2023年10月31日火曜日

【ガンダム】第21話「激闘は憎しみ深く」:号泣の謎

▼2023年10月31日

主要キャラたちがリュウの死に号泣する場面は、やや大げさで、取ってつけたように感じるが、あれは、彼ら少年たちの「一大転機」だから、あのわざとらしさになっている。つまり、それまでは(ブライトですら薄っすらと)「面倒に巻き込まれた被害者」の意識で、なんとか、大人たちのいる場所まで「逃げ切ろう」としていただけの少年たちが、リュウの死(リュウの死に方も重要。彼は「特攻」で死んでいる)をキッカケに、戦争を終わらせるために、自ら積極的に戦争をすることを覚悟した(腹をくくった)ということを、視聴者にはっきりと示す必要があったのだ。


というのも、もしもこの「一大転機」がないと、「オデッサ」に着いた途端に、少年たちは、そこにいる連邦軍の大人たち(軍人たち)に、ホワイトベースを「明け渡し」てしまうことになるから(僕らはもうやらないと言い出す)。だって、そもそも彼らは「勝手に襲いかかってくる敵から、ただ逃げていただけ」なのだから。「オデッサ作戦」は「正式」な戦争で、それまで少年たちがやってきた「逃避行」とは全く違う。少年たちに「戦争をする覚悟」がないなら、『ガンダム』のお話は、オデッサに着いた時点でオシマイ。


因みに、あの号泣にカイは参加してない(あの場所にはいるけど)。カイが「本気で戦争する覚悟」をするのはミハルが死んだ時。カイは、アムロ、ブライト、セイラ、ハヤトたちよりも、IQが高い印象のキャラなので、彼を「覚悟させる」には、もうひと押し要るということ。

2023年10月30日月曜日

結局、カラオケの精密採点で高得点を取るのって「曲芸」の類いだと思うなあ

『私のバカせまい史』は時々「!」というのをやる。

今回、霜降り明星のせいやが、テレビのカラオケ番組についてプレゼンをやった。輒ち、昔のカラオケ番組は芸能人がただ愉しく歌を歌うだけだったのに、最近のカラオケ番組は、カラオケ・マシンに採点機能が導入されたこともあって、「そのうち死人が出てもおかしくない」くらい緊張感に溢れたシビアな番組になっている。それは良くない、という主旨。

で、プレゼンの締めに、せいや自身が、カラオケの採点なんか全く気にせず、自分の好きな歌を好きなように歌ったのだが、あれで「!」となった。

というのは、せいやがスタジオ内を歩き回りながら熱唱している間中、テレビ画面の下側に例のカラオケの精密採点グラフ(?)が表示されていて、当然、せいやの歌唱はグラフを外しまくっていたのだが、にも関わらず、せいやの歌は「聴いててとても心地好かった・気分よく聴けた」からだ。

自分も含め、あれを観た(聴いた)多くの視聴者は、(うすうすは感じていた)カラオケの精密採点グラフというものの「醜さ」「趣味の悪さ」「無粋さ」をはっきりと自覚した。何より、歌を歌うこと、歌を愉しむこと、あるいは、好い歌唱にとって、あのグラフを「なぞる」ことになど「何の意味もない」ということを、実感し、確信したはずだ。ありがとう、せいや。


追記1:などと書いている私は、生まれて此の方、カラオケに興味を持ったことは一度もないし、カラオケで歌ったことも、これから歌うことも、いつか歌いたいと思うこともない。

追記2:『バナナサンド』の「ハモリ我慢ゲーム」は大好きで、あのゲームでは、「精密採点グラフ」が、挑戦者が盛大に音程を外しまくっている様子をわかりやすく見せてくれるので、何が何でもカラオケの「精密採点」が駄目だと言ってるわけではないよ。

2023年10月28日土曜日

絶妙な旨さの「花コスモス」

好物の「花コスモス」をアテに珈琲を飲んでいたら、パッケージの裏に印刷されている「謳い文句」がおかしいことに気づいた。以下がその写真。


おかしいのは最後の二行。「そのイメージ胡麻のクッキーコスモスピンクのチョコサンドした自然派の焼き菓子に仕上げました」とある。すると、図の①のようになるはずだが、実際の「花コスモス」の「構造」は図の②である。


