2024年3月31日日曜日

『光る君へ』(12)「思いの果て」:メモ

『光る君へ』の第12回「思いの果て」のキーワードは「妾でもよいと言ってくれ」。

男女の社会的有り様が、現代よりも(或る意味)「朗らか」だった平安時代に、物語上は幼少期から惹かれ合っている〔まひろ〕と道長を、歴史上の「事実」である「赤の他人」に留めるための、長い長い「言い訳」(←非難の意味合は全くない)が「完成」した回。

色々あるけど、例えば、〔まひろ〕と黒木華(役名忘れた)の間の「友情=認め合い」は、「妾でもよい」と腹をくくった〔まひろ〕を思い止まらせるための伏線(というか罠)になっていて、ミゴト。

「未解決事件 File.10/下山事件」の第一部:メモ

NHKスペシャル「未解決事件 File.10/下山事件」の第一部ドラマ編を観た。第二部はまだ観てない。

このシリーズは多分、全部、観ていると思うけど、今回のこれが一番ハードボイルドで気に入った。下山事件についてもある程度知っているつもりだったが、今回ドラマで描かれたことは始めて聞いたように思う。それも好かった。

▼主人公の布施健(森山未來)のチェーンスモーカーぶりをはじめ、とにかく出てくる男どもが間なしにタバコを吸っているのがイイ。

▼「謎の男」李の人は、『光る君へ』の道長のお兄ちゃんの人、輒ち、玉置玲央だった。最近、よく見るね。

▼前作「File.09 松本清張と帝銀事件」から、大沢たかお演じる松本清張が「カメオ出演」しているのも愉しかった。

▼「怪人」児玉誉士夫を演じている、見るからに「怪人」な役者が最初誰か分からなかったけど、岩崎う大(かもめんたる)と気づいて、「ああ、令和の怪人に昭和の怪人をやらせたのね」と納得した。

序に言えば、「対戦型格闘ゲーム」に興味を失ったのは、結局のところ、「後出しジャンケンゲーム」だと気づいたときです。

2024年3月29日金曜日

シューティングゲームの「本質」が「暴かれて」いる動画。凄いね。


所謂「シューティングゲーム」に関して言えば、その名に反して、正体が「弾よけゲーム」だと勘づいた時にちょっとがっかりして(だって、いかにして撃ったり破壊したりするかを愉しむものだと思っていたから)、更にその後、「結局のところ、安全地帯探しゲームなのだ」と悟った瞬間に、完全に興味を失って、それっきり。たしか、ファミコン版の『グラディウス』をやってるときだったと思うなあ。

2024年3月28日木曜日

『カムイ伝』:メモ

(【注意】『カムイ伝』が好きな人にとっては不快な内容です。お勧めしません)


『カムイ伝』(第一部、第二部、外伝)を読んだ一番の印象は「その場しのぎから来るマンネリズム」。読み始めた当初は、〔壮大な構想に沿って、はじめから終わりまで一分の隙もなく描かれた作品〕なのだろうと想像していたが、まるで違った。


「本伝」も「外伝」も、絵柄が変わるまではまだよかったが、絵柄が変わってからは、〔本質的に同じエピソード〕を、ちょっと目先を変えて繰り返しているだけ。


大体の見当でぼんやりと始めて、連載しながら、その都度思いついたことを描き繋げて数十巻の大作をでっち上げている印象。黄金期の少年ジャンプ漫画の大半もこれと同じことをやっていて、志ある当時の少年達を大いに白けさせた。


悪口ばっかり言うのもアレだから逆も言えば、士農工商の身分制度に苦しめられる人間たちの「リアル」は『カムイ伝』に学んだと言っても過言ではない。それは素晴らしいし、感謝している。のだが、絵柄が変わってからの『カムイ伝』は、どちらかというとただの「残虐ポルノ」。「外伝」の方も、絵柄が変わってからは、池波正太郎の原作を、さいとう・たかをが漫画にした一連の作品にそっくりで、まるで物足りない(実際、「外伝」の最終盤には「仕掛け人」が出てくる)。


