体験だから、観客側の体験は、一つを除いて何もかも止まってるんだよね。世界の「剥製」が描かれている。

2023年4月28日金曜日

『魔改造の夜/トラとウサギのバトンリレー』:メモ

昨日見た『魔改造の夜』のT・DKのトラとウサギのバトンリレーにはちょっと感動した。一回目にバトン受け渡しを失敗したときには、ちゃんと、バトンリレー独特の「あ〜!」感があったし、2回目でバトン受け渡しに成功した瞬間にも、今度は逆に、しかし、やっぱりちゃんと、バトンリレー独特の「あとは任せた!」「おお、任せとけ! おりゃあ!」感が炸裂していて、なんか、シビレた。伊集院が思わず感涙したのも分かる気がする。

2023年4月27日木曜日

主要な女キャラクターが全員クズの『イデオン』。富野さん、意図的だと思うなあ。バカリズムの女嫌いが爆発しているネタを思い出す。

2023年4月23日日曜日

スネークマンショーの「テレビ体操」:メモ




YouTubeにあった、スネークマショーの「テレビ体操」の「笑うところ」が「理解」できない人たちが結構いて、オヤオヤと思った(オチがないとか、なんとか)。

あれは、本物のNHKの「テレビ体操」そのままだからオモシロイんだよ。つまり、本物のNHKの「テレビ体操」に対して抱く、可笑しみや不気味さの入り混じった「なんじゃこれ?」感や「おっとこれは…」感の「再現」を試みているのだから。逆に言えば、本物のNHK「テレビ体操」に何も感じない人、つまり、本当に「ラジオ体操をやるためだけの番組」にしか見えない人には「理解」できなくて当然のネタ。

「親切」でもう少し書くと、NHKの「テレビ体操」は、(たぶん)50年以上放送しているけど、その期間、画面の中で体操をしているのは常に「若いおねえさん」だということに、まず気付け。3人ほどの体操着姿の若いお姉さん方が、微笑んだり澄ましたりしながら、体を激しく動かしている様子が、50年も放送され続けているのって、よくよく考えらナニカ変じゃないかって話。しかも、朝の6時半とかに。つまり、あの番組には「別の需要」を感じるのだ。

そもそも、ラジオ体操なんだからテレビで放送しなくてもいいし、屋内でテレビを見ながらラジオ体操ができるような家に住んでいる日本人も少ないだろう。かと言って、公園にテレビを持ち出して、みんなでそれを観ながら体操するってのも想像しにくい。体操のお手本が見えることをテレビで放送する理由と言うなら、おじさんとかおにいさんが体操をやってもいいはずなのに、あの番組は、なぜか、ずーっと若いおねえさんたちに体操をやらせてる。

更に、「健全な番組」のための「アリバイ作り」を狙ったと思われる、オジサン(時々オバサン)の素っ頓狂な掛け声が、映像と「化学反応」を起こして、逆に、妙な「変態感」を醸し出す

そう。つまり、あの番組は、スネークマンショーが下手に弄らなくても、もともと「ド変態」番組なのだ。「敏感」な人たちは、「NHKの野郎、澄ました顔して、こんなド変態番組放送しやがって、やってくれるなあ」と、ニヤニヤしているのだ。だから、スネークマンショーは、単に「でしょ? ですよね?」と言ってるだけ。なので、「わかりにくい」。

スネークマンショーのこのネタが「理解」できないのは、喩えるなら、お腹に弟や妹が出来たことを告げる母親が、照れくさそうに顔を赤くしている理由が、まだ5歳や6歳の兄や姉たちにはまったく分からないのと同じ。

『ヴィランの言い分』、レギュラー番組になっても、単発のときの味わいを保っていて、喜ばしい。

2023年4月21日金曜日

『The Selfish Gene』の「私的翻訳」完遂

一昨日(2023年4月19日)、Richard Dawkinsの『The Selfish Gene』の私的な翻訳を完遂した。「後注」まで訳した。その後ろにあった、「参考資料」とか「レビューの抜粋」みたいなのは放置した。

「私訳」を試みたそもそものキッカケは、昔読んだ、極初期の翻訳版『利己的な遺伝子』の日本語があまりにも凄まじかったから。「本当に日本人が書いた日本語なのか?」と思うくらい、訳文が酷かった。だったら、自分でやりましょう、と、毛糸編みの趣味を始めるような気楽さで始めたら、まあ、(なんせ、一日に1時間くらいずつしか取り組まないから)、結果、結構な「長旅」になってしまって、さっき調べてみたら、最初の日付は2017年の10月だった。ほぼ6年間。よくもまあ、我ながら…と。

逆に、巷に出回っている翻訳本のアリガタミが分かった。あれは大変な労力ですよ、実際。

最近、40周年版『利己的な遺伝子』の翻訳本を図書館で借りて読んだら、訳文がすごく読みやすかった。これなら、わざわざ自分で訳さなくてもよかったな、と思ったくらい。しかし、気のせいかもしれない。いや、気のせいでアレだけ読みやすくなるかな?

