*この前、ちょっと『ジョジョ』の「悪口」を書いて、「そういえば」と思い出し、引っ張り出して読んでみた。いろいろ書いてる余計なことは全部省いて、書き損じも直し、わかりにくい表現や、くどい繰り返しも改めた結果、結構な「大改訂」になって、酷い目にあったが、ともかくも、再掲。
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(1)「スタンド」の「発見」
第3部から登場した「スタンド」に的を絞って考える。
「スタンド」とは精神力を「映像化」したものだ。「強い」スタンドは「強い」精神力から生まれる。肉体と肉体の戦いは、実は精神と精神の代理戦争に過ぎなかった。ならば、その精神同士を目に見える形で直に戦わせればいい。これが、『ジョジョ』第三部のモチーフ。
『ジョジョ』以前にも、この手の「人の精神力の戦い」を描いたものはいろいろ存在した。輒ち、「超能力対決漫画」である。
まず、横山光輝の古典的名作『バビル2世』。この作品の影響は大きい。「第3部」の主人公である承太郎や花京院がいつまで経ってもどこにいても学生服のままなのは、まさに「バビル2世」の主人公に倣ったものだ。
少しあとには大友克洋の『アキラ』がある。この作品こそはまさに「超能力対決漫画」の金字塔だが、大友にはこの作品とは別に『童夢』というやはり、超能力を持つ「子供」たちを描いた作品がある。目に見えない力が壁をドーム状にへこませ人を押さえつけるシーンは知る人ぞ知る名場面だ。
そして『ジョジョ』第3部。しかし、『ジョジョ』は「スタンド」という新たな表現システムを「発見」したことで、先行の「超能対決者漫画」とは一線を画す作品となった。
言ってしまえば、今までの「超能力対決漫画」は、どれも超能力を表すのに「結果」だけを描いてきた。例えば、いきなり頭が爆発したり鼻血が出たり、勝手に物体が浮き上がったり壊れたり、と言った具合。つまり超能力が発揮されたときに「なぜそうなるのか」は全く描かないままで、超能力が行使された「結果」だけを描いて済ませてきたのだ。それは、それまでの「超能力対決漫画」がずっと、超能力を持たない者の視点で描かれてきたということを意味する。「スタンド」以前、「超能力対決漫画」の作者たちは、超能力者の主人公を描きながら、自身は超能力を持たない一般人側に立っていたのだ。だから、彼らは、超能力の「結果」は描いても、「経緯・経過」を描く必要を「感じ」なかった。「超能力は分からないもの・見えないのもの」で済まして「平気」でいられた。いや、もしかしたら「一般人どころか、超能力者自身にすら、なぜそうなるのかは分かっていない」とさえ考えていたのかも知れない。まあ、表現者としては迂闊であり怠慢である。
だが、『ジョジョ』の「スタンド」が、それは違うと否定した。超能力者には「見えている」。なぜ、頭が爆発するのか・車が持ち上がるのか、超能力者にはその「経緯・経過」が「見えている」のだ。敵の頭が砕け散るのは、「スタンド」がその拳で敵の頭をうち砕いているからだし、車が持ち上がるのは「スタンド」がその両腕で持ち上げているからだ。拳銃の弾が空中で静止するのは「スタンド」がすばやくつかみ取ったからでしかない。そしてここが重要な点だが、『ジョジョ』は、それを読者にも見せた。つまり『ジョジョ』は、初めて、読者を「超能力者側」に立たせた「超能力対決漫画」でもあるのだ。
「スタンド」によって、超能力の「経緯・経過」を描き出せるようになったことは、単に、超能力の「説明」に留まらない「機能・効果」をもたらした。本来(?)地味なはずの超能力対決を、ド派手で変化に富んだアクション場面として描けるようになったのだ。
例えば、超能力対決の「紙一重」の勝利も、「スタンド」を使えば、その戦いの経緯を「リアルタイム」で「具体的」に読者に示すことが出来る。結果、その「紙一重」感を描き出す工夫をあれこれとできるようになる。もし「スタンド」がなければ、強力な超能力者同士が息を詰め黙って向き合ったあとで、どちらかがばたりと倒れる。勝ち残った方が「危なかった」と安堵の言葉を漏らすことで、読者は「事後」に、戦いの展開をある程度(なんとなく)推測できるだけだ。しかも読者には、一体何がどう危なかったのか、どの程度危なかったのか、具体的なことは何も分からない。第一、これだと、結局、誰と誰が戦っても同じ光景にしかならない。いつも「睨み合い」と「ばたん」と「危なかった」で終わりだ。超能力者の対決を描くマンガで、最大の見せ場であるはずの超能力対決の場面がいつも地味というバカバカしい事態に陥る。その意味でも「スタンド」の発見は大きかった。存分に超能力対決の具体的な様子を描けるからだ。
「スタンド」は、超能力がなぜそのような現象を引き起こすかを読者にも見える形で説明してくれる。「目に見えない謎のチカラ」という超能力の定義を、「謎は謎だが、当事者である超能力者たちには見えるチカラ」(だから読者にとっても「見せられるチカラ」)という定義、つまり「スタンド」に、完全に置き換えたことが『ジョジョ』の最大の功績。
(2)「スタンド」の「変容」
ところが、である。長期に渡って描き続けているうちに、生みの親である作者(と担当編集者?)自身が「スタンド」の意味を変容させてしまった。
どういうことか?
