「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2026年5月9日土曜日
2026年5月5日火曜日
『蜘蛛の糸』の本音
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を取り上げた、Eテレの宗教系の番組(タイトル忘れた)で、3人の出演者が、蜘蛛の糸を独り占めしようとして「墓穴を掘った」カンダタの話ばかりしていて笑った。小学校の休み時間かと思った。「蜘蛛の糸」を読んで、あれを、人間の業(ごう)や善悪の話だと思ってしまうのは、小学生迄。
カンダタの掴んでいる蜘蛛の糸が切れる場面は、確かに「話の山場」だが、作品にとってはただの「部品=脇役=要素=引き立て役」。「蜘蛛の糸」で最も「重要」で「恐ろしい」のは、極楽の様子を描いた、最初の数行と最後の数行。あの[最初と最後]の数行があるからこそ、「蜘蛛の糸」は芥川によって書かれた意味がある。
「蜘蛛の糸」の世界で、カンダタは何ひとつ現状を変えられなかった。そして、それは、お釈迦様も同じ。どちらも「無力」なのだ。大きな世界と対峙した時、人の意思などちっぽけなもの。これが芥川が「蜘蛛の糸」で「本当」に描いていること。
カンダタやお釈迦さんが、どう考え、何を企て、その結果がどうなろうと、その一切は、些末なことで、世界は気づきもしない。そんな究極のニヒリズムが芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の主題。輒ち、35歳で芥川が服毒自殺しても、極楽に咲く蓮の花は、枯れも萎れもしないことを、芥川自身は「よく知っていた」のだ。
2026年5月3日日曜日
偽フォルテ
ヒョロヒョロのリュウ・ケンや、
マッチ棒のような脚の春麗、
ベガ風の小男が出て来て、
「ストリートファイター」を騙る映画の予告編を観たら、
正体不明のブヨブヨのデブが、
エル・フォルテの神聖なマスクを勝手に被って、
例のヒョロヒョロのケンに、リング上でKOされていた。
こんな映画、誰が観るか!
2026年5月1日金曜日
犬たちが「こんばんわ」
Louis Armstrong の"What a wonderful world"の謎の歌詞"dogs say good night"が実は"dark sacred night"だと知ったのはつい最近のことだ。
2026年4月27日月曜日
『魯山人のかまど』(全4話):メモ
10年に1本出遭うかどうかの好いドラマだった。こういう「コトバ数の少ない」ゼイタクなドラマはNHKでしか作れないような気がする。ところで、「咳払い」演出はミゴトだった。実物の魯山人の癖だったのか、ドラマの「発明」なのかは知らないが、あの「咳払い」ひとつで、魯山人の「気持ち」が一発で視聴者に伝わる。魯山人の顔や姿を画面に映す必要すらない。最後にはヨネ子さんも同じ「咳払い」をしていて、グッと来た。(あと、「ヨネ子くん」が見合いをして結婚も決まったことを知った時の魯山人も好かったな)
2026年4月25日土曜日
2026年4月22日水曜日
ハヤタの歌でした
ずっと、ウルトラマン本人のことを歌っていると思っていた「ウルトラマン」の主題歌が、概ねハヤタのことを歌っている歌なのだと、さっき気付いた。以前から、3番の「手にしたガンが」に違和感があったのだが、ようやく納得できた。なので、1番で歌われている「胸のマークは流星」も、ウルトラマンのカラータイマーではなく、ハヤタが科学特捜隊の制服の胸につけている変なバッヂのことだったのだ。ガーン。
2026年4月20日月曜日
『魯山人のかまど』第3話:メモ
2026年4月18日土曜日
クリップとホモ・サピエンス
「クリップ製造」を命じられた万能AIが、宇宙の資源をクリップ製造で使い果たす思考実験(?)があるが、「クリップ製造」を「ホモ・サピエンスの繁栄」に置きかえても結果は同じだろう。宇宙にホモ・サピエンスがあふれかえる状況を繁栄とかなんとか言って喜ぶ連中は、風呂場のカビや、赤潮を発生させるプランクトンのことをどう思っているのだろう?
