「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2024年3月31日日曜日
『光る君へ』(12)「思いの果て」:メモ
「未解決事件 File.10/下山事件」の第一部:メモ
2024年3月29日金曜日
シューティングゲームの「本質」が「暴かれて」いる動画。凄いね。
2024年3月28日木曜日
『カムイ伝』:メモ
(【注意】『カムイ伝』が好きな人にとっては不快な内容です。お勧めしません)
『カムイ伝』(第一部、第二部、外伝)を読んだ一番の印象は「その場しのぎから来るマンネリズム」。読み始めた当初は、〔壮大な構想に沿って、はじめから終わりまで一分の隙もなく描かれた作品〕なのだろうと想像していたが、まるで違った。
「本伝」も「外伝」も、絵柄が変わるまではまだよかったが、絵柄が変わってからは、〔本質的に同じエピソード〕を、ちょっと目先を変えて繰り返しているだけ。
大体の見当でぼんやりと始めて、連載しながら、その都度思いついたことを描き繋げて数十巻の大作をでっち上げている印象。黄金期の少年ジャンプ漫画の大半もこれと同じことをやっていて、志ある当時の少年達を大いに白けさせた。
悪口ばっかり言うのもアレだから逆も言えば、士農工商の身分制度に苦しめられる人間たちの「リアル」は『カムイ伝』に学んだと言っても過言ではない。それは素晴らしいし、感謝している。のだが、絵柄が変わってからの『カムイ伝』は、どちらかというとただの「残虐ポルノ」。「外伝」の方も、絵柄が変わってからは、池波正太郎の原作を、さいとう・たかをが漫画にした一連の作品にそっくりで、まるで物足りない(実際、「外伝」の最終盤には「仕掛け人」が出てくる)。
『カムイ伝』を全巻読むと、白土三平が、水木さんや手塚治虫のような「国民的漫画家」の地位を獲得できなかった理由が分かる気がする(白土三平の業界内評価については関知しない)。端的に、幼稚で青臭いのだ。つまり、よど号をハイジャックして北朝鮮に亡命したり、テルアビブの空港で銃を乱射したり、毛沢東語録を掲げて造反有理と叫んだり、或いはISISにのぼせて中東に移住したりする類の〔世界や人間に対する認識の「簡単さ」〕が『カムイ伝』には溢れている。或いは、自衛隊員相手に屋上で演説してしまう三島由紀夫の「お人好しぶり」と言い換えてもいい。「成熟した大人」や「志ある少年」は、そんなものを有難がらないし、敬愛もしない。勿論、共感もしない。ただ、「簡単でいいねえ」と気の毒がり、と同時に警戒するだけだ。国民的支持なんて望むべくもない。
(2024年3月27日 穴藤)
2024年3月27日水曜日
2024年3月26日火曜日
2024年3月21日木曜日
2024年3月20日水曜日
『正直不動産2』の最終回の「細かい点」
2024年3月17日日曜日
「拷問」としての「文春砲」
所謂「文春砲」は、実質、時代劇に出てくる「拷問」(石を抱かせるとか、焼きごてを皮膚に当てるとか、五寸釘を足の指に刺すとか)になっている。目をつけられた人間は、お白洲(裁判)で白黒つけられる前に、牢屋敷で痛めつけられ、一生残る肉体的精神的経済的ダメージを受ける。あとで無実・無罪とわかって放免されたとしても、「拷問」で受けた様々な「損害」については何の補償もない。「拷問」された側はひたすら「ヤラレ損」。だがその一方で「拷問」をする側には何のリスクもない。だから、「気楽」に「拷問」をやる。
或いは、時代劇に出てくる「拷問」の方が、一応、公的権力が手続きに則って行うので「まだマシ」なのかもしれない。「文春砲」の「拷問」は、三流文士が立ち上げた私設の営利団体が営利目的で、謂わば「自分勝手に」やってることだからだ。
最近のこの手の「拷問」を目の当たりにして、「週刊誌がチカラを持ちすぎた」と言う人が時々いるけれど、それは違う。週刊誌のチカラは前と同じ。「文春砲」が「拷問」を実践できるのは、今の社会に、国家権力以外の「暴力装置」が存在するから。輒ちSNS。