結構な枚数食べてきたが、今のところサンドされているはずの「イメージ」にはお目にかかってない。「謳い文句」を「そのイメージ胡麻のクッキーコスモスピンクのチョコサンドした自然派の焼き菓子に仕上げました」(つまり「そのイメージを焼き菓子にした」という文章にする)とすれば、パッケージを新しくする手間とお金はかかるだろうけど、工場を改修したり、「イメージ」の材料を新たに作ったり仕入れたりするよりは安く上がるはずだ。

いや、そのままでもいいんだけど、ちょっと気づいたから。

遠軽名物「花コスモス」。「白い恋人」より「花コスモス」


2023年10月27日金曜日

ハヤシライスなんてカレーライスの代用品だと、ずっと思ってきたけど、「国技館ハヤシ」と出会って、その考えを改めた。「一番強い格闘技はどれだ?」問題に対する回答と同じで、ハヤシよりカレーが旨いのではなく、旨いカレーが旨くないハヤシよりも旨いだけ。だから、旨いハヤシは、旨くないカレーよりも、当然、旨いのだ。そして、「国技館ハヤシ」は「身内」の「国技館カレー」よりも旨い。それどころか、大抵のレトルトカレーよりも旨い「ツワモノ」。変な表現だが、「国技館ハヤシ」は、ハヤシライスとは思えない旨さで、すっかりやみつき。

安物買いの「4号機」で酷い目に遭う

185周目は、400円で買ったコントローラ4号機(定価1200円・日本製)を試して、酷い目に遭った。安いには理由がある。

色々不満だが、何より、複数のボタンを同時に押すとレバー(スティック)の反応が急に雑になって、細かいコントロールが出来なくなる(同時押しをしなければ、割となめらかなのに、なんだこれ?)。「ダイハード」戦、「オオミミズ」戦、「八艘飛び」戦では致命的。つまり、照準ボタン(R2)を押した状態とか、車やオスプレイを掴んだ状態(L2)で、視点(カメラ)を動かそうとすると、視界が暴れて、てっきりスペンサーが発狂したのかと思った

あと、総じてボタンの戻りが遅いので、例えば、銃の連射(手動)が勝手に途切れて(本当は違うのに、ジャムった!と思って)、怖い思いをする。

突然、「コントローラーを差してください」的な表示が出たことも、二度ほどあった。要するに、勝手に「切断」されてしまうのだ。

これなら、使い込んであちこちボンヤリしてしまった3号機(HORI製)の方がまだ全然マシ。やっぱりHORI製がいいなあ。しかし、製産終了したのか、Amazonで1万円超え。たじろぐ。他はどれもこれも、正体不明の中国製。困ったね。

追記:よくよく調べたら、PS4用のコントローラがPS3でも使えることが分かった。そして、HORI製のPS4用(PS3兼用)コントローラがちゃんとあって、価格も常識的な4000円だったので早速注文した。

2023年10月25日水曜日

【memo】レコーディング・スト:1940年頃のアメリカで、演奏家たちがレコードやラジオに危機感を覚えて、約2年間、スト(録音拒否)をした。そのため、その期間のアメリカのレコードは極めて少ない。

(デイジー・ホリディ)

『ダンバイン』のガラリアは、のちの『∀ガンダム』の「泣き虫ポォ」。そもそも、『∀』は、『ガンダム』『イデオン』『ダンバイン』(あと、『海のトリトン』も)を「具材」にした「カルピスこども劇場」。

『シン・仮面ライダー』2周目:メモ

録画してほったらかしにしていたメイキングドキュメンタリー番組(NHK)をこの前やっと観たので、もう一周してみる気になった。番組内で登場した殺陣が、やっぱり、本編ではほぼ何も使われていなかったのには(申し訳ないけど)「笑った」。あと、喋りすぎ(説明ゼリフ多すぎ)と思ってたけど、元々の『仮面ライダー』も、敵味方問わず、登場人物たちの「独り言」が多かったから、これはこれでいいのだ、と気づいた。前にも書いたけど、これは庵野が「清書」した「だけ」の『仮面ライダー』なのだから。

