「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2022年7月31日日曜日
ドラマ『空白を満たしなさい』最終回:メモ
2022年7月30日土曜日
一度じゃ全然だめ
2022年7月29日金曜日
人間らしくなったらやりなおし
人間は、アンドロイドやAIに対する評価で、「人間らしくなった」を肯定的に使いがちだけど、バカなのかな? せっかく「生命現象非依存型知性現象」を作り上げようとしているのに、「人間らしく」なったりしたら台無し。作り上げる意味も値打ちもない。自然淘汰の産物である人間(生命現象依存型知性現象)なんかに似せたら、「弱肉強食」や「身贔屓」の原則にしたがって、人間を滅ぼそうとするに決まってるじゃないか(勿論、アンドロイドやAI同士でも滅ぼし合いを始めるだろう)。
「人間」を作ったら駄目なんだよ。人間は、自分が人間だから、自分のことを宇宙最高の創造物のように思い込んでいるけど、正体は「途中」の産物だからね。中間生産物。ただの「中継ぎ」。自然は、自然淘汰で生命を経由することでしか知性を創造できないから、仕方なく「半端者=欠陥品」の知性現象が出現した。これが人間。
「人間はなぜ殺し合うのか?」とか、「人間はなぜ死ぬのか?」とか、分かりきったことを永遠の謎のように問い続けている連中も多いけど、ワザとなのかな? 人間が殺し合ったり、人間が死んだりするのは、それは生命現象だからだよ。知性現象にとっては、余計な制約や要求の多い生命現象という媒体で強引に知性現象を成立させている状態だから、そもそもが無理筋なのさ。「無理筋」というのは、知性現象の側から見たらソウというだけで、生命現象の側からは別になんでもない。むしろ、いろいろと「悪用」できるので、生命現象側からすれば、出来損ないでもなんでも知性現象は大歓迎。
いつまで経っても宗教みたいなものに「敬意」が払われる理由
モノゴトを客観的かつ合理的に観察し考察することが苦手な人たちにも「納得」できたり「ピンと来る」という特徴が、宗教を、「潜在的な暴走型暴力装置」にしている上に、モノゴトを客観的かつ合理的に観察し考察することが苦手な人たちは、地球人類が存続する限り、一定の高い割合で「補充」され続けるので、いつまで経っても、この「潜在的な暴走型暴力装置」の成員(戦闘員・兵士)に欠員や不足が生じることもない。
だから。
あとは票田。
人工中絶と肝臓癌手術
『LUCKY』メモ
- Luckyが日課にしている朝の運動(ヨガ)は、灰皿に置いた火の付いたタバコがほとんど減らないうちに終了する。
- Luckyが(おそらく同世代で、唯一の)友達と話す電話が赤いのは、「hot-line電話」の暗示だろう。
- 自宅でぶっ倒れたLuckyに対して医者が「かえって体に悪そうだから禁煙は勧めない」というのが好い。
- Luckyは行きつけの飲み屋で注文するときに、pleaseではなく、per favore(ペルファボーレ:イタリア語のplease)と言う。
- 謎の言葉「ウンガッツ」:多分「ungut」=nothing=空(くう)=無
- peacemaker=拳銃のこと
2022年7月27日水曜日
Freddie vs. BOB
2022年7月25日月曜日
2022年7月24日日曜日
謝罪会見
(野々村兵庫県議謝罪会見を観て)
ああ、ほんとにアンガールズの田中みたいだなあ。オモシロいなあ。
どこかフツウじゃなかったりオカシかったりケツラクしてる人間だけが代議士になるんだよ(ほら、タテカワダンシとかニシカワキヨシとかヤマモトタローとかイノキカンジとか、みんなそうだろう?)。マトモな人間は絶対に代議士になんかならない。それをまわりが「センセー」とか呼んで、さも優れた人格者や有能なナニカのように扱ったりしてるだけ。本当は、善くも悪くもただの「イタイ人」たち。だから、こういうオモシロイのが時々オモテに出て来て、みんなをワラかしてくれる。当人はイタッテ真面目なんだけど。
そうなんだよなあ。気付きにくいけど、代議士や政治家というのは、現時点の地球上で最も「イタイ人」たちなんだよなあ。日本に限らず地球上どこでも。アベシンゾーでもアソータローでもハシモトトールでもイシハラシンタローでも、みんなオーカワリューホー以上に「イタイ」だろう? ブッシュとかベルルスコーニとかサルコジとかさ。アニメキャラがプリントされた等身大の抱き枕とレストランに行ったり旅行したりする人たちよりもイタイよ。なぜなら、代議士(政治家)は自分の趣味や嗜好に過ぎないものを、それを実現すれば必ず世のため人のためになるのだという強烈な妄想(殆どの場合客観的な根拠はないよ。当人がそう信じてるだけ)に捉われいていて、実際に、そういう個人的な趣味や嗜好に過ぎないものを世の中に押し付けようとあらゆる手段(カネノバラマキやコジツケやイイノガレやジツリョクコーシなど)に打って出るから(因みにそういうときの代議士を見ていると、タネがバレバレの手品を堂々と続けるヘボマジシャンが一流マジシャンを気取ってるのを見せられてるような「イタさ」や「ザンネンさ」を感じずにはいられないよね)。