2023年6月30日金曜日

『トイ・ストーリー』の残酷さ

「岡田斗司夫ゼミ」の「サイコパスの人生相談」を今も毎回面白く観ている。あれの面白さには2種類あって、一つは、アホな相談者に対して岡田斗司夫が「そんなことで悩んでるなんてアホちゃうか」スタンスで、〔身も蓋もない始末〕をつけてしまうこと。もう一つの面白さは、相談者はアホではないけれど、岡田斗司夫がサイコパス(自称)なばっかりに、岡田斗司夫の回答が「御長寿早押しクイズ」みたいになること。

前回視聴した「限定」での最後の相談「『トイ・ストーリー』は残酷ですよね?」は、後者の「御長寿早押しクイズ」の方の面白さだった。

相談者と岡田斗司夫は微妙にスレ違っていて、相談者は、〔子供は皆、大切にしてきたおもちゃを捨てるとき、現に(既に)辛い体験をしているのだから、子供にその辛い体験を思い出させる『トイ・ストーリー』は残酷な映画だと思う。そう思いませんか?〕と言っている(だけ)。

それを受けた岡田斗司夫の回答は、「本当のhumanism」だの「放っておくと子供は怪物に育つ」だのといろいろ御託を並べていたけど、要は、〔子供は、『トイ・ストーリー』のような作品で具体的に見せてもらわなければ、おもちゃを捨てるという行為の中にある「辛さ」に気付かないのだから、「残酷」な『トイ・ストーリー』はむしろどんどん見せるべき〕という内容。

つまり、相談者の〔思い出の詰まったおもちゃを捨てる体験は、誰もが体験する辛い思い出〕という前提と、岡田斗司夫の「思い出の詰まったおもちゃを捨てたくらいじゃ、子供は特に何も感じない」という前提のスレ違い。

どうしてこんなスレ違いが生じるのかと言えば、それはもう簡単で、相談者はサイコパスではないけれど(むしろフツウよりも繊細)、岡田斗司夫はサイコパス(自称)だから。きっと岡田斗司夫は、自身が子供の頃におもちゃを捨てても、相談者が主張するような「辛さ」を(サイコパスならではの共感能力の低さ故に)感じたことがなかったのだろう。

『トイ・ストーリー』に「教えられなくても」お気に入りのおもちゃを捨てることをひどく辛いと感じる「共感力(感情移入能力)」と、〔捨てられたおもちゃたちが悲しんでいる〕という具体的な映像やストーリーに接して初めてそれを辛いこと(酷いこと)だと感じられるようになる(というか「理解」できるようになる)「共感力」には、質的な違いがある。そんなことは、サイコパスではない我々なら自然に分かることなのだが(だって全然別物でしょ)、自称サイコパスの岡田斗司夫には気付けない。なぜなら、サイコパスにとっては、「自然に備わっている、生まれつきの共感力」など存在せず、「共感力」といえば、何かしらの方法で「学習」する「技術・処世術」に決まっているからだ。だから、岡田斗司夫は、「子供」が「共感力」を得るために、「残酷」な『トイ・ストーリー』(のようなもの)を観たほうがいい決まっていると、自信を持って主張する。

*変な喩えだが、ここにリアルな戦場を描いたベトナム戦争映画がある。相談者は、ベトナム帰還兵にそんな映画を見せることは「残酷」だと言っている。岡田斗司夫は、戦争を知らない世代が戦争の悲惨さを追体験するためには、「残酷」なベトナム戦争映画は観た方がいいに決まっていると言っている。この類のスレ違い。

*『トイ・ストーリー』よりも前に、自身の体験として、〔お気に入りのおもちゃと別れる辛さ〕を体験している子供の〔『トイ・ストーリー』の鑑賞体験〕と、『トイ・ストーリー』を観て初めて、今までに捨ててきた(捨てられてきた)おもちゃの「辛さ」に気付くような「低感度の共感力」しか持っていない子供の〔『トイ・ストーリー』の鑑賞体験〕は、〈質的〉に違う。それはちょうど、子供を持つ親と、子供を持たない者とでは、子供が小児がんで死ぬ映画の鑑賞体験が、質的に違うのと同じこと。

