2023年1月3日火曜日

『大怪獣のあとしまつ』:メモ

三木聡監督『大怪獣のあとしまつ』をとてもオモシロク観た(Prime Video)。

(以下、ネタバレありますよ)

誰が観ても分かる通り、「大怪獣」は「フクシマ原発メルトダウン」の暗喩メタファー。大怪獣の死骸が発する腐敗臭(ギンナン臭)は無論、周辺に漏れ出す放射性物質。「内圧」だの「ベント」だの、当時、よく見聞きした単語。

「フクシマメルトダウン」を「大怪獣」に置き換えたことで、「大きな声」では言えないような「認めるのが嫌な現実」を、割と、あけすけに描けてしまえていて、巧いと思った。

例えば、突然現れて暴れる大怪獣を、人間は手持ちの武器(道具)や知識ではどうすることもできなかったけれど、突然現れた「謎の光」が大怪獣を殺してくれたお陰で、被害をそれ以上出さずに済んだ、というところから、この映画は始まるわけだが、これは、「フクシマ」が「あの程度で済んだ」のは、人間の努力のお陰というよりも、今回はたまたまそうだっただけ、ということの暗喩。

また、人間たちは、大怪獣の死骸そのものや、死骸が撒き散らす「ギンナンガス」をなんとか処分しようとあれこれ奮闘するが、結局は、「選ばれし者(ウルトラマン)」が大怪獣の死骸を宇宙に運び去るという「デウス・エクス・マキナ」で物語が終わる。これも、つまりは、放射能汚染物質を出し続ける「フクシマメルトダウン原発」のようなシロモノの処置は、到底、人間の手には余る、という主張(神様にでもすがるしかない)。

そういう意味でも、案外、大真面目なモチーフの映画なんだけど、いつもの三木聡式ギャグがふんだんに散りばめられている上に、「怪獣もの・ウルトラマンもの」という「偽装」もあって、まあ、伝わらない。

特に「怪獣もの・ウルトラマンもの」に「偽装」していることで、「量産型庵野りょうさんがたあんの」とでもいうべき、特撮好きの人たちがこの映画に対して食指を動かしがちで、それがために、作品に対する評価も下がりがち。しかし、この『大怪獣のあとしまつ』は、そもそも、量産型庵野たちのための映画ではない。なぜなら、「特撮愛」の映画ではないからだ。『シン・ゴジラ』や『シン・ウルトラマン』は、特撮を小バカにしている連中を見返す意気込みで作られた、「特撮愛」の権化のような映画だが、『大怪獣のあとしまつ』は、タイトルや実際の画面とは裏腹に、「特撮愛」など微塵もない映画。

量産型庵野たちには信じられないだろうが、この映画で三木聡が最も描きたかったのは、きっと、大怪獣の死骸の処置に右往左往する総理と閣僚たちのマヌケぶり。三木聡は、ずーっと「シティボーイズ」の演出をしていたのだから、2011年3月11日以来の行政のマヌケぶりを作品へと「昇華」したくて仕方なかったはず。怪獣の「現場」で奮戦する人々の姿をリアルに大真面目に描いているのは、そうした方が、総理や閣僚たちのマヌケぶりや、〔彼らに対する(3.11以来の)国民の苛立ち〕が際立つからだ。

あと、ふせえり演じる蓮佛環境大臣が「蓮舫」だと気付くのに少し時間がかかった。気づいたトタンに、なんか、爆笑した。