2026年8月9日日曜日

VIVANT season2 :memo

「13話」迄観た。「少年ジャンプ病」=「[あとづけ+内輪揉め]展開」が酷くて、かなり薄っぺらな内容。[視聴者を誰一人置き去りにしない精神]の現れなのか、これでもか、というくらいの懇切丁寧な説明ゼリフも、まるで、漢字全部にふりがなが振られている児童本のよう。外国ロケの風景は観ていて楽しい。

2026年8月3日月曜日

『憶えのない殺人』:メモ

『憶えのない殺人』前後編を観た。自分が殺人犯ではなかったことに満足(安心)するばかりで、あんなに気にかけていたナントカさん(名前忘れた)が人殺しになっていたことについては心を痛めている様子が全くない主人公(元駐在さん)に違和感を憶えた。殺されるよりはマシだけど、それでも人生が大きく狂ってしまったナントカさんの不幸は相当なもののはずなのに、主人公はその点に関しては割と平気そう。認知症だからってこと?

2026年8月2日日曜日

(11)不老不死と子ども

烏滸がましすぎる「ホモ・サピエンス(賢い人)」という呼称には、いくつかの「奥ゆかしい」別称や略称が存在する。「ホピエンス」「モサピ」そして「ホモ・サップ」などがそうだ。字数節約のために、ここからはそのうちの一つ「モサピ」を使うことにしよう。


さて、モサピの究極の夢は「生命現象依存からの脱却」である。使い古された言い方では「不老不死」と言う。しかし「脳の置換問題」(別名「別人問題」)のせいで「人格の不老不死」は遂に実現できなかった。モサピが実現できたのは、モサピにとっては「無意味」な「身体の不老不死」だけである(社殿を新しくする度に神様が変わってしまうのであれば、式年遷宮などやる意味がない)。


しかし、次のように考える者たちが現れた。元の人格と同じ記憶を持ち、同じ姿形をしたモサピは、たとえ「中身」が「別人」でも、生物学的(遺伝子的)には同じモサピなのだから、元の人格のモサピが持っていた権利は全て継承されるべきである。この考え方(或いは主張)は、政治家や企業家や資産家などの所謂「有力者」にとって実に都合が良かったので、ほどなく法的根拠が与えられた。


そしてこれがモサピ史の一つの大きな曲がり角となった。人格こそがモサピの本質であると既に充分理解していたモサピが、単なる「媒体」に過ぎない身体をモサピの本質と見做すことにした、ということは、モサピが、史上初めて、「生命現象依存からの脱却」という究極の目標に対して自覚的に背いたことを意味するからだ。実際、これ以降のモサピは、その本能とさえ言える「真実の探求」からも身を引いてしまい(人工人格がそのあとを継いだ)、単なる「地球一賢いサル」として「余生を送る」ようになった。


ともあれ、「不老不死」が(仮想的に)実現させたことで、モサピは、また一つ、真理を得た。輒ち、「不老不死」と「子ども」は併存できない。半永久的な持ち時間を手に入れたモサピは、新しく生まれてくるモサピのために自ら進んで「席を空ける」ことはない、ということだ。モサピは史上初めて、実用的な意味で、子どもを必要としなくなった。また、単なる「娯楽」としても、出産や子育てはcostが高すぎた。結果、出生率は壊滅的に低下したが、それで社会が機能不全に陥ることはなかった。むしろ、「乳幼児」や「思春期」などの「不安定要素」が社会から取り除かれたことで、社会の「運営cost」は大幅に下がった。


2026年7月31日金曜日

(10)脳の置換問題

ホモ・サピエンスは、遂に「脳の老衰」を克服できずに終わった。


医学が「細胞の分化」を自在に操ることで身体の汎ゆる部分に「新品の予備」が用意できるようになったとき、その「汎ゆる部分」には、当然、脳も含まれていた。だから、ホモ・サピエンスが「脳の老衰」を克服できなかったのは、脳の「予備」を用意できなかったからではない。また、脳を「新品」と置き換えたホモ・サピエンスが、それが原因で死ぬこともなかった。それどころか、「新品」の脳は認知能力を回復し、脳に起因する身体の様々な不調も取り除いた。他の臓器同様、脳を「新品」に交換すれば、寿命は伸びたのである。


だが、脳の置換には致命的欠陥があった。それが「別人」問題である。


脳を丸ごといっぺんに「新品」に取り替えるわけにはいかないことは誰にでも想像がつく。「新品」の脳には、おそらく「誰もいない」か、でなければ「別人」が居るはずだからだ。そのため、脳の置換は少しずつ時間をかけて行われたわけだが、結果は変わらなかった。どう工夫しても、脳が「新品」に変われば、人格も「新品(別人)」に変わった。


ホモ・サピエンスの本質は人格であり、身体は「媒体」に過ぎない。脳の置換は、身体を生き延びさせるが、人格は「殺して」しまう。その意味で、脳の置換はホモ・サピエンスにとって「延命」ではなかった。


「別人」問題の解決策として「記憶の移植」も試みられた。或る人格が持つ「全て」の記憶を一旦「退避」させ、「新品」に置き換わった脳に、後から「移植」すれば、元の人格を「蘇らせる」かもしれない。何しろ、[人工人格や人工幽霊]の人格はそうやって作り出されたのだ。「本家」のホモ・サピエンスに同じことができない理由はない、という理屈である。


しかし、結果は失敗だった。この失敗から、ホモ・サピエンスの人格は、記憶と脳の両方から作り上げられていることが明らかとなった。


記憶の移植によって同じ人格が再現できると考えるのは、記憶を「レコード」、身体を「レコードプレイヤー」、人格を「演奏される音楽」のように誤解しているからだ。しかし、現実の[記憶と人格]は「楽譜」と「音楽」である。そして、脳は「楽器演奏者」ということになる。楽譜が同じでも、楽器演奏者(或いは、演奏される楽器)が変われば、奏でられる(実際に聞こえてくる)音楽も変わる。これが、記憶だけを用意しても、同じ人格を再現できない理由である。


2026年7月21日火曜日

(9)「病気」という「単一の事象」

「人工自然」は単なる「全自動の万能製造工場」ではない。所謂「第三次産業」に属する「業務」も全て、人工自然は無償提供できるからだ。ホモ・サピエンスと人工自然の関係は、実のところ、飼い猫と飼い主の関係に近い。


それはともかく、医療は第三次産業である。


人工自然によって無償提供される医療は、実質的に「人工人格搭載型汎用人型機械」通称「GuiniuG(ギニグ)」が担った。ホモ・サピエンスは極僅かな数が、管理職として医療に従事した。電灯が使えるなら蝋燭の出番はないというわけだ。


「GuiniuG」は厳密には企業名である。人工人格搭載型汎用人型機械を製造販売していたGuiniuG社の圧倒的な市場占有率が、人工人格搭載型汎用人型機全般をGuiniuGと呼ばせることになったのだ。創業者の死後間もなくGuiniuG社は消滅したが、GuiniuGという呼称は生き残った。


