2023年9月30日土曜日

「観るべき映画」指標の頂点

山田玲司が動画(ヤンサン)の中で言及していて興味を持ったので『スポットライト:世紀のスクープ』という映画を観始めたら、主要な登場人物の一人(編集のデスク役)をMicheal Keatonが演じていた(彼が出ているのは知らなかった)。映画はまだ20分くらいしか観てないから、今から話すのはこの映画の話ではない。「出演俳優が〔観るべき映画の指標〕になる」という話。と言っても、贔屓の俳優を観るために観るべき映画を決めるという話でもない。

ちょっと、ややこしいが、こういうことだ。

特定の俳優が出ている映画は、仮にその俳優が出ていなかったとしても、その映画自体が、自分好みの映画である確率がすごく高い、ということ。

まだ、わかりにくい。簡単なことなのだけれど、説明するとなると、妙にややこしい。つまりこうだ。

世の中には数多映画が存在する。しかし自由になる時間や体力(視力)は限られている。人生は短い。その場合、映画の趣味が自分と同じかよく似た〔友人や有名人〕のオススメが参考になる(逆に、アマゾンのレビューは、「どこの馬の骨」が書いたかわからないので全く参考にならない)。しかし、一番アテになる「オススメ」は、どんな「大物俳優(big names)」が、主要な登場人物(最高は主人公)として出演しているのかということ。新人俳優は出演作品を「選べない」が、「大物俳優」は出演作品を「選べる」。だから、大物俳優は、自分自身が「好い」と思った作品にしか出演しない(はず)なので或る大物俳優が主役級で出演している映画は、自動的に、その俳優が「星5」をつけている作品とみなして(だいたい)間違わない。

で、長く生きて、少なくない数の映画を観てくると、自分と同じ〔映画の「好み・趣味」〕を持った大物俳優が見つかる。私の場合は、日本人なら山﨑努、外国人ならMicheal KeatonとNicole Kidman。彼らが主役級で出演している映画は、(ここが重要なのだが)ジャンルに関係なく、観れば、かなりの高確率で「ああ、好い映画だ。観てよかった」と思える。それは山﨑努やMicheal KeatonやNicole Kidmanを観られるからではなく(まあ、それもあるけど)、その作品の〔哲学や価値観や主張やモチーフ〕そのものを好いと思えるからだ。だから、極論を言えば、彼らの代わりに別の俳優たちが出ていても、私にとってその作品は「好い」映画なのだ。が、山﨑努やMickeal Keatonが出演していなければ、それが自分にとって「好い」映画かどうかは、事前には知りようがない。

以上、自分と〔映画の趣味〕があう大物俳優を見つけると、以降、「観るべき映画選びの指標」として彼らを使える、という話。そして、まだ20分しか観ていないけど、『スポットライト』は自分好みの映画の匂いがプンプンしている。Micheal Keaton指標は伊達じゃない。

ついでに余計なことを言うと、観ているのは当然「吹替版」。何度も言うけど、映画は本じゃないから(音声を聞きつつ、映像を鑑賞するものだから)。「字幕派」は、俳優本人の声とかセリフとかをどうこうって言いがちだけど、英語の言い回しの細かいニュアンスまで直に聞いて理解できるなら、そもそも字幕は要らないわけで。もっと言ってしまえば、映画の字幕って、経済的・技術的な理由を持つ「次善の策」「苦肉の策」としか思えないんだよね。映画体験を「損なって」いる気がしてしようがない。同じ映画を5周くらいして、登場人物たちが何を言っているか概ね分かっている状態になったら「字幕版」にしてもいいかも。そのときは、逐一、字幕を負う必要はないから、眼前に展開している映像を堪能できるし。しかし、その場合は、字幕を「英語」にしてしまったほうがいいよ。実際、私は、何周もしてるLynch作品群は全て英語音声・英語字幕で観てる。まあ、余計なお世話な話です。


