【注意】坂本龍一を音楽家として崇拝・敬愛している人は、以下の「個人の感想」を読んではいけません。著者にその意図は全くありませんが、誤って読めば、極フユカイな気分になる可能性があります。
最初に断っておくと、教授(坂本龍一)は、私にとって、「十代の頃にお世話になった私塾の先生」のような存在(因みに、現実の塾の類に通ったことはない。カネもなかったが、必要もなかったから。だから、塾の先生の具体例は知らない)。十代で接した「遠くにいる身近なオトナ」の代表が教授。だから、当然、ものすごく、いろいろと、そしてアホほど、その後の人生に影響を受けている。影響というか、教授キッカケで、いろいろ知ったり始めたりしている。
例えば、17歳のときに、初めて、吉本隆明の『共同幻想論』(オトナの幽霊読本)を読んで、頭がクラクラするくらい感激し、それからしばらくの間(数年間)、吉本を読みふけったのだけれど、それだって、教授が『OMIYAGE』の中で、「今でも吉本は読むよ」と言ってるのを見て、「吉本って誰だ?」と思ったのがキッカケ。当然、中古のKORG(モノポリー)とか、ダブルカセットデッキとかで「宅録(多重録音)」も散々やった(結局「サンスト」にデモテープは送ってないけど)。
アルバムだって、『千のナイフ』から『未来派野郎』まで全部持っていた(勿論、その後の『smoochy』とか『Beauty』とか『1996』なども)。いや、アルバムどころか、『Warhead』だの『禁じられた色彩』だの『Steppin' into Asia』だの『Field Work』だのの「シングル」も全部買って聴いていた(財布を叩いて)。
そんな十代の私が、当時、無意識の水底にずーっと抱えていた違和感があって、それを今わかり易い言葉で表わせば、「でも、教授とは趣味が合わない」。教授の作る音楽は、音楽理論的にか作曲理論的にはきっと素晴らしいのだろうけど、どうしても「ダサく」感じてしまっていたのだ。今、当時を振り返ってみれば、「こっ恥ずかしいけど、上等な音楽のハズだから、澄ました顔して聴いてます」だった気がする。音楽に限らない。たまにテレビで見たりしたときも、一緒に出ている細野さんや幸宏が妙に「粋」だから、余計に教授の「イモ兄ちゃん」ぶりが目立って、「見ているこっちが恥ずかしい」状態だったことを覚えている。結局、教授って生涯「イモ兄ちゃん」だった気がする(これは悪口ではない!)。
とは言え、教授から或る種の「薫陶」を受けたのは間違いない。ありがとう教授。勝手にお世話になりました。「サンスト」に色紙を送りつけて返送してもらった直筆サインは今でも持ってますよ。そして、さようなら。25年後にBlack Lodgeで会いましょう(いや、Black Lodgeには細野さんしかいないか)。
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で、やっとここからが「悪魔」の本題なのだが、その「心の恩師」とでもいうべき教授に対する現在の私の評価は、もう、完全に、「現代のサリエリ」(ここで言うサリエリは、あくまでも映画『アマデウス』に登場するサリエリ)。
何も教授一人を「貶め」ようとしてるわけではない。世に天才と呼ばれる表現者は少なくないが、実際に彼らの作品(表現)に接したときに、「ちょっと待て」「それほどのものか?」と言いたくなる人たちがいて、私は彼らを、密かに、「現代のサリエリ」と呼んできた。
その「彼ら」とは、輒ち、手塚治虫(漫画家)、立川談志(噺家)、宮崎駿(アニメ監督)、ビートたけし(お笑い芸人)、そして坂本龍一(音楽家)である(生年順。もはや「現代の」とは言えない一人を付け足せば、芥川龍之介(小説家)も)。それぞれにとっての「モーツァルト」は……それはまあ、やめておく。
ここで大事なのは、サリエリが皇帝お抱えの当代随一の音楽家であること(当代随一の音楽家だからこそ、劇中のサリエリは、モーツァルトの「真の天才」を理解できるわけだが、同時に、自分がモーツァルトのような「真の天才」ではないことも理解できてしまうところに、サリエリの不幸がある)。つまり、私の言う「現代のサリエリ」たちも、皆、当代随一の「天才」には違いないのだ。しかし、そんな彼らも、「真の天才」の前では「究極の観客・最良の理解者」でしかない。なんとなく「柱の男」と「石仮面の男」の関係を思い出す。どちらも人間を超えているが、両者は、決定的に、対等ではない。
「何様のつもりだ!」という意見は、ちょっと待って欲しい。絶品と評判のラーメン屋のカウンターに座って、「なるほどこれは旨い! しかし、もっと旨いラーメンを食ったことがある」と思うことは、「素人」にも許されるはず。「個人の感想」の表明に「立場」は要らないだろう。
何故ワザワザ、こんな、誰も喜ばない・誰も幸せにしないようなことを書いたのかと言えば、これはもう只々、教授が他界したことでネット上に溢れ出した、彼を「崇め奉る」記事に対する私自身のモヤモヤ(違和感)を「成仏」させたかったから。
最後に念を押すと、私は上に挙げた「現代のサリエリ」たちが嫌いなのではない。嘗て一度はのめり込みハマった結果の、「現代のサリエリ」認定である。
追記:結局、教授は「音楽家」ではなく「音響家」だったように思う。つまり、彼の「真の天才」は、「音楽」ではなく、「音響」の方にあった。正式な音楽教育を受けたおかげで「ちゃんとした音楽」を作れてしまえるので、うっかりそっちの方で「世界のサカモト」扱いされてしまったけれど、それは彼の「本分」ではなかったように思う。「音楽」に組み立て上げる以前の「音の響き」そのものに対する彼の「感性(審美眼)」こそが、もう完全に、「サリエリ」ではなく「モーツァルト」だった。