いずれにせよ、6年近くもあーだこーだとやったおかげで、全体的な「英語力」が妙に上がった気がして、今では、BBCのWorld Service(CrowdScience, Science in Action, Witness History, etc)なんかも、日常的に聞いている(自分にとって、ネット時代の最大の恩恵のひとつが、手軽にBBCが聞けること)。

『The Selfish Gene』の私的翻訳は、相当にオモシロイ「好い趣味」だったので、これに「懲りず」に、更に続けようと思う。今度は、『The Selfish Gene』の上級編とでも言うべき、『The Extended Phenotype』で「暇」を潰そう。しかし、死ぬまでに終われるかな。別に、終わらなくてもいいけど。趣味だから。





2023年4月20日木曜日

『イデオン』第9話:メモ

ギスギスしてるなあ。その一番の「元凶」がシェリルなのは、実は、シェリル自身が「自分が一番役に立てない」という(無意識の)自覚があるからだろう。

それにしても、今回も、作画はしょぼいのにお話はオモシロイよねえ。ここから逆に、宮崎駿や庵野秀明の作品がどうしても「超一流」になれない理由が分かる。宮崎駿も庵野秀明も、言ってみれば、「書家」なんだよ。書家って、文字は見事だけど、書き連ねてある言葉は、他愛もなかったり、「借り物」だったりする。アレと同じ。

2023年4月18日火曜日

『バタフライエフェクト:ベルリン・戦後ゼロ年』:メモ

NHK『映像の世紀バタフライエフェクト:ベルリン・戦後ゼロ年』を見た。

【メモ】第二次大戦敗戦後のドイツでは、ユダヤ人キャンプのユダヤ人には一日2500キロカロリーの食料が提供された(ドイツ人には1050キロカロリー)。その結果もあって、当時のユダヤ人女性の出生率は、ドイツ人女性の出生率の7倍。また、物資が豊富だったので、ユダヤ人キャンプの外に闇市が立った。物不足に苦しむドイツ人たちが買いに来るのだ。戦争孤児は30~40万人。

あと、飢えたベルリン市民が、死んだ馬から肉を切り取っているモノクロ映像からナイフで肉を切る音がしていた。たぶん、NHKが後から付け足したのだろう。他にも、雑踏の音とかいろいろと「後付けの効果音」があった。非難しているわけではない。臨場感が出て、好かった。この番組での「効果音の後付け」って、いつからやってたんだろう? 今まで気づかなかっただけで、割と以前からそうだったのかも。オリジナルの『映像の世紀』ではやってなかった気がする。

因みに、BBCの『Witness History』とかでは(たぶん)「お馴染み」の手法。

科学は宗教の「私生児」

少し前から居る200万年後の世界に国はない。かと言って、世界政府もない。

その代わりにあるのが「エンマ・サブロー」だと、親切なGuiniuGが教えてくれた。

閻魔三郎?

GuiniuGは学生服のポケットから手帳を出して、「EMMΔ III」と刻印された表紙を見せてくれた。「エンマ・サブロー」は、自動翻訳の限界だろう。200万年は短くはない。

(以下、GuinuiGとの雑談メモ)

GuiniuG:……「親子」と言っても、科学は宗教の「私生児」ですよ。「親」である宗教が、世界の現象に隠された「意図」を理解しようとするのに対して、「子」である科学は、そもそも、世界の現象のうちで「意図ではないもの」を探り出し、それにバッテンをつけるものでした。つまり、科学もまた「意図」を探り出す行為だったわけです。間接的に。だから、両者は「親子」なのです。しかし、科学は、結果として、世界の現象の全てにバッテンをつける羽目になってしまった。だから、「私生児」……いや、「穀潰しの三代目」というから、宗教の「孫」の方が適当かもしれませんね。

