NHKの土曜ドラマ『探偵ロマンス』を第2話まで観た。濱田岳と草刈正雄が主演。そう言えば、『警視庁アウトサイダー』も観ているので、なんか濱田岳ばっかりですなあ。あと、草刈正雄って、そうそう左利きだったなあ、と今回観て思い出した。
今回のツボは、平井太郎のスーパーアクションな提案に対して、白井三郎が「そんなの無理だろ」というあの場面。
ピス健を逃して殺したのは、ハウンド・ドッグの人の部下(記者に「白井三郎だよ」と言った人)で、「妹」は本当は「娘」だよね(白井三郎の)。
「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
NHKの土曜ドラマ『探偵ロマンス』を第2話まで観た。濱田岳と草刈正雄が主演。そう言えば、『警視庁アウトサイダー』も観ているので、なんか濱田岳ばっかりですなあ。あと、草刈正雄って、そうそう左利きだったなあ、と今回観て思い出した。
今回のツボは、平井太郎のスーパーアクションな提案に対して、白井三郎が「そんなの無理だろ」というあの場面。
ピス健を逃して殺したのは、ハウンド・ドッグの人の部下(記者に「白井三郎だよ」と言った人)で、「妹」は本当は「娘」だよね(白井三郎の)。
NHKの土曜ドラマ。濱田岳が、作家になる前の江戸川乱歩すなわち平井太郎を演じる探偵フィクション。伝説の名探偵白井三郎(草刈正雄)と「事件」を解決したりするらしい。その第一回を愉しくみた。
スルーしていたNHK版の『ワタシってサバサバしてるから』を観たら、面白かった。最初、主人公が人材開発課に人事異動されたあとの5話から8話までをNHK+でまとめて観て、これ、おもしろいやん、と思ったら、タイミングよく、テレビの地上波で、1話から8話までのイッキ見再放送があってなので、見れないと思っていた1話から4話までも観れた。そのあとで、eBooksで無料公開されていた原作漫画1〜3話も読んだ。漫画よりもドラマのほうが好き。
YouTubeにどこかの誰かがアップしていたのを観た。〔散開コンサートを具にしてつくったおにぎり〕のような映画。80分くらいある。たぶん、存在は知ってはいたが、観たのは初めて。案外面白かった。特に、細野さんが謎の教師をやってる「wild ambitions」が、細野さんっぽくて好かった。昔、教授がこの映画のことを「サンスト」で話していたような気がする(海辺に実際にセットを持って行って、火をつけたとか、どうとか)。でも、ウソの記憶かもしれない。散開コンサートの様子は、当時NHKが放送したものしか観たことがなかった。音源はレコードを持っていたので、デビッド・パーマーを呼び込むところの「Please welcom!」の声に聞き覚えがあって、そう言えばそうだった、とか思った。でも、NHKの放送もレコードを持っていたというのも、Black Lodgeでの記憶かもしれない。
で、ずーっと観ていて、ある瞬間に、「あ、今、自分は幸宏の追悼をしてるんだな」と気づいた。それで思いついたことがあるので、ついでに書くと、結局、教授が最後まで生き残る気がする。若い頃から分厚い医学書を持ち歩いていた幸宏が「一番」なのは、「まあ、そうだよねえ」という感じ。一番年上のくせに今も「元気」な細野さんは、噺家の小さん師匠や「∀」のディアナ様みたいに、ある夜、「じゃあまた明日」と寝て、そのまま朝になっても起きてこなかったという感じになる気がして仕方ない。で、結局、数年前から「ステージ4」の教授が三人の中で一番「長生き」になってしまうのだ。わかってますよ、不謹慎です。
さよなら幸宏、Black Lodgeで会いましょう。
NHKスペシャル「北の果て一人生きる 浜下福蔵92歳」
初回放送日: 2023年1月3日
ニシン漁で栄えた礼文島。そこで生まれ育った漁師で詩人の浜下福蔵92歳。花々が咲き誇る季節から、コンブ漁の夏、秋の終わりまで、礼文島で生きる孤高の漁師を見つめる。
NHKスペシャル「玉鋼に挑む 〜日本刀を生み出す軌跡の鉄」を興味深く観た。
鉧…砂鉄を木炭の炎で溶かして出来た金属の塊。このなかに玉鋼がある。
村下…たたらばの師匠。
島根県の日刀保たたらば…日本で唯一のたたらば。日立製作所。
「水曜日のダウンタウン」の「身代わり数珠つなぎカラオケ」を愉しく観た。ナダルって、画面ではあんな感じだけど、こんなにしょっちゅう「拉致」されるせいで、逆に「番組スタッフに嫌われるような人間じゃない」ことがバレてしまってるのが面白い。番組制作者だって、人情として、本当に嫌いな(嫌な)ヤツに稼がせたくはないだろうからね。