『カムイ伝』を全巻読むと、白土三平が、水木さんや手塚治虫のような「国民的漫画家」の地位を獲得できなかった理由が分かる気がする(白土三平の業界内評価については関知しない)。端的に、幼稚で青臭いのだ。つまり、よど号をハイジャックして北朝鮮に亡命したり、テルアビブの空港で銃を乱射したり、毛沢東語録を掲げて造反有理と叫んだり、或いはISISにのぼせて中東に移住したりする類の〔世界や人間に対する認識の「簡単さ」〕が『カムイ伝』には溢れている。或いは、自衛隊員相手に屋上で演説してしまう三島由紀夫の「お人好しぶり」と言い換えてもいい。「成熟した大人」や「志ある少年」は、そんなものを有難がらないし、敬愛もしない。勿論、共感もしない。ただ、「簡単でいいねえ」と気の毒がり、と同時に警戒するだけだ。国民的支持なんて望むべくもない。


(2024年3月27日 穴藤)


2024年3月27日水曜日

『時効警察はじめました』を久しぶりに観た。 十文字がバカを重症化させているのは、『Twin Peaks The Return』のダギー(バカになったクーパー)へのオマージュだと感じた。

2024年3月26日火曜日

「完全なる問題作:キャッチャー・イン・ザ・ライ」を特に期待することもなく試しに観てみたら、意外に好くて、『ライ麦畑でつかまえて』をまた読んでもいいかなと思った。今は村上春樹訳のもあるらしいけど、大昔に読んだのは、村上春樹訳ではない、新書よりも少し大きい、上半分が白で下半分が青い(逆だったかな?)、柔らかい表紙の本だった。

地球人類の悩みのタネである「イスラエル的トラブル」の本質は、「民族同一性{identity}盲信」という、生物由来の偏執。

2024年3月21日木曜日

☆デヴィッド・グレーバー著『負債論』/2024年3月21日/2周目/

素晴らしい内容と、悪夢のような翻訳こんなに下手くそな日本語訳にお目にかかったのは、大昔に読んだドーキンスの『利己的な遺伝子』と『延長された表現型』以来…という話は1周目のときにも記した。あまりにも酷い箇所は、原書を引っ張り出してきて、自分で訳した文を(原文と一緒に)欄外に書き込んだので、3周目は、もっと「快適」に読めるだろう。

ところで、おもしろいのは、グレーバー本の日本語版は、後の刊行になるほど、翻訳がコナレていっていること。『ブルシット・ジョブ』や『万物の黎明』は、明らかに、そして圧倒的に『負債論』より読みやすい日本語になっている。きっと、最初のが出た時に、周りから相当「言われた」んだろうねえ

2024年3月20日水曜日

『正直不動産2』の最終回の「細かい点」

『正直不動産2』の最終回で腑に落ちないところがあったので、もう一度見直した。やっぱり腑に落ちない。

ミネルヴァの鵤社長(高橋克典)の魂胆は分かりやすい。ミネルヴァが野間口さん(役名忘れた)から高額で買い取った土地を買わされる羽目になった唐森建設(ゼネコン)は、登坂不動産の仕事ぶりに不信を抱き、もう二度と登坂不動産とは仕事をしなくなるだろうから。輒ち、鵤社長の目的は登坂不動産の信用の失墜。

高畑淳子(役名忘れた)の役回りも最初よくわからなかったけど、野間口さんに関する情報を神木に提供したのが彼女なんだろう。多分。

腑に落ちないのは、野間口さんを挟んで、永瀬(山下智久)と神木(ディーン・フジオカ)が言い合う場面。永瀬は、地域のために大型倉庫を作るべきだと言い、神木は大型倉庫を作ってもうまくいくかどうかわからないと反論する。