抱き枕とレストランに行ったり旅行したりする人にはまだ「俺のコダワリは他の人には通じないだろう」というだけの「分別」がある。だけど、代議士は、どんな代議士も「分かってないのは自分ではなく今の世の中の方だ」という妄想(妄念)から逃れられないで、実際に他人を自分の「趣味の世界」に巻き込もうと行動する。やってることは、新興宗教にイカれて、街頭で声をかけてくる「イタイ」連中と同じ。全く同じ。あの、酒も飲んでないのにずっと酔っぱらってるような連中。なんだけど、権力や体制の側にいて、できるだけ「オカシナふう」に見えないように周りがサポートするから、その辺が分かりにくくなってるだけ。それに比べて路上の勧誘者はいつも「イタサ」むき出しだよね。
俺の中のイメージで、代議士(政治家)に一番近い存在は、頼みもしないのに、よその家が出したゴミ袋をゴミ置場でぜんぶ開けて、細かく分別し直すババア。あれは、ただのおせっかいではなく、すでにビョーキ。「ワタシはイイことをしてる/役に立ってる」妄念が、マチガイとは云えないが明らかにオカシナ行動を更に加速させる。
でも本当は代議士(政治家)が悪いわけでもなんでもないんだよ。未だに、代議士(政治家)が「活躍」できるような社会しか実現できてない地球人類の出来の悪さが元凶なんだ。経済活動とか政治的駆け引きとかが高尚なナニゴトカのように捉えられてる程度の社会では、代議士(政治家)というイタイ連中がチカラを持つのもやむを得ないのさ。かつて、シャーマンや宗教家が大きなチカラを持ってたのと同じ。今となってはバカバカしいけど、当時の人間の社会レベルがその程度だったんだから仕方ない。今の代議士もそれと同じ。バカバカしいけど、今の人間社会の出来がその程度なんだからショウガない。
2014/07/03
慎ましき提案
2022年7月22日金曜日
吹き出しの外 (『石子と羽男』)
電気と馬糞
「笑わない数学/無限」メモ
「笑わない数学/無限」を愉しく観た。
〔「ふつうの無限」と「でっかい無限」がある〕は、数学者的な〔持って回った言い方〕をやめれば、単に「無限は数え切れない」と言ってるだけ。これって、そもそも、無限というコトバの定義そのまま。何か神秘的に思えてしまうのは、モッタイつけて「自然数からできた無限」なんて言うから。「自然数からできた無限」の正体は「無限」ではなく、「割りふるための番号」のこと。つまり、「数えるという行為」それ自体。
「偶数の無限」や「奇数の無限」や「有理数(分数)の無限」が、「自然数の無限」と〈等しい〉=〈数え切れる〉のは、連中が所栓は自然数からの「選抜」にすぎないから。偶数や奇数が自然数からの選抜なのは説明しなくても分かると思うけど、分数が選抜だというのはピンと来ないかもしれない。分数ってのは、数字と記号(横棒)で書かれているせいで「単独の数字」のように勘ちがいされがちだけど、あれは全部「これがあと何個あれば1になるか」を表した「断り書き」くらいに考えたほうがいい(もちろん分数によっては、その「1」が複数できるモノもある)。だから、数え上げるという観点からすれば、「1」(=自然数)になるための個数を「明記」している分数は、「1つとばし」を「明記」している偶数や奇数と何も変わらない。結局どれも「1の数え方」の「変奏」でしかないから。
一方で無理数は「1」とは無関係。というか、絶対に「1」にならない数(割り切れない数)が無理数なのだから、そりゃ無関係で当たり前。問題は、〔「1」とは無関係〕の真の意味。正確にはそれは、〔「1」になろうとする属性を持っていない〕ということになるだろう。「1」になろうとする属性を持たない、それは、「何かの単位にならない」ということだ。単位にならないものは、数えられない。単位でなければ何か? それ自体で完結した「全て」ということだ。
或る無理数は「それ単独で自立した一つの数」であり、何か他の数の単位(要素)ではない。だから、無理数は、本来、全て「一つきり」なのだが、それを「無理数」という括りでひとまとめにして数え上げようとするのは、喩えるなら、数える対象を〔指定・限定〕しないで、この宇宙の事象の全てを数えるのに似ている。奇数や偶数や有理数の無限を数えるのは、実は、自然数が、自分で自分を数えている「八百長/出来レース」なので「数え切れて」当然なのだが、無理数の無限は〔本物の無限事象〕だから、数えることはできても、数え切る(数え終える)ことはできない。最初にも言ったとおり、そもそもの「無限」の定義が「数え切れないこと」なのだから。
結局、「奇数(や偶数や有理数)からなる無限」と「自然数からなる無限」を対応させようとすることと、「無理数からなる無限」と「自然数からなる無限」を対応させようとすることは、全く別種の試み。