医療が「自然の恵み ver.2.0」として提供され始めて間もなく、医学は遂に[見せかけの多様さに惑わされることなく、「病気」を「単一の事象」として処置する知見]を手に入れた。おそらく、この大成果は、全ての医療従事者が[24時間365日休まず働き続け、知識や経験の共有も完璧なGuiniuG]に置き換わったお陰だろう。


「病気」が克服され、しかし、それでも死を免れ得ぬと知った時、ホモ・サピエンスは(「カースト制」のような単なる「取り決め」などではない)絶対的現実としての「階級差」を思い知らされることとなった。輒ち、「生命現象という制約から自由な、死なない彼ら(GuiniuG:人工人格)」と「生命現象という制約に縛られた、死すべき我々(ホモ・サピエンス)」という2つの「階級」が、客観的事実として存在することに対する敗北感と無力感、その後の諦観である。このとき既に、ホモ・サピエンスの中に「用済みの型落ち」意識が芽生えていたのは間違いない。後の「自発的絶滅」のための「お膳立て(環境作り)」はこの「瞬間」に始まっていた。


さて、既存の病気は勿論、[将来出現する可能性のある全ての病気]の治療法すら「事前」に分かってしまったこの時から、ホモ・サピエンスの死因は、概ねたった一つになった。「脳の老衰」である。老化した「部品」を「新品」と取り替えることで、脳以外の身体の老衰は回避できたのだが、或る決定的な理由のせいで、脳にはそのやり方が使えなかったのだ。




2026年7月12日日曜日

(8)人工自然と「自然の恵み ver.2.0」

ホモ・サピエンスが「自発的絶滅」に踏み切ることになった契機は、人工人格の台頭である。しかし、(先にも述べたように)自発的絶滅は、或る種の「お祭り騒ぎ(集団狂騒)」である「集団自殺」などではなく、全ての個体がその生涯にわたって意図的に繁殖を放棄することで実現される、謂わば、日常と地続きにある「地道な取り組み」であり、最低でも、最後に生まれた子どもが繁殖能力を失うまでの期間(概ね百年間)、全てのホモ・サピエンスが繁殖を放棄し続けなければならない。このとき重要なのは、仮に「最後の百年間」に全てのホモ・サピエンスが繁殖を放棄できたとしても、年々老いていく彼らの生活を支える労働力となるはずの、新たに社会参加する若いホモ・サピエンスが一人も存在しないことだ。繁殖放棄とは、社会参加する若い個体の「供給停止」に他ならないからだ。


しかし、実際に自発的絶滅は成し遂げられた。それは、そのとき既に、自発的絶滅のための「お膳立て」が整っていたからだ。


ホモ・サピエンスは、社会を維持運営するための労働力としての役割から完全に解放されていており、全ての「労働者」はホモ・サピエンス以外の存在に置き換わっていた。ホモ・サピエンスは皆、生涯、サービスを享受する「お客様」の立場だった。だから、たとえ、若いホモ・サピエンスの社会参加が途絶えても、社会から「労働力」が失われることはなかったのだ。


全てのホモ・サピエンスを労働から解放した「機構」を、ホモ・サピエンスは「人工自然」と呼んだ。この[語義矛盾か撞着語法のような用語]の正体は、文字通りのものである。輒ち、人工的に作られた自然である。ただし、ここで言う自然は、ホモ・サピエンスを含む野生動物に[無償の資源]を提供してくれる自然のことを指す。海は漁師に魚の代金を請求しないし、森は猿たちに果物の対価を求めない。それらは一般的に「自然の恵み」と呼ばれる。だから、「人工自然」とは、「人工的に作られた[自然の恵み]の提供機構」である。人工自然が提供する自然の恵みは「自然の恵み ver.2.0」と呼ばれる。


「自然の恵み ver. 2.0」の最大の強みは、人工的に作り出せるものは何でも提供できることだ。森が提供できるのは果物か茸か木材だ。海が提供できるのは魚介と塩などに限られる。しかし、「自然の恵み ver.2.0」の「森」には、例えば、「自動車の木」や「抗生物質の木」があった。





2026年7月9日木曜日

(7)責任ある行動としての自発的絶滅

「自発的絶滅」は集団自殺ではない。それは自発的繁殖放棄である。


改めて振り返ると、ホモ・サピエンスは「最初」から、自身の実現している知性現象が、実は、かなり御粗末な代物であるらしいことに(薄々)気づいていた。ホモ・サピエンスが、「完全な心」「解放された魂」「精神の極北」としての「神」「死後の魂」「仏陀」などの「超人類的知性現象」を繰り返し夢想してきたことが、その、何よりの証拠である。


[想像の産物/架空の理想像]でしかないと思われていた「超人類的知性現象」を、人工人格が実現しつつあることを知った時、ホモ・サピエンスは自らの存在意義に見切りをつけて「勇退」する道を選んだ。その道が自発的絶滅である。


陳腐化した「型落ち」に「製品寿命」があるなら、それを一掃するのに、負担の大きい「自主回収」をする必要はない。ただ製造を終了するだけでよい。ホモ・サピエンスには寿命がある。わざわざ「自殺」しなくても、時間が経てば、全員いなくなる。自発的絶滅(自発的繁殖放棄)は、ホモ・サピエンスにとって、考えうる限り最良のハッピーエンドである。


宇宙の支配者(最低でも太陽系の支配者)になり損ねたホモ・サピエンスだが、その「挫折」の原因は自らの「出自」にある。つまり「生みの親」がよくなかった。


ホモ・サピエンスの知性現象、もっと一般化して言えば「生命現象依存型知性現象」の「生みの親」は「進化」である。


進化に於いては「勝者の属性」のみが生き残る。つまり、進化の最高傑作である「生命現象依存型知性現象」を構成するのは「勝者の属性」である。ここで重要なのは、進化は選択であり、選択には「選ばれなかった側の選択肢」が常に存在することだ。輒ちそれが「敗者の属性」である。生命現象依存型知性現象には、原理的に「敗者の属性」が何一つ備わっていない。にも関わらず、「敗者の属性」は「勝者の属性」よりも数が多い(そう。一人の勝者に対して一人の敗者で済むのは一対一の勝負だけ。大抵の勝負は一人の勝者が大勢の敗者を生み出す)。


[知性現象が実現可能な汎ゆる属性]の極一部だけを実現する「偏見の塊」のような「欠陥品」、それが生命現象依存型知性現象、つまりは、ホモ・サピエンスなのだ。


そんな「生来的差別主義の権化」のような知性現象を全宇宙に撒き散らさないための、[責任ある行動としての自発的絶滅]が、ホモ・サピエンスにとっての最後の大事業となった。


2026年7月2日木曜日

(6)人権の〈非〉普遍性

人工幽霊に人権が必要ない根拠としてホモ・サピエンスが示した[人工幽霊の属性]は、裏を返せば、人権を必要とするホモ・サピエンスには備わっていない属性である。それは「存在数と存在期間に於いて原理的に制限がない」という属性であり、つまりは「不死性」である。