(『オカバヤシハルオの冒険』より)

2023年4月17日月曜日

日曜美術館「画聖明兆」:メモ

「大涅槃図」(1408年)を製作中、一匹の野良猫がずっとそばに居たので、明兆はその野良猫を涅槃図の中に描いた。釈迦涅槃図で嘆き悲しんでいる動物の中に、ふつう、猫はいない。

東福寺の火事で焼け残った大仏の左手「仏手」


2023年4月16日日曜日

「現代のサリエリ」たち

【注意】坂本龍一を音楽家として崇拝・敬愛している人は、以下の「個人の感想」を読んではいけません。著者にその意図は全くありませんが、誤って読めば、極フユカイな気分になる可能性があります。

最初に断っておくと、教授(坂本龍一)は、私にとって、「十代の頃にお世話になった私塾の先生」のような存在(因みに、現実の塾の類に通ったことはない。カネもなかったが、必要もなかったから。だから、塾の先生の具体例は知らない)。十代で接した「遠くにいる身近なオトナ」の代表が教授。だから、当然、ものすごく、いろいろと、そしてアホほど、その後の人生に影響を受けている。影響というか、教授キッカケで、いろいろ知ったり始めたりしている。

例えば、17歳のときに、初めて、吉本隆明の『共同幻想論』(オトナの幽霊読本)を読んで、頭がクラクラするくらい感激し、それからしばらくの間(数年間)、吉本を読みふけったのだけれど、それだって、教授が『OMIYAGE』の中で、「今でも吉本は読むよ」と言ってるのを見て、「吉本って誰だ?」と思ったのがキッカケ。当然、中古のKORG(モノポリー)とか、ダブルカセットデッキとかで「宅録(多重録音)」も散々やった(結局「サンスト」にデモテープは送ってないけど)。

アルバムだって、『千のナイフ』から『未来派野郎』まで全部持っていた(勿論、その後の『smoochy』とか『Beauty』とか『1996』なども)。いや、アルバムどころか、『Warhead』だの『禁じられた色彩』だの『Steppin' into Asia』だの『Field Work』だのの「シングル」も全部買って聴いていた(財布を叩いて)。

そんな十代の私が、当時、無意識の水底にずーっと抱えていた違和感があって、それを今わかり易い言葉で表わせば、「でも、教授とは趣味が合わない」。教授の作る音楽は、音楽理論的にか作曲理論的にはきっと素晴らしいのだろうけど、どうしても「ダサく」感じてしまっていたのだ。今、当時を振り返ってみれば、「こっ恥ずかしいけど、上等な音楽のハズだから、澄ました顔して聴いてます」だった気がする。音楽に限らない。たまにテレビで見たりしたときも、一緒に出ている細野さんや幸宏が妙に「粋」だから、余計に教授の「イモ兄ちゃん」ぶりが目立って、「見ているこっちが恥ずかしい」状態だったことを覚えている。結局、教授って生涯「イモ兄ちゃん」だった気がする(これは悪口ではない!)

とは言え、教授から或る種の「薫陶」を受けたのは間違いない。ありがとう教授。勝手にお世話になりました。「サンスト」に色紙を送りつけて返送してもらった直筆サインは今でも持ってますよ。そして、さようなら。25年後にBlack Lodgeで会いましょう(いや、Black Lodgeには細野さんしかいないか)。


で、やっとここからが「悪魔」の本題なのだが、その「心の恩師」とでもいうべき教授に対する現在の私の評価は、もう、完全に、「現代のサリエリ」(ここで言うサリエリは、あくまでも映画『アマデウス』に登場するサリエリ)。

何も教授一人を「貶め」ようとしてるわけではない。世に天才と呼ばれる表現者は少なくないが、実際に彼らの作品(表現)に接したときに、「ちょっと待て」「それほどのものか?」と言いたくなる人たちがいて、私は彼らを、密かに、「現代のサリエリ」と呼んできた。

その「彼ら」とは、輒ち、手塚治虫(漫画家)、立川談志(噺家)、宮崎駿(アニメ監督)、ビートたけし(お笑い芸人)、そして坂本龍一(音楽家)である(生年順。もはや「現代の」とは言えない一人を付け足せば、芥川龍之介(小説家)も)。それぞれにとっての「モーツァルト」は……それはまあ、やめておく。