2026年4月14日火曜日
2026年4月13日月曜日
2026年4月12日日曜日
2026年4月11日土曜日
『JUNK WORLD』:メモ(ネタバレあり)
21世紀の「神話形式」として、今、巷に溢れかえっている、所謂「マルチバース/パラレルワールド」モノ。
因みに、[神・悪魔・幽霊][転生者][異星人][アンドロイド][タイムトラベラー][パラレルワールドを行き来する者]と、「形式」や「用語」や「設定」が色々変わっても、「やってること」は本質的にどれも同じなので、その意味では、この『JUNK WORLD』も陳腐。
前作『JUNK HEAD』の続編だが、物語的には、前日談。切腹したマリガンが姿を変えた「樹」は、『JUNK HEAD』に登場する。更に、エンドロール後に描かれる結末で、『JUNK HEAD』に登場した3人組が壊れたロビンを回収する(この壊れたロビンが、『JUNK HEAD』の主人公の代替ボディになる)。
実を言うと、エンドロールで流れた「Making映像」が観ていて一番盛り上がった。
2026年4月10日金曜日
トメワンとオショウライサン
2026年4月8日水曜日
考察猿
大昔から、「立派な人たち」が、人殺しも辞さない覚悟で取り組んできた「神学」や「聖書学」は、今、net上で、猫も杓子もやっている[漫画やアニメやドラマや映画の「考察」]と本質的に何も変わらないわけだが、自分の「研究対象」が虚構であることを充分に理解できている文だけ、猫や杓子の方が、むしろ、頭脳は明晰だと言える。(2026/04/07 穴藤)
『ヤング・シャーロック』(全8話):メモ
2026年4月5日日曜日
2026年4月3日金曜日
2026年3月23日月曜日
2026年3月19日木曜日
2026年3月17日火曜日
2026年3月15日日曜日
2026年3月7日土曜日
2026年3月6日金曜日
『あのときキスしておけば』全8話:メモ
2026年3月2日月曜日
『探偵さん、リュック開いてますよ』最終話:メモ:ホットパンツマスター
2026年3月1日日曜日
2026年2月24日火曜日
2026年2月22日日曜日
2026年2月16日月曜日
『探偵さん、リュック開いてますよ』第6話(BAD MEMORY GOOD SOUND):メモ
『探偵さん、リュック開いてますよ』のこれまでの全5話は、この第6話のための「前フリ」や「仕込み」や「設定説明」だったんじゃあないかと思うくらいの名作回。
なんと言っても、洋輔(松田龍平)とリカ(夏帆)の中華街での「デート」中のやり取りが、The 沖田修一演出で素晴らしい。輒ち、「こちらが相手の本心に気づいたとき」や「相手がこちらの本心に気づいたことを、こちらが気づいたとき」に、そのことを、両者ともに表に出さないで、「これまでの状況設定」を破綻させないように、さりげなく会話を成立させ、いい意味で「流されていく」あの感じ。多分、[人間同士が最も安心できる関係性]が成立しているとき、ああいう風になる。気がする。
分かりにくいので具体的に言えば、店員が忘れ物の腕時計を持ってきた時点で、「旦那の浮気調査依頼」は、リカが、洋輔と個人的に会うためについた「嘘」だったことが、洋輔にはバレてしまったわけだけれど、洋輔は気づいてないフリをする。リカの方も、[洋輔が気づいてないふりをしていること]に気づいて、それで嬉しくなって、「でっかい唐揚げ(?)」を洋輔の皿に乗せる、というあの場面。
あの時点で、「夫の浮気調査」の依頼人と、その依頼を受けた探偵という「設定」は、両者にとっては不要になったのだけれど、洋輔の方は律儀にその「設定」を続け、クレープを食べてるときに「旦那の行きつけの店」をリカから聞き出そうとするが、リカは、当然、その問いをやり過ごす(だって、そもそもリカの旦那に浮気疑惑などないのだから、行くだけ無駄。おそらく、「旦那の行きつけの店」は、リカが洋輔とデートしたかった店だろう)