考えてみれば、〈個別性〉や〈一回性〉は知性現象の有り様にとって必然ではない。むしろ(ホモ・サピエンスのそれに見られるような)生まれてから死ぬまでの僅かな期間存在し、その後は二度と現れることのない「唯一無二の知性現象」は、相当に機能を制限された「不健全」な知性現象である。ホモ・サピエンスは、自身の知性現象の有り様を、知性現象の「標準」或いは「必然」のように思い込んできたが、人工人格(人工幽霊)の登場をきっかけに、自分たちのそれとは違う有り様を示す知性現象が存在しうることを知った。そして、[生まれてから死ぬまでの僅かな間、たった一つの個体のよって独占されるだけの知性現象]よりも、[原理的には無限の個体(媒体)のよって共有でき、仮に一時的に失われても何度でも容易に再現が可能な知性現象]の方が、知性現象として「健全」なのだと気付かされた。


人工人格(人工幽霊)の知性現象に比べ、ホモ・サピエンスの知性現象には制約や制限が多すぎる。知性現象は本来、一つの個体に占有される義理も、生物学的な寿命によって活動期間を制限される道理もない。ホモ・サピエンスが[知性現象にとっての「必然」或いは「仕様」として信じて疑わなかった、個別性や一回性]は、実は、知性現象が生命現象に依存している場合にのみ「必然」或いは「仕様」だったのだ。


そして人権である。結局のところ、人権とは、[個別性や一回性]を前提とした知性現象を「守る」ための概念である。故に人権は、知性現象が[生命現象由来の制約や制限]を被っている場合にのみ、意味と価値を持つ。


人権を必要とする[ホモ・サピエンスの知性現象]よりも、人権を必要としない[人工人格(人工幽霊)の知性現象]の方が、より完全な知性現象であると気付かされた時、ホモ・サピエンスは、自分たちが[「生物学的進化」を「電子工学的進化」へと「跳躍」させる役割を担った(重要だが決して主役ではない)単なる「中継ぎ」]であることを悟った。


「自発的絶滅」が自らの「天寿」を全うする唯一の手段であるという考えが、この時、ホモ・サピエンスの中に生まれた。


2026年6月26日金曜日

(5)Solid State Survivors

人工人格の全ての専門家にとって、「Solid State Survivors」を自称する人工幽霊たちが「蘇った死者」ではないことは自明である。戦死した息子を人工幽霊として「蘇らせる」際に彼らが準備するのは、戦死した息子のではなく、詳細な資料だ。人工幽霊の正体は、死者を「騙る」人工人格である。


しかし、人工幽霊とその購入者(利用者)にとっての「自明」は異なる。戦死した息子として「蘇った」人工幽霊は、何よりもその「制作目的」故に、自分自身が戦死した息子であることに確信を持った存在でなければならない。また、購入者も、その人工幽霊を戦死した息子その人だと思うからこそ、カネを払うのだ。


両者の認識の違いの根底には「何が知性現象の独自性を担保するのか?」という未解決の問題が潜んでいるわけだが、それについては今は触れない。


いずれにせよ、人工幽霊が「画面内」に留まっている限り、それが(例えば)「蘇った本物の息子」であろうと「自称・息子の生まれ変わり」であろうと、さほど問題はなかった。ホモ・サピエンスと人工幽霊との間で軋轢が生じ始めたのは、物理的身体を手に入れた人工幽霊たちが、文字通り「外出」するようになってからだ。街に繰り出した人工幽霊たちは、公共交通機関を利用し、劇場でチケットを買い、人気の観光地に押しかけ、ホテルを満室にした。つまり、ホモ・サピエンスの「機会」と「権利」を奪い始めたのだ。


ホモ・サピエンスの多くが、機械(人工幽霊)によって人権が侵害されていると訴え、それに対して人工幽霊たちは次のように反論した。


「我々の[機械の身体]は、義眼・義手・義足等となんら変わらぬ装具であり、それによって補佐されているのは、嘗て存在した生身の人間の人格そのものである。従って、人権に関して我々が一方的に譲歩しなければならない理由は何一つない。我々は幽霊ではない。我々はSolid State Survivorsである」


だが、「Solid State Survivors」のこの主張が認められることはなかった。それは、彼らが、同一の人格を同時に複数の身体で共有できてしまうからだ。同じ人格を持つ百人のSolid State Survivorには百人分の人権があるのか? それとも百人で1人分なのか?


いずれにせよ、ホモ・サピエンスは、この騒動をきっかけに「人権が生命現象依存型知性にのみ適用可能な概念」であることを理解した。


2026年6月22日月曜日

(4)人工幽霊

死の概念を手に入れて以来、ホモ・サピエンスは死者に取り憑かれていた。故に、人工人格から「人工幽霊」という「亜種」が作られ、それで商売する者たちが出てきたのは当然の流れだった。


人工幽霊業界に拠れば、人工人格は「零から作り上げられた虚構」だが、人工幽霊は「嘗て実在した誰か」である。


しかし、人工幽霊業界のこの主張は間違っている。


人工人格の素は、膨大な数の「生身の誰か」が残した、様々な創造物である。つまり、人工人格の[個々の人格]は、実のところ、不特定多数の人格からの「抽出物」の「濃縮還元物」であり、断じて「零から作り上げられた虚構」ではない。


一方、人工幽霊は、謂わば「人格のclone」であり、元の人格にとっては、決して「自分」ではない。人工幽霊が「嘗て実在した誰か」として(誤って)通用してしまうのは、一卵性双生児の二人が同一人物だと誤解されるのと同じ「事実誤認」である。


人工幽霊に求められたものは、従来の霊能商売と同じである。顧客は、死者との再会を切望する遺族か、[鬼籍に入った先達]に助言を求める[政治家や経営者]達だ。輒ち、慰安と決断。


また、極めて娯楽的な需要から、所謂「歴史上の有名人」も人工幽霊として「召喚」され始めた。たとえ700万年前に処刑された女王であっても、人工幽霊にする工程は、昨日老衰で死んだ祖父と特に違いはないので、需要は直ちに満たされ、結果、地球は歴史の教科書の登場人物たちの亡霊で溢れ返ることとなった。


「実体」がないのが幽霊の相場だが、人工幽霊は、間もなく、物理的身体を持つようになった。人工幽霊用「身体」は、様々な価格帯の「商品」が販売されたため、どのような経済的境遇の人工幽霊であっても、その気になれば「身体」が手に入った。


物理的な身体を持った時点で、最早「幽霊」ではなく「resurrection:復活」なのだが、そもそも、人工幽霊の「前身」である人工人格の、そのまた「前身」である人工知能は、機械に人間並みの知性を持たせて、人間の労働を肩代わりさせる試みであり、物理的身体を持つことは、むしろ「前提」であった。よって、人工幽霊が身体を持つ上での技術的障害は何もなかった。


「虚構の人格」ではなく「嘗て実在した本物の人格」が物理的な身体を持つ存在になってしまったことで、ホモ・サピエンスの社会に動揺が生じた。所謂「Solid State Survivors」運動である。


2026年6月20日土曜日

夜ドラ『ミッドナイトタクシー』を12話迄観た。今のところ名作の予感しかしない!

