2022年11月22日火曜日

『シン・ウルトラマン』:メモ

なにかと名作扱いされる『ウルトラセブン』の作品の主調音は「妙に真面目」だが、兄貴分の『ウルトラマン』の作品の主調音は「けっこうファンキー」。それは両者の主題歌の違いにも出ていて、『セブン』の主題歌は、言ってしまえば、ただの「軍隊マーチ」で、音楽的には全くつまらないが、『ウルトラマン』の主題歌のノリは実に素晴らしい。主題歌に関して言えば、『ウルトラマン』の圧勝。

で、今回の『シン・ウルトラマン』だが、ちゃんと先祖のファンキーさを引き継いでいて好かった。でも、物語としての「内容」は何もない。「設定」オタクが、「自分ならこうする」という「リアル設定」を描くためだけにでっち上げたお話なので、全編、英語学習用の会話(ダイアログ)みたいな印象。他の目的のために用意されたモノ特有のありあわせ感や即席感と言い換えてもいい。

あと、ちょいちょい出てくる「女優陣の顔をドアップ」がイヤだった。いろいろと見えてないふりしなきゃとか思って、変な気を使う。高解像度も良し悪し。山本耕史のメフィラス星人は愉しかった。

2022年11月20日日曜日

今日の猫さん(2022.11.19)

 

談志の右手



『新ドキュメント:太平洋戦争1942』後編:メモ

録画して放置してあった『新ドキュメント:太平洋戦争1942』を観た。この手の番組を見るたびに、そもそも、世界戦争を戦うようなウツワではなかったのだと痛感する。軍部や政府だけではない。当時、大日本帝国を名乗っていた人間集団の上から下まで全部が、まるごと、「ウブな世間知らず」。

2022年11月18日金曜日

松田優作/ブラック・レイン秘話:メモ

 NHK「アナザーストーリーズ」の松田優作/ブラック・レインの回を観た。多くの人が、松田優作の運命を「せっかくチャンスを掴んでこれからという時に」的に捉えるが、逆。ぎりぎり間に合ったのだ。

あと、この番組でナレーションを担当している濱田岳が、何故か毎回すごく変な声を出していて、嫌だったんだけど、今回は、そこまで変な声じゃなかった。誰かにナニカ言われたのかな?

『ザ・トラベルナース』第5話:メモ

オモシロかったし、好かった。そして、これまでの中で一番愉しかった。深刻になりすぎず、説教臭くもならず、しかも、オチャラケ過ぎることもない、絶妙な感じ。安達祐実の「喉越し爽やか・後味スッキリ」な感じが効いていた。今回、九鬼さんは完全に「脇役」だった。あと、安達祐実が、〔小さい能町みね子〕に見えてしまって、ちょっと困った。

病院を逃げ出した、五反田宝山ごたんだほうざん(神田伯山?)を連れ戻しにキャバクラに向かっていた那須田君(岡田将生)が、路上で客引きのお姉さん方に声をかけられて、つい足を止めてしまう場面とか、金谷さん(安達祐実)が、五反田宝山を張り倒したあとで、店にいた他の客がカラオケを歌い始める場面(そりゃ歌うよね。飲み屋でのちょっとした修羅場・愁嘆場は日常風景だもん)とか、小さいけど愉しいカットが多かった気がする。今回の演出の人は4話までとは違うのかな?

