「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2022年8月29日月曜日
飛ぶゴキブリ
ミッドウェイの水不足
米軍の「ミッドウェイは水不足」という平文の通信を傍受した日本軍がまず仮定しなければならないこと。
仮定a)平文の通信は暗号解読のための罠ではない
仮定b)平文の通信は暗号解読のための罠である
その上で、次の想定をしなければならない。
想定1)日本軍の暗号は米軍によって全て解読されている
想定2)日本軍の暗号は米軍によって一部解読されている
想定3)日本軍の暗号は米軍に一切解読されていない
〔仮定b〕の場合、日本軍は「水不足」云々の情報を本部に伝えてはならない。しかし、当時の日本軍は、2つの仮定(a,b)のどちらが正しいかを判断する根拠を持っていないので、〔情報を本部に伝えない〕という選択肢は事実上存在しない。
いずれにせよ情報を本部に伝えなければならない日本軍は、次に、想定1〜3について考慮しなければならない(言うまでもなく、両軍ともに通信に暗号を用いているという事実から、そもそもの前提として、全ての通信は相手に傍受されていると、両軍ともに考えている)。
〔想定1〕なら、仮定が(a)でも(b)でも、日本軍が本部に情報を伝える手段は、暗号でも平文でも構わない。なぜなら、そもそも暗号は全て解読されているのだから。
〔想定3〕なら、仮定が(a)でも(b)でも、本部には暗号で情報を伝えるべきである。米軍(この場合ミッドウェイ)に関するどんな情報を日本軍が掴んでいるかを、米軍に知られないためである。罠であろうとなかろうと、暗号が一切解読されていない限り、これが暗号を使うそもそもの理由の一つである。
警戒を要するのは〔想定2〕である。というか、「チューリング vs. エニグマ」戦でも明らかなように、暗号使用者は〔想定2〕の状況を常に念頭に置いて警戒しなければならない。輒ち、送信した暗号文自体が暗号解読の最大のヒントになる可能性について常に考えておかねばならない、ということ。
このように考えると、〔仮定b〕の場合はもちろん、たとえ〔仮定a〕だとしても、うかうか暗号文で通信したりすると「取り返しのつかないこと」になりかねない。しかも、敵軍の「平文の通信」などというものは、どう考えても「怪しい」「裏がある」「引っ掛けっぽい」。要するに、罠である可能性が高い。だが、この時の日本軍の場合、〔手に入れた情報は本部に伝える〕という選択肢しかない以上、手に入れた情報は本部に送らないわけにはいかない。
では、どうやって送るのか?
結局、日本軍も平文で本部に情報を通信すればよかったのだ。なぜなら、(故意にせよミスにせよ)米軍が平文で通信してしまった情報が、日本軍に簡単に知られてしまうことは、米軍にも分かりきっていたからだ(前にも言ったように、両軍ともに通信に暗号を用いているのは、そもそもの前提として、全ての通信は相手に傍受されていると、両軍ともに考えているからだ)。逆に言うなら、日本軍は、「水不足」の情報を傍受したことを、暗号を使って米軍に隠す必要などなかった、ということ。
〔情報戦・暗号戦〕のキモの一つに〔敵に関する或る情報を自分たちが既に知っていることを、敵に知られないようにする〕というのがある(それが理由で、エニグマを「解読」したチューリングたちが、味方の艦船を「見殺し」にしたエピソードは有名)。しかし、この「水不足」情報に関しては、米軍は、日本軍がそれを知っていることを、知っているのだから、日本軍は、暗号など使わず、平文で情報を本部に通信すべきだったのだ。そうすれば〔想定2〕で起こりうる実害もなかった。しかし、実際に日本軍がやったことは、米軍から手渡された文章を、目の前で自分たちの暗号に翻訳してみせてやったのと同じだった。(穴)
2022年8月27日土曜日
2022年8月26日金曜日
2022年8月24日水曜日
キューバ危機
2022年8月23日火曜日
2022年8月22日月曜日
TAROMAN
2022年8月20日土曜日
そもそも、両手を組み合わせていれば必ず「不安」なのか?