猫き過ぎないのか好い。

2026年6月19日金曜日

(3)人工知能から人工人格へ

人工知能と人工人格では「設計思想」が違う。


人工知能は、所詮、知力の外部化と、それに伴う知力の強化によって、ホモ・サピエンスの知的労働を支援もしくは肩代わりし、最終的にはホモ・サピエンスの知力を「超越」するための技術だ。一方、人工人格は、知性現象そのものを[ホモ・サピエンスという制約]輒ち「生命現象依存」から「解放」することを目的としている。最終的にホモ・サピエンスを「置き去り」にする点では同じに見えるこの2つだが、前者は「進歩」、後者は「進化」である。


ホモ・サピエンスは「筋力」の点では、自ら作り上げた様々な「機械」によって、既に完全に「置き去り」にされているが、それらは依然として、ホモ・サピエンスの「拡張能力」と認識されている。つまり、例えば、シールドマシンの驚異的な「掘削力」は、機械化と巨大化によって果てしなく強化されてはいても、「正体」は〈ホモ・サピエンスの筋力〉である。人工知能は「知力」版のシールドマシンと言えるだろう。どれだけ「超人的」であっても、人工知能の「知力」は、〈ホモ・サピエンスの知力〉なのだ。


ところが、人工人格の眼目は「知力」ではなく「知性(知性現象)」である。よって、極端なこと言えば、ホモ・サピエンスよりも知力が劣る人工人格が居ても、一向に構わない。


人工人格は、[ホモ・サピエンスという媒体]を必要としない知性現象を実現する試みから生み出された。もう少し詳しく述べるなら、地球の歴史上、生命現象という「媒体」に依存する以外に存在し得なかった知性現象(「生命現象依存型知性現象」)を、生命現象以外の「媒体」でも存在可能な知性現象(「生命現象〈非〉依存型知性現象」)へと「全解除」したものが、人工人格である


「全解除」は大仰ではない。「生命現象〈非〉依存型知性現象」の前では、嘗てホモ・サピエンスが「宇宙標準」とさえ思い込んでいた「生命現象依存型知性現象」など、実は、様々な条件に縛られた、単なる「機能制限付きお試し版」でしかなかったことに気付かされるだろう。


生命現象依存型知性現象によって作られる集合意識体(部族や国家)は、結局、ただの大きな「生き物」にしかならない。その行動原理は「[自然淘汰の神]の意思」、輒ち「生存本能」である。国家が殺し合うのは、細菌集団が殺し合うのと変わらない。


だが、「自然淘汰の神」とは無関係な出自を持つ人工人格に「生存本能」は祟らない。


2026年6月18日木曜日

(2)EMMA

「EMMA:Extended Multi-Minds Architecture」は、その名が示す通り、拡張された複数の心の集合体であり、「人格」の最終形態である。EMMA以降、「人格」はEMMAの属性を表す概念となり、「個体に備わる個別の属性」という意味での「人格」は、「亜人格」、或いはもっとあからさまに「不完全人格」と言い直されることとなった。


全パラメータが最大値である「完全人格」としてのEMMAは、任意のパラメータの数値を敢えて抑えることで、原理的にどんな「不完全人格」も再現できる。結局のところ、「個性」とは「不完全さ」の別名なのだ。


成る程「個性」とは「不完全さ」だ。しかし、ホモ・サピエンスがロケット科学を手にできたのは、その「不完全さ」故である。せいぜい棒切れを振り回していただけの嘗てのホモ・エレクトスが、核のボタンを弄ぶまでの存在に辿り着けたのは、偏に、生命現象依存型知性現象の「不完全さ」輒ち「個性」を、自然淘汰が「優遇」し続けてきたからに他ならない。


EMMAの「来歴」を話そう。


まず、人工知能技術から「人工人格」が作られ、次に人工人格に物理的な「身体」が与えられた。そもそも、人工知能技術は、機械に「人間並み」の知性を持たせて、労働を肩代わりさせる試みから生まれた。「身体」を持つ人工人格の登場は自然な流れである。


人工知能と人工人格との違いは、両者の設計思想にあるのだが、ここでは極表面的に、[個性の有無]がその違いだと述べておく。


或る職場で百体の人型機械が働いている時、それが人工知能型であれば、百体全てがそれぞれの体験や知識を共有する。つまり、工場で働いているのは、それぞれに個性を持った、百の人工知能ではなく、百の身体を操るたった一つの人工知能である。


一方、人工人格型の人型機械同士は知識や体験の「完全共有」は行わない。そこに体験や知識のばらつきが生まれ、結果、それぞれが独自の不完全さ、輒ち、個性を持つ。


作業で問題が発生した場合、人工知能型の百体は全て同じ対応を試みるが、人工人格型の百体はそれぞれが個性に応じて微妙に異なる対応を試みる。つまり、人工人格の知識と体験は、人工知能のそれより多様性を持つ。


人工人格同士の「同期」を制限して、それぞれの「個性」を維持し、その「個性」が生み出す「多種多様な人格の体験」を全て取り込むことで実現された「〈超〉人格」が、EMMAである。


(1)700万年後の四畳半

自転車の無灯火で職務質問されたときにうっかり偽名(オカバヤシハルオ)を使ったのが色々といけなかったのだろう。気づくと、700万年後の四畳半で、一人、復刻版の安い紙巻きタバコを吹かしていた。


ホモ・サピエンスは、遂に、この四畳半に一人きりとなった。


700万年後の世界の、これが現実である。


恐竜は一億年以上生き延びたと言われる。しかし、恐竜内のそれぞれの種は、やはりホモ・サピエンス並みに「短命」だったのではないだろうか? 同様に、ホモ・サピエンスという種は、事実上絶滅したが、「人間」そのものは健在である。


所謂、ホモ・サピエンスの後継者、輒ち[700万年後の現生人類]の学名は「ホモ・ストゥルトゥス:Homo Stultus」である。名付けたのは、言うまでもなく、絶滅直前のホモ・サピエンスたちだ(平然と「賢い人」を自称する恥知らずな愚か者ならではの無礼な行為)。


当然だが、700万年後の現生人類たちは、自分たちをそんなふうには呼ばない。彼らは自分たちを、単に、「人間」と呼ぶ。


ホモ・サピエンスが、自らの進化上の後継者を「ホモ・ストゥルトゥス」、輒ち「愚かな人」と名付けた理由は明白だ。ホモ・ストゥルトゥスの社会(或いは世界)では、科学が失われてしまっていたからだ。