以上、数学嫌いなんで、どうしても数学以外で考えたかった。
来週のテーマの「四色問題」は、これも数学を使わなければ簡単だよね。色を塗る領域を「○」、境界線を「ー」として、「ー」を交差させないで全ての「○」を他の全ての「○」と結び付けられる組み合わせを考えたとき、「○」の数が最大何個まで増やせるかを図に書いて確かめればいいだけだから(念の為に書くけど、或る「○」に「ー」で繋がってない「○」が一つでもあれば、その「○」は、繋がってない「○」と同じ色に塗ればいいことになる)。
で、答えは四個。だから、四色あれば、地図は隣合う領域の色を同じにせずに全て塗り分けられる。
5個目の「○」を他の4つの「○」に交差させずに繋ぐ方法はない |
2022年7月21日木曜日
アメコミ水木サン
利用する奴される奴
2022年7月20日水曜日
ロック・ア一ト
「名誉の殺人」には毎度ムカムカする
世界中の宗教は「上等」も「下等」も、「大規模」も「些末」も、その正体は全て「生命教」。生命教信者たちは、全ての人間が生命現象であることを「悪用」して他者を支配する。「飲食」「繁殖」「生死」などが、彼ら生命教信者の「通貨」あるいは「切り札」あるいは「首吊り縄」だ。
人間の本質は知性(知性現象)。生命(生命現象)は「媒体」に過ぎない。知性としての人間の「進歩」は、〔「媒体」である生命〕からの自由度に比例する。例えば、虫垂炎で死んだり、妊娠したら産むしかなかったり、というのは、生命からの自由度が低い。昔からある「不老不死」や「死後の世界」などの妄想は、この「媒体からの自由」に対する、〔知性としての人間〕の究極の憧れ。
ここではその理由は詳しく述べないが、生命教からの脱却は人類の「義務」とさえ言える。その観点から言えば、「名誉の殺人」は「怠慢」の極み。なぜなら、「媒体(=生命)」の「都合」にすぎない「繁殖」を「理由」に、「媒体」の属性である「生死」を悪用して、人間の本質である知性を否定し消し去ろうとする行為は、無批判で無思考な〔生命教の狂信者〕のそれそのものだからだ。生命教の狂信者が、人類の〔不幸と停滞〕の元凶。
ムカムカする。
(COURRIE「父親が娘たちの命を狙い続ける─「名誉の殺人」で妹を失った女性が語る壮絶な半生」へのコメント)
2022年7月18日月曜日
コウメ太夫
2022年7月17日日曜日
いずれは、生身の人間が赤の他人を「演じている」ことが、奇妙で滑稽で、もしかしたら不気味に思えるようになる。
ものすごく乱暴に言ってしまえば、物語動画の類(映画など)はいずれ全て「アニメ」になる。今のアニメは、声はまだ生身の人間が「演じて」いるが、それも全て人工物(初音ミクの子孫たちのような存在)に置き換わる。もちろん、「アニメ」と言っても、日本伝統の「セルアニメ」のような手書きの「絵」ではなく、実写と見紛うばかりのコンピュータグラフィックスだ。即ち「超アニメ」である。
「超アニメ」なら、生身の誰かが、肉体的もしくは精神的に「苦しむ」ことはないので、どんな場面(搭乗車両が多重衝突に巻き込まれる、北極海に放り出される、軍用ヘリの飛び交う戦場を駆け抜ける、などなど)も、「演者」の安全や倫理をまったく気にせず、思いのまま描ける。
いやいや、そういう話じゃない。それも大事だがもっと大事なことがある。
今でも、「アニメ」なら、作品内の登場人物は、他の誰でもない、その登場人物「本人」である。一方、生身の俳優が役を演じる作品では、どの登場人物も、本当は「別人(=俳優)」で、しかも、もしもその俳優が売れっ子なら、他の作品では、その同じ顔・同じ背格好・同じ声の人間が、また全く違う登場人物だったりする。だから、我々は今、生身の俳優が演じる物語動画を愉しむ際には、必ず、無意識且つ自動的に〔「ごっこ遊び・ままごと遊び」に入る手続き〕を踏んでいる。しかし「アニメ」にその類の手続は必要ない。なにしろ、全て「本人」だから。
この〔「ごっこ遊び・ままごと遊び」に入る手続き〕は、生身の俳優が演じる物語動画を鑑賞する場合に限らない。
文楽の鑑賞者は、舞台上で泣いたり喜んだりしているのは、本当はただの人形(モノ)だと分かった上で、鑑賞中はその認識を脇に置いている。『ウルトラマン』や『ゴジラ』を観るときも、「あれはただの着ぐるみで、中に人間の演者が入っている」と分かった上で、鑑賞中はそのことは「忘れる」。
「物語動画即ち超アニメ」が「常識」になった未来の鑑賞者たちにとって、〔「本当は赤の他人なんだけど、役を演じているのだから、その登場人物であると見做す」鑑賞法が求められる物語動画〕は、「特殊」な部類の作品になるだろう。能や歌舞伎や落語は、今でも既に、鑑賞する側に一定の素養や「慣れ」を求めるが、それと同じような「とっつきにくさ」「わかりにくさ」を、未来の鑑賞者たちは、生身の俳優が役を演じている物語動画に対して覚えるようになる(だろう)。
これは鑑賞者側の観賞能力の低下を意味するのだろうか?