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もう一つ面白いのは、「手紙」を巡る長年の「わだかまり」が、洋輔とリカとで全く違っていること。洋輔の方は、「両想い機」という発明品を使ってリカの心を操ったことを謝罪したいと思っている。そのうえで、[返事を出さなかったのは、もらった手紙を開けることすらしなかった(だから当然、読んでもいない)からであり、なぜそんなことをしたのかと言えば、自分にはリカと「付き合う」資格はないと思っていたからだ]と説明したいと思っている。一方、リカの方は、自分が手紙に書いたことが、洋輔が発明をやめる原因になってしまったのかもしれないと気にしている。
よくできているなあと思ったのは、視聴者にはあらかじめ、リカが書いた手紙の全文が知らされていること。つまり、視聴者は、「自分の手紙のせいで洋輔が発明をやめたのかもしれない」というリカの心配はただの思い過ごしだと分かった状態で、リカの[手紙に対するわだかまりの表明]の場面に立ち会うことができる。そうすると、視聴者は、(やはり既に手紙を読んでいる)洋輔が、そのリカの「告白」に対してどう思っているかを「正確」に知ることができる。つまり、「ああ、そんなことを気にしてたのかあ(全然、そんなことないのに)」。で、こうなると、40を過ぎてようやくリカの手紙を読み、「いろいろな種類の後悔」と共に涙まで溢れ出してしまった洋輔は、どうしても、「両想い機」を巡る「真相」を告白するしかなくなる。
…なのだが、結局それを洋輔には「告白させない」展開が素晴らしい。
リカに「真相」を教えてくれるのは、リカの旦那(タカシ)が、リカと洋輔の母校で集めていた「音=Good Sound」。より正確に言うと、「真相」は、リカの心の中に何年も何十年も前からあって、ただ、それにリカ自身が気づいてなかっただけなのが、リカの旦那が集めた「音」がきっかけになって、その時の場面(リカと洋輔が恋に落ちた場面)を「鮮明」に「思い出し」、その瞬間に、リカの中で、全ての謎が一つにつながって、何もかもが合点がいったことで、「真相」が分かった、ということ。(因みに、ああいう場面を見ると、我々のような「Twin Peaksの住人」は、すぐに、クーパー特別捜査官が巨人に指輪を返してもらった瞬間に、それまでずっと忘れていた、ローラ殺しの犯人の正体を「思い出す」場面を連想してしまう)
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第5話迄が、この第6話の「前フリ」や「仕込み」のようだというのは、洋輔の発明品の「信憑性」に関して。
第6話には[リカが洋輔に恋したのは、本当に「両想い機」のせいなのか?]という「疑念」が、物語中ずっと漂っている。もしこれが、いきなり第6話だけを見せられたら、視聴者は(洋輔の発明品が実際に幽霊を実体化したり、タイムトラベルをしたり、温泉に喋らせたりするのを見ていないので)「両想い機って、そんな馬鹿な(失笑)。主人公(洋輔)が一人で信じてるだけで、本当は何の効果もないに決まってる」で済ましてしまうはず。しかし、そうなると、この第6話の魅力は半減する。このepisodeの魅力の一つは、「両想い機のようなインチキで恋に落ちたとしても、そうじゃなかったとしても、恋する者たちの体験は本物でしょう?」と、恋に落ちた当事者(洋輔とリカ)が最後に受け入れるところにあるからだ。だから、むしろ、両想い機が機能していたと考える方が、初恋の物語としては「深い」とも言えるのだ。
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【付記】
*発明品の力で女性の恋愛感情を操れた(と思った?)この体験が、その後の洋輔の恋愛事情に「負の影響」を与えた可能性はある。
*リカが、洋輔とよく似たタカシ(中島歩)を夫に選んだのは、そもそも、「両想い機」とは関係なく、リカのスキなタイプが洋輔だったということの暗示かもしれない。或いは、逆に、リカは、「両想い機」のお陰で、今の旦那を好きになれたのかもしれない。つまり、洋輔の代わりを求めた結果。