2023年10月23日月曜日

【memo】運動誘発盲(うんどうゆうはつもう)

(Eテレ「2355」)
【memo】1998年、数学者エリック・ディメインは、或るルールで紙を折りたためば、ハサミを一回入れるだけで、どんな多角形でも切り出せることを証明した。

(Eテレ「2355」)

【memo】「けとばし」:「馬肉」の俗称。

「あとで、けとばしにしてみんなで食べたんですか?」(厩火事/桃月庵白酒)

【memo】「ウエスケ」:「ウィスキー」のこと

【memo】河豚計画

日本政府が、ユダヤ難民を満州に受け入れようとした計画。旨味も大きいが、一歩間違うと取り返しにつかないことになるので「河豚計画」。日独伊の三国同盟が成立したために、この計画が実行されることはなかった。

(NHK 『映像の世紀・バタフライエフェクト/満州』)
『CHEF-1 グランプリ 2023』を愉しく観た。料理云々より、まず、バラエティー番組として愉しかった。

GACKTがいきなり、あんな点数をつけ、あんなことを言ったお陰で、それ以降、他の三人の採点が「自由」になった気がする。去年と一昨年は観てないので、本当のところは知らないけれど、GACKTが一発目につけた点数に、みんなが「!」となっていたので、去年や一昨年は、今年のGACKTのような採点をする人がいなかったのかもしれない。

しかし、GACKTの言ってることは至極最もで、全員が「そりゃそうだ」となったからこそ、それ以降の「勝負の展開」が変わった。気がする。つまり、美味しくても「革命」がなけりゃどうしようもない、と。しかし、そのせいで「革命」という言葉が、自分の中で「おもしろワード」になってしまった(いや、「革命」は元からおもしろワードだ!)。

もう一つ。意識してやっているのか、自然にそうなってしまうのかは知らないが、最初に最低点を与えて「殴り倒し」、最後に最高点を与えて「抱擁」する、GACKTの「人たらし」ぶりにも感心した。

「お茶ラーメン」はきっと商品化されるだろうから、そのときはぜひ食べてみたい。

2023年10月22日日曜日

庵野秀明は「書家」だよ。書家は文字を書くし、文字を書きたい。でも、自前の「書くべき中身」は、あまり持ち合わせてないので、他人の書いた詩や文章を書く。この場合、庵野にとっての「文字」は、「映像(動画)」。

2023年10月21日土曜日

殺陣とリアル

録画したままずっと放置してあった、『シン・仮面ライダー』のメイキング番組(NHK)を、さっき、やっと観た。うっかり、「本編よりも面白いなあ」と思ってしまった。「あんなに苦労して、飛んだりはねたりしたのに、全然使われてないやん」と。一周で充分かな、と思ってたけど、あの「使われてなさ」(と池松壮亮君の苦労)が面白くて(気の毒で)、本編をもう一周したくなった。

それはそうと、アクションに関して、庵野の言ってること(不満)は最初からわかったよ。

ガキの頃、ジャッキー・チェンの映画(テレビ放送)を夢中で観ていたら、後ろにいた親父(マグロ漁師)に「なんだ、それ、踊ってるのか?」と言われて、ムッとした記憶がある。今は分かる。親父が正しい。ジャッキー・チェンのカンフー・アクションの正体は「踊り」。庵野的に言えば「段取り」をこなしているだけなのだ。

UWFから始まって、リングス、プライド、バーリトゥード等々、今は誰もが、より「実戦」に近い「取っ組み合い」や「殴り合い」を「知って」いる時代。実戦に近づけば近づくほど、格闘戦は、地味で殺伐としたものになって「見栄えが悪くなる」ことを「知っている」のだ。「本気」度が増すほど、格闘戦は、見世物としては「身も蓋もない」感じになっていく。そういうものを既に大量に目にしている現代の観客にとって、庵野にダメ出しされていたライダーアクションや、ジャッキー・チェンのカンフーアクションのようなものは、どちらかと言えば「踊り」なんだよね。つまり、歌舞伎のチャンバラと同じ。様式美。庵野はそれがだめだと言っている。