岡田斗司夫の〔ランバ・ラルの初登場場面の解説〕(昔の動画)に違和感を覚えたので、また余計なことを書く。
岡田斗司夫に言わせると、ザンジバルの座席に腰を下ろしたランバ・ラルが膝の上で両手を組み合わせているのは、彼が不安を感じているかららしい。たしか、ソロモン戦のドズルの解説のときにも同じようなことを言っていた。
そうだろうか?
腰を下ろした〔軍人や謀略家や政治家〕が膝の上や机の上で両手を組み合わせているのは、むしろ、「さーて、どうしてやろうか」などと思案しながら、自身の能力を発揮する機会を「満喫している」表現の場合もあるだろう。
『ガンダム』でキャラクターが両手を組み合わせている場面を、今適当に思い出してみると、ア・バオア・クー戦で「ふふふ、圧倒的じゃないか我軍は」とほくそ笑むときのギレン、第5話「大気圏突入」でガンダムのコクピットで待機しているときのアムロ、そして、今言った、ホワイトベースを発見したときのランバ・ラルと、ソロモン戦が始まった直後のドズル。アムロはともかく、他のオッサン三人は皆、「企んでる」「目論んでる」「意気込んでいる」という感じで、要するに心情的には「不安」どころか「愉しんでいる」に近い。「いや、表面的には愉しんでいるつもりでも、その心理の深層は不安で、だから無意識の防御態勢として、手を組み合わせているんだ」とか言うやつがいるかも知れないけど、ここで問題にしたいのは、そういう百年前の心理学な与太話ではない。
そもそも、それぞれの場面で両手を組み合わせているキャラクターたちが、そこでその時に「不安」を感じていなければならない〔物語的な必然〕が存在しないだろう、と言いたいのだ。
もしも、それぞれの場面のギレンやドズルやランバ・ラルが本当に(無意識にでも)不安を感じていて、作者が、彼らの心理(不安)を「両手を組み合わせる」という描写を用いて、観客に伝えているのだとしたら、それは物語製作者としての無能を示しているだけだ。
やるべきことを前にして「緊張感」が高まっているというのならあるだろう。しかし、それは「不安」ではない。不安は「自信のなさ」の産物。ギレンもドズルもランバ・ラルも、そしてもしかしたらアムロでさえ、例に挙げた場面では皆、或る意味「自信満々」だ。特にアムロが両手を組み合わせてコクピットに収まっている姿は、たしかに「不安を押し隠している」とも取れるが、「少し慣れたらすぐに調子に乗って格好をつけようとする」思春期の男子にありがちな「イキった姿」にも見える。見ようによっては「今度こそシャアに一泡吹かせててやるぞ」感が全開(「これで何度目なんだ?アムロ!」)。
岡田斗司夫が繰り返す、「両手を組み合わせたり、腕を組んだりするのは、絶対に不安の現れ」が、自前の説なのか、どこかの専門家の受け売りなのかは知らない。しかし、一般的には「そういう人もいる」「そういう場合もある」程度のこと。「絶対」ではない。そして、岡田斗司夫が内面の「不安」を指摘する〔あの場面のランバ・ラル〕は、物語展開上の彼の役回りから判断すれば、不安を抱えているはずなどないのだ。
あの場面のランバ・ラルが不安を感じていると、それは物語進行的にはただの「雑音」になる。百歩譲って、あの場面のランバ・ラル「本人」が「本当は」不安を感じていたとしても、作者はそれを観客に提示すべきではない。それは、あの場面で、〔チンポジ(by 笑い飯)を修正するランバ・ラルの描写〕を入れるくらい、物語にとっては邪魔で余計なことだからだ(だから、ラルがうっかりチンポジを修正したら、その場面はカットすべきである)。あの場面は〔女連れのボスが率いる得体の知れないプロ集団が、戦争関係なしでただただガルマの仇のホワイトベースを葬り去るためだけに地球に降りてきたこと〕を描写するためのものだ。そんな場面で、早速仇を見つけたボスが「不安」を覚えているなんて描写を入れる必要がどこにある? 戦闘を仕掛けるかどうかの選択権はこちら側(ランバ・ラル側)にあるのに、何を不安に思う? あるとしたら、むしろ高揚だろう。