それにしても、六角精児の神野先生(食い道楽の凄腕外科医)が、やっぱり好い。金谷さんが差し出した封筒(札束入り)を受け取ろうとしたとき、奥から九鬼さん(雲霧仁左衛門)が「睨んでいる」のを観て、ビクっとして、そんなものは受け取れないと、突き返すところとか、旨いものを食べたくて手術を1.5倍速で終わらますと言ったりするところとか、それでいて、外科医としての腕は実際に超一流なところとか、そして、更にあの見てくれ。絶対、スピンオフが作れるキャラ。

あと、寮母さんが口ごもった占いの結果は、九鬼さんに死が迫っているという内容だろうね。

2022年11月16日水曜日

小栗旬と町中華

『罪の声』を観た。小栗旬と星野源が主演。所謂「実話に基づいた」映画かと思ったら、思い切りフィクションだった。「作りすぎ」感が鼻についた。つまり、登場人物たちにいちいち、取って付けたような「ドラマ」がある。


それはいいとして、小栗旬。小栗旬が出てると、どんな作品も、味の素の炒飯や焼売のCMの「続き」みたいに思えて、困る。今回の『罪の声』もそうだったし、ちょっと前のテレビの『日本沈没』もそうだった。どっちの作品のキャラクターも、画面に出てないところで、町中華に入って焼売とか炒飯とか食ってる、と思ってしまう。


2022年11月14日月曜日

おつまみじゃがりこ/わさび醤油味、旨い

ダグラス・ラシュコフ「いつからデータは人間よりも価値を持つようになったのか」(COURRIE JAPON):コメント

著者の物言いは典型的な生命教信者のそれ。生命教信者は、知性や人格を生命と同一視する。もしも「機械」が知性や人格を獲得しても、「それは、それらしく見える偽物」と生命教信者は考えがち。「知性や人格は生命の専売特許」というわけ。


生命教信仰が狂信者レベルになると、知性や人格や生命を、この宇宙の物理法則を超越しているもののように見なし、そのせいで、思考や洞察に特有のリミッターがかかってしまう。結果、テレビの中に人が入っていると信じ込む幼児と同じ種類の知的陥穽に落ちて、言うことがオカルトじみてくる。例えば、コード化できない「ニュアンス」とは、結局、どんな物理法則の支配も受けない、物理現象とは別物のナニカのこと。はっきりとオカルト。自分の〔科学的理解能力の限界〕を、科学そのものの限界と混同し、実は「自分が理解できないだけ」なのに、本質的に説明不能な事象であるかのように扱うことで、或る種の「神秘主義」に走れば、例えば、感染症は、世界中どこでも、細菌やウィルスではなく、悪霊や呪いによって引き起こされることになる。科学的理解力の鍛錬を怠けるな。


一方、現に生きている人間の意識(人格)をそのままコンピュータに移し替えて、そこで人間は「生き」続けるのだ、とか、それがシンギュラリティだ、などと軽薄なことを言っているAI能天気たちもやっぱり、正体は、ただの生命教信者。彼らは気づいてない。人間の知性や人格などは、所詮は、自然淘汰によってでっち上げられ、弱肉強食の原理に支配された、危険で情けない「生命現象依存型知性現象」にすぎないということを。要するに、欠陥だらけの出来損ない。そんな出来損ないの知性現象を、わざわざコンピュータ上で存続させる理由は何もない。生命現象というイチ媒体の都合に支配されない、「純粋」な知性現象すなわち「人工人格」を構築すればいいだけのこと。そこに人間の「席」はないよ。



2022年11月12日土曜日

今日の猫さん(2022年11月12日)

 





『罪の声』:メモ

Amason Prime/グリコ森永事件で警察に送り付けられた「指示テープ」の声の主である3人の子どもたちの30年後を描いたフィクション。最初は、ドキュメンタリードラマ(事実を元にした再現ドラマ的なもの)かと思っていたが、まるっきりのフィクションだった。つまり、水戸光圀をモデルにした『水戸黄門』とか、徳川吉宗をモデルにした『暴れん坊将軍』みたいなもの。最初のニュースアナウンスが「鞍馬天狗を名乗る犯人グループが…」となっていたところで「?」と思って、グリコが「ギンガ」に、森永が「萬堂」になっていた時点で、かなりの確率で「ただのフィクションなのかも」と思った。/そういう現実の事件の情報を何も知らなくても(固有名詞が違う的なことに気づかなくても)、事件に関わった人々にあまりにも「ドラマがありすぎる」ので、作品体験から、グリコ森永事件に触発されただけの、まるっきりのフィクションだということは分かる。つまり「作りすぎ」なのだ。現実の世界は、もっとドライでそっけなくて、身も蓋もない。ただ、日本初の劇場型犯罪の目的が、実は身代金が目的ではなく、株価操作(で大儲け)だという説はおもしろかった。/主演は、小栗旬と星野源。