要するに、野間口さんが永瀬の言い分を受け入れれば大型倉庫が建設され、神木の言い分を受け入れれば大型倉庫は建設されないことになるかのような議論が行われているけど、仮に野間口さんが、神木というかミネルヴァ不動産に10億円で土地を売ったとしても、土地を買ったミネルヴァは、大型倉庫の建設を当初から計画していた唐森不動産(ゼネコン)にその土地を売るわけだから、結局、大型倉庫は建設されることになるはずで、事情を知らない永瀬はともかく、ゼネコンの担当者に恫喝まがいのことまでして、野間口さんの土地を高額で売ろうとしていた神木は、一体、何のつもりで、大型倉庫建設反対を唱えていたのだろう?(大型倉庫を建設したいから、件のゼネコンは野間口さんの土地に「いくらでも払う」のでしょ?)。

と、ここまで書いてきて、「正解」が2つあることに気づいた。

①神木が野間口さんに対して、「ミネルヴァは、野間口さんの土地を唐森建設ではない建設会社に売るので大型倉庫は作られない」というウソをついている。もしそうなら、野間口さんは、ミネルヴァに土地を売れば、大型倉庫は作られないと本気で思っているので、大型倉庫を作りたがる永瀬の意見を退けようとするのは当然。

②野間口さんは、神木の入れ知恵で、ミネルヴァに売った土地が唐森建設に売られること(要するに、どのみち大型倉庫は作られること)を知らないフリをしている。あとで大型倉庫が建設されても、「俺は知らなかった、騙された」で逃げ切れる。或いは、もしかしたら、桐山(おいしい給食)が、ミネルヴァが唐森建設に野間口さんの土地を売ろうとしていることを教えたのかもしれない。桐山と会った後で、野間口さんは頭を抱えてるし。

これなら、どうせ大型倉庫は建設されると分かっている神木が永瀬に対して「大型倉庫は建設されるべきではない」と主張する理由にはなる。①野間口さんを騙し通すためか、②騙されたふりをしている野間口さんを援護するために。ミネルヴァの真の目的は、登坂不動産の信用の失墜であり、大型倉庫建設の阻止ではないので、唐森建設に「大損」をさせれば、用は足りる。





2024年3月17日日曜日

「拷問」としての「文春砲」

所謂「文春砲」は、実質、時代劇に出てくる「拷問」(石を抱かせるとか、焼きごてを皮膚に当てるとか、五寸釘を足の指に刺すとか)になっている。目をつけられた人間は、お白洲(裁判)で白黒つけられる前に、牢屋敷で痛めつけられ、一生残る肉体的精神的経済的ダメージを受ける。あとで無実・無罪とわかって放免されたとしても、「拷問」で受けた様々な「損害」については何の補償もない。「拷問」された側はひたすら「ヤラレ損」。だがその一方で「拷問」をする側には何のリスクもない。だから、「気楽」に「拷問」をやる。


或いは、時代劇に出てくる「拷問」の方が、一応、公的権力が手続きに則って行うので「まだマシ」なのかもしれない。「文春砲」の「拷問」は、三流文士が立ち上げた私設の営利団体が営利目的で、謂わば「自分勝手に」やってることだからだ。


最近のこの手の「拷問」を目の当たりにして、「週刊誌がチカラを持ちすぎた」と言う人が時々いるけれど、それは違う。週刊誌のチカラは前と同じ。「文春砲」が「拷問」を実践できるのは、今の社会に、国家権力以外の「暴力装置」が存在するから。輒ちSNS。


国家権力の「暴力装置」には、(あからさまな独裁国家でない限りは)とりあえず、規則や規律や或る種の「慎み深さ」がある。構成員も限定されている(公務員)。一方、「SNS式暴力装置」にはそのようなものは何もない。「構成員」は(潜在的に)小学生から譫妄老人までの全人類。当然「バカ問題」の因子となる連中が大量に含まれている。言い直すと、「SNS式暴力装置」には責任者がいない上に、構成員の心づもりも「街角インタビュー」程度なので、制御が効かないし、予測もつかない。


その危険極まりない「SNS式暴力装置」の起動ボタンを無自覚に押しているのが週刊誌。これが「文春砲」の「威力」の正体。(因みに、週刊誌が停止ボタンを押すことはできない。SNS式暴力装置に停止ボタンはないから。「燃料切れ」になるのを待つしかない。)