〔状況や立場を込みにして〕人の感情というものを考えたときに、〔あの場面のランバ・ラルは不安を感じている〕という解釈は「不自然」極まりない。それは、例えば、三歳の我が子を亡くした母親がその葬式の席で不自然に横を向いている姿を指摘して、「あれは笑っているのを見られないようにしているのだ」と解釈するくらい「不自然」なのだ。もちろん、そういうことはある。しかし、その場合は、その物語には、その「不自然」さに対する「説明責任」が発生する。その物語には〔型通りではない裏〕があることを示さなければならない。
ランバ・ラルに話を戻せば、だから、あの場面のランバ・ラルが本当に不安を感じているのなら(そして、両手を組み合わせるという描写で、それを観客に示したのなら)、ランバ・ラルに関しては、それに見合うだけの「意外な」展開がその後に描かれなければならない。が、実際にはそんなことはなかった(アルテイシアとの再会は、この意味での「意外」とはベツモノ)。ランバ・ラルというキャラクターは、死ぬまで、〔戦場に愛人を連れてくるような自信満々の「ただの」プロの軍人〕として描かれた。
もしかしたら、岡田斗司夫は「不安」という感情がよく分からないのかもしれない(言葉の定義の話ではなく、実感として)。大仕事を前にして腕の見せ所と奮い立つときや、ノルカソルカの駆け引きに集中しているときに人が感じる「緊張感を伴う高揚感」と、単なる自信のなさからくる所謂「不安」の区別がつかないのかもしれない。なんせ、(自称)サイコパスだから。ランバ・ラルの組んだ両手を「不安の現れ」と解釈するのは、サイコパスなオタク好みの「フカヨミのためのフカヨミ」以外の何ものでもない。
そうだね、今回の違和感は、「人は不安を感じると、両手を組み合わせたり、腕組みをしたりする」と岡田斗司夫がなぜか思い込んでいることがそもそもの原因だよね。そういう人が全然いないと言ってるのではない。そういう人もいるだろうけど、そうじゃない人もかなりいるのは、ちょっと周りに訊いたり、自分自身のことを振り返ってみれば、簡単にわかることだ。自信満々で気分が高揚しているときに、両手を組み合わせたり、腕を組んだりする人もいるし、集中している時・集中したい時にそうする人もいる。フラットな気分のときに、ただなんとなく、気がついたらそうしている人もかなりいる。「両手を組み合わせていたら・腕を組んでいたら、その人は絶対に不安を感じている」と無邪気に言い切ってしまうのは、やっぱり、〔他人の感情をいろいろに想像し、即座に感じ取る〕能力が低いからじゃないのかな。
2022年8月18日木曜日
2022年8月17日水曜日
インポスターではないヒト
久しぶりに観た『有吉eeeee!』で「AmongUs」という面白いゲームを知った。
で、一つ気がついた。
インポスターが二人の時、本物のインポスターを告発した者は、限りなくインポスターではない、と。具体的に言えば、ジロー君が「タロー君はインポスターだ」と推理もしくは告発し、他のみんながその意見に納得して、実際にタロー君を追放したら、本当にタロー君がインポスターだった場合、ジロー君はクルー(インポスターではない)と考えてまず大丈夫だろう、と。インポスターが仲間のインポスターを「売る」利点はほぼ何もない上に、インポスター同士は正体を知っているので、クルーのように、〔「間違って」仲間を「売って」しまうこと〕もないからだ。
「ほぼ」何もない利点は、一つならある。それは、今述べた〔インポスターは仲間のインポスターを「売らない」説〕を全員が採用すると、インポスターを「売った」インポスターは、その後はインポスターだとは疑われなくなる、というものだ(ただし、他のインポスターをあまりにあっさり、あるいは大した根拠も示せずに「見破る」と、自分自身がインポスターではないかと疑われるだろう。なにしろ、誰がインポスターかを「知って」いるのはインポスターだけだから。まあ、そういう場合は、「犯行を目撃した」と言っておけばいいのだが)。上の例でジロー君もインポスターだった場合でも、インポスター仲間のタロー君を「売った」ジロー君は、そのことでインポスターではないことを証明したと見做され、今後、容疑者から外される(本当はインポスターなのに)。だから、敢えて仲間のインポスターを「売る」作戦に出るインポスターもいるかもしれない。とは言え、やはりデメリットの方が大きい。仲間が減れば、インポスターとしての「仕事」が極端に困難になるし、そもそも、インポスターの勝利条件は「最後まで正体がバレないこと」ではないからだ。
