2025年12月30日火曜日

2025年12月22日月曜日

2025年12月20日土曜日

「スマドリ」のCMが不快。

(本当か嘘かはともかく)酒が飲めないことを理由に、これまで飲み会に参加しなかった(しなくて済んだ)人たちを「無理矢理」飲み会に引っ張り出して、自社製品の売上を伸ばそうとしているだけなのに、「お酒が飲めない人も、飲み会に参加して楽しんでいいんです」と、日曜の朝に勝手にやってくる新興宗教の勧誘みたいなことを言うのが気に入らない。

シラフで座る飲み会の2時間は体感4時間。

2025年12月5日金曜日

『CLASSIC TV』で聴いた弦楽四重奏第16番

今日の『CLASSIC TV』の最後にスタジオで演奏されたベートーベンの弦楽四重奏第16番第3楽章は、死にかけている人間の魂(第1バイオリン)が、天国に行きそうになったり、地上(他の3つの楽器)に戻ったりしているみたいな演奏で、すごく怖かった(不穏だった)。

あれが元々ああいう曲なら、ベートーベンをちょっと見直したところだけど、そうでもない気もする(ベートーベンの音楽ってハリウッド映画みたいであんまり好きではないが、今日聴いたアレなら、単館上映映画みたいで面白い)。

演奏者の解釈で、意図的にああいうふうに演奏したのか? それとも、ただ単にバイオリンのチューニングがおかしかっただけなのか? ともかく、初めて聞いた曲だったので、「正解」がわからなくてモヤモヤしたので、他の人達の演奏を配信でいくつか聴いてみた。

結果、どれ一つとして、[番組で流れた演奏のような「死神風」]ではなかった。良くも悪くも、みんな、聞き馴染みのある「響き」だった。

で、演奏が終わった直後の松山ケンイチの長めの「沈黙」について、色々勘ぐってしまった。

2025年12月4日(穴)


追記:もしかしたら、第一バイオリンの奏者のことを昔から知っている人たちからすると、あの演奏は、例えば、[志ん生最後の高座]的な意味合いを持つ演奏だったのかもしれない。だとしたら全て合点がいく。

2025年11月29日土曜日

『ぼくたちん家』第7話:メモ

*今回も二周した。由紀さおりは無論好かったが、亀を「逃がして」しまったあとの犬二匹の「演技」にもヤラれた。

*このドラマの好さは、「通奏低音」として流れている諦観だと、この第7話で確信した。可笑しみも悲しみも苛立ちも、全て、この[諦観という通奏低音]の上で繰り広げられている。それが好い。

*あと、[麻生久美子と光石研が出ている日本テレビのドラマ]ということで、かつての名作『泣くな、はらちゃん』を思い出した。諦観が通奏低音として流れている感じもすごく似てる。

移民と侵略


 

「単なる絶滅」と「自発的絶滅」の差は小さくない

近頃、[老い先短くなった独裁者たち]が、あちこちで侵略だの虐殺だのを繰り広げて、独りよがりの英雄的恍惚に浸っている。

ホモ・サピエンスが、世界征服やジェノサイド(=「我々」の安寧のために「彼ら」を皆殺しにする行為)に走るのは、その根底に、「選択を誤らなければ、ホモ・サピエンスは永遠に存在し続ける」という誤解(というか根拠なき願望)があるからだ。

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個体としてのホモ・サピエンスは、生まれて百年もすれば、すっかりくたびれて「存在意欲」を失い、世界に対して関心がなくなる。その結果、世界への働きかけ(別の言い方をすれば干渉)をやめる。具体的に言えば、百歳のホモ・サピエンス個体は、(どうせきっと死んでいる)25年後の自分のために世界を変えようとはしない。

だが、そんな百歳のホモ・サピエンス個体も、[子孫や、祖国や、或いは、種としてホモ・サピエンス]の未来のためになら、老骨に鞭打って「なにか途轍もなく余計なこと」をやらかす。

『人間の終わり』で述べた通り、ホモ・サピエンスの文明が順調に進歩と発展を続ければ、その先に待っているのは、ホモ・サピエンスの自発的絶滅である。独裁者たちの願望とは裏腹に、選択を誤らなければ、[種としてのホモ・サピエンス]は地球文明からの退場することになるのだ。

文明の進歩や発展が、種としてのホモ・サピエンスを自発的絶滅へと導くなら、文明を停滞させてしまえ、と独裁者たちは思うかもしれない(実際、歴史上の多くの独裁者は文明を停滞させてきた)。そうすれば、血縁も国家も[種としてのホモ・サピエンス]も永遠だ、と。甘い。たとえ、ホモ・サピエンスの文明が停滞し続けても、地球や太陽や宇宙は変化することをやめない。立ち止まっているホモ・サピエンスの文明は、それらの変化が引き起こす「宇宙災害」に対処できず、結局、この宇宙から姿を消すことになる。