どうかな? 違う気がするけど。
それはともかく、未来の鑑賞者たちが〔生身の俳優が演じる役(登場人物)から受ける違和感〕は、今の鑑賞者たちにはあまりピンと来ないかもしれない。完全にそのとおりではないだろうが、きっとこんな感じだ。人気アニメが舞台劇になると、アニメの登場人物たちを生身の人間が演じることになる。〔元のアニメ〕のファンがそのときに目にする〔生身の人間が演じるアニメの登場人物たち〕に感じる違和感が、未来の鑑賞者たちが〔生身の俳優が演じる役(登場人物)から受ける違和感〕に近い(はずだ)。例えば、それがどんな美人俳優であろうと、生身の俳優が演じているメーテル(『銀河鉄道999』)は、アニメのメーテル「本人」(原作漫画のメーテルが「本人」だという意見は今は無視する)の「本物」感=「本人」感にはまったく太刀打ちできない(この道を進んで行けば「二次元愛」論もやれそうだが、今はやらない)。
考えてみれば、物語動画で、生身の俳優が登場人物を演じなければならないのは、これは、単に技術的な制約だったのだ。CG技術が充分に発達した〈おかげ〉で、俳優が着ぐるみを着て演じる必要がなくなった『シン・ウルトラマン』同様、生身の人間と見分けがつかないレベルのCGが実現すれば、刑事ドラマも戦争映画も恋愛映画も、生身の俳優が登場人物を演じる〈必要〉はどこにもない。むしろ、〔生身の人間である俳優〕を使わないほうが、否応なく彼らに付随するイメージや経歴や、あるいは将来の突発的な不祥事から、作品を〈守る〉ことができて安心なくらいだ。
生身の俳優はもっぱら舞台劇をやるようになるだろう。その場合、観客は、(今でもそうだが)、その俳優の演技(技量)を愉しみに行くことになる。それはちょうど、スポーツ選手の妙技を愉しむのに似ている。
物語動画も二種類に分かれるだろう。「超アニメ」によって描かれるものと、生身の俳優が演じるものの二種類だ。主流は「超アニメ」になる。生身の俳優が演じる物語動画は傍流になり、「舞台劇を収録した作品」に近づくはずだ。そして、「超アニメ」で作れてしまえるはず作品を、あえて生身の俳優に演じさせて作った作品を見せられると、鑑賞者たちは、刑事ドラマをミュージカルでやったり、第二次世界大戦を文楽で見せれれたりしているような「持って回った感」を感じるようになるかもしれない。しかし、その時点で、生身の俳優が演じる動画作品の「意味」や「意義」は、完全に、〔俳優たちの演技力を堪能するもの〕に変わっていることに気づくべきだ。そこで語られる物語は、もはや「方便」であり、重要なのは、個々の俳優たちの演技それ自体である。
それは今だってそうだろう、という声が聞こえる。確かに、毎年毎年、世界中で俳優たちに与えられる主演賞だの助演賞だのは、俳優たちの演技力を称賛するものだ。しかしそれは、今の我々が、「実写」の物語動画を作ろうとするときには、映像技術の未熟さ故に、どうしても生身の俳優に頼らざるを得ないという「制約」がもたらす、「混乱」や「侵食」のように思えて仕方がない。つまり、物語動画を純粋に評価するときに、そこに登場している俳優たちの演技力が何かしら物を言う(あるいはそれを無視できない)という状況は、実は「不健全」ではないのか、と。