この相談者の「迂闊」は、岡田斗司夫がサイコパス(自称)だということを勘定にいれなかったこと。fine artsにも音楽(アニメソングを除く)にも、そして猫動画にすら「特に何も感じない(時間の無駄だと思っている)」岡田斗司夫が、捨てられるおもちゃに感情移入する類の「辛い」体験を現実の世界でするわけがないのだ。『トイ・ストーリー』のような分かりやすい映画になって初めて、「捨てられるおもちゃの辛さ」という種類の「辛い体験」に気づき、それを「肉親の死」とか「恋人との別れ」とかの入った「辛い体験フォルダ」に放り込み、以降は、ChatGPT的な使い方で、作品分析・作品解説に利用するだけ(言い過ぎ?)。

で、自分なりの「回答」を考えてみた。

サイコパスではない子供にとって、『トイ・ストーリー』は辛い体験を思い出させるという意味で「残酷」な映画である。しかし、そのような「残酷」な映画によって、辛い体験を「再体験」することで、「共感力」がより鍛えられ、養われていく面もある。その種の「残酷」な「再体験」の「効能」の対象となるのは子供に限らない。失恋映画や反戦映画が作られ続ける理由の一つはそこにある。

一方、サイコパス(傾向)の子供にとって、『トイ・ストーリー』は、〔人間というものは、無機物であるおもちゃにすら感情移入をしてしまい、手放すときには辛い思いをする〕ということを、当の「捨てられたおもちゃたち」が、具体的に、泣いたり怒ったり嘆いたり途方に暮れたりすることで、「気づかせて」くれるという点で、実に有用なものだ。『トイ・ストーリー』のような映画は、言ってみれば、「共感力難聴」である〔サイコパスな子供〕の耳元で「共感するとはナニカ」について叫び、それについて「学習」を促す作品である。


追記:

今回の他の相談のときに、「犬を虐待するやつ(人間)は死ね」とか「猫を虐待するやつ(人間)は死ね」とか言う人たちに対して、岡田斗司夫は全く何の共感も持ってないことを、嬉々として、表明していたよね。むしろ、そういう人たちをバカにしていた。その理由として、「本来の意味」の「humanism:人間中心主義」について語っていたわけだけど、それが毎度おなじみの、サイコパスならではの「的外れ」だということは、サイコパスじゃない我々にはすぐに分かるんだけど、当人にはわからない。フツウの人が、「猫を虐待するやつは死ね!」と叫ぶときに、そう言わせているのは「共感力」なんだよ(この場合、虐待された猫に対する共感)。それは理屈や合理や思想や主義ではなく、むしろ本能や反射に近いもの。だって、繰り返すけど、共感力=感情移入能力(empathy)だから。それは昔、Philip K. Dickが散々こだわっていた、人間と〔人間のふりをした者〕の違いを生む能力のこと。レプリカント斗司夫は「フォークト=カンプフ検査(Voight-Kampff Testing)」に必ず引っかかるだろうなあ。

2023年6月29日木曜日

今夜はごちそうさま


のちに、『料理の鉄人』とか『美味しんぼ』とかを素知らぬ顔で面白がっていましたが、根底にあったのは常に、少年期に決定的な衝撃を受けた『今夜はごちそうさま』(カセットテープ)でした。伊武雅刀(というか畠山桃内)が「沈丁花のハタが…」とセリフを噛む所まできっちり覚えてしまったほど、聞き倒しましたからねえ。

そうそう。この動画ではカットされているけど、エンドロールに出てくる曲のリストに、Nina Hagen(映像の世紀バタフライエフェクトですっかり有名な〔アンゲラ・メルケルさんの心の歌手〕)とか、YMOの「体操」とか、Bowieの「Ashes to Ashes」があって、さすが桑原茂一と。

あと、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」が流れる悲しげなエンドロールの最後に出てくる、似非科学の精神「治療」で廃人にされた(ような)三人が映った白黒写真がすごくイイ。「当局に、拘束されて、放り込まれて、今はもうこんな感じで、すっかり無害になりましたよ」感。イイ。