ここで大事なのは、サリエリが皇帝お抱えの当代随一の音楽家であること(当代随一の音楽家だからこそ、劇中のサリエリは、モーツァルトの「真の天才」を理解できるわけだが、同時に、自分がモーツァルトのような「真の天才」ではないことも理解できてしまうところに、サリエリの不幸がある)。つまり、私の言う「現代のサリエリ」たちも、皆、当代随一の「天才」には違いないのだ。しかし、そんな彼らも、「真の天才」の前では「究極の観客・最良の理解者」でしかない。なんとなく「柱の男」と「石仮面の男」の関係を思い出す。どちらも人間を超えているが、両者は、決定的に、対等ではない。

「何様のつもりだ!」という意見は、ちょっと待って欲しい。絶品と評判のラーメン屋のカウンターに座って、「なるほどこれは旨い! しかし、もっと旨いラーメンを食ったことがある」と思うことは、「素人」にも許されるはず。「個人の感想」の表明に「立場」は要らないだろう。

何故ワザワザ、こんな、誰も喜ばない・誰も幸せにしないようなことを書いたのかと言えば、これはもう只々、教授が他界したことでネット上に溢れ出した、彼を「崇め奉る」記事に対する私自身のモヤモヤ(違和感)を「成仏」させたかったから。

最後に念を押すと、私は上に挙げた「現代のサリエリ」たちが嫌いなのではない。嘗て一度はのめり込みハマった結果の、「現代のサリエリ」認定である。


追記:結局、教授は「音楽家」ではなく「音響家」だったように思う。つまり、彼の「真の天才」は、「音楽」ではなく、「音響」の方にあった。正式な音楽教育を受けたおかげで「ちゃんとした音楽」を作れてしまえるので、うっかりそっちの方で「世界のサカモト」扱いされてしまったけれど、それは彼の「本分」ではなかったように思う。「音楽」に組み立て上げる以前の「音の響き」そのものに対する彼の「感性(審美眼)」こそが、もう完全に、「サリエリ」ではなく「モーツァルト」だった。

2023年4月12日水曜日

「デウス・エクス・マキナ」という言葉にウットリしすぎ

「デウス・エクス・マキナ(deus ex machina)」輒ち「機械仕掛けの神」と聞くと、みんな「機械仕掛け」の方に気持ちが行くけど、「機械仕掛け」は「やむを得ず」だから。当時は、映画も、特撮技術も、CGも、プロジェクションマッピングもなかったから、仕方なく、舞台に登場させる神を機械で表現しただけのこと。ただの演出技法。だから、今なら、「プロジェクションマッピングの神」でも「CGの神」でもいい。

「デウス・エクス・マキナ」が目指したのは、「神」の方であって、「機械仕掛け」は、ウルトラマンの「背中のファスナー」みたいなもの。

科学技術の進歩で、機械(ロボットやAI)が「神」になる、とかいう文脈で引っ張り出されがちな、「デウス・エクス・マキナ」という言葉は、トンチンカンな使われ方をしている言葉の典型。

2023年4月10日月曜日

0.2時間は何分?

 例えば、「24.2時間」は「24時間20分」っぽいが、たぶん違う。なぜなら、「24.5時間」は「24時間50分」ではなく、きっと「24時間30分」だからだ。つまり、「24.2時間」は、「24時間+(60x0.2)=24時間12分」のはず。

『臨済録』:メモ

どこかの有名人(故人)が、戦時中か大震災後に、「『歎異抄』と『臨済録』さえ焼け残っていればいい」と言った、という話を聞いて、『臨済録』(岩波文庫版)を読んだ(『歎異抄』は既読)。と言っても、口語訳の部分だけ(そのあとで、『臨済録』の解説本のようなものも読んだが、いい加減バカバカしくなって、半分で放り出した)。

『臨済録』は、謂わば「絵心のない人が描いた画集」だった。おそらく、そもそも、言葉で説明する能力の劣った人が始めた宗教なのだろう。そして、代々、言葉で説明する能力の劣った人たちがトップに君臨してきた宗教なのだ。

しかし、人並みの知能の持ち主が言葉で説明できないのなら、それは最早、最初にゴータマさんが「悟った」こととは何の関係もないシロモノ。劣化続編。

『臨済録』に登場する人たちが有難がったり修行の目標にしている「悟り」だの「境」だのは、それを「神」だの「宇宙意志」だのに言い換えても特に違和感のない、単なる神秘主義的観念。なので、そりゃあ、言葉では説明できない。ゴータマさんは「考え方」や「見方」を説いただけなのに、『臨済録』の中の人たちが目指しているのは、キリスト教的に言えば、「神と一体になる」みたいなことになっていて、ヤレヤレな気分。