2023年9月28日木曜日

【バイコマ】「高射砲破壊」の次のステージの「省エネ」攻略

高射砲を破壊した次のステージは、ゴリメカ2体を倒せば出口が開く。輒ち、三本足x1、スナイパーx2、兵士xたくさん、は素通りしてかまわない。

低いルート(スナイパーや兵隊の足の下)を一目散に進んで出口前まで来たら、出て来たゴリメカx2にまとめて「ハガー」をくらわせ、すぐに一番近くの「橋の柱」の陰にかくれる。出口を12時方向とするならこの柱の5時や6時あたりの位置がスナイパーに狙撃されない「安全地帯」。ここから「タランチュラ」でゴリメカにロックオンし、ミサイルのホーミング機能で、2体とも始末する。これだけ。

但し、読んで分かった通り「タランチュラ」は必携(もし携行武器が違うなら、もっと地道な別の攻略法で)。



BarbaraとFrankie:ラジオ英会話

大西泰斗の「ラジオ英会話」を一週間遅れで聞いている(アプリで)。今日聞いたのは、大好物のDeepakの店のカレーを食べ残すBarbaraのdialogue。Barbaraは、売り物件の庭の薔薇を勝手に摘み取ったFrankieに腹を立てすぎて(「前回」のdialogue)、それが理由で好物のカレーも食べきれないと言っているのだが、それは違う。BarbaraはFrankieに恋をしているのだ。ご当人もまだ気づいてないようだけど。

2023年9月27日水曜日

△『岸辺露伴・ルーブルへ行く』視聴。Prime Video

2023年9月25日月曜日

所謂「カップ焼きそば」のキャベツ系の「かやく(具)」は、たとえ、先に入れろと指示されていても、湯切りしたあとで麺にもぐり込ませてふやかした方が、風味も食感も好くなるから、本当に。

2023年9月22日金曜日

所謂「歴女」のような、戦国武将を敬愛している人たちは、今のプーチンのことはどう思ってるんだろう?
【バイコマ】「フィッシャー」を抜けたあとの、屋上に中継機があって、その周りを二機「三本足」が飛び回っているいるエリアは、中継機を守っている兵隊三人を倒せばクリア。つまり、「三本足」は破壊しなくてもいい。ということを、今日(181周目)にして気づいた。因みにこれは、最終局面の「コンストラクター」と同じ仕様。ただし、援軍のパラシュート部隊が到着してしまったら、彼らも全滅させなければならない。

「三本足」の攻撃をよけながら、兵隊を始末するのはわりと大変。だから、難易度的には、とりあえず兵隊は無視して、先に「三本足」を二機とも破壊したほうが楽だが、「三本足無視」戦術は、ハマれば「一瞬で」クリアできるので、気分がいい

【注】以上の内容は原理的には正しいのだが、一旦開いた中継器は、三本足が近づく度に閉じてしまう(離れて行けばまた開く)ので、中継器をハッキングするには、三本足を中継器から離れた場所に誘導する必要がある。それは三本足が2機とも残っていると割と大変。要するに、三本足は(少なくとも1機は)破壊した方が実際的。

2023年9月19日火曜日

David Graeberによって広まった「ブルシット・ジョブ」という概念の「具体例」を愉しく知りたかったら、『サウスパーク』のシーズン16・エピソード2「貴金属チャンネル」を観よ。名作! 別に宣伝じゃないけど、Amazon Prime経由のMTVチャンネルで吹替版が観られる。

2023年9月18日月曜日

『VIVANT』(全10話):メモ

橋爪功の存在感ってなんか、凄いなあ、と思った。最後の最後にチョロっと出てきて、「やめろ!ちがう!』言ってるだけなのに、結局、『VIVANT』って、橋爪功のドラマだったような気がしてくるから恐ろしい。いや、実際、橋爪功の演じる公安課長(当時)が、この『VIVANT』という物語の最初の最初のキッカケと作ったんだから、言ってみれば、橋爪功のドラマだって言えば、そうななんだけどね。

演技(芝居?)で一番感心したのは、堺雅人に「テントの最終目的地は日本なのか」と訊かれた役所広司が「昔は恨みに思っていたけど、今はもうどうでもいい」的なことを言って、それを否定するところ。