国家権力の「暴力装置」には、(あからさまな独裁国家でない限りは)とりあえず、規則や規律や或る種の「慎み深さ」がある。構成員も限定されている(公務員)。一方、「SNS式暴力装置」にはそのようなものは何もない。「構成員」は(潜在的に)小学生から譫妄老人までの全人類。当然「バカ問題」の因子となる連中が大量に含まれている。言い直すと、「SNS式暴力装置」には責任者がいない上に、構成員の心づもりも「街角インタビュー」程度なので、制御が効かないし、予測もつかない。
その危険極まりない「SNS式暴力装置」の起動ボタンを無自覚に押しているのが週刊誌。これが「文春砲」の「威力」の正体。(因みに、週刊誌が停止ボタンを押すことはできない。SNS式暴力装置に停止ボタンはないから。「燃料切れ」になるのを待つしかない。)
別の喩えを思いついた。
「炎上」に因んで、「有名人の醜聞」で一発当てようとする週刊誌を「放火犯」に喩えると、SNS出現以前にはボヤ程度の火事しか起こせなかったのが、SNS出現後には、同じ「やり方」で街をまるごと焼き尽くす大火災が起きてしまう。「放火犯」の「腕前」が上がったわけではない。環境が変わっただけ。カラカラに乾いたカリフォルニアやオーストラリアの森で、ウカウカ焚き火でもすれば、BBCが報道するような大規模森林火災になる。アレと同じ仕組み。
未だに、青空駐車場の車のタイヤにライターで火をつけているつもりなのが「文春砲」の中の人。しかし、SNS社会が実現してしまった現在、彼らが「放火」しているのは、乾燥しきったオーストラリアの森。どうせ焼くなら、もっと焼き甲斐のあるものを焼けばいいのに、といつも思う。
2024年3月17日 穴藤
2024年3月15日金曜日
2024年3月14日木曜日
『ディヴィッド・リンチ 幻想と混沌の美を求めて』:メモ
「集団自殺」という「感染症」
BBCの「Crowd Science」の「brainwash」を取り上げた回を聞いていて少し考えた。
確かに、数年に一度とか、数十年に一度とかの割合で、所謂「カルト教団」絡みの「集団自殺」が世界の何処かで起きてきた。多分これからも起きるだろう。
思うにあれは一種の「感染症」が「発症」し「重症化」したものなのだ。感染症と言えば、記憶も生々しいcovid-19だが、「カルトの集団自殺」とcovid-19の違いは、感染する対象。covid-19は身体(細胞)に感染し、「カルトの集団自殺」は精神に感染する。我々の用語で言い換えれば、covid-19は生命現象に感染し、「集団自殺」は知性現象に「感染」する。
忘れてしまいがちだが、ほぼすべての人間は「カルト」に「感染」する。というのも、思春期は誰もが「愚かで浅はかな偶像崇拝者」だからだ。ここでいう「偶像」が文字通りの教祖であることは少ない。むしろ、テレビタレントやミュージシャンや漫画家や映画監督や大物芸人などの「有名人」「あこがれの対象」がそれに当たる。
肝心な点は、「カルト」に「感染」したからと言って、必ずしも「発症」するわけではないこと。大抵の人間は「発症」しないまま「自然治癒」してしまうし、たとえ「発症」しても、「中高生にありがちな馬鹿な振る舞い」程度の「症状」で治まってしまう。もう少しこじらせた場合でも、結婚や、出産や、昇進や、整形や、カミングアウトで、「完治」もしくは「寛解」する。
しかし、中には、「カルト」に「感染」し、ものの見事に「発症」し、事によると「重篤化」しやすい人たちがいる。ちょうど、covid-19が重篤化しやすい〔生命現象としての条件〕(身体的特徴)を持っている人が存在するように、「カルト」が「重篤化」しやすい「知性現象としての条件」を持っている人が存在するのだ。