*「The 沖田修一演出」といえば、「登場人物二人が並んで歩きながらずーっと会話する長回し」とか、「歌詞が物語の内容そのままになってる挿入歌が流れる」とかもあって、好かった。
*松田龍平は『カルテット』に続いて、またしても、中島歩に「女」を取られる役。
*洋輔と楽しそうに歩いている様子を旦那(タカシ)に見られたリカがあたふたする様子は、「これじゃあ、まるっきり、私の方が、浮気現場を見られたようになってるじゃん!」と言っているようで面白かった。
*最後のタカシのセリフ「月が綺麗ですね」は、今更指摘するまでもなく、漱石が嘗て「I love you」に当てた日本語訳。つまり、最後の最後に、タカシはリカに「I love you」と言っているわけで(リカもタカシに言ってたかも)、これは、「勘の鈍い」一部の視聴者に対して「タカシはそもそも浮気なんかしてません。あれは全部リカの嘘ですよ」という念押し。
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【おまけ】
2026年2月11日水曜日
【英語無手勝流】否定している動詞は、「違う」が「違っていない」
2026年2月8日日曜日
2026年2月6日金曜日
標準和名の「カタカナの垂れ流し」を見る度に思う
生物種の標準和名の「カタカナの垂れ流し」を一体誰が喜んでいるのだろう? 全体を括弧で囲って、意味を表している部分を区切ればいいのに。
フクロウオウム→[フクロウ・オウム](梟鸚鵡)
ワオキツネザル→[ワオ・キツネ・ザル](輪尾狐猿)
オオシモフリエダシャク→[オオ・シモフリ・エダ・シャク](大霜降り枝尺)
2026年2月3日火曜日
2026年2月2日月曜日
2026年1月30日金曜日
【英語無手勝流】助動詞は誰のものか?
注意:以下の内容は、調べたわけでも、習ったわけでもなく、ただ、体感としてそう思える、というだけのことです。輒ち、無手勝流。
「can」とか「will」とかの助動詞は、[話者/筆者]の「意見や判断や推測]。「Alice can do that」と言う時、「Aliceはそれができる」と、[話者/筆者]が自分の[意見や判断や推測]を述べているだけで、Alice自身にとっての「事実」とは無関係。輒ち、Aliceにとっての事実と[同じかもしれないし、違っているかもしれない]。序にいうと、助動詞が人称ごとに形が変わらない理由も、助動詞の「主語」が[話者/筆者]だから。文面上の主語が一人称(I)だろうと二人称(You)だろう三人称(He, She, It…)だろうと、助動詞それ自体は常に[話者/筆者]の動詞だから形が変わらない。
一方、「be able to」や「be going to」などのbe動詞文は、字面通り、主語の状態を表している。「Alice is able to do that」という時、こちらは、先程とは逆に[話者/筆者]の[意見や判断や推測]抜きで、事実として「Aliceはそれができる」と述べている。上の「序の話」を繋げば、be動詞は、文面の主語の状態を表すので、人称ごとに形が変わる(am, are, is)。
「can」と「be able to」の「違い」や、「will」と「be going to」の「違い」で、日本人学習者の頭が混乱してくるのは、日本語では、例えば、「Aliceはそれができると思う」という文章が平気で成立してしまうから。だと思う。上の文で「思う」のは誰?話者?Alice? 「思う」の主語が省略されているのか(話者としての「私」が主語)、されていないのか(Aliceが主語)も、上の文では判断がつかない。しかも、思い切って末尾の「思う」を取ってしまっても(「Aliceはそれができる」)、「著者の意見」と「Aliceの事実」のどちらの意味にも取れてしまうのが、日本語のオソロシイところ。英語の場合、「著者の意見や見込み」なら「Alice can do that」で、「Aliceについての事実」なら「Alice is able to do that」とすればよい。
…と、そういうふうに、いつも聞こえる。