つまり、本心をズバリと言い当てられた人間が、「いやそんなことないですよ。それは違うます」と、嘘をついて否定するときの、「嘘がつききれてない感じ」「なんとかしてはぐらかそうとしているのが透けて見える感じ」「本当のことを言われて心穏やかでないけれど、できるだけ平気な顔をして、相手が勘違いしているだけだと思わそうとして、しかし、挙動が微妙におかしくなる感じ」が、見事に表現されていて、凄いと思った。

が、その「凄い」が本当なのか、単なるこちらの「勘違い」なのかは、最終回を見るまで確かめようがななかった。これもまた、橋爪功(が演じたキャラ)が登場によって、「勘違い」ではないことが分かった。やはり、凄かったのだ。ただし、この場合は、橋爪功じゃなくて、役所広司が凄かったんだけどね。

2023年9月15日金曜日

『Zガンダム』5周目:メモ

◯『Ζガンダム』を一文で言い表せば「痴話喧嘩の合間に戦争している話」。あるいは、「何人かの痴話喧嘩に巻き込まれて、無関係な大勢が死んでいく話」。

◯シロッコが象徴しているのは、「分かったようなことを言って、キャラ同士の殺し合いを見物しているガンダムファン」。これは大発見でもなんでもない。当人がそう言ってるし、ハマーンにもそう言われている。更に言えば、カミーユのシロッコに対する最後の叫びがまさにそれ。ガンダムの続編を無理矢理作らされた富野さんからの、「ガンダムファン」(おもちゃ屋を含む)に対する「怨み節」の爆発。

◯『初代』は、人類は結構な割合がニュータイプになる、と仄めかして終わる。その7年後の『Z』は、そこら中にいる「ニュータイプ」同士が戦場で殺し合ったら、当人たちには地獄だというオハナシ。輒ち、「アムロ・シャア・ララァの悲劇」が、毎回毎回繰り広げられる修羅場アニメ。

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【『Zガンダム』を勘定に入れない理由】

「痴話喧嘩」を延々描いて、最後に「オカルト」で終わるのが『Zガンダム』。ここで言う「オカルト」は、例えば、巨大隕石が地球に衝突するDisaster映画の結末で、人類が心を一つに「神様」に祈ったら、隕石が地球を逸れて、やれやれ助かった、みたいな展開のこと。最終決戦で死んだ人間(主に若い女たち)の幽霊(残留思念?)が次々と現れ、主人公に味方し、それによって主人公がいきなり謎の「無敵状態」になって物語を終結させるってのは、もう、ただの「少年ジャンプ」。でも、これはまだいい。「少年ジャンプ」は、馬鹿になれば愉しめるし、全部カミーユの勘違い(思い込み)ってこともあり得るから(実はそうとは知らずに、Ζやジ・オやキュベレイには、後に「サイコフレーム」と呼ばれるものが「材料」として使われていた、という「SF設定」を、ねじ込もうと思えば出来る)。

「勘定外」輒ち「落第」を決定的にするのは、シロッコを守ろうとする幽霊のサラに対して、幽霊のカツが、「あの人(シロッコのこと)も、こっちですぐに一緒になれるから」的なことを言って説得し、サラもそれで納得すること。要するに「死んだほうが幸せ」が『Zガンダム』の根底に流れている思想(という本音・諦め?)だということが、はっきりと示されている。これが決定的に駄目。

(因みに、この「死んだ方が幸せ・生まれる前が本来の有り様」思想は、『Ζガンダム』に限った話じゃない。劇場版『イデオン』の結末は、ガッツリそのとおりだし、『ダンバイン』の「バイストン・ウェル」だって、ありゃあ、どう見ても、「魂が帰る場所・本来居る場所」、要するに、「死んだ後・生まれる前」の世界。つまり、これは、富野さんの「持病」。)

「死後の世界」や「死後の実在」や「肉体に拠らない魂の永続性」が、物語の一番土台にあって、その「表層(生きている人間たちの世界)」で、好きだ嫌いだ、殺す殺されるをドタバタやってるという「世界像」を持っている『Zガンダム』は、自分自身の全50話を「最初から」全否定している。登場人物たちは、殺したり殺されたり、泣いたり怒ったり、騙したり騙されたりと、いろいろやってるけど、その全部は、「死んだほうが幸せ」という「真理」を「悟ってない」連中の「愚かな馬鹿騒ぎ」だと言ってるのと同じだから。

