2018年6月10日日曜日

5-4:桜木谷氏の絶滅論


アッチ側からのヒモはずっとみんなの目の前にあった。しかし、それは細くて透明で、とても見えにくい。魚はこの見えにくさのせいで釣りあげられる。人間はこの見えにくさのせいで機会を逃し続ける。酔っ払った連中が、ヒモの実在や伝説や嘘や推測や冗談や、とにかく、愚にもつかない(英語で云えば、ridiculous)なことを披露しあっている後ろで、こっそりそのヒモを掴んだ。

「やあ、どうも」
と、柔らかい日差しの中で、桜木谷潮(さきやうしお)氏は云った。

桜木谷氏に拠ると、ヒモは、掴んだ瞬間に、掴んだ者をコッチからアッチ(いまやアッチからコッチだが)に〈引き上げる〉。その速さは秒速30万キロの亜光速である。「我々がそんな瞬間移動に耐えられるのは、ここが EMMAだからですよ」と桜木谷氏は微笑んだ。テッキリ、ヒモというものは自力で登るものだと思っていたと話すと、「なぜ?」と訊き返された。

蓮池のほとりで甘茶をご馳走になりながら、桜木谷氏の思想を拝聴した。しかし、そこに至るまでが大変だった。最初に「ちょっと聞くと恐ろしい、理解しがたいものなので、無理強いはしませんが」と云われた。そこで、せっかくの機会なのでゼヒとお願いした。すると「私の話を聞いて、分かったという人は多いのですが、まあ、実際には、たいてい、分かってません」と躊躇するので、分かったふりはしませんからと更に粘ったら、今度は「苦労して説明して、分かってもらえないのは、ただ疲れるだけです」と来た。じゃあ、仕方がないのでアキラメマスと答えたところで、「では、一丁やってみましょう」とようやく話が始まった。桜木谷氏は、悪人ではないが、かなり面倒くさい性格である。

桜木谷氏の思想の究極は「生命現象の自発的解体」であり、当座の目標としては「生命としての人類の自発的絶滅」である。そして、その実現のための手法は「決して無理をしない」というものだ。到達すべき目的地自体は苛烈を極めているが(少なくとも現に生き物である人間にとっては)、道中はデキウル限り穏やかでなければならない。そうでなければ、そもそも誰もそこにたどり着くことができず、それでは本末転倒だからである。それが桜木谷氏の説くところの全てだ。

「人間の本質が生命ではないことを理解しさえすれば、特に難しくも過激でもない話ですが、人間が現に生命であることがその理解を猛烈に妨げるのですね」と桜木谷氏は笑った。