つまり、仮面ライダーもショッカーも、「試合」に勝とうとしているわけでもなければ、「技」を見せつけようとしているわけでもなく、「改造」のせいで凶暴性に歯止めが効かなくなって、とにかく一瞬でも早く相手の息の根を止めようとしているわけで、その部分を表現するためには、「踊り」や「様式美」や「殺陣師がカッコイイと思っている動き」は邪魔にしかならない。

庵野の「誤算」は、〔見世物としては身も蓋もない、もはや殺陣とも呼べないような「殺陣」〕ですらつけられるのがベテラン殺陣師だと思っていたら、実際はそうじゃなかった、アレ?困ったな、ということだろう。まあ、どんな職業にも「職業病」というものがあるけど、殺陣師にも殺陣師の「職業病」があった、ということで。

【追記】庵野って、やっぱり、「作品よりも本人が面白い」系の人だよね。


2023年10月20日金曜日

【バイコマ】Augmentation

 


今日気づいた。Augmentationとは「増強・追け足し」。『シン仮面ライダー』の「蜘蛛オーグ」とか「蝶オーグ」とかの「オーグ」ってこれか! と思って、少し調べたら、あっちは、「augment」だった。つまり「動詞」。それはともかく、ということは、ネイサン・スペンサーは「エミリーオーグ」ってことだね。


さっき観た「トビーの映画音楽の夕べ」(2355)は、『ピアノ・レッスン』のテーマ曲だった。好いよねえ。一気に映画の世界が蘇る。ついでに書けば、個人的「女の映画Best3」は、『ピアノ・レッスン』『シェルタリング・スカイ』『記憶の棘(Birth)』(順不同)。三者三様。

2023年10月19日木曜日

◯『帝都物語』監督:実相寺昭雄、原作:荒俣宏、脚本:林海象/2023年10月19日/Prime Video/ストーリーそのものは、子供騙しの他愛もないバカ話だけど、それ以外が好い。輒ち、実相寺アングル+円谷特撮。陰陽道と風水と式神。明治末期から昭和初期にかけての様々な風俗を描いた街の風景。渋沢栄一、幸田露伴、泉鏡花、森鴎外、寺田寅彦等々の実在の人物の登場。学天即とその発明者である西村真琴を、その息子である西村晃が演じている面白さ。早い話が、小ネタ満載の「The オタク映画」ということ。そういう面を見ればものすごく愉しめる。しかし、繰り返すが、ストーリーそのものは、他愛もない子供騙しでバカバカしい。あと、これが出世作となった嶋田久作(加藤保憲役)が若くて好い。のちの『戦メリ』の坂本龍一そっくり。
【memo】平面上の二つの点(A、B)から、決まった比率(m:n /m≠n)で離れた場所に点Pを打つ。複数の点Pを結ぶと、必ず円になる。この円を「アポロニウスの円:The circle of Apollonius」と呼ぶ。

スカイツリーを点A、東京タワーを点Bとし、スカイツリーの高さを「m」、東京タワーの高さを「n」として、その比率で、地図上に「アポロニウスの円」を描くと、円周上に当たる場所のどこから見ても、スカイツリーと東京タワーの高さは同じに見える。

(Eテレ「2355」)

2023年10月17日火曜日

△『SAVE THE CATの法則_本当に売れる脚本術』ブレイク・スナイダー著/2023年10月17日/図書館/面白く読んだ。しかし、脚本の書き方よりも、所謂「ハリウッド映画」の「つまらなさ」の「理由・原因」が分かったことの方が収穫。