2023年6月25日日曜日

『その日、カレーライスができるまで』:メモ

Prime Video/主演のリリー・フランキーを堪能する映画。というか、リリー・フランキーしか出てこないし。嫁さんに逃げられたおっさんが、妻の誕生日に毎年作っていたカレーライスを今年も作る。心臓病で幼くして死んだ子供。同じ病気で死にかけている、同じくらいの子供のために、勝手に募金活動をしている。ラジオ番組「いい加減イブニング」の、夫婦二人揃ってのヘビーリスナー。ちょっと心霊。たまたまだけど、エンディング曲と挿入歌は安部勇磨だった。プロデューサーの齊藤工って、あの「シン・ウルトラマン」の齊藤工?(調べたらそうだった)。リリー・フランキーの一人芝居なのは、撮影されたのがコロナ真っ只中だったからだね、多分。



サギペディア

極たまに、フツウに面白く観れる番組に当たる『レギュラー番組への道』の、今回観た『サギペディア』は、その「極たまに」だった。佐木村学(本田博太郎の「熱演」)も好かった。漫画も好かった。雑談(?)も好かった。手品も好かった。

2023年6月22日木曜日

で、昭和を大きく使えましたか?

『水曜日のダウンタウン』の「昭和はむちゃくちゃだ系の映像、全部ウソでもZ世代は気付かない説」を面白く観た。

伊集院の「口からでまかせ」能力が凄かった。で、なるほど、と思った。新興宗教とか、特殊詐欺とか、エセ科学とか、陰謀論とかが今でも成立しがちなのは、〔ブラックロッジから出てきた「悪い」伊集院〕みたいなのが、世の中にいっぱいいるからだろうな、と。

あと、ジュニアの「昭和を大きく使ってください」も好かった。

2023年6月20日火曜日

『三度目の殺人』:メモ

是枝裕和監督、福山雅治主演。

途中までは、どういう種類の映画か分からずに、妙に笑ってたりしたんだけど、最後まで観て、とても気に入った。つまりは、是枝版「Twin Peaks」だと思ったから(あるいは、是枝版「ナイト・シャマラン映画」かな?)。

是枝監督も、富野さんみたいに、「白是枝」「黒是枝」があるんだよね。今回のこれは「黒是枝」。

三隅(役所広司)と重盛(福山雅治)の最後の面接場面は「説明過剰」な気もするけど、まあ、監督の観客に対する「親切」なのかもしれない(勝手な想像だけど、あの最後の面接場面は、本当は、監督も要らないと思ってたんじゃないかなあ)。

でもまあ、あの最後の面接のお陰で、映画を最後まで見ると、何もかも全部分かってスッキリするのは確か(でも、無くても、何が起きたのかはちゃんと分かるようになってるけどなあ)。


【以下ネタバレありますよ】

最後の面接で重盛が三隅のことを「器(うつわ)?」と言ってくれているので、これが全て。これ以上分かりやすい「種明かし」はない。以上。

と思ったけど、まあ、続ける。

三隅は、他人の思いや意思や意図に、自分自身の体を「貸す」存在。死んだ人の霊を自分の体に「下ろす」、所謂「イタコ」にちょっと似ている。

だから、(色々な言い方ができるけれど)社長殺しは、咲江(広瀬すず)の「生霊」が三隅の体を使ってやらかしたことだし、終盤の三隅の突然の「殺人否認」は、咲江を守りたかった重盛(←同年代の娘を持っている)の深層心理とでも言うべきものが、三隅の体を経由して出現したもの。三隅の言ってることが、摂津(吉田鋼太郎)が面接するたびにコロコロ変わるのも、三隅が週刊誌に美津江(斉藤由貴)との共犯を「暴露」したのも、それぞれ、そのとき面接していた摂津や週刊誌記者の「心・意識・意図」が、三隅の体を経由して現れただけのこと。彼らは皆、自分自身の推理を、三隅の体を通して聞いていたのだ。

で、重要なのは、三隅自身は、自分がなぜそんな事を言ったりしたりするかを、ほぼ全く理解していないこと。例えば、土壇場になって突然、三隅が殺人を否定したことで咲江は「守られた」わけだけど、「そうすれば咲江を守れる」と気付いていたのは重盛であって、三隅ではない。

人々の「意思」を「代行」している三隅という人間には、自分がそんなこと(「代行」)をしている自覚が全くない。三隅は、咲江の苦しみを理解し「義憤」に駆られて殺人を犯したのでもないし、重盛の心の奥深くを「読み取って」、咲江を守るために殺人否認を叫びだしたのでもない。だから、是枝版「Twin Peaks」だと思った。