別の喩えを思いついた。


「炎上」に因んで、「有名人の醜聞」で一発当てようとする週刊誌を「放火犯」に喩えると、SNS出現以前にはボヤ程度の火事しか起こせなかったのが、SNS出現後には、同じ「やり方」で街をまるごと焼き尽くす大火災が起きてしまう。「放火犯」の「腕前」が上がったわけではない。環境が変わっただけ。カラカラに乾いたカリフォルニアやオーストラリアの森で、ウカウカ焚き火でもすれば、BBCが報道するような大規模森林火災になる。アレと同じ仕組み。


未だに、青空駐車場の車のタイヤにライターで火をつけているつもりなのが「文春砲」の中の人。しかし、SNS社会が実現してしまった現在、彼らが「放火」しているのは、乾燥しきったオーストラリアの森。どうせ焼くなら、もっと焼き甲斐のあるものを焼けばいいのに、といつも思う。


2024年3月17日 穴藤



2024年3月15日金曜日

BBCの「Witness History」でWinifred Atwellの話を聞いていたら、彼女の2番目のナンバーワンヒットだという「The Poor People of Paris」という曲が流れた。「間違いなくどこかで聞いたことがある!」と思って、ちょっと考え、「『タンポポ』でのっぽさんがオムライスを作っている時に流れてる曲に違いない!」と確信し、BDで映画を再生して確認したら、全然違った。いや、全然違うということはないのだが、全く別の曲だった。

2024年3月14日木曜日

『ディヴィッド・リンチ 幻想と混沌の美を求めて』:メモ

◯イアン・ネイサン著・中山宥訳『ディヴィッド・リンチ 幻想と混沌の美を求めて』:原題:Ian Nathan / DAVID LYNCH A RETROSPECTIVE/蔵書/2024年3月14日/誤記や脱字等が30箇所ほど(数えてはいない)あったけど、まだ知らなかった逸話と、たくさんのカラー写真で、けっこう愉しめた。「誤記」に関して言えば、例えば、登場人物の日本語表記が変だったり(「ネイディーン・ハーレイ」が「ナディーン・ハーリー」に、「リーランド」は「レランド」になっていた。これは駄目でしょ)、写真とは関係のないキャプションがついていたり(或いは写真のほうが間違っている?)、作品のストーリー説明が誤っていたり、単純に文章を書き損じていたりと色々。だから、「知らなかった逸話」も、実は事実とは違っていたりするのかもしれないけど、でもまあ、愉しめたので、構わない。翻訳はコナレていたので、その点では全くストレスがなかった。

「集団自殺」という「感染症」

BBCの「Crowd Science」の「brainwash」を取り上げた回を聞いていて少し考えた。


確かに、数年に一度とか、数十年に一度とかの割合で、所謂「カルト教団」絡みの「集団自殺」が世界の何処かで起きてきた。多分これからも起きるだろう。


思うにあれは一種の「感染症」が「発症」し「重症化」したものなのだ。感染症と言えば、記憶も生々しいcovid-19だが、「カルトの集団自殺」とcovid-19の違いは、感染する対象。covid-19は身体(細胞)に感染し、「カルトの集団自殺」は精神に感染する。我々の用語で言い換えれば、covid-19は生命現象に感染し、「集団自殺」は知性現象に「感染」する。


忘れてしまいがちだが、ほぼすべての人間は「カルト」に「感染」する。というのも、思春期は誰もが「愚かで浅はかな偶像崇拝者」だからだ。ここでいう「偶像」が文字通りの教祖であることは少ない。むしろ、テレビタレントやミュージシャンや漫画家や映画監督や大物芸人などの「有名人」「あこがれの対象」がそれに当たる。


肝心な点は、「カルト」に「感染」したからと言って、必ずしも「発症」するわけではないこと。大抵の人間は「発症」しないまま「自然治癒」してしまうし、たとえ「発症」しても、「中高生にありがちな馬鹿な振る舞い」程度の「症状」で治まってしまう。もう少しこじらせた場合でも、結婚や、出産や、昇進や、整形や、カミングアウトで、「完治」もしくは「寛解」する。