だから逆に、もし凄腕インポスターなら、仲間のインポスターを早々に「売って」、自身の「身の潔白」を「証明」してから、一人で悠々とクルーを始末していくことも考えられる。
結局、本物のインポスターを告発した者は、ただのクルーである可能性が高いが、もしそうでない場合は、おそらくきっと、ただのインポスターではなく、凄腕インポスターだということになる。そこで、こういう説も考えられそうだ。参加プレイヤーたちの〔このゲームの腕前〕が把握できている場合、〔本物のインポスターを告発したプレイヤー〕のゲームの腕前が低ければ、そのプレイヤーはただのクルーである可能性が高いが、〔本物のインポスターを告発したプレイヤー〕のゲームの腕前が高ければ、ただのクルーである可能性は相対的に低くなる(=凄腕のインポスターである可能性が相対的に高くなる)。つまり、〔本物のインポスターを告発したプレイヤー〕のゲームの腕前で、そのプレイヤーが安全な相手かどうかを、ある程度判断できるのだ。
長々と書いたが、ムロン、全ては確率のハナシ。
2022年8月16日火曜日
AFはどこ?
NHKの「新・ドキュメント太平洋戦争1942」(前編)を観た。ミッドウェイ海戦で、日本艦隊がアメリカ艦隊に待ち伏せされることになった理由が解説されていた。
日本軍の暗号を傍受したアメリカ軍は、日本軍が大規模な攻撃を仕掛けようとしている場所が「AF」だということまでは解読した。しかし、この「AF」がどこを指すのかが分からなかった。そこで罠をしかけた。平文で「ミッドウェイが水不足で困っている」と通信したのだ。このアメリカ軍の通信を傍受した日本軍は、さっそく「AFは水不足」と本部(大本営?)に通信した……こうやってアメリカ軍は「AF」が「ミッドウェイ」であることを突き止めたのである。
こんな罠とも言えない罠に引っかかってるようじゃ、先は見えてるよね。(穴)
(2022/08/16)
2022年8月14日日曜日
2022年8月13日土曜日
2022年8月10日水曜日
2022年8月7日日曜日
人工中絶〔違法派と合法派〕
主義なんて、実はどうでもいい。
2022年8月5日金曜日
ブリックトップ
NHK土曜ドラマ『けものみち』
「笑わない数学/四色問題」:メモ
録画して放置してあった「笑わない数学」の「四色問題」の回をやっと観た。で、思った。数学者(数学好き)というのは、簡単なことをややこしくするのが好きなのかな。前にも書いたとおり、四色問題は、問われていることを理解すれば、数学なんか使わずに、図を描いて簡単に確かめられる。それで十分。コンピュータは要らない。裏の白いチラシと鉛筆があれば済む。
多分、数学が好きな人・得意な人たちは、文章理解が苦手なんだろう。文章理解というか、「つまりこれは何が問われているのか?」がよくわからない人たちなのだろう。
「あらゆる地図は四色あれば塗り分けられるか?」という問いは、「〔自分以外の全ての領域と境界を接する〕という条件を満たす領域は、平面上で最大何個まで増やせるか?」と問うているだけ。返ってわかりにくい? 言い直そう。「ケーキを切り分けた時に、 〔切り分けられたケーキのそれぞれ全て〕が、他の〔切り分けられたケーキのそれぞれ全て〕との断面を持つようにする場合、ケーキは最大何個に切り分けられるか?」と問われているのだ。だから、「四色問題」の「正体」は、実は「塗り分け」ではなく「切り分け」。ん、これもわかりにくいか。
とにかく、気づかなければならないのは、「新たな色が必要になるのは、〔存在する領域の全てが、自分以外の領域の全てと接している〕地図の上に、新たに〔自分以外の全ての領域と接している〕領域が出現した場合だけ」ということ。
今、好い喩えを思いついた。「四色問題」というのは、「どの部屋からでも、ドア一つで他の部屋に直に行ける(=他の部屋を経由せず、廊下も使わないという意味)ようにするとき、部屋は何個まで作れるか?」ということ。