「Twin Peaks」の「裏の主人公」であるリーランドは、BOBに「入り込まれて」、近親相姦や殺人を繰り返すわけだけど、その間のことは全く覚えていない。一方の、三隅に「入り込む」のは、生身の、生きている他人の意思や心で、やっぱり「入り込まれている」間の三隅の記憶はアヤフヤ。BOBは悪の化身なので、リーランドを「操って」色々な悪さをしても平気だけど、生身の人間である咲江(広瀬すず)や重盛(福山雅治)は、三隅を「操って」しでかしたことで、十字架を背負う羽目になる。〔社長殺し〕も〔土壇場で証言を覆したせいで無期懲役で済んだはずが死刑になってしまったこと〕も、社会的・裁判所的には、「三隅本人がやったこと」になっているが、本当はそうじゃないことを、咲江も重盛も「知ってしまった」からだ。

あと、自分は昔から人を傷つけてばかりいるという三隅の告白は、ずっと昔から、三隅という人間は、周囲の人間の恨みや殺意を、当人も気づかないま「代行」していたことを暗示している。だから、おそらく、30年前の殺人も、同じ「代行」なのだ。

以上のように考えると、題名になっている「三度目の殺人」が何を指すかも分かるし、それぞれの「真犯人(三隅の体に入り込んだ意思の持ち主)」も分かる。

一度目の殺人は、30年前の留萌で起きた殺人事件で、「真犯人」は借金取りに苦しめられていた人だろう。二度目の殺人は、河川敷の社長殺しで、「真犯人」は咲江。そして、三度目の殺人は、三隅の死刑のこと。「真犯人」は無論、重盛ということになる(土壇場で殺人を否認したことで、裁判長の心証を悪くして、無期懲役で済んだはずが死刑になってしまったのだから)。

因みに、カナリアたちを殺したのは「三隅自身」なので、カナリアたちの墓の十字架は三隅の十字架。河川敷に残されていた十字架は咲江の十字架。そして、最後のカットの「十字路の真ん中に立つ重盛」の、あの十字路が、重盛の十字架。ちょっと、親切すぎる。

親切すぎると言えば、最後の最後の面接の場面で、パネルに映った顔とパネルに透けた顔が重なったり離れたりする画は、ちゃんと「真相」の「表現」になっていて、親切すぎるけど、面白かった。


2023年6月19日月曜日

「黙読と雖も実は声は聞こえる」問題から始まって

統合失調症の症状の一つに「考想化声」というものがある。アタマの中で考えていることが、実際の声(自分自身の声だったり、他人の声だったり、悪魔の声だったり、神の声だったり、宇宙人の声だったり)として聞こえるビョーキだが、これはつまり、人間が、文章をひねりだそうとしたり、哲学的思索にふけったり、あるいは単に、借金の言い訳を考えているときには、アタマの中の声がアタマの中で独り言や対話をしているからこそ起きるヤマイ。

幾何の問題や、料理の盛り付けなどで悩んでいるときは別だが、進路とかオープニングトークとか人生とか恋愛とか人類の行く末なんかについてあれこれを考えているときには、やっぱり、アタマの中で喋っている声が、アタマの中で聞こえている状態になる。

そこで本題。

生まれつき耳の聞こえない人が、哲学の道を歩きながら、人生や人類や知性や世界について思索するとき、そのアタマの中で声は喋ってはいないはずなので、彼らは最初から、書かれた文字{文章}で思索しているに違いない。

と、さっき風呂掃除をしているときに思った。

さらにオマケで考えた。

耳の聞こえる人が、所謂「黙読」を行っているときには、アタマの中で「音読」している某かの声を、アタマの中で聞いているわけだが、生まれつき耳の聞こえいない人は、「黙読」をしていても、アタマの中に「音読」の声が「響かない」はず。すると、耳が聞こえる人の読書と、耳が聞こえない人の読書は、実は、なにか根本的に別物の体験ということになる。耳の聞こえる人は、たとえ黙読していても、実は、今読まれている文字の「音」を「聞く」という体験を同時に行いながら、文章の意味を理解しようとしているのだが、生まれつき耳の聞こえない人たちは、それよりもっと「純粋」か「直接的」に、文字や文章の「意味」を受け取り、読み取っているようだ。