しかし、中には、「カルト」に「感染」し、ものの見事に「発症」し、事によると「重篤化」しやすい人たちがいる。ちょうど、covid-19が重篤化しやすい〔生命現象としての条件〕(身体的特徴)を持っている人が存在するように、「カルト」が「重篤化」しやすい「知性現象としての条件」を持っている人が存在するのだ。


それは「或る種のバカ」なのだろう(隠すのはやめよう。カルト教団による集団自殺のニュースを目にした我々が、まず最初に思うことは「なんというバカなことを…」のはずだ)。しかし、この「或る種のバカ」は必ずしも「知能の低さ」ではない気もする。つまり、〔カルト絡みの集団自殺をするのは、知能指数テストの正規分布の向かって左端の人たちばかり〕というわけではない気がする。知能指数とは別の知的要素が「カルトの布教活動」や「集団見合い」や「集団自殺」の「発症」と関わっているような気がする。


「カルト」の「最も重篤な症状」である「集団自殺」には、〔「カルト」が「重篤化」しやすい条件を持った知性現象〕を淘汰する働きがあるので、その結果、〔おそらく決して「集団自殺」に取り込まれることのない人間たち〕が、現在の地球上で大多数を占めている。「集団自殺」が「珍しい事件」なのは、「集団自殺」自体の「手柄」。


因みに、自然淘汰は、特定の個体の繁殖を阻止することで、その機能を発揮するものなので、本来、〔繁殖を済ませた後で自殺する個体〕の遺伝情報を淘汰することはできないのだが、集団自殺する個体は自身の子供を道連れにする場合が多いので、たとえ、繁殖後の自殺であっても、彼らの遺伝情報はそこで途切れる。


…とまあ、そんなことをつらつら考えた。


2024年3月14日 穴藤


2024年3月12日火曜日

『正直不動産2』無事完走。山﨑努と草刈正雄のツーショットなんて初めて見た気がする。
劇場版『ルパン』は、「カリオストロ」ではなく、断然「マモー」派なんだけど、タイトルが「大声のネタバレ」になってるところが「悲しい」よね。
嘗て人は孫に言葉を残した。孫なき現代はSNSに言葉を残す。

2024年3月10日日曜日

2024年3月10日放送の「日曜美術館」は、マチスがどうこういうよりも、映像ソフト単体として美しい番組だったなあ。

2024年3月6日水曜日

バイコマ:200周の男

2024年3月6日:PS3『バイオニックコマンドー』200周達成。おめでとう、ありがとう。

フェリーニの『道』

 ☆フェリーニの『道』2024年3月6日/Prime Video/少し頭の足りない若い女ジェルソミーナと、決して悪人ではないが、後先考えないガサツな男ザンパノの物語。人間が生きるとはどういうことかを、モノすごーくシンプルな物語で描き切っていて見事。因みに、David Lynchのお気に入り映画。

お爺ちゃん喋り

YouTubeを眺めていると、時々、どう見てもオリジナルのアニメとは別物の、きれいに整った「ガンダム」や「Zガンダム」の動画が流れてくる。アムロやシャアが、アニメ放送時には搭乗していないはずのモビルスーツを駆って、戦ってないはずのキャラと戦っていたりする動画だ。新規のビデオソフト(パラレルワールドモノ的な)なのか、それとも(きっとこっちが正解だろうけど)ビデオゲーム内のムービーなのかは知らないけれど、とにかく、シャアとアムロの喋り(声じゃない)がどちらもお爺ちゃん特有のたどたどしさで、居た堪れなくなる。

2024年3月5日火曜日

ジェルソミーナ

David Lynchのお気に入りである〔フェリーニの『道』〕がPrime Videoに「来た」ので一昨日から観てる(長編映画はたいてい小分けにして観てる。忙しいのだ)。