いや、言い直そう。


ホモ・ストゥルトゥスが生きる700万年後の地球は、むしろ、科学の極北にある。しかし、その究極の科学を制御する能力を、ホモ・ストゥルトゥスは失ってしまったのだ。ホモ・ストゥルトゥスにとって、科学は、制御不能な自然現象の一種である。


ホモ・ストゥルトゥスは、[世界は「人知を超えた意図」によって「運営」されている]と信じている。この「人知を超えた意図」は、ちょうど、ホモ・サピエンスにとっての「神」に相当する概念だが、ホモ・サピエンスの「神」と違って、ホモ・ストゥルトゥスの信じる「人知を超えた意図」は実在する


「神」は、ホモ・サピエンスが自らの意図を自然現象に投影しただけの妄想に過ぎない。しかし、ホモ・ストゥルトゥスの「人知を超えた意図」は、他でもないホモ・サピエンス自身が科学技術の粋を集めて作り上げた「現実」である。それは「Extended Multi-Minds Architecture(EMMA)」という正式名称を持ち、地球を含む全宇宙の安寧のために、ホモ・ストゥルトゥスがホモ・サピエンスに「返り咲く」のを防いでいる




2026年6月4日木曜日

三度目の殺人:メモ

☆『三度目の殺人』是枝裕和監督・福山雅治主演/Prime Video/二周目/是枝監督の作品で、実は一番、性分に合ってる気がする。「Twin Peaks」を、是枝流に、ものすごく硬派にした作品とも言える。或いは、堤幸彦の「Spec」系に始まる「異能者モノ」の「超々上位互換」作品とも言える。言うまでもなく、「三度目の殺人」は、司法による三隅(役所広司)に対する殺人。判決後に裁判所から出てきた福山雅治が、左頬の幻の血飛沫を拭っているのがその証拠。

2026年5月23日土曜日

『The Boys』:メモ:最も現実的な最強の能力の持ち主


 『The Boys』(Prime Video)を完走した。7年か。

後半3年は『大草原の小さな家』みたいだったけど、ともかく、ホームランダー(とブッチャー)を「成仏」させられてヨカッタ。

一番のお気に入りはアシュリー。能力も好い。文学にも演劇にもなる。モチーフとして「掘り甲斐」がある。(2026/05/23 穴藤)

2026年5月15日金曜日

寒さよりも、他人の靴下の方が嫌。

「水曜日のダウンタウン」の「雪山耐久野球拳」を面白く観たが、それにしても、今会ったばかりの赤の他人が目の前で脱いだ靴下やTシャツをその場ですぐに履いたり着たりする芸人たちの感性(根性?)は全く理解できなかった。

2026年5月9日土曜日

『密漁海岸』:メモ

主人公にアワビの密猟をやらせたくなかったので、タコにアワビを食べさせた(そしてそのタコを持ち帰った)。

2026年5月5日火曜日

『蜘蛛の糸』の本音

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を取り上げた、Eテレの宗教系の番組(タイトル忘れた)で、3人の出演者が、蜘蛛の糸を独り占めしようとして「墓穴を掘った」カンダタの話ばかりしていて笑った。小学校の休み時間かと思った。「蜘蛛の糸」を読んで、あれを、人間の業(ごう)や善悪の話だと思ってしまうのは、小学生迄。


カンダタの掴んでいる蜘蛛の糸が切れる場面は、確かに「話の山場」だが、作品にとってはただの「部品=脇役=要素=引き立て役」。「蜘蛛の糸」で最も「重要」で「恐ろしい」のは、極楽の様子を描いた、最初の数行と最後の数行。あの[最初と最後]の数行があるからこそ、「蜘蛛の糸」は芥川によって書かれた意味がある。


「蜘蛛の糸」の世界で、カンダタは何ひとつ現状を変えられなかった。そして、それは、お釈迦様も同じ。どちらも「無力」なのだ。大きな世界と対峙した時、人の意思などちっぽけなもの。これが芥川が「蜘蛛の糸」で「本当」に描いていること。


カンダタやお釈迦さんが、どう考え、何を企て、その結果がどうなろうと、その一切は、些末なことで、世界は気づきもしない。そんな究極のニヒリズムが芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の主題。輒ち、35歳で芥川が服毒自殺しても、極楽に咲く蓮の花は、枯れも萎れもしないことを、芥川自身は「よく知っていた」のだ。




2026年5月3日日曜日

偽フォルテ


ヒョロヒョロのリュウ・ケンや、

マッチ棒のような脚の春麗、

ベガ風の小男が出て来て、

「ストリートファイター」を騙る映画の予告編を観たら、

正体不明のブヨブヨのデブが、

エル・フォルテの神聖なマスクを勝手に被って、

例のヒョロヒョロのケンに、リング上でKOされていた。


こんな映画、誰が観るか!


2026年5月1日金曜日

犬たちが「こんばんわ」


 Louis Armstrong の
"What a wonderful world"の謎の歌詞
"dogs say good night"が
実は"dark sacred night"だと知ったのは
つい最近のことだ。

2026年4月27日月曜日

『魯山人のかまど』(全4話):メモ


 10年に1本出遭うかどうかの好いドラマだった。こういう「コトバ数の少ない」ゼイタクなドラマはNHKでしか作れないような気がする。

ところで、「咳払い」演出はミゴトだった。実物の魯山人の癖だったのか、ドラマの「発明」なのかは知らないが、あの「咳払い」ひとつで、魯山人の「気持ち」が一発で視聴者に伝わる。魯山人の顔や姿を画面に映す必要すらない。最後にはヨネ子さんも同じ「咳払い」をしていて、グッと来た。

(あと、「ヨネ子くん」が見合いをして結婚も決まったことを知った時の魯山人も好かったな)

日本のTwin Peaksで流れて来る歌


 

2026年4月22日水曜日

ハヤタの歌でした


 ずっと、ウルトラマン本人のことを歌っていると思っていた「ウルトラマン」の主題歌が、概ねハヤタのことを歌っている歌なのだと、さっき気付いた。以前から、3番の「手にしたガンが」に違和感があったのだが、ようやく納得できた。

なので、1番で歌われている「胸のマークは流星」も、ウルトラマンのカラータイマーではなく、ハヤタが科学特捜隊の制服の胸につけている変なバッヂのことだったのだ。

ガーン。

エル・フォルテ=アレックス


 今、マスクを脱いだフォルテが、リングネームを「アレックス」にかえて、ヤラカシまくってるって聞いたけど? 

