世界中の宗教は「上等」も「下等」も、「大規模」も「些末」も、その正体は全て「生命教」。生命教信者たちは、全ての人間が生命現象であることを「悪用」して他者を支配する。「飲食」「繁殖」「生死」などが、彼ら生命教信者の「通貨」あるいは「切り札」あるいは「首吊り縄」だ。
人間の本質は知性(知性現象)。生命(生命現象)は「媒体」に過ぎない。知性としての人間の「進歩」は、〔「媒体」である生命〕からの自由度に比例する。例えば、虫垂炎で死んだり、妊娠したら産むしかなかったり、というのは、生命からの自由度が低い。昔からある「不老不死」や「死後の世界」などの妄想は、この「媒体からの自由」に対する、〔知性としての人間〕の究極の憧れ。
ここではその理由は詳しく述べないが、生命教からの脱却は人類の「義務」とさえ言える。その観点から言えば、「名誉の殺人」は「怠慢」の極み。なぜなら、「媒体(=生命)」の「都合」にすぎない「繁殖」を「理由」に、「媒体」の属性である「生死」を悪用して、人間の本質である知性を否定し消し去ろうとする行為は、無批判で無思考な〔生命教の狂信者〕のそれそのものだからだ。生命教の狂信者が、人類の〔不幸と停滞〕の元凶。
ムカムカする。
(COURRIE「父親が娘たちの命を狙い続ける─「名誉の殺人」で妹を失った女性が語る壮絶な半生」へのコメント)