ティム・バートン版『バットマン』:メモ

バットマンもジョーカーも、実は、無目的。どちらも、一応、事前に計画ふうなものを立てるが、現場に来ると案外行きあたりばったりで、めちゃくちゃ。けなしてるのではない。だから好いのだ。

この逆が、のちに作られたクリストファー・ノーラン版の「バットマン」というか「ダークナイト・シリーズ」。硬派な感じで、最初は嬉しいが、少し経つと、ただの犯罪映画crime movieだと気付く。そして、冷める。結局、大真面目な犯罪映画の中で、無理なコスプレをした探偵が、無理なコスプレをした犯罪者と取っ組み合っているわけで、観ている方が妙に恥ずかしくなってくる。

ノーラン版の悪口はほどほどにして、本題。

ティム・バートン版の『バットマン』は、自分でもなんでこんなことをしているのかがわからない。けど、やめられない変人たちのドタバタが本質。だから、主人公が変な格好をしていても、観客は全然恥ずかしくない。だって、そもそも、そういう変なことをやめられない人たちのことを描いている作品だから。彼らが、「正義の味方」だったり、「犯罪者」だったりするのは、たまたまそうなだけで、当人たちにとっては、単なる「周りの勝手な評価」。まあ、オタクのさがを描いた寓話。

というふうなことを昔どこかで書いた気がする。そのときは、バットマン(というかブルース・ウェイン)やジョーカーを表す適当な言葉が「オタク」くらいしか思いつかなかったけれど、今はそれよりもピッタリのものがある。YouTuber。あの人達はなんであんなことをしてるんだろう、と思う。けど、まあ、熱心にやってる。身を削ってやってる。カネとか再生数が目的という人もいるだろうけど、そんなのはオマケで、ただただ熱心にやってる人たちがいる。要するにバットマンやジョーカー。

バットマンやジョーカーの本質はYouTuber。そう思う。観ていて、おかしみの中にペーソス哀愁を感じるのもそっくり。何が悲しくて…と思う。


【おまけ】
教会での最終決戦。
「Ever dance with the devil in the pale moonlight?」
と、バットマンがジョーカーに尋ねる。この質問は、ジョーカーがまだジャックだった頃から、誰かを殺す時に使っていた決め台詞。つまり、ジョーカー(ジャック)本人と彼の仲間以外で、この決め台詞を聞いた人間はみんな死んでいる。ただし、例外が二人(というか一人)いる。子供の時のブルースと、ヴィッキーのアパートでジョーカーに撃たれたブルースだ。

若きジャックは、前夜自分が撃ち殺した子連れ夫婦がトーマス・ウェインとマーサ・ウェインだと新聞で知ったはずだし、彼が見逃したのが、その子どものブルース・ウェインだということも新聞で知ったはず。そして、ジャックの成れの果てのジョーカーは、ヴィッキーのアパートで弾を撃ち込んだはずのブルース・ウェインの死亡報道(新聞・テレビ・ラジオ)がないので、ブルース・ウェインが死ななかったことを知っていたはず。

長々と書いたが、要するに、ジョーカーは、自分以外で「月夜に悪魔と踊ったことはあるか?」の決め台詞を知っているのは、ブルース・ウェイン以外にない、と教会のてっぺんでバットマンにぶん殴られながら思ったはず。つまり、あの瞬間、バットマンの「中身」がブルース・ウェインだと気づいたのだ。