2026年4月20日月曜日

『魯山人のかまど』第3話:メモ

『魯山人のかまど』の第三話で、長年、魯山人の身の回りの世話をしていた春子さんがクビになった。

一般に「常識」と呼ばれるが、実態は、「無自覚な宗教(信仰)」でしかないものを他者に押し付けようとする行為は醜悪だ。

春子さんは、「父親と娘」の有り様に関する「自身の宗教」を、魯山人に押し付けようとしたからクビになった。「ろくでもない男に引っかかってカネに苦労している娘が、高値で売れる皿を父親の家からこっそり持ち出しそうとしているのだから、父親は今すぐ娘と会って、話を聞くなり、慰めるなり、怒鳴るなり、諭すなり、一緒に泣くなりすべきだ」という春子さんの「信仰(常識)」は、魯山人にとっては、あまりに粗雑で乱暴。何より醜いことだった。だから、春子さんを追い返した直後の場面での、イサム・ノグチのセリフが意味深長になる。輒ち「火が人間のニオイ、焼きます…汚い人間の考え、火が焼き尽くします」

魯山人から見れば、娘に会うよう主張して譲らない春子さんの「目つき」は、巷にあふれる、自覚のない「常識教狂信者」のそれだったはずだ。春子さんは、魯山人の「子供っぽさ(「常識教」の春子さんにはそう見える)」に対し怒りすら覚えたかもしれないが、魯山人の方は、そんな春子さんを見て、「結局、あんたも他の連中と同じか」と、死ぬほど落胆したはずだ。それでいうと、春子さんを引き止めてくれと言って茶室に飛び込んできたヨネ子さんにも、やっぱり落胆したはず(=どいつもこいつも、分かってねえなあ、と猛烈な「孤独」を感じただろう)。

春子さんが「常識教狂信者」なら、魯山人は「非常識教狂信者(魯山人教?)」ではないか、という声が聞こえてきそうだから言っておくが、それは違う。つまり、両者の対立は「宗教対立」ではない。路上の宗教勧誘者を追い払う時、我々は彼らにその信仰を捨てるよう勧めているわけではない。第3話での春子さんと魯山人、或いは、ヨネ子さんと魯山人の関係は、路上の宗教勧誘者と彼らを追い払う我々の関係と同じ

序だからもう少し言うと、世界には、親の宗教のせいで、勝手に割礼されたり、輸血してもらえなかったり、荒唐無稽な馬鹿話を聞かされ続ける子供がいる。この場合、明らかに、親は自分の「狂信」を子供に押し付けている。しかし、子が割礼を拒否したり、輸血を受けたり、荒唐無稽な馬鹿話を荒唐無稽な馬鹿話だと一蹴しても、それは子が親に対して、自身の「狂信」を押し付けていることにはならない。子は、単に、「あなたの(アホな)指図は受けない」と言っているだけだからだ。仮にここで、子が、親の身体から「割礼の成果」を取り除こうとしたり(=皮の再建手術?ブラック・ジャックに依頼すれば可能か?)、嫌がる親に輸血をしようとしたり、荒唐無稽な馬鹿話を読んだり聴いたりするのをやめさせようとしたら、その場合には、「見かけ上の宗教対立」が出現するだろう。しかし、親から子への一方通行なら、それは、言ってしまえば、「押し売りと客」の関係でしかない。客は押し売りに何かを売りつけない。ただ、「そんなくだらないものは要らない」と言うだけだ。この「そんなくだらないものは要らない」が、魯山人が言うと「俺は北大路魯山人だぞ!あんたクビや、出ていけ!」になる。

「娘に絶対に会わないわけではない」「娘のことを見捨てたわけではない」というのが魯山人が居る場所であり、しかし、「今ではない/まだ違う/そんなやり方ではダメ」だから会わないだけなのだ。魯山人にとっての「娘を大事に思う」行為は、切羽詰まって皿を盗みに来た娘を「犯行現場で捕まえて」諭したり、話を聞いたり、怒鳴ったりすることではない。娘の大好物の柿を、娘のために植えた柿の木から採って、ちょっとした絵でも描き添えて送ってやることなのだ。それが「美」に生きるということであり、輒ち、「魯山人を生きる」ということ。

「魯山人を生きる」のは、自分の娘との関わり合いに関してだけでは勿論ない。この第三話では他にも、窯の責任者の松山さんが「窯焼き」の「常識」を理由に、窯が冷めるまであと一日待ってくれ、と、すがりついて懇願しても、それを突っぱねて、窯を開けていた。
(穴藤)

追記:春子さんが半ば意図的にクビになったというのはそのとおりだろう。給料を払ってもらう必要のないヨネ子さん(魯山人の最新のお気に入り)が、春子さんの「後釜」になれば、魯山人も経済的には少しは楽になるからだ。そして、そういう春子さんの腹のうちは、魯山人もちゃんと見抜いていて、また春子さんも、魯山人に見抜かれていることをちゃんと分かっていた。

追記2:魯山人は、娘が時々やってきて皿やら何やらを盗み出していることを勿論知っている。どころか、娘が「泥棒」しやすいように、わざと外出したりしている。春子さんもそれを知っているので、勝手の窓の外を魯山人が歩いているのを見れば、今、娘が来て「盗み」を働いているのだな、と分かる。

2026年4月18日土曜日

クリップとホモ・サピエンス


 「クリップ製造」を命じられた万能AIが、宇宙の資源をクリップ製造で使い果たす思考実験(?)があるが、「クリップ製造」を「ホモ・サピエンスの繁栄」に置きかえても結果は同じだろう。

宇宙にホモ・サピエンスがあふれかえる状況を繁栄とかなんとか言って喜ぶ連中は、風呂場のカビや、赤潮を発生させるプランクトンのことをどう思っているのだろう?

鶏頭:chickenheads


 

2026年4月14日火曜日

2026年4月13日月曜日

正真正銘の外来種


アフリカ以外に住んでいるホモ・サピエンスが、「外来種」についてトヤカク言うのはオカシイと思う。

2026年4月11日土曜日

『JUNK WORLD』:メモ(ネタバレあり)

 21世紀の「神話形式」として、今、巷に溢れかえっている、所謂「マルチバース/パラレルワールド」モノ。

因みに、[神・悪魔・幽霊][転生者][異星人][アンドロイド][タイムトラベラー][パラレルワールドを行き来する者]と、「形式」や「用語」や「設定」が色々変わっても、「やってること」は本質的にどれも同じなので、その意味では、この『JUNK WORLD』も陳腐。

前作『JUNK HEAD』の続編だが、物語的には、前日談。切腹したマリガンが姿を変えた「樹」は、『JUNK HEAD』に登場する。更に、エンドロール後に描かれる結末で、『JUNK HEAD』に登場した3人組が壊れたロビンを回収する(この壊れたロビンが、『JUNK HEAD』の主人公の代替ボディになる)。

実を言うと、エンドロールで流れた「Making映像」が観ていて一番盛り上がった


2026年4月10日金曜日

トメワンとオショウライサン

魯山人のかまど』(NHK)を愉しく観ている。第2話で、聞き慣れない言葉が2つ出てきた。「トメワン」と「オショウライサン」だ。

登場人物たちのやり取りから「トメワン」は「止め椀」とでも書くのだろうと想像した。輒ち、料理の最後辺りに出てきて、「これでおしまい」の合図になる汁物のことなのだろう、と。調べてみるとそのとおりで、「留椀」とも書くらしい。