2023年10月16日月曜日

△『風と共に去りぬ』(吹替版)2023年10月16日/Prime Video/


壮大な歴史大河ドラマなのかと思いきや、コメディ要素満載の「コテコテの昭和の少女漫画」だった。奔放な若いお嬢様主人公。本当は好きでもないのに結婚した夫が都合良く死ぬ(二人も!)。産んだ子供も(物語的に)「都合よく」死ぬ。で、嘆き悲しむけど、「あれは演技だったの?」ってくらい、しばらくするとみんなケロッとしている。戦争で「ひどい目」に合うけど、悲壮感よりも、ドタバタ喜劇感が勝ってる。煮えきらない優男な初恋の相手(アシュレー)。振っても振っても諦めずに好き好き言って迫ってくる大金持ちの「イヤな」男(レット・バトラー)、などなど。


でもまあ、それはいい。


この映画で最も「!?」となる点は別にある。輒ち、初めてこの映画を観た現代の観客(自分もそうだった)は、きっとほぼ全員が、「主人公のスカーレット・オハラに感情移入できる人(観客)って、一体どんな種類の人間なんだ!?」と思うはずなのだ。


要するに、主人公であるスカーレットが、信じられないくらい、自己中心的で幼稚で強欲で卑怯な、所謂「クソ女」。この、どう考えても観客の誰からも好かれそうにない主人公に、観客は面食らう。ストーリーが進めばちょっとくらいいいところも出てくるのかなと期待するが、まあ、ひとつも出てこない(いや、ひとつある。いや二つかな。元がカーテンなのがバレバレの緑のドレスを着て、バトラーに会いに行くスカーレットは好い。もうひとつ。酔っ払ったバトラーに久しぶりに「抱かれて」翌朝ベッドの中で浮かれているスカーレットも好い。とは言え全般的には、「こんな女、不幸になればいいのに」と思われて当然のような主人公)。物語の最後に「すべて」を失って、おいおい泣いたあとで、「でも、私にはタラ(生まれ故郷の土地)がある。明日がある」的な独白をして「立ち直る」メンタルも、なんだか、隔世の感。「どこの惑星の人?」とさえ思ってしまう。


あんまり気になったので(普段はやらないけど)ネットでちょっと他の人の感想を調べてみたら、或る女性が〔男からも親からも自立し、自分のことは自分で決める女〕であるスカーレットに猛烈に感情移入したらしい。この或る女性とは、当該のブログの著者の母に当たる人で、曰く、彼女は公開当時、4回もこの映画を見たという話。つまり、女性がまだ自立できていない時代、自立しようと意識し始めた時代に、スカーレットくらいの年齢の「若い女性」だった客層には、スカーレットのキャラクターが「刺さった」らしいのだ。なるほど、と少し思った。


しかし、この映画が制作された当時はまだ「自立した女性」というものがうまく掴みきれてない(よく分かってない)らしいことは、この映画を見れば明らか。というのは、現実の「自立した女性」がそこら中にウロウロしている現代の目で見ると、スカーレットは「自立した女性」というよりは、むしろ、典型的な「サイコパス」だから。言うまでもなく、現実に存在している「自立した女性」は、別にサイコパスではない。


▼全体の印象は、(おそらく時系列が逆だろうけど)『大草原の小さな家』。作品中の価値観とかキャラの言動とか、空気感がまったくそれ。


▼この映画で、スカーレット以上に重要なキャラはメラニー。メラニーのスカーレットに対する「聖母」のような接し方が、縦から見ても横から見ても「クソ女」でしかないスカーレットを観客が「容認・我慢」するための「助け」や「参考」になっている。二人の男、アシュレーとレット・バトラーは、スカーレットの「クソ女」ぶりを際立たせるための「反響板」のようなもの。


▼南北戦争の様子(兵器庫の爆発や、駅前に横たわる負傷者の群れ)は、映画が作られた時代を考えると、確かに「名作・大作」な感じ。


2023年10月13日金曜日

【バイコマ】「ビグザム」(コンストラクター)は、グローダーのいる場所を12時とし、補充武器のある場所を6時すると、今までは、10時→6時(通り過ぎる)→2時→(戻って)6時と回っていたけど、単純に10時→12時(グローダーの下)→2時→6時と回れることに今日気付いた。この方が移動距離も短い気がする。極初期の頃、グローダーの下をくぐろうとしてダメージを受けたのは、あそこでジャンプしたからだ。多分。(183周目)