耳の聞こえる人にとっては、〔アタマの中で文字や文章の「音」が聞こえない黙読〕を想像するのは難しいが、もしかしたら、〔中国語は全く読めないけれど、漢字の意味は分かるので、中国語の看板が「読める」とき〕のあの感じに近いのかもしれない。そういうときには確かに、文字列から意味は取れるが、それを「読んで」もアタマの中で声はしない。

2023年6月17日土曜日

観光業は売春業

NHKのローカル局で、地元の観光業を盛り上げる取り組みに関する番組を放送していた。出てくる連中がことごとく、相変わらずの、無邪気な観光業バンザイな人々で、恐れ入った。

何度でも言うけど、観光業の正体は「community自体の売春」だからね。観光業は売春業なんだよ。やるなとは言わないよ。それでおカネが手に入って良い暮らしができるとか、人並みな暮らしができるんなら、止めないし、それを止める権利は誰にもない(当人が望んでいる限り)。職業に貴賎なし。でも、正体は売春なんだから、もっと、控えめにお願いしたいよ。知事とか市長とかが、その他たくさんの企業のお偉いさんと雁首揃えて、満面の笑みをテレビの画面に晒す、みたいなのはどうかと思う。

その流れでついでに言うと、観光振興のために「協力」してくれる旅行会社さんだの航空会社さんだの大手ホテルさん、それに、「その場所(の自然など)が気に入って」わざわざ他所からやってきたネイチャーガイド系のみなさんだの正体は、まあ、「女衒」

「キミの魅力をほうっておく手はないよ」「稼げるいい仕事があるだけど」「ほら、儲かったでしょ」「それくらいは我慢しなきゃ」「おまえの身はオレが守る」などなど。

2023年6月16日金曜日

『海よりもまだ深く』:メモ

阿部寛主演。樹木希林、真木よう子、池松壮亮、小林聡美、橋爪功他。


今まで見た是枝監督の作品の中(全部見てるわけじゃない)で、一番好きだと思う。こんなんでイイ。こんなのがイイ。真木よう子が好きだから、というだけの理由じゃなく。


台風のせいで、計らずも、一晩を「同じ屋根の下」で過ごすことになる展開に、漱石の『行人』を思い出した。

crickets, not higurashi cicadas

BBC World Serviceのラジオドラマ『Fukushima』を(不謹慎な言い方だが)愉しんで聴いている。でも、第3話で聞こえている虫の声は「higurashi cicada(セミのヒグラシ)」(シャシャシャシャシャシャ〜)ではなく、多分、コオロギ(リッリーリーリー)だと思うなあ。コオロギではないかもしれないけど、場面設定は結構な夜半のハズだから、街灯煌々の都会でないかぎりセミは鳴かないはず。因みに、街灯煌々の街中では、夜中にセミやカラスが鳴くんだよねえ。

2023年6月15日木曜日

校長と大佐

 『少年エスパーねじめ』の校長先生は、超能力を持った子供の対策(management)をしているから、『AKIRA』の「大佐」の顔をしているのだ、ということに昨夜気づいた。

2023年6月12日月曜日

シェリルの誕生日



この動画の解説間違ってるよね? だから、答えも。

本当はこうじゃない?



「シェリルの誕生日」問題


シェリルはアルバートに「誕生月」だけを教える。

シェリルはバーナードに「何日に生まれたか」だけを教える。

誕生日の候補(選択肢)は次の通り。


May-15, May-16, May-19

June-17, June-18

July-14, July-16

August-14, August-15, August-17


アルバートとバーナードのやり取り。


アルバート:私は誕生日が分かってないが、バーナードも分かってないことは知っている。

バーナード:たしかに私は分かっていなかったが、アルバートの今の発言を聞いて、シェリルの誕生日が分かった。

アルバート:今、バーナードが分かったことを知って、私にもシェリルの誕生日が分かった。


シェリルの誕生日は何月何日?