ザンパノが留置所に入れられたところまで観て、やっと「ああそうか」と、この映画の「好さ」がわかったわけだが、同時に、「あれ?」と思った。主人公の名前(ジェルソミーナ)と、綱渡りの曲芸師が超小型バイオリンで奏でてるメロディを「つい最近どこかで聞いたぞ」と。

で、思い出した。この前のYouTubeで聴いたDaisy Holiday(2024.2.18回)で細野さんがかけた曲が、それだった。さっき確かめたら、歌ってるのは日本人で歌詞も日本語だったけど、タイトルもジェルソミーナで、歌詞もジェルソミーナのことを歌っていて、メロディも同じ。

巡り合わせ。


2024年3月4日月曜日

二種類の本と「知的ボディビルダー」

二種類の本がある。「基礎訓練」の本と「実戦」の本。

ジャッキー・チェンの『酔拳』のようなカンフー映画で喩えると分かりやすい。

①『酔拳』といえば、逆さ吊りになったジャッキーが、両手に持ったお猪口で、下の桶の水を上の桶に移し替える修行が有名。あれが基礎訓練。地道で退屈。しかも腕立て伏せとか、腹筋運動とかと同じで、アクロバティックなあの動きが出来たからと言って、閻鉄心(や桃白白や火雲邪神)には勝てない。

②ジャッキーはその後で、具体的な「酔八仙拳の形」を学ぶ。あれが実戦のための修行。あれを身に付けて初めて、映画はエンディングを迎えられる。

ジャッキー・チェンのハナシではなく、本のハナシなので、そっちに戻ると、〔難しい漢字と専門用語で抽象的なことばかり書いてある〕所謂「難解な本」が①に当たる。哲学書とか思想書とか呼ばれて、主に〔中学から大学くらいの一部の男子〕が苦労しながらも得意になって読む類の本。あの手の本を読むと、「本を読む基礎体力」とでも言うべきものが付くのは間違いない。心理的にも、「難解な本」に対しても物怖じしなくなるので、得るものは大きい。しかし、所詮①なので、そればっかり読んでいても、埒が明かない。ただの「知的ボディビルダー」になるだけ。

ボディビルダーに運動神経は必要ない(「SASUKE」の山田さんを思い出せ)。重いものは持ち上げられるが、逃げ回る鶏は捕まえられないのがボディビルダーだ(経験的に、喧嘩も弱い)。ボディビルダーの正反対が、生まれつきの喧嘩屋。基礎訓練もなにもしていないのに、路上で勝つ(しかし、重いものは持てない)。

哲学教授や禅坊主などはプロの「知的ボディビルダー」。生涯、基礎訓練だけをする人たち。彼らの醸し出す「役立たず感」は、ボディビルダーの「役立たず感」に通じる。

難解な本と聞いてすぐに思い出すのは吉本隆明の本。①の代表は『心的現象論』で、②の代表は『老いの超え方』。

知的ボディビルダーになりたくなければ、30を過ぎたら①の本は「卒業」しよう。というのが今回のハナシ。

2024年3月2日土曜日

カタカナの羅列

生物の正式名称(和名)をカタカナの羅列で表記するのは誰の得? 区切りっぽいところに点でも入れて、全体をカッコでくくった方が、断然、名前からその生物をイメージしやすいのに。

例)
コイヌガオフルーツコウモリ→【コイヌガオ・フルーツ・コウモリ】
ネズミキツネザル→【ネズミ・キツネ・ザル】

2024年3月1日金曜日

Harvey Keitelを初めて観たのは『パルプ・フィクション』(Mr .Wolf)で、遡って『レザボア・ドッグス』(Mr. White)でまた観た。なんとなくいいなあとは思っていたんだけど、そのあとで『SMOKE』を観たらすっかりファンになってしまった。けど、このときは、Harvey Keitelが好きなのか、オーギー・レン(彼が演じたタバコ屋のオヤジ)が好きなのか、はっきりしなかった。で、『ピアノ・レッスン』を観て「Harvey Keitelはイイ」と確信した。因みに吹き替えの声はずっと堀勝之祐(多分)。