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選択を誤らなければ、ホモ・サピエンスは、人工人格に地球文明を引き継がせて、自らは自発的絶滅によって、この宇宙から姿を消す。選択を誤れば、[地球か太陽か宇宙]の変化の巻き添えになって、自ら築き上げてきた地球文明もろとも、この宇宙から姿を消す。いずれにせよ、ホモ・サピエンスが永遠に存在し続けることはないのだ。

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自発的絶滅は、知性現象としての[種としてのホモ・サピエンス]に訪れる歴史的必然。いつまで経っても、ホモ・サピエンスの[血縁や国家]が存在し続けているなら、それは、ホモ・サピエンスが、知性現象として「失敗」し続けている証。大目に見ても「寄り道」が過ぎている証。

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蟻塚はただの生き物が作ったにしては見事なものだ。同様に、国家もただの生き物が作ったにしては大した代物だ。しかし、どちらも、所詮は、生き物が生きるために作り上げた生存用装置でしかない。Dawkins風に言えば、ただの「延長された表現型」でしかない。そしてそれは、「生きる」ことが必然ではない知性現象にとっては、本来的に必要のないもの。

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[「赤ん坊」の知性現象]であるホモ・サピエンスには「国家」という「オムツ」が必要なのだろうが、「オムツ」が手放せないことに関して、知性現象としての恥ずかしさや後ろめたさは感じていてもらいたい(真の知性現象には「国家」という「オムツ」は必要ない)。「オムツ」自慢がやめられなかったり、すでに「オムツ」がつけているのに、他人の「オムツ」が欲しくなるのが、現状のホモ・サピエンス。自発的絶滅までの道のりは遠い。

2025年11月29日(穴)


2025年11月26日水曜日

キーを差したままの自動車を店先に置くのは、実弾を装填した銃をコンビニの商品棚に並べているようなもの。ホモ・サピエンス社会に暮らす個体の何割かは、ギリギリ人間の、実態はただの「喋る猿」なのだから、そういう危ない代物を、そういう危うい個体の手が届くところに「放置」してはいけない。

自動車が銃並みの「凶器」なのは、毎年自動車が殺している人間の数が証明している。

試合と実戦


 

2025年11月24日月曜日

喩えるなら、『墓場鬼太郎』が屋台のラーメン。それを全国チェーン展開したのが『ゲゲゲの鬼太郎』。当然、「味」は違う。

2025年11月21日金曜日

2025年11月20日木曜日

散歩の効用


 

生成AIの「オカゲ」で、[「おまえ、誰?」的な生身の俳優]を使わずに[アニメの「実写版」]が作れるところまであと少し(っぽい)。

いや、まあ、この先、映画(配信ドラマ)は基本的に全て「超写実アニメ」になるのは歴史の必然で、わざわざ生身の俳優が演じて作る映画は、わざわざ舞台で生芝居をする「舞台演劇」のような「扱い」になる。

2025年11月19日水曜日

『ちょっとだけエスパー』を第5話迄、我慢して観た。ここまでつまらないと、もう無理。

思い返せば、『MIU』の時点でやや「怪し」かった。『ラストマイル』は完全に「違う」と思った。

結局、『アンナチュラル』は、いろいろなめぐり合わせで、たまたま名作になったのだ、という結論になりつつある。(そういうのって割とある。『フィッシュストーリー』とか)

生命数信者の見分け方


 

2025年10月26日日曜日

『GEN V』season 2 / episode 8:memo

主人公陣営:ゴドルキンが思ってたよりバカで助かった。

シスター・セイジ:ゴドルキンが他と同じバカでガッカリ。

2025年10月3日金曜日

『GEN V』season 2 /episode 5 : memo

昨日、寝てる間に思いついたこと。

サイファー学部長も実は「操り人形」。本体は、ズルムケ人間。輒ち、「閉じ込め症候群」状態のゴドルキンさん。なので、サイファーの手(自分の手ではないから平気)をナイフで刺したりするし、サイファー学部長経由でジョーダンの「中」に入ったときに、閉じ込められてることを苦しがっていたりする。

*「1ヶ月前」の場面で、「世界一頭のいい人間」(キャラ名忘れた)とsexしていたのは、サイファー学部長経由のズルムケ人間(ゴドルキンさん)。

*だから、サイファー学部長自身は、マリーの最初の「見立て」どおり、ただの人間。

*サイファー学部長(と言うか、ズルムケ人間のゴドルキン)の目的は、①マリーを「最強」にして、ゴドルキンさん基準では「出来損ない=未完成品」に過ぎない[ホームランダーを含む現行のスーパーヒーローたち]を一掃すること。もしくは、②「閉じ込め症候群」状態にある自分自身を、マリーの能力を使って「復活」させること(でも、「壮大な計画」といってたから、②は違うかも)。