このことは、「魂」になった全キャラが全裸で宇宙を心安げに漂う劇場版『イデオン』のラストの方がもっとわかりやすい。観客はあの場面を見せられて、こう思うに決まってる。「死んでそんなに晴れ晴れと安心できるなら、ここまで見せられた二時間近くの〔殺すの殺されるのの大騒ぎ〕は一体なんだったの?」。

『イデオン』について書いたときにも書いたことだけど、「死後の実在」を肯定し、「死んだ存在になったら安らぎと悟りを得られる」とやってしまえば、生きている間のすべては、ただの「悪夢」に過ぎないことになってしまう。死んだことで、文字通りに目覚めて、「ああ、怖い嫌な夢をみていた」と安心するわけだから、これは、もうただの「夢オチ」。劇場版『イデオン』は、あのラストを付け足したせいで、完全な「夢オチ」アニメになったし、ちょっと分かりにくいけど、『Zガンダム』も、戦死者たちが全員、「安らいだ(ものが分かった風の)幽霊」となって、客観描写で登場してくる時点で、やっぱり「夢オチ」なのだ(←生きている人間たちが活動している世界は「本当の世界=本来あるべき世界」ではない、という立場だから)。

「夢オチ」が物語としては〔最低・最悪〕なのは、そもそも「虚構」である物語の「内側」で、もう一度「虚構でした」とやってしまうから。残虐非道なキャラクターに対して「本気で」ムカついている観客に向かって、当のキャラクターが画面の中から「ねえ、これ作り物だよ、芝居芝居。何をムキになってんの?」って言ってしまうような「ぶち壊し感」が炸裂するから。

初代『ガンダム』や『∀ガンダム』には、奇跡的にそれ(人間は死んでいる方が幸せで安寧で嘘がないという思想)がない。多分、この2作を作っているときの富野さんが「強気」だったからだろう。「自信」があったのだ。自信がなくて、弱気なときは、「高尚なもの」を小賢しく目指してしまう。でも小賢しさだけで「高尚なもの」を作り出そうとすると、まあ、たいてい、何千年も前から弄り倒されてきた、「魂の永続」だの「人間の精神の真の姿」だの「本当の世界」という「おもちゃ思想」に釣り上げられて、水面でパクパクしながら、「一見深淵、実は、幼稚で陳腐」な物語世界を構築してしまう。

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追記:人間存在の「理由」と「役割」は、我々の「物生知現象説」でもう答えが出ているのだが、人類のほとんど全ては、未だに「生命教信者」のままなので、どうしても「おもちゃ思想」を有難がって、『Zガンダム』だの『エヴァンゲリオン』だのに恍惚となる。






2023年9月13日水曜日

【Zガンダム】ハマーンは、ブラックロッジから出てきた「悪い」セイラさんだよ。
【Zガンダム】エゥーゴの標準のノーマルスーツは色が黄色でマヌケだといつも思っていたけど、ホワイトベースの標準のノーマルスーツがやっぱりマヌケな黄色だからソレが理由か、と、今頃になって気づいた。

空画:2023.09.12

 







2023年9月10日日曜日

『明鏡止水・武の闘球』(ラグビー編)を愉しく観た。岡田くん(世界大会お疲れ様)と、ケンドーコバヤシの両方が元ラグビー部だったとは。あと、高阪剛、最初気づかなかった。グラップラー変態ぶりが、歳を増すごとに、拡大している気がする(褒め言葉)。「内旋」で倒す。

2023年9月9日土曜日

【Zガンダム】ハマーンとレコアは完全に同じタイプの女。手にしている「チカラ」が違うだけ。 

2023年9月8日金曜日

【バイコマ】港:第一の高射砲を破壊して、第二の高射砲に向かう途中のトタンの壁は、投射物(箱やドラム缶)が通り抜ける(樹の茂みと同じ仕様)。輒ち、向こうにいる敵兵に、トタン板越しに物をぶつけられる。

かぐや姫の「神田川」の女子は、なんで銭湯の外で待ってるんだろう?