2023年10月9日月曜日

◯『カムイ伝』第一部(全巻)、△『カムイ伝』第二部(全巻)/2023/10/09/図書館/第一部は、まあ、概ね一貫性があったけど、第二部は完全に「行き当たりばったり」な印象。つまり、物語の展開が。まるで『キン肉マン』だと思った。

2023年10月8日日曜日

カップヌードル「特上」を全種試した。その中でシーフードの特上だけは3回食べた。つまりはそういうことで、シーフードの特上だけが、ちゃんと旨い「新作」になってた。元々のシーフードヌードル(あまり好きじゃない)とは全く別物(賞賛)。

2023年10月6日金曜日

【バイコマ】スナイパーが初登場するエリア。最初にこちらをレーザー照準で狙ってくるヤツと出口のトンネルの前に居るヤツは素通りしてもいい。五人全員を倒す場合の順番で言うと、2人目と5人目は無視していい。

2023年10月5日木曜日

「あ、これ、さっき見た/さっき聞いた」系のこと

もう何年も、毎週水曜日は『コロンボ』を観ている。今日見たのは、「二つの顔:DOUBLE SHOCK」。劇中、家庭用の警報装置のスイッチを入れたり切ったりする場面がある。画面に警報装置が映るとそこに「Wolf Security Systems」と書いてる。「Wolf(狼)」なんて名前は、てっきり番組オリジナルの架空の警備会社だと思っていた。

その数時間後、今度は、最近毎日観ている『サウスパーク』を観た。今日見たのは、season 16の episode 10。なんとここに、「Wolf Security Systems」という警備会社が登場した。

まさかと思って調べてみたら、実在するセキュリティ会社だった、「Wolf Security Systems」。

もう一つ。

この『サウスパーク』を観る前に『クライ・マッチョ』の吹替版を観たのだが、今回の『サウスパーク』のエピソードで、ミルクマンについて語る(そしてサウスパークの男たちを唆す)謎の男の声が、その『クライ・マッチョ』のClint Eastwoodの吹き替えの声にそっくりなのことに気づいた。

で、やっぱり調べてみたら、Clint Eastwoodの吹き替えは、多田野曜平という人だとわかった。『サウスパーク』に関しては、カイルのお父さんの声をやっぱりこの多田野曜平という人がやっているので、例の「ミルクマンについて語る謎の男(きっと知っている人にとっては「謎」でもなんでもない、「誰か」なんだろうけど)」も多田野曜平という人がやっているはず。だって「同じ声」だから。

一日に二回も、「あ、これ、さっき見たアレに出てた」系のことが起きるなんて、珍しいので、記録しておく。

【バイコマ】182周目の腱鞘炎

182周目は「記念」すべき周回になった。というのも、途中で、左の人差し指が腱鞘炎になったからだ。腫れて曲がらない。無論、痛い。他に理由は思いつかない。「バイコマ」が原因だ。

知っての通り、「バイコマ」は左の人差し指を最も使う。というのも、「L2」が「ワイヤー発射」で、「L1」が「でんぐり返し:回避運動」だからだ。この2つを、F1のペダルワークさながらに、絶えず押したり離したりしているのが左の人差し指。

「トランキライザーガン」や「クレイジー・クライマー」の頃からやっているけど、ゲームで腱鞘炎になったのは初めて。近所の整形外科で人差し指の付け根に注射を打たれて、それで治った。効く。

2023年10月1日日曜日

◯『スポットライト:世紀のスクープ』(吹替版)2023年10月1日/Prime Video/カソリックの神父による子供への性的虐待が起きるたびに教会が組織ぐるみで隠蔽していた事実を暴いたボストン・グローブ紙の「世紀のスクープ」の内幕を描いた作品。見ごたえのある好い映画だった。もう一周してもいい。あと、今まさに「ジャニーズ事件」に当面している日本人は全員観るべき。主演の一人はMichael Keaton。ボストン・グローブ内の「スポットライト」という部署(?)のデスク役。