あと、ナダルの罠にかかった「ケン」と呼ばれていた芸人は、こんなことでもなければ、夜10時の「人気」番組に出演することもないだろうし、だから、或る種の「日の目を見ない芸人たちの救済企画」にもなってるんだなあ、と。
でも「水曜日のダウンタウン」で一番好きなのは、やっぱり、チープな
CGのオープニング。この番組はアレだけで充分な気もする。
岡田斗司夫ゼミを愉しく聴講した。ガンダム講座は「テキサスの攻防」の前半。スペースコロニーの回転やミラーの角度調整に関する解説を興味深く聞いた。一方で、ララァとアムロとシャアの「内面」については、相変わらずの「マセた中学生」のような解説で、まあ、ご愛嬌。
それよりも、オマケで言及したマ・クベの「いいもの(壺)」だ。たしかに、「良い音色だろ…」の壺と「アレはいいものだ!」の壺は、共通しているのは白い色だけで、形状はまるで違う。「いいもの」の壺は、言われてみれば「ハクション大魔王」の壺みたいだ。今日、岡田斗司夫に指摘されるまで、ずっと「良い音色」壺=「いいもの」壺だと思っていた。
すると、色々勘ぐれる。
まだオデッサに居たマ・クベが、指で弾いて鳴らした壺について、ウラガンが「は、良いものなのでありますか?」と訊いたとき、マ・クベは肯定も否定もしないで、単に「北宋だな」と答えている。一方、爆発寸前のギャンのコクピットでマ・クベは、「ウラガン、あの壺(ハクション大魔王壺)をキシリア様にとどけてくれよ、あれはいいものだ!(有名な台詞)」とはっきりと言っている。
いくら壺好きのマ・クベでも、しょっちゅうしょっちゅう(一年に二個も三個も)キシリアに壺を献上していたとは思えない。というか、崇拝するキシリア様には、よりすぐりにモノを献上したいはずだ。あの「ハクション大魔王壺」こそが、マ・クベがキシリアに捧げてもいいと思った壺で、オデッサでチーンと鳴らしたあっちの壺は、マ・クベにとっては、イマイチな壺だったのだ。
つまり、「良い音色だろ?」の真意は、「良い音色で、しかも北宋だけど、この程度の品ではキリシア様に贈るわけにはいかんよ」ということなのだ。だから、ウラガンの「良いものなのでありますか?」の質問を無視したのも、「こんな逸品の良さをお前はわからないのか」という無言の蔑みではなく(今日までずっとそうだと思っていた)、「一般的には良いものかも知れないが、私の基準からすればそうではないのだ。しかし、その理由をお前にいちいち講義している暇はないよ」という意味だったのだ。妙に、浮かない顔をしているのも、つまりは、キシリア様のための贈り物になりそうなものが手元に届いたら、「なーんだ、この程度か」とがっかりして、つい、指で弾いて「チーン」と鳴らしてしまったのが、あの、マ・クベ初登場の場面の「真相」だったからだ。「いいもの」だから鳴らしたのではなく、「不合格」だから指で弾いて「チーン」と鳴らしたのだ!
と鼻息荒く述べてみたけれど、久々の登場で、製作者が壺の形状を〔忘れてしまっていた/間違えた〕だけというのが、まあ、真相だろうなあ。このころの制作現場は「地獄」だったらしいからね。
2023年の「おもしろ荘」をオモシロク観た。気に入ったのは、ひつじねいり(クローンたこ焼き)、喫茶ムーン(消しゴムのおまじない)、マードック(横浜の龍)。
中でもマードックが一番好かった。というのは「キモイ系童貞男子の連れは、キモイ系童貞男子に決まってる」という世間の「常識」をちゃんと抑えていたから。大体、あの系で漫才をやると、何故か「キモイ系童貞男子の連れがマトモな同年代」という「ウソ」をやりがち。でも、マードックはちゃんと、どっちもキモい系童貞男子だったので、そこが好かった。喫茶ムーンのように、ネタが進んでいくうちに相手がキモイ系だったということが徐々に明らかになる、というパターンが常套、というかフツウ。
あと、ひつじねいりのたこ焼き論争も好かった。クローンたこ焼きたちの「顔」が「見えて」笑った。
水木サンの名作短編「コケカキイキイ」(角川文庫『異悦記』収録版)には「謎」がある。輒ち、コケカや太吉少年などによって開かれた集会「ユートピアえの序曲」の場面がそれだ。語り手によると、出席者は、①植木鉢、②小鳥、③もやし、④コケカ、⑤太吉少年、⑥植木鉢を保護する老人の計6人なのだが、もやしを含めた5人はちゃんと描かれているのに、小鳥の姿がどこにもないのだ。