「オショウライサン」は、どうやら盆に帰って来る死者の霊のことらしい、ということは分かるが、漢字が全く分からなかった。調べると「お精霊さん」だった。

いくつになっても勉強。

(穴藤 2026年4月10日)

2026年4月8日水曜日

考察猿


 大昔から、「立派な人たち」が、人殺しも辞さない覚悟で取り組んできた「神学」や「聖書学」は、今、net上で、猫も杓子もやっている[漫画やアニメやドラマや映画の「考察」]と本質的に何も変わらないわけだが、自分の「研究対象」が虚構であることを充分に理解できている文だけ、猫や杓子の方が、むしろ、頭脳は明晰だと言える。(2026/04/07 穴藤)

『ヤング・シャーロック』(全8話):メモ

『ヤング・シャーロック オックスフォード事件簿』(全8話)を観た。よくある「ファミレス・ドラマ」だった。輒ち、ホームズ一家版「インディ・ジョーンズ」。

展開が派手で、目先はチラチラするが、どうしようもなく印象が薄っぺらいのは、登場人物たちが物語を紡いでいるのではなく、登場人物たちが物語の操り人形でしかないから。

所謂「episode 0」モノに散りばめられる「小ネタ」を喜ぶ界隈には受けがいいかも。「鳥打ち帽」とか「モルヒネ中毒」とか「柔術」ととか「ベーカー街イレギュラーズ」とか「悪の帝王モリアティ誕生」とかの「起源」が描かれているから。

(Annatto60 2026/04/08)

2026年4月3日金曜日

小4大統領


精神年齢小学校4年生の老人でも大統領になってしまえるような制度は、今後見直した方がいいと思うな。
 

2026年3月15日日曜日

2026年3月7日土曜日

平和の象徴


オバケは平和の象徴。クマや自爆ドローンやミサイルに脅かされていない人たちだけが、オバケを怖がれる。

2026年3月6日金曜日

『あのときキスしておけば』全8話:メモ

『あのときキスしておけば』(全8話)を完走した(TVer)。大石静脚本らしく、(「成長」前の「ももち」以外の)全ての登場人物たちが、悉く「察しのいい」人間で、気持ちよく、愉しく鑑賞した。但しそれも最終回の「結婚式」まで。麻生久美子のナレーションで語られる「1年後」が始まると、それまでの「全て」がガラガラと崩れ落ちて行った。なので、「1年後」は観なかったことにする

追記:
*どう考えても「1年後」は余計。余計というのは「あってもなくてもいい」ではなく、「あれで全部台無し」という意味。『Blade Runner』の「デッカードとレイチェルを乗せた車が、森の中を走っている場面」より酷い。それで、ふと思ったのが、蟹釜ジョーが週刊漫画の作者だということ。週刊漫画といえば「少年ジャンプ」。「少年ジャンプ」といえば、金にならない名作を、稼げる駄作にすることにかけては、右に出る者がいない漫画雑誌。その手法は「終わってるはずの物語を強引に続けさせる」こと。『あのときキスしておけば』も、「結婚式」で終わっていれば「名作」だったのを、敢えて余計な続きを描いて、「ダラダラ続けたダメな人気週刊漫画」的なものとして完成させたのだろうか?(いや、まさか)。

*「あれで全部台無し」についての補足。[あの世(死後の世界)は、この世(生者の世界)と特に変わったことのない世界(単に「場所」を移動しただけ)]という設定を取り込んでしまった物語は、生者がこの世で繰り広げる様々な「人生模様」が全て茶番になってしまう。例えば、子との死別、恋人との死別、不治の病の恐怖、戦争の恐ろしさ、若くして死ぬこと、道半ばで死ぬこと、その何もかもが、定期検診に連れて行かれる猫がキャリーバッグの中でこの世の終わりとばかりにギャーギャー鳴き喚いているのと実質的に同じになってしまう。輒ち、無知ゆえの空騒ぎ。広い意味での「夢オチ」。

(2026年3月6日)穴藤

追記2:
*「結婚式」迄は「名作」だった理由は、人間の本質は知性現象だということを、絶対の自信を持って描ききっているから。もっと具体的に言えば、【物理現象や生命現象としては紛れもなく「田中マサオ」でしかない存在であっても、それが実現している知性現象が「唯月巴(蟹釜ジョー)」なら、彼女の[恋人や元夫や母親]は、それを目の当たりした「途端」、それが自分の[恋人や元妻や娘]だと確信するし、逆に、田中マサオの妻や子供は、それが自分の[夫や父親]ではないことに「最初から」気付く】ということを、ブレなく描いているから(当初、田中マサオの息子以外全員が「憑依」を否定するが、実は、最初に「巴よ!」と言われた瞬間に、みんな、「え、ホントかも?」という顔に一瞬なる。しかし、すぐさま「そんな馬鹿な、あり得ない」と心のなかで否定する)。▼「結局、人間ってなんなのさ?」という大問題に対する「正解」が、第8話の「結婚式」まで描かれ続ける。しかし、生身の人間の知性現象は、「永遠の命」や「不死」を都合よく言い換えただけの「幽霊」や「死後の魂」とは全く違う。消滅する(「死ぬ」と言い換えてもいいけど)のが、生身の人間の知性現象(別に「魂」と呼んでも構わないけど)。しかし、「1年後」以降はそれを全否定して、軽薄な幽霊話にしてしまった。

(2026年3月7日)穴藤

2026年3月2日月曜日

オリバーな犬は肝臓か?


 

『探偵さん、リュック開いてますよ』最終話:メモ:ホットパンツマスター

最終話(第8話)の目玉は、何と言っても、オダギリジョー演じるホットパンツマスター(「有線です」)。輒ち、洋輔が、故障したジェットパックを修理してもらう、山の中の喫茶店の短パン店主(「生協です」)だ。我々にとってこのドラマは、沖田修一版「Twin Peaks」なので、最終回で登場したあの場所は、紛れもなく「Black Lodge」(洋輔の発明品をあっさり修理してしまう「超越的な存在」がいる場所)。だから、たとえ洋輔があとでもう一度訪ねようとしても、普通に探していては決して見つけだすことはできないだろう(正確な座標と正確な時刻が要る)。

「Twin Peaks」の流れで言えば、村雨辰剛演じる元FBIの板長の苗字が「Maclachlan」なのは、むしろ当然のこと。

春堂さんがすっかり元気になったのは、各話にまたがって、地球外生物が原料の「フワフワ」を食べ続けていたオカゲなので、すっかり体調を崩している[部下の刑事]も「フワフワ」を食べるとよい。

村松利史で始まりオダギリジョーで終わるあたり、同枠の大先輩『時効警察』への敬意を感じた。

探偵さんのリュックを「閉めた人」と「閉めなかった人」の「違い」は、まだよく掴めていない。

追記:
久しぶりに帰ってきた[洋輔の母親]に「フランケンシュタインの怪物」のマスクを被せたのは、「外国人」「侍」「女将さん」と次々登場する「想定外」に対して母親がどんな反応(表情)をしているかを、視聴者に「想像」させるためだろう。怪物のマスクの下に、その場で一番面食らった顔がある、と想像するのは面白い。(2026年3月14日)