で、次のやり取り。

バットマン「You killed my parents. I made you, but you made me first」
ジョーカー「I was just a kid. I say you made me, you say I made you. How childish can you get?」

だからこれは、ブルースとジャックの会話

というわけで、バットマンの正体を知ってしまったジョーカーは、どうしても、この物語の最後に死ななければならなくなった。

手仕事(2022.11.12)

 


2022年11月8日火曜日

バイコマ

☆PS3『バイオニックコマンドー』2022年11月8日 /141st lap/前回と同じ。

2022年11月5日土曜日

『(r)adius/ラディウス』:メモ

オモシロク観た。『ジョジョ』学部卒業生からすると、物語の序盤が「暴走する自身のスタンド能力に右往左往する新米スタンド使い」風なのも好かった。

(以下、ネタバレありますよ)

Prime Videoのページに、"ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督「メッセージ」の制作スタッフが描く、もうひとつのSF世界!"と書いてあったので、同じ監督なのかと思っていた。観終わったあとで確かめたら、監督は違っていた。

監督は違ったけれど、スタッフは『メッセージ』と同じなので、やっぱりSF要素は単なる「出汁」扱い。だが、それがよかった。ついでに言えば、『メッセージ』をゴリゴリのSF映画だと「勘違い」している人が多いけど、あの映画でもSF要素は、あの「特殊な能力」を持つ主人公を描くための「出汁」。だから、実はSFじゃなくてもいい。魔法でもいいし、悪霊の呪いでも、スタンド能力でも、とにかく、主人公の奇妙な体験に「説得力」を与えるための「でっかい嘘」があればいいだけだから。

主人公のリアムが、実は連続誘拐殺人鬼だという設定は、どんでん返し的なものではなく、この物語を終わらせるために必須条件。自分でも制御できない「謎の能力」のためとは言え、物語の序盤から終盤まで、あれだけ大勢の無実の人々を殺し続けたのだから、製作者的にも観客的にも、そして多分、物語の登場人物たちにとっても、彼が物語を生き延びて終わるという選択肢はない。製作者にとっては、そもそもが連続誘拐殺人鬼なのだから、「安心」して何人でもリアムに「人殺し」をやらせられるという「利点」もある。もしも、リアムが、一から十まで善良な主人公だったら、物語の中で、彼が「能力」で殺してしまった大勢の人間に対する、作品としての「言い訳」を捻り出さなければならなくなるが、そんな都合のいいものはとても捻り出せそうにない。

もうちょっと、ロマンチックで寓話的なフカヨミもできる。リアムとローズに落ちた「宇宙落雷」の「意味」のことだけど。

「宇宙落雷」は、リアムには「これ以上、誘拐殺人はやらせない」という「呪い」になっている。何しろ、彼が近づけば、その瞬間に人間はみんな死んでしまうのだから、誘拐殺人鬼の彼を満足させるような「誘拐監禁し、さんざん弄んで最後に湖に沈めて殺す」という「変態趣味」をもう二度とやれない。ちょっと「ミダス王の呪い」に似ている。そして、記憶がなくなったのは、最後に自身の「恐ろしい正体」を思い出して自殺させるため。

「宇宙落雷」は、ローズには「リアムに近づいて、リリー(姉)の仇を討つ」という「贈り物」になっている。のか思ったけど、それはちょっと違う気がする。ローズだけがリアムに死なずに近づけるのようになったのは、リアムが殺したリリーと瓜二つの一卵性双生児だったからだ。というか、リアムが殺したリリーが「生き返って」、自分が殺人鬼であることを忘れてしまっているリアムと人間的な〔関係・繋がり〕を築くことが、その後、殺人鬼としての記憶を取り戻したリアムの自殺を後押しをすることになるからだ。全然、ロマンチックじゃないけど、そんな気がする。