つまりこうだ。作者(とその担当編集者?)は、超能力者の超能力そのもを擬人化あるいは映像化したはずの「スタンド」自身に、更に「超能力」を持たせてしまったのだ。まず、超能力者の能力が、一般人には見えない「スタンド」として、超能力者と読者に顕在化された。しかしその顕在化された超能力であるはずの「スタンド」自体が、更に、超能力者(「スタンド使い」)自身にも読者にも「見えない超能力」を持ってしまったのだ。言ってみれば、それは「超超能力」である。
最も分かりやすい例は、第5部に登場する「クラフトワーク」という「スタンド」だ(実は私がこの文章を書こうと思ったのもこの「スタンド」の登場がきっかけだった)。
「クラフトワーク」の能力は、触れた物体を空間に固定させること。自身の射程内、つまり能力を発揮できる範囲内であれば、あらゆるものを〔静止・固定〕させることが出来るのだ。たとえ、それが空中であっても。だから向かってきた弾丸なども空中で止めてしまえる。しかし、なぜ、そうなるかは全く説明されない。弾丸が空中で止まる「原因」や「経緯」は全く描かれない。つまり、「クラフトワーク」、がその「手」や「指」で「直」に弾を保持しているわけではない。「クラフトワーク」の射程の範囲に入れば、弾丸はただ止まるのだ。これは「クラフトワーク」自身が「超超能力」を持っていることを意味する。
この「変容・変化」は、初期の「スタンド」と比べてみると分かりやすい。比較対象は第3部の主人公承太郎の「スタープラチナ」だ。いい具合にこの「スタンド」も作中で弾丸を止めている。だが、「スタープラチナ」の弾丸の止め方は「クラフトワーク」の「超超能力」とは全く違う。「スタープラチナ」は「指で掴んで」弾丸を止めるからだ。「スタープラチナ」には「クラフトワーク」のような「超超能力」はないので、もし弾丸を掴み損ねると、弾丸は止まらない。(もちろん「スタープラチナ」が後に獲得する「時を止める」という「超超能力」を使えば可能だが、それはまた別の話)
「スタープラチナ」の「掴んで止める」という方法だと、掴んだ弾丸を「スタープラチナ」が離してしまえば、弾丸は下に落ちる。人間が持っているものを手放すとその物体が下に落ちるのと同じことが起こる。これは読者にも作中の「スタンド使い」にも自然で分かりやすい。しかし「クラフトワーク」の場合、「スタンド」の「超超能力」が効果を発揮していれば物体はずっと空中にとどまっているのだ。
この二つの「スタンド」(「スタープラチナ」と「クラフトワーク」)の違いが意味するところは、作者自身の〔スタンドの解釈あるいは定義〕の変容である。
初め、「スタンド」は「スタンド使い」が現実の物体に影響を及ぼすときの「チカラそのもの」の「映像」として描かれた。「スタンド」の振る舞いが見えさえすれば、物体がなぜそうなるのかは、「スタンド使い」と読者には分かった。「スタンド使い」が念じただけで物体が動いても、実は彼の「スタンド」が「実際に」その物体を動かしているのだ。しかし「スタンド」は連載が進むに連れ次第に変化し、「スタンド使い」の超能力の単なる「象徴」になった。こうなると「スタンド」の「ふるまい」を見ただけは、それがどんな能力を持っているのかは、読者はおろか「スタンド使い」にすら分からない。
「変容」した「スタンド」は「触っただけで」ありとあらゆることをやるようになる。破壊されたものを復元し、生命を生み出し、「通り抜けフープ」のよなジッパーを出現させ、肉体を若返えらせる。そしてなぜそうなるかは一切説明されない。さらに強力なスタンドになると、そうしようと「思った」だけで、時間までコントロールするようになる。もはや触ることさえしない(もっとも、時間を止めるにはどこを触れればいいのか、という問題はあるが…)。
スタンドの「超超能力」はそのスタンドの本体である「スタンド使い」自身にも、理解も説明もできない「謎の能力」なのだ。なぜかは分からないが、俺の「スタンド」にはそういうことが出来る、というレベルだ。
ここにあるのは、三段階の「能力」だ。まず初めは一般人にも理解と説明のできる「能力」。次が「スタンド使い」には理解と説明のできる「能力」。最後が「スタンド使い」にさえ理解も説明もできない「能力」。
一般人にも理解と説明のできる能力とは、ごく普通の、我々がよく知る物理法則にしたがった能力のことだ。体を使って、コップを持ち上げる・ドアを開ける・水を撒く、等々。