それは「或る種のバカ」なのだろう(隠すのはやめよう。カルト教団による集団自殺のニュースを目にした我々が、まず最初に思うことは「なんというバカなことを…」のはずだ)。しかし、この「或る種のバカ」は必ずしも「知能の低さ」ではない気もする。つまり、〔カルト絡みの集団自殺をするのは、知能指数テストの正規分布の向かって左端の人たちばかり〕というわけではない気がする。知能指数とは別の知的要素が「カルトの布教活動」や「集団見合い」や「集団自殺」の「発症」と関わっているような気がする。
「カルト」の「最も重篤な症状」である「集団自殺」には、〔「カルト」が「重篤化」しやすい条件を持った知性現象〕を淘汰する働きがあるので、その結果、〔おそらく決して「集団自殺」に取り込まれることのない人間たち〕が、現在の地球上で大多数を占めている。「集団自殺」が「珍しい事件」なのは、「集団自殺」自体の「手柄」。
因みに、自然淘汰は、特定の個体の繁殖を阻止することで、その機能を発揮するものなので、本来、〔繁殖を済ませた後で自殺する個体〕の遺伝情報を淘汰することはできないのだが、集団自殺する個体は自身の子供を道連れにする場合が多いので、たとえ、繁殖後の自殺であっても、彼らの遺伝情報はそこで途切れる。
…とまあ、そんなことをつらつら考えた。
2024年3月14日 穴藤
2024年3月12日火曜日
2024年3月8日金曜日
2024年3月7日木曜日
2024年3月6日水曜日
フェリーニの『道』
☆フェリーニの『道』2024年3月6日/Prime Video/少し頭の足りない若い女ジェルソミーナと、決して悪人ではないが、後先考えないガサツな男ザンパノの物語。人間が生きるとはどういうことかを、モノすごーくシンプルな物語で描き切っていて見事。因みに、David Lynchのお気に入り映画。
お爺ちゃん喋り
2024年3月5日火曜日
ジェルソミーナ
2024年3月4日月曜日
二種類の本と「知的ボディビルダー」
二種類の本がある。「基礎訓練」の本と「実戦」の本。
ジャッキー・チェンの『酔拳』のようなカンフー映画で喩えると分かりやすい。
①『酔拳』といえば、逆さ吊りになったジャッキーが、両手に持ったお猪口で、下の桶の水を上の桶に移し替える修行が有名。あれが基礎訓練。地道で退屈。しかも腕立て伏せとか、腹筋運動とかと同じで、アクロバティックなあの動きが出来たからと言って、閻鉄心(や桃白白や火雲邪神)には勝てない。
②ジャッキーはその後で、具体的な「酔八仙拳の形」を学ぶ。あれが実戦のための修行。あれを身に付けて初めて、映画はエンディングを迎えられる。
ジャッキー・チェンのハナシではなく、本のハナシなので、そっちに戻ると、〔難しい漢字と専門用語で抽象的なことばかり書いてある〕所謂「難解な本」が①に当たる。哲学書とか思想書とか呼ばれて、主に〔中学から大学くらいの一部の男子〕が苦労しながらも得意になって読む類の本。あの手の本を読むと、「本を読む基礎体力」とでも言うべきものが付くのは間違いない。心理的にも、「難解な本」に対しても物怖じしなくなるので、得るものは大きい。しかし、所詮①なので、そればっかり読んでいても、埒が明かない。ただの「知的ボディビルダー」になるだけ。
ボディビルダーに運動神経は必要ない(「SASUKE」の山田さんを思い出せ)。重いものは持ち上げられるが、逃げ回る鶏は捕まえられないのがボディビルダーだ(経験的に、喧嘩も弱い)。ボディビルダーの正反対が、生まれつきの喧嘩屋。基礎訓練もなにもしていないのに、路上で勝つ(しかし、重いものは持てない)。
哲学教授や禅坊主などはプロの「知的ボディビルダー」。生涯、基礎訓練だけをする人たち。彼らの醸し出す「役立たず感」は、ボディビルダーの「役立たず感」に通じる。
難解な本と聞いてすぐに思い出すのは吉本隆明の本。①の代表は『心的現象論』で、②の代表は『老いの超え方』。
知的ボディビルダーになりたくなければ、30を過ぎたら①の本は「卒業」しよう。というのが今回のハナシ。