【回答】

仮に、バーナードが教えられた日が18日か19日なら、その時点でバーナードは誕生日を特定できる。候補の中に一つずつしか存在しないから。しかし、アルバートは、バーナードが誕生日を特定できてないことを知っていて、バーナード自身も誕生日を特定できていないことを認めている。つまり、①18日と19日は除外できる


(ここまではBBCの解説動画と同じ。この後は違う)


このとき、アルバートが教えられた月がJuneだったとしたら、この時点で、アルバートは誕生日をJune-17と特定できる。なぜなら、①が理由で、June-18は除外できるから。だが、実際にはアルバートは誕生日を特定できていないので、②アルバートが教えられた月はJuneではない事がわかる。


さて、アルバートのその発言を聞いたバーナードは即座に誕生日が分かった。これは、アルバートの発言によって、バーナードを悩ませていた二択のうちの一つが排除されたということを意味する。その排除の中身は②だ。バーナードはJune-17が排除された瞬間に答えがわかったのだから、シェリルの誕生日は、もう一つの17日である「August-17」になる。


で、アルバート自身の最初の発言でバーナードが即座に誕生日を特定できたという事実から、アルバートも上記の論理展開を辿って、誕生日がAugust-17だと分かる。



情報のやり取りだけを抜き出すと、


誕生日を特定できてないという事実によって、

①バーナードは、18と19ではないことをアルバートに伝えた

②アルバートは、Juneではないことをバーナードに伝えた


情報②によってバーナードが誕生日が特定できたという事実によって、

③バーナードは、自分がどっちの17を選ぶべきかで悩んでいたことをアルバートに伝えた。


2023年6月11日日曜日

パウ型ペット用ブラシの広告動画

パウ型のペット用ブラシで、猫だの犬だのの体をブラッシングして、抜け毛の丸い塊をポコポコ取ってる広告動画がTwitter上によく流れてくるんだけど、あの動画って、どれも、動物たちの体をブラッシングしている最中から始まるんだよね。つまり、毛のついてないきれいなブラシを持ち出して、それを動物たちに当ててブラッシングを始める映像は一つもない。だから、動画の印象だと、「ほら、3、4回ブラッシングしたたけで、こんなに毛がとれます!」って感じなんだけど、実際は、結構な回数と時間をかけてブラッシングしたあとの、最後の1、2秒を見せているだけ。か、最初から毛がたっぷり溜まったブラシを、犬や猫の体にこすり付けて、いかにも今、毛を取ったふうに見せているだけ。だよね。商売だなあ。

2023年6月5日月曜日

『Fukushima50』:メモ

『Fukushima50』をAmazonPrimeで観た。演出と演技が完全に「時代劇」になっていた。

2023年6月2日金曜日

「毛ぼうし」と「ニットキャップマン」

『Live Beautiful Songs』という2000年に発売されたCDを持っている。矢野顕子、大貫妙子、奥田民生、宮沢和史、そして、鈴木慶一の5人が一緒にやったライブを収録した二枚組。

その中に、鈴木慶一と矢野顕子が一緒に歌ってる「ニットキャップマン」という歌があって、もう、死ぬほど聴いたし、またさっきも聴いた。輒ち、20年以上も聴き続けているわけだが、その理由はただひとつ。とにかく、いついかなる時にも、琴線に触れ、わけのわからん涙がこぼれ落ち、それが、自分でも面白いからだ。所謂「名曲」というやつなのだろう

この歌に出会ってからは、もはや他の掌編小説の類は読まなくてもいいと思ってしまった。4分ちょっとのこの一曲で、自分自身の「この手の物語に対する需要」は満たされてしまっているのだ。

さて、さっきまた聴いたときに、ふと思いついて、ライナーノーツで確かめたら、ムーンライダースの歌であることが分かった。それでまたふと思いついて、YouTubeMusicで「ニットキャップマン ムーンライダース」で検索してみたら、なんと、小津安二郎的な映画を装ったPV『毛ぼうし』が出てきて驚いた。主演は鈴木慶一と糸井重里という悪ふざけ。監督は岩井俊二郎とあったから、岩井俊二なのだろう。面白かったが、歌のほうがいい。それも、20年以上聴き続けたBeautiful Songs版の方が、歌としても、掌編物語としても、好い


教育を食事に喩えると、宗教の時代は生肉食って生野菜齧ってたようなもの。科学の時代になってやっと、火を通したものを口にするようになった。

rough: 2023.06.01