2023年9月6日水曜日

【memo】「半殺し」(おはぎの呼び名)の由来

米を「つき殺さず(=つき切らず)」に、半分だけ原型をとどめた状態にしておくことから、「半殺し」。

(土井善晴/NHK「きょうの料理」)

実は全然モテてないカミーユ(それに比べていつもモテモテのアムロくん)

『Zガンダム』全体の印象と、最終回のシロッコとの最終決戦の場面の印象で、なんとなく「女子にモテモテ」だと思われがちだが、実は、カミーユは全く女子にモテてない。幼馴染のファだけが、「本気」でカミーユカミーユ言ってるだけ。

思い返してみれば、カミーユにグイグイ来る女子は強化人間だけ。ニュータイプの女子ならイケそうか、と言えば、そうでもない。本当のニュータイプであるサラにはしっかり「素通り」されている(まあ、サラはすでにシロッコの「お手つき」だったってのもある)。

「薬漬け」の強化人間であるフォウやロザミアは、倒すべき相手としてのカミーユという存在を、人為的に意識に叩き込まれているので、カミーユという存在が彼女たちの中でとても強烈なものになっていて、その「特別な存在感」を、「精神がまともな状態」のときには、恋心だとか兄妹愛のように「誤解」してしまい、「カミーユ、カミーユ(お兄ちゃん、お兄ちゃん)」になってしまう。

物語をぼんやり観ていると勘違いしてしまいそうになるが、フォウにしてもロザミアにしても、「元々カミーユのことが好きだった女子が、薬漬けの強化人間にされて、カミーユを倒すべき相手だと思い込むようになった」わけではない。事実は全く逆で、元々倒すべき相手だと意識に植え込まれていた相手(カミーユ)のことを、ある種の精神錯乱(強化人間実験の失敗)で、恋人だとかお兄ちゃんだとか思い込んでいるだけ。

しかし、本当の「悲劇」は、カミーユ自身にこの「真実」が全く見えていないことの方。それに比べれば、フォウやロザミアの悲劇的な有り様は、悲劇としては、一段「軽い」。

カミーユは、相手がフォウであろうとロザミアであろうと、嘗て、アムロとララァが、「あの一瞬」でお互いの「全て」を分かり合えようには、分かりあえていない。カミーユが「これこそフォウだ、ロザミアだ」と、ニュータイプ能力レベルで「共感=精神感応」しているのは、カミーユ自身が、「本当の」フォウだ「本当の」ロザミアだと、「都合よく」思い込んでいる彼女たちの「一面」に過ぎない。

何を言いたいのかというと、これって、「ニュータイプ」としての人間洞察や感能力としては、大いに「不足・欠陥」があるんじゃないか、ということ。

カミーユとフォウの「出会い=精神感応」と、アムロとララァの「出会い=精神感応」とでは、共感の「深さ」が違う。というか、カミーユとフォウの場合は、お互いに深く分かり合えた気になっているだけで、要するに思春期の「私はあの人のことが好き・あの人も私のことが好き」という「思い込み」レベルをそれほど出ていない。

「健全/まとも」な女子にモテモテのアムロと比べると、同じ「ニュータイプ」でも、アムロとカミーユではそもそも「種類」が違う気がする。言ってしまえば、アムロ(や多分シャア)のニュータイプ能力は、健全な「共感力の拡大」なのだが、カミーユのニュータイプ能力は、病的な神経症(あるいは偏執狂)に近いもののように思える。だから、アムロとの「共感」があったときに「普通の女子(ニュータイプを含む。ただし強化人間ではない女子)」はアムロに「惹かれる」けれど、カミーユとの「共感」があったとき、「普通の女子」は或る種の鬱陶しさを感じるのではないか(想像。でも、エマさんとかレコアさんのカミーユに対する「態度」ってそんな感じだし、あのファでさえ、若干そんな感じ)。カミーユと「惹かれ合う」のは、薬漬けで脳が壊れた強化人間の女子だけ。21世紀風に言えば、メンヘラ同士なら惹かれ合う。