こうした「先祖返り」や「知的後退」が起きた理由は、たぶん、「深い瞑想体状態」を「特別なナニカ」だと勘違いしてしまったから。もっと具体的に言うと、「自分自身が消える=世界と一体化する」という(脳の誤作動を)実際に体験をすることで、初めて、「空」だの「無」だのという、所謂「仏教的境地」を「悟る」ことができると、「誤解」したから

しかし、「深い瞑想状態」は、死にかけても薬物を使っても脳に電気を流しても起きる、ただの生理反応(てつねこ学的に言えば、〔媒体に過ぎない生命現象〕の属性)。脳科学や神経科学やらが発達した現代では、「鼻の穴にコヨリを突っ込んだらくしゃみが出る」くらい、どうということもないことだが、『臨済録』の当時は、その種の科学知識はほぼ皆無なので、必然的に、理屈では説明できない「尊いもの」「超越的なナニカ」という認識になる。

更に「悲劇」は続く。どうすれば誰もが「深い瞑想状態」を体験できるようになるかはよく分からないが、「深い瞑想状態」にある間は、普段あるような理屈や道理や合理性が吹き飛んでいるといういうことは「理解」できているので、「要はそれ(道理が吹き飛んでいる状態)を再現すればいいんじゃないか」と、道を誤るのだ。

そして、坂道を更に転げ落ちる。理屈や道理や合理性を作り上げるものは言葉なのだから、「深い瞑想状態」に到達するには、まず言葉の「呪縛」から解き放たれなければならない。逆に言えば、言葉を使って理屈を考えているようでは、目指す場所からは益々遠ざかる。そこで、言葉で丁寧に説明することを忌み嫌うようになり、逆に、あんなバカバカしい頓知問答が繰り返される。

知識も概念も用語もないけど、どうにかしてアレ(「悟り」)を他の人にも〔体験してもらおう・理解してもらおう〕と大真面目に頑張ったら、結果、松本人志の『ドキュメンタル』的な「ボケ合戦」になってしまった、というわけ。

そう。『臨済録』の中で繰り広げられているのは、喩えるなら、お笑い芸人同士のボケ合戦なのだ(今、「喩える」と言ったが、本当は「正味同じ」だと思っている)。だから、やたらと登場する「喝!」の「正体」は、漫才師の「なんでやねん!」「ええかげんにしなさい!」「もうええわ!」。

お笑い芸人たちと、『臨済録』の登場人物たちの違いは、前者が「オレの笑いを理解できるか?」「オレの笑いの方が破壊力がある」「オレの笑いのセンスは素晴らしい」と競い合っているのに対して、後者では「笑い」の部分が全部「悟り」や「境地」になっているということだけ。『臨済録』の中で繰り広げられている問答は、ひな壇芸人たちがバラエティ番組で競い合っている姿そのまま。傍から見ている者にとってはそれほどでもないもの(笑い・「悟り」)が、当人たちにとっては命がけの一大事なのもそっくり。

もうひとつ。『臨済録』の中に出てくる人たちほど、言葉に拘泥している人たちはいない。彼らが言葉の「無力さ」を力説し続けているのは実に皮肉。というか、バカなのかな、とさえ思った。自分の姿が見えてないとはこういうことか、と。それが『臨済録』を読んで勉強になった唯一のこと。のようにも思える。





2023年4月9日日曜日

『Live Boxing 4』:メモ

那須川天心のCMに釣られて、Prime Videoの『Live Boxing 4』を観た(結局、丸々5時間以上。ご苦労さん)。

なるほど、天心という選手は、所謂「当て勘」が素晴らしい。相手選手との差は、ボクサーとして、というより、より根源的な、格闘家としての才能や資質や経験の差だと思った。