『マトリックス』の第4部を観て思った色々

△『マトリックス・レザレクションズ』(吹き替え)Prime Video/2023年9月21日/

凡庸で軽薄「愛が世界を救う」系のSFファンタジー。

作者が、自分が作ったキャラクターや物語世界を(色々な意味で)「忘れられず」、一旦終わらせた物語を再開したり、そのために、殺したキャラクターを「屁理屈」で生き返らせたりして、「続編」を作り続けてしまうことは、映画に限らず、漫画でも小説でもよくある。この作品もその系譜。作らないほうがよかったのにね、と心底思う。

この手の「続編」では、前作の「ラスボス=最強の敵」が、主人公と「共闘」しがちだけど、本作でも案の定、宿敵「(元)スミス」が、ネオの(一時的な)協力者になって、今回の「共通の敵」である「アナリスト」(時間を止める「ザ・ワールド」的な「無敵」能力を持つ)を「退治」してくれる。少年ジャンプか!

そもそも『マトリックス』ってこんなにポンコツシリーズだったかなあと思って、同じPrime Videoにあった前作(第三部)の『マトリックス・レボリューションズ』を見返してみたら、 なんと同じだった。ポンコツというのは言い過ぎだけど、生命教信者が生命教信者向けに作った、生命教「信仰」を讃えるだけの映画でしかなかった。輒ち、「知性現象は、人間(生命由来)のものが一番尊い。それ以外の知性現象は、いくら高度で高速で大容量でも、所詮は偽物・出来損ない」という信仰のもとに作られている。

生命教信者向け映画だという点について、もう少し書くと、例えば、機械の親玉(マシン・シティに乗り込んできたネオの取引に応じたり、人間と機械との戦争が終わったあとで、白髪の紳士の姿でマトリックスの予言者を訪ねて来るあのヒト)や、マトリックスを乗っ取った「暴走スミス」が、それぞれ「機械」や「コンピュータプログラム」のはずなのに、考え方や価値観が、当前のように「生命教」に則っているというのが、まさに生命教信者御用達映画の証(というか、症状)。

もう何度何度も書いているけど、「知性現象というものが存在すれば、それは常に生命原理に従う」と考えるのが生命教信者。この映画は生命教信者達によって作られているので、機械の親玉も、スミスも、当然のように、生命原理に従う知性現象になっている。言い換えると、彼らの知性現象は、人間の知性現象のあり方を模倣、もしくは再現になっている。だから、「機械」や「プログラム」が、まるで人間のように、〔自分自身や同類の存続〕や〔版図の維持拡大〕を望んだり願ったりするし、人間との間に「戦争」も起こす。

映画の中では、「人間と機械との戦争」とか、「人間とコンピュータプログラム(スミス)との闘い」のように描かれているので、観客も大半はそう思っているだろうし、うっかりしたら、映画の制作者たちも本気でそう思い込んでいるのかもしれないけれど、実態は、「有機物製の人間」と「金属製の異形な人間」の戦争であり、「有機物製の人間」と「コンピュータプログラム製の人間」の闘いでしかない。要するに、「武装」や「有り様」の違いが「SF的な装い」をしているだけで、単なる「人間と人間」の争いなのだ。生命教の呪縛の典型

正体」は人間同士の争いなのに、外面(そとづら)は「人間対機械」や「人間対コンピュータプログラム」になっているので、それで「安心」してしまい(凄いものを描いていると勘違いしてしまい)、肝心要の人間描写や人物造形が、陳腐で凡庸な「お定まりの仕上がり」になっても平気だし、その「退屈さ」にも気が付かない。そうやって作り出される作品を、心ある人々は「子供騙し」と呼ぶ。

その昔『マトリックス三部作』を観終えたあとで、「これなら『アニマトリックス』の中のいくつかのエピソードほうが断然好い」と思ったが、今回の再見で、当時の自分の判断の正しさを再認識した。『マトリックス』は第一部(一作目)が全て「出オチ」映画。残り三作は、ハリウッド製によくある、凡庸なSF戦争ファンタジー。

いずれにせよ、ネオとトリニティが自分たちの命と引換えに人類に平和をもたらしたという第三部の結末に対して、やっぱりネオとトリニティに幸せになってもらいたいなあ、と思って作ったのが、この第四部ってことなんでしょう?