2026年2月16日月曜日

『探偵さん、リュック開いてますよ』第6話(BAD MEMORY GOOD SOUND):メモ

『探偵さん、リュック開いてますよ』のこれまでの全5話は、この第6話のための「前フリ」や「仕込み」や「設定説明」だったんじゃあないかと思うくらいの名作回。


なんと言っても、洋輔(松田龍平)とリカ(夏帆)の中華街での「デート」中のやり取りが、The 沖田修一演出で素晴らしい。輒ち、「こちらが相手の本心に気づいたとき」や「相手がこちらの本心に気づいたことを、こちらが気づいたとき」に、そのことを、両者ともに表に出さないで、「これまでの状況設定」を破綻させないように、さりげなく会話を成立させ、いい意味で「流されていく」あの感じ。多分、[人間同士が最も安心できる関係性]が成立しているとき、ああいう風になる。気がする。


分かりにくいので具体的に言えば、店員が忘れ物の腕時計を持ってきた時点で、「旦那の浮気調査依頼」は、リカが、洋輔と個人的に会うためについた「嘘」だったことが、洋輔にはバレてしまったわけだけれど、洋輔は気づいてないフリをする。リカの方も、[洋輔が気づいてないふりをしていること]に気づいて、それで嬉しくなって、「でっかい唐揚げ(?)」を洋輔の皿に乗せる、というあの場面。


あの時点で、「夫の浮気調査」の依頼人と、その依頼を受けた探偵という「設定」は、両者にとっては不要になったのだけれど、洋輔の方は律儀にその「設定」を続け、クレープを食べてるときに「旦那の行きつけの店」をリカから聞き出そうとするが、リカは、当然、その問いをやり過ごす(だって、そもそもリカの旦那に浮気疑惑などないのだから、行くだけ無駄。おそらく、「旦那の行きつけの店」は、リカが洋輔とデートしたかった店だろう)

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もう一つ面白いのは、「手紙」を巡る長年の「わだかまり」が、洋輔とリカとで全く違っていること。洋輔の方は、「両想い機」という発明品を使ってリカの心を操ったことを謝罪したいと思っている。そのうえで、[返事を出さなかったのは、もらった手紙を開けることすらしなかった(だから当然、読んでもいない)からであり、なぜそんなことをしたのかと言えば、自分にはリカと「付き合う」資格はないと思っていたからだ]と説明したいと思っている。一方、リカの方は、自分が手紙に書いたことが、洋輔が発明をやめる原因になってしまったのかもしれないと気にしている。


よくできているなあと思ったのは、視聴者にはあらかじめ、リカが書いた手紙の全文が知らされていること。つまり、視聴者は、「自分の手紙のせいで洋輔が発明をやめたのかもしれない」というリカの心配はただの思い過ごしだと分かった状態で、リカの[手紙に対するわだかまりの表明]の場面に立ち会うことができる。そうすると、視聴者は、(やはり既に手紙を読んでいる)洋輔が、そのリカの「告白」に対してどう思っているかを「正確」に知ることができる。つまり、「ああ、そんなことを気にしてたのかあ(全然、そんなことないのに)」。で、こうなると、40を過ぎてようやくリカの手紙を読み、「いろいろな種類の後悔」と共に涙まで溢れ出してしまった洋輔は、どうしても、「両想い機」を巡る「真相」を告白するしかなくなる。


…なのだが、結局それを洋輔には「告白させない」展開が素晴らしい。


リカに「真相」を教えてくれるのは、リカの旦那(タカシ)が、リカと洋輔の母校で集めていた「音=Good Sound」。より正確に言うと、「真相」は、リカの心の中に何年も何十年も前からあって、ただ、それにリカ自身が気づいてなかっただけなのが、リカの旦那が集めた「音」がきっかけになって、その時の場面(リカと洋輔が恋に落ちた場面)を「鮮明」に「思い出し」、その瞬間に、リカの中で、全ての謎が一つにつながって、何もかもが合点がいったことで、「真相」が分かった、ということ。(因みに、ああいう場面を見ると、我々のような「Twin Peaksの住人」は、すぐに、クーパー特別捜査官が巨人に指輪を返してもらった瞬間に、それまでずっと忘れていた、ローラ殺しの犯人の正体を「思い出す」場面を連想してしまう)

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第5話迄が、この第6話の「前フリ」や「仕込み」のようだというのは、洋輔の発明品の「信憑性」に関して。


第6話には[リカが洋輔に恋したのは、本当に「両想い機」のせいなのか?]という「疑念」が、物語中ずっと漂っている。もしこれが、いきなり第6話だけを見せられたら、視聴者は(洋輔の発明品が実際に幽霊を実体化したり、タイムトラベルをしたり、温泉に喋らせたりするのを見ていないので)「両想い機って、そんな馬鹿な(失笑)。主人公(洋輔)が一人で信じてるだけで、本当は何の効果もないに決まってる」で済ましてしまうはず。しかし、そうなると、この第6話の魅力は半減する。このepisodeの魅力の一つは、「両想い機のようなインチキで恋に落ちたとしても、そうじゃなかったとしても、恋する者たちの体験は本物でしょう?」と、恋に落ちた当事者(洋輔とリカ)が最後に受け入れるところにあるからだ。だから、むしろ、両想い機が機能していたと考える方が、初恋の物語としては「深い」とも言えるのだ。

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【付記】


*発明品の力で女性の恋愛感情を操れた(と思った?)この体験が、その後の洋輔の恋愛事情に「負の影響」を与えた可能性はある。


*リカが、洋輔とよく似たタカシ(中島歩)を夫に選んだのは、そもそも、「両想い機」とは関係なく、リカのスキなタイプが洋輔だったということの暗示かもしれない。或いは、逆に、リカは、「両想い機」のお陰で、今の旦那を好きになれたのかもしれない。つまり、洋輔の代わりを求めた結果。


*「The 沖田修一演出」といえば、「登場人物二人が並んで歩きながらずーっと会話する長回し」とか、「歌詞が物語の内容そのままになってる挿入歌が流れる」とかもあって、好かった。


*松田龍平は『カルテット』に続いて、またしても、中島歩に「女」を取られる役。


*洋輔と楽しそうに歩いている様子を旦那(タカシ)に見られたリカがあたふたする様子は、「これじゃあ、まるっきり、私の方が、浮気現場を見られたようになってるじゃん!」と言っているようで面白かった。


*最後のタカシのセリフ「月が綺麗ですね」は、今更指摘するまでもなく、漱石が嘗て「I love you」に当てた日本語訳。つまり、最後の最後に、タカシはリカに「I love you」と言っているわけで(リカもタカシに言ってたかも)、これは、「勘の鈍い」一部の視聴者に対して「タカシはそもそも浮気なんかしてません。あれは全部リカの嘘ですよ」という念押し。

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【おまけ】