一般人には理解不可能でスタンド使いには理解できる能力とは、所謂、超能力だ。サイコキネシス、テレパシーなどは、引き起こされた現象自体は、フツウの人間にも出来ることだ。手を使えばコップは持ち上げられるし、電話を使えば離れた人との意思疎通もできる。つまり、ものを動かしたり、意志を伝えたりということ自体が「超能力」なのではない。それが「超能力」と呼ばれるのは、その一連の出来事に、あたかも、介在するものが全く存在しないかのように「見える」からだ。だが、もし「スタンド」の「介在」が「見えれば」、それは「なんでもないこと=当然のこと」になる。「スタンド使い」には「理解」が出来る「能力」とはそういうことだ。「スタンド」によって引き起こされたとしても、起きたこと自体は平凡な出来事だ。壊れた、ぶっ飛んだ、切れた、燃えた。あるいは体に入り込まれて(まるで催眠術のように)操られた。
しかし「スタンド使い」にも理解できない「超超能力」は、大半がそんな生半可な能力ではない。なんであれ、引き起こされた現象自体が異常なのだ。「真の意味での超自然的」と言い換えてもいい。それは「介在しているものが見えないから異常」なのではなく、どんな力が作用していても起こりえそうにないという意味で異常なのだ。そういう現象を引き起こす方法・手段・道具を人間は持っていないし、知らない。どうやって時間を止めるのか? どうやって鏡の世界に入るのか? どうやって一瞬で怪我を治すのか? どうやって人間をあっという間に老人にするのか? 「スタンド」の「超超能力」は、超能力と言うよりも、現時点では別の部類に属する現象だ。一般的にそれは、「奇蹟」あるいは「呪い」と呼ばれる。
「スタンド」は、そもそも、所謂「超能力」を説明するためのアイディアなので、それ〔以外・以上〕の「能力」の説明は最初から不可能なのだ。「スタンド」は、「カーテンの向こう側」から、人間のいる世界にちょっかいを出しているような存在。だから、「スタンド」がその「カーテン一枚隔てた向こう側」からどんな力を及ぼしても、それが理由で起こることは、必ず、人間の住む世界の物理法則に従っている。つまり「スタンド」と雖も、この宇宙の物理法則に背くことは出来ない。だから、「スタンド」が棚から壺を落とせば、その壺は、人間の世界の法則に則って、床に落ちる。途中で、壺に関わる物理法則が変化して天井にぶち当たるということはない。だが、「スタンド」の「超超能力」はその法則を破るし、全く理解不能の現象を引き起こす。(魂を入れ替え、宇宙の時間を一周させる)。
(3)「スタンド」の「暴走」
「超超能力」を獲得した時点で、「スタンド」は、作者にとって「無敵」の道具になった。なぜなら、この世界の「不思議」の全て、幽霊も、死後の世界も、UFOも、多重人格も、呪いも、奇蹟も、異次元も、全て、スタンドの「せい」に出来るからだ(実際、『ジョジョ』学園卒業生の多くが、日常生活の中で、大小様々な不思議や危機に遭遇したとき、つい、「これは、スタンド攻撃か?」と思ってしまうはず)。
結局、つまりは、そういうことなのだ。
最初、「スタンド使い」の能力(超能力)そのものとして描かれた「スタンド」が、いつの間にか、「スタンド使い」から自立した「超人=魔物=悪魔=神」として描かれ始めた。「スタンド使い」と「スタンド」の関係が、ちょうど一人分横にずれてしまった。つまり、人間である「スタンド使い」は、「スタンド」という超能力を持っている。そしてその「スタンド」自体が自立した存在として、更に「超スタンド」とでも言うべき「超超能力」を持っているのだ。そしてこの「超超能力」は、もはやなんの制約を持たないので、作者はあらゆるアイディアを割り当てられる。
このズレは、読者にとっても作者自身にとってもあまり意識されていない。しかしこのズレこそが、「スタンド」の「物語制作上の道具」としての「無敵さ」を実現している。つまり、「時間を止める」「人間を爆弾に変える」「生命を生みだす」といった「大それた能力」を、所詮は生身の人間でしかない「スタンド使い」が直に持つのではなく、異形の魔物めいた「スタンド」自体が持っているというところに、妙な説得力と「安心感」が生まれるからだ。いや、勿論、結局は「スタンド使い」の能力には違いないのだが、実感として、読者は、「スタンド使い」とは、〔そういう恐ろしげな能力を持っている「スタンド」という「魔物的存在」〕を所有している人間というふうに見てしまう。猛獣使いや、悪魔と契約しているメフィスト的存在としみなしているわけだ。
或いはそれは、最初は「誤解」であった初登場時の承太郎の自身のスタンドに対する理解(「悪霊に取り憑かれた」)が、巡り巡って、結局は「正しい理解」になってしまった、ということかもしれない。
いずれにせよ、『ジョジョ』がここまでの長期連載作品になったのは、「超超能力」を獲得した「スタンド」が持つ、この「自在さ」が要因の一つなのは間違いない。
(アナトー・シキソ)
2001年6月11日初出
2012年8月21日改訂
2019年9月04日改訂
2022年12月19日大改訂