【追記】

*サイファー学部長が、自分の手にナイフを突き立てたり、「世界一頭のいい人間」(名前忘れた)に顔面を思い切り引っ叩かせたりするのは、ズルムケ人間(ゴドルキンさん)の「操作」に「抵抗」する(「操作」から逃れようと「暴れる」)サイファー本人を「黙らせる(おとなしくさせる)」ために、ズルムケ人間(ゴドルキンさん)がやってること。


2025年10月2日木曜日

『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』第一話:メモ

『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』第一話を観た。

ブランド食材を取り揃えて、高級調理器具で作りあげた、凝った盛り付けの、美味くも不味くもない料理

という印象。

【追記】
「白紙のおみくじ」と「『Black Rain』の松田優作」は好かった。

2025年10月1日水曜日

「ザコキャラ属性」

*ここ一年ほど、ストーム久保(元プロゲーマー)の愉快な配信を愉しんでいるのだが、先日観た動画は、ゲームは一切やらず、親方がションボリ、涙をこらえながら喋るだけの内容だったので驚いた。聞けばどうやら、ネット上に跋扈する「ザコキャラ属性」個体群の毒気に当てられてしまったらしい(但し未確認)。とんだ災難。お大事に。

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*「ザコキャラ属性」の「ザコキャラ」とは、『北斗の拳』の各episodeの冒頭に出てきて、ケンシロウ(時々レイ、極たまにラオウ)に一蹴される、所謂「人間のクズ」たちのこと。

*「ザコキャラ属性」の最大の特徴は「meta認知」能力の貧弱さ。つまり、自分自身の行動を客観視する能力の欠如。だから、「ザコキャラ属性」の個体は、自分の行動が周囲の人間にはどう見えているかが分からない(もし分かるなら、生きているのが恥ずかしくて、とっくの昔にククルかトビオリルかしているはず)。

*仮に「ザコキャラ属性」個体たちが『北斗の拳』を読んでも、登場から1ページ半で主役キャラに「秒殺」されているのが、自分たちのお仲間だとは気づかないだろう(meta認知能力が貧弱とはそういうこと)。

*残念なのは、「ザコキャラ属性」個体が現実世界の職場・学校・路上、そしてSNS上にゴロゴロしている一方で、「ケンシロウ」や「レイ」や「ラオウ」は漫画の中にしかいないこと。

*もう一つ残念なのは、たとえ「ザコキャラ属性」で脳みそグズグズでも、生物学的には「同じ」Homo sapiensなので、世界中の大抵の場所で人権が認められていること。つまり、「ザコキャラ属性」個体たちが、イッパシの人間ヅラをして、のうのうと生きているわけだ。

*「ザコキャラ属性」のもう一つの特徴は、群れたがること。しかし、そうすると自分以外の「ザコキャラ属性」個体の所業(悪行)を目にしていることになる。それにも関わらず自分たちの「真の姿」に気付けないのだから、彼らの欠陥(或いは障害、それとも個性?)は、単に[meta認知能力の欠如]だけではないことになる。

*結局、P. K. Dickが忌み嫌った「アンドロイド」=「姿形は人間と瓜二つだが、感情移入能力を持たない人間モドキ」が、「ザコキャラ属性」個体たちの「正体」に最も近いのだろう。

2025年9月26日金曜日

NHKドラマ『母の待つ里』(全4話):メモ

*葬式に駆けつけた4人の「子供」(利用者)のうち、松永(中井貴一)だけが、藤原ちよさんの「正体」を知らされない展開になるのは、彼だけが自身の抱える「寂しさ」に対して「無自覚」だから。

*自身が抱える「寂しさ」を受け入れた古賀(松嶋菜々子)や室田(佐々木蔵之介)は、無事、「ちよ教」に「入信」し「出家」できた。しかし、「成功者」として「充実」した人生を送っている(と思い込んでいる)松永は「俗世」を捨てられず、都会に戻ることを選ぶ。

*新幹線を待っているときに届いた秘書からのメールを見て初めて、「俺はこの女の居る場所には帰りたくはないのだ」と気づいた松永は村に引き返すが、バスの運転手に行き先を確認されたところで、「母の待つ里」は既に存在しないことを思い出す。

*松永はバスの中で、行くべき場所がない存在になってしまった自分自身を笑う。

*松永がポケットに入れて持って帰ってきた「折りかけの折り鶴」は、「ちよ教」の信者になり損なった松永の象徴。

*ちよさんが松永に語って聞かせる昔話の元ネタは『遠野物語』の「寒戸の婆」?

*ちよさんの「迫真の演技」の理由は、ちよさんが、事実、[深い後悔を抱えこんで、子供の帰りを待ちわびている老母]だったから。

*カード会社の受付け嬢の「画」は要らない。