とは言え、相手選手は、確か31歳。

言うまでもなく、人間は生き物なので、歳を重ねると色々「衰える」。中でも、「反応速度」の衰えは、30歳を過ぎたあたりから「問題」になり始める。もちろん、普通の人には、30歳overの「反応速度」(の衰え)が「問題」になることはないが、例えば、F1レーサーやボクサーのような〔ミリ秒レベルの反応速度〕が求められる人たちには「当人が愕然とするような現実」として立ちはだかる。あと、格闘ゲーマーが30を過ぎると辛くなっていくのも同じ理由。F1レーサーやボクサーや格闘ゲーマーにとって、30代の「反応速度」は、一般人にとっての「老眼」のようなもの。つまり、相手選手が天心選手に「翻弄」されたのは、「歳のせい」もあると言えば、言える。かもしれない。

振り返ってみれば、メインイベント以外は全て、「若者」対「年寄り」になっていた(つまり、「そういうこと」なのだろう)。今回の興行で、もっとも「派手」な終わり方をした(一般受けがいいに違いない)試合は、勝った方が21歳で、豪快にノックアウト負けした方は37歳。井上弟と戦ったベネズエラ人はなんと41歳だった。

そう考えると、「若者」同士が戦ったメインイベントが、今回一番の名勝負になったのも当然な気がする。日本人チャンピオンに負けたメキシコ系アメリカ人のあの選手、好かったよね。今回はまだお母さんに家は建ててあげられなかったけど。観戦途中から、『ロッキー』(初代)のBGMが脳内に流れていた。試合をすることになった経緯も、勝敗の結果も、『ロッキー』だった。

でも、一番気になったのは、常に勝利者インタビューの背景で微笑み頷いていた青いワンピースの二人のお姉さん(ラウンドガール)。なんで、こんなふうに、毎回毎回、あからさまに、図々しく、堂々と画面に映り込んでいるのか謎だったからだ。ワンピースの胸のマークにナニカ書いてあるのでよく見ると、「Live Boxing」と書いてあった。それで、ああ、彼女たちは「パネル」だったのかと気づいた。「パネル」というのは、サッカーの試合などが終わったあとで監督や選手がインタビューを受ける時、背後に立てられている、スポンサーのロゴがたくさんプリントされているアレ。四方から観客が観ているリングの上にパネルなんか立てたら、「後ろ」の観客が勝利者インタビューを見物できなくなってしまうからね。

【追記】あとで知ったけど、メインイベントの日本人チャンピオンは31歳だったんだね。じゃあ、「若者」同士の戦いじゃなかったのか。だから、挑戦者はあそこまでガンバレタ(接戦に持ち込めた)のかな。

2023年4月7日金曜日

家畜化:メモ

・「雀も鳩も家畜です」(研究者)

・家畜化すると白くなる

・オキシトシンは身内意識を高めるだけ=身内以外には攻撃的になる


(NHK ヒューマニエンスQ)

ドローン配達の未来

ドローン宅配が一般化すると、ふつうの住宅でも、屋根に相当する場所に荷物受け取りスペースの類を作るようになるだろう。郵便でも宅急便でも、配達物は「上」で受け取るのが当り前になる。手紙や新聞がまだ生き残っていたら、それらも「上」に取りに行くことになる。

ICC非加盟国

国際刑事裁判所(ICC)がプーチンに逮捕状を出したことで、ロシアがICCに非加盟なこと、そしてUSAも同様に非加盟なことを知った。ロシアに劣らず、USAもアフガニスタンとかアチコチで、後ろ暗いことをしているので呑気にICCなんかに加盟してられないのだというハナシ。うっかりしたら、プーチン同様、米大統領にも逮捕状が出かねない。

 ウサイン・ボルトよりフツウの家猫の方が速いそうです。

2023年4月4日火曜日

今日の猫さん(2023.04.04)


 

『Gメン75』第一話を観た。

 東映の公式ユーチューブが『Gメン75』の第一話と第二話を配信していたので、とりあえず、第一話を観た。好かった。物語も(ちょこちょこおかしなところがあるけど)大人の鑑賞に耐えるレベルで好い。そういえば、Gメンってバッドエンドが多かったよな、と思いだした。

お話以上に、好かったのが1975年当時の街の風景。ビル、走ってる車、通行人の服装、モノレールなどなど、なんだか、観てるだけでクラクラしてくるくらいい好い。

更にもう一つ。撮影がワイルド。おそらくエキストラではなく、本当の街の通行人たちの中を登場人物たちが走り回っている。

当時、『全員集合』の後、流れで観たり観なかったりしていた『Gメン75』だが(小学生だし)、本当の第一話を観たのは初めてだと思う。最初は、女の刑事は夏木マリじゃなかったんだね。あと、若林豪もいない。