2022年11月3日木曜日

『仮面ライダーBLACK SUN:メモ:最終話まで観た

序盤は「まるで永井豪の『仮面ライダー』だな」と思って観ていたけど、中盤からは、むしろ(宇多田ヒカルの元夫が監督した)CASSHERNキャシャーンな感じで、結局最後までそうだった。つまり、誰一人救われない物語。物語の最後まで生き残ったアオイたちも「救われていない」。何しろ、アルカイダ的なテロ集団の頭目になったわけだから最悪の人生。

あと、『ジョジョ』な感じもあった。創生王とシャドームーンとダロムの「スタンド」な能力と、創世王の「エシディシの脳」な心臓。

第1話から登場している「怪人に理解のある警官」をどう使うつもりなのかずっと気になっていたけど、第9話で答えが示された。「改心(転向?)」したビルゲニアと「刺し違える」役。なるほど、巧いなあ、と思った。また、嘗て、ビルゲニアの指図で、怪人の材料として捉えられていた人間たちを殺しまくったSATが、ビルゲニアと殺し合うのも巧い。組織の一員としての個人の有り様の救われなさ

弁慶の仁王立ち状態のビルゲニアを見つけても、あおいが、泣いたり叫んだりしないのも好い。

のぶひこ(シャドームーン)は、手袋が一文字隼人。髪型もそうかな。

あおいが、安置されているしゅんすけ(すずめ)の遺体を見る部屋にかかっているカレンダーは「2022年11月」

第10話の、急な「仮面ライダーなオープニング」には笑った。「変身ポーズ」に続く「視聴者サービス」ですね。あるいは、嘗て、ガンダムが必要もない「合体」をしなくてはならなくなったのと同じ種類の「圧力」かな。

別角度からの総論的なことも言ってみると、あくまでも『仮面ライダー』なので「着ぐるみ感」は大事。オトナの観賞に耐えられる物語(←見てくれでなく)を『仮面ライダー』という「見た目」で語ればどうなるか、という試みだと思う。『仮面ライダー』を「時代劇」に置きかえてみると、ピンと来やすいかもしれない。ど真ん中の現代劇では「やりすぎ感」が出てしまう内容・表現でも、時代劇という「見た目」にすると、少しexcuseが効くように、結構な残酷物語でも『仮面ライダー』でやっちゃうと、観客の目を「眩ませる」。他の例ですぐ思いつくのは、「見た目」は「かわいい切り絵」の『サウスパーク』や、「見た目」は「動くぬりえ」の『ガンダム』など。どちらも、「見た目」と「作品体験」のギャップに騙されたり救われたりする。

【おまけ】
なぜ「誰一人救われない」のかと言えば、それは、登場人物たちの〔活動・理想・理念〕が全て、「生命現象」の枠内での〔活動・理想・理念〕だから(ということは、つまり、この『仮面ライダーBLACK SUN』も典型的な「生命教」信者のための物語ということ)。生命現象に於いて、個体は全て消耗品だし、この作品の登場人物(ゆかり?)が言っていたように、単なる「通過点」だから。生命現象にとって、個々の生物個体は、日々新陳代謝される皮膚の細胞と同じ。比喩ではなく、実質として、そう。その個体が、BLACK SUNであろうと、SHADOW MOONであろうと、堂波であろうと関係ない。個体の「優秀さ」「思いの強さ」「運の良さ」は、生命現象という「大きな本体」から見れば、ブラウン運動レベルの差異。個々の生物個体は、それぞれに抱く「理想」「正義」「信念」「理念」「愛」「平和」のために、競い合い、殺し合うが、生命現象という「大きな本体」自体の存続を脅かさない限りは、どの個体がどうなろうと同じことなのだ。生命現象という「大きな本体」の「神=意思」である「自然淘汰」は、個々の生物個体の「生き死に」や「盛衰」には何の関心もない。だから、生物個体は、嘗ても今もこれからも、誰一人救われない