謎を解く手がかりになりそうなものは二つ。
一つ目は、語り手の表記が、
出席者は
植木鉢と_小鳥と
もやしとコケカと
少年と植木鉢を
保護する老人の
六人だった
となっていて、何故か「小鳥」の前にだけ1文字分の空白があること。
二つ目の手がかりは、会合の様子を描いた場面で、植木鉢が単独で2コマも描かれていること。つまり、「小鳥」の文字と、2コマ目の植木鉢は、ナニカが差し替えられた結果のように見えて仕方がないのだ。で、さっき、後ろ前に着ていた服を着直していて閃いた。「コジキ?」と。昔の漫画の表現(セリフや画)が差し替えられる一番のものは、所謂「差別用語・差別表現」で、「コジキ」とか「ドカタ」とか「キチガイ」というのは、真っ先に「抹殺」されてきたわけだけど(今はまた、そんな表面的なことに細かくヒステリックに反応するのも、逆に精神的後進性を自白しているみたいだよね、という空気にもなってきているけど)、「コジキ」なら、この「ユートピア」集会の出席者にふさわしいし、2文字の「小鳥」の前に一文字分の空白があるのも、そこに元々3文字の「コジキ」が書かれていたためだと考えたら、オサマリがいい。
まあ、「コジキ」はともかく、元々はナニカベツノモノが、書かれ、描かれていたのはマチガイないような気がする。もしかしたら、京極夏彦が「作り上げた」水木しげる全集にはあっさり「正解」が出ているのかもしれない。
三木聡監督『大怪獣のあとしまつ』をとてもオモシロク観た(Prime Video)。
(以下、ネタバレありますよ)
誰が観ても分かる通り、「大怪獣」は「フクシマ原発メルトダウン」の暗喩。大怪獣の死骸が発する腐敗臭(ギンナン臭)は無論、周辺に漏れ出す放射性物質。「内圧」だの「ベント」だの、当時、よく見聞きした単語。
「フクシマメルトダウン」を「大怪獣」に置き換えたことで、「大きな声」では言えないような「認めるのが嫌な現実」を、割と、あけすけに描けてしまえていて、巧いと思った。
例えば、突然現れて暴れる大怪獣を、人間は手持ちの武器(道具)や知識ではどうすることもできなかったけれど、突然現れた「謎の光」が大怪獣を殺してくれたお陰で、被害をそれ以上出さずに済んだ、というところから、この映画は始まるわけだが、これは、「フクシマ」が「あの程度で済んだ」のは、人間の努力のお陰というよりも、今回はたまたまそうだっただけ、ということの暗喩。
また、人間たちは、大怪獣の死骸そのものや、死骸が撒き散らす「ギンナンガス」をなんとか処分しようとあれこれ奮闘するが、結局は、「選ばれし者(ウルトラマン)」が大怪獣の死骸を宇宙に運び去るという「デウス・エクス・マキナ」で物語が終わる。これも、つまりは、放射能汚染物質を出し続ける「フクシマメルトダウン原発」のようなシロモノの処置は、到底、人間の手には余る、という主張(神様にでもすがるしかない)。
そういう意味でも、案外、大真面目なモチーフの映画なんだけど、いつもの三木聡式ギャグがふんだんに散りばめられている上に、「怪獣もの・ウルトラマンもの」という「偽装」もあって、まあ、伝わらない。
特に「怪獣もの・ウルトラマンもの」に「偽装」していることで、「量産型庵野」とでもいうべき、特撮好きの人たちがこの映画に対して食指を動かしがちで、それがために、作品に対する評価も下がりがち。しかし、この『大怪獣のあとしまつ』は、そもそも、量産型庵野たちのための映画ではない。なぜなら、「特撮愛」の映画ではないからだ。『シン・ゴジラ』や『シン・ウルトラマン』は、特撮を小バカにしている連中を見返す意気込みで作られた、「特撮愛」の権化のような映画だが、『大怪獣のあとしまつ』は、タイトルや実際の画面とは裏腹に、「特撮愛」など微塵もない映画。
量産型庵野たちには信じられないだろうが、この映画で三木聡が最も描きたかったのは、きっと、大怪獣の死骸の処置に右往左往する総理と閣僚たちのマヌケぶり。三木聡は、ずーっと「シティボーイズ」の演出をしていたのだから、2011年3月11日以来の行政のマヌケぶりを作品へと「昇華」したくて仕方なかったはず。怪獣の「現場」で奮戦する人々の姿をリアルに大真面目に描いているのは、そうした方が、総理や閣僚たちのマヌケぶりや、〔彼らに対する(3.11以来の)国民の苛立ち〕が際立つからだ。
あと、ふせえり演じる蓮佛環境大臣が「蓮舫」だと気付くのに少し時間がかかった。気づいたトタンに、なんか、爆笑した。