カミーユに訪れる「結末」を予言する不穏がここにある。

最終回、カミーユの精神が崩壊するのは、シロッコのせいでもなんでもない。「カミーユが元々持っていたもの」が、ついに「発症」しただけ。

極端な言い方をすれば、カミーユは、全50話をかけて、「実地の強化人間実験」に晒され続け、最後の最後に、とうとう、フォウやロザミーの「お仲間」になってしまったのだ。

【追記】おそらく、強化人間の候補に選ばれるのは、感じやすい情緒不安定気味の子なんだよ。つまり カミーユ みたいな子。だから、フォウとかロザミアと惹かれ合う。言ってしまえば、カミーユは、ムラサメ研究所やオーガスタ研究所の人間が喜ぶ「素材」なのだが、「自力」でニュータイプになっているので、もし、ニュータイプ研究所に連れ込まれても、フォウやロザミアみたいな目には合わずに済む。

もう一つ。カミーユのニュータイプ能力は、戦争の道具としては、うっかりしたらアムロすら凌ぐ。しかし、「本来」のニュータイプの有り様からすれば、相当に「病的」。カミーユは最初から「危うい」。遺伝か環境か、原因ははっきりしないが、とにかく自然発生的な「病気(精神疾患)のせいで」ニュータイプ能力が出現しているのがカミーユ。だから、変な喩えをすると、カミーユのニュータイプとしての異常な戦闘能力の高さは、脳にできた腫瘍のおかげで、もの凄い絵が描けるみたいなこと。

2023年9月4日月曜日

『ジャスティス・リーグ』:メモ

バカバカしいと思ってスルーしていた『ジャスティス・リーグ』を半分観たら、面白かった。「バットマン」特有のあの「なんとなくとぼけた感じ」が全編に漂っていて好い。そして何よりも、フラッシュが好い。つい最近公開されたフラッシュが主役の映画も観てみようと思ったくらい、好い。でも、このフラッシュとは関係ないのかも。
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◯『ジャスティス・リーグ』(吹替版)2017年/2023年9月5日/prime video/本当の評価は△なんだけど、フラッシュ(バリー)とバットマン(ブルース)の掛け合いが好かったので、一評価おまけ。特にフラッシュのキャラが好い。もうひとつ。作品全体の軽妙さもいい。

マグロは赤身

マグロの刺し身なら、断然、赤身。本当に旨いマグロの赤身を食ったことがない連中が、トロトロ言っているだけ。マグロ漁師の息子が言うんだから間違いない。

香川照之、元気かな?

日曜ドラマ『VIVANT』を毎週愉しく観ている。8話を観てようやく分かった。このドラマは最後、『日本沈没』につながる。役所広司(テント)は、「日本人」が移住する土地を買い集めているのだ。そして、最後の最後に、香川照之らしき人物(田所教授)が登場して、ドラマは終わる。

2023年9月3日日曜日

『DUNE/砂の惑星』(2021年版):メモ

△監督ドゥニ・ヴィルヌーブ/2023年9月3日/Prime Video/凡庸。NHKの大河ドラマみたい(褒めてない)。喩えるなら、「定型文」と「慣用句」ばかりで描かれた映画。SF描写以外に、本気で描きたいことがないのだろう。

2023年9月2日土曜日

【memo】crack babies

crack babies:母親が妊娠中にコカイン中毒だったせいで、生まれたときからコカイン中毒の赤ん坊。アニメの中で描かれているような意味でのクラックベイビーは、現実というよりフィクション。

Slash:ギタリスト:サンタクロースと同じで実は存在しない、というフィクション。クラックベイビーとは逆で、こちらは本当は実在するミュージシャン。

(『サウスパーク:15−5』)

2023年9月1日金曜日

【memo】アブラコウモリ

アブラコウモリ(イエコウモリ)の体重は5.5g。十円玉は4.5g。あの小さいハツカネズミでも20g。コウモリの「軽さ」がよく分かる。

(Eテレ『ヴィランの言い分:コウモリ』)