**

それにしても、今回、『マトリックス・レボリューションズ』を見返してみて驚いた。ほぼ何も覚えてなかったからだ。見覚えがあったのは、最後の最後に、マシン・シティでネオが停戦(終戦)のための取引を提案する場面くらい。あとは、「初見」かと思うくらい何も覚えてなかった。

なので、今回分かった『マトリックス・トリロジー』の顛末を、少しメモしておく。

①人間と機械が戦争をしている。(開戦の理由や様子は『アニマトリックス』で描かれている)
②機械は人間集団を発電機(エネルギー源)として使っている。
③機械は発電機(人間集団)を生かし続けるために「マトリックス」を運用している。
④「マトリックス」の用務員(エージェント)であるスミスの「暴走」が始まる。
⑤暴走したスミスは、マシン・シティを乗っ取る勢いを見せる。
⑥ネオだけがスミスの暴走を止められる。
⑦機械は、ネオがスミスの暴走の止めたら人間との戦争をやめる、とネオに約束する。
⑧ネオが(予言通り)スミスに負けて「上書き」され、スミス(の複製)になる。
⑨機械がネオの体から(元ネオの)スミスに「入り込み」、暴走スミスたちを一掃する。
⑩人間と機械の戦争は終わり、スミスが駆除された「マトリックス」は「正常」に戻る。

因みに、預言者は、わざとスミスに「上書き」されることで、「ネオの体を経由して、機械が〔ウィルス駆除プログラム的なもの〕を暴走スミスに送り込み、暴走スミス群を一掃する」作戦の道筋を作った。


付記:【第三部で引っかかったこと】

序盤で、「地下鉄駅」に「閉じ込めれらた」ネオを助けるために、トリニティが「フランス人」の眉間に銃口をあてて「取り引き」を持ちかける。曰く、「フランス人」がネオを解放するか(ネオの居場所を教えるか)、それとも、ここでみんな(トリニティ、「フランス人」、モーフィアスなど)で死ぬか、と。しかし、これは「取り引き」にならない。なぜなら、自分の命に代えてもネオを取り戻したいトリニティは、絶対に「フランス人」を殺せないからだ。「フランス人」を殺したら、ネオは永遠に解放されない(見つからない)。

もし、ネオの解放に「フランス人」の協力なり了解なりが必要ないなら、「取り引き」なんか持ちかけずに、さっさと「フランス人」を殺せばいい、というか、そもそも、「フランス人」のところに、無策状態でノコノコやって来る必要がない。

…なんて言うんだろ。ネオを助けるためならトリニティは自分の命は惜しくない→つまり、「フランス人」を殺したら自分も殺されるけど、そんなの気にしない→だから、「フランス人」を殺すと言うトリニティの言葉はただの脅しじゃない!それは、そのとおりなんだけど、だからと言って、トリニティが自分の命と引き換えに「フランス人」を殺しても、それで自動的にネオが解放されるわけではないので、「自分の命に代えてもネオを助ける」というトリニティの「決意・覚悟」は、この取引では用をなさない。ネオが解放される条件は、トリニティが命を差し出さないこと、つまり、トリニティが「フランス人」を殺さないこと。そして、何よりも(自分の命よりも)トリニティが望んでいるが「ネオの解放」なのだから、逆に、自分の命に代えてもトリニティは「フランス人」を殺せないのだ。これが取引になっているかのように(制作者や観客が)勘違いしているのは、「ネオが解放されないくらいなら、私(トリニティ)はお前(「フランス人」)を道連れに死んでやる」というふうにしか考えていないから。しかし、繰り返すが、その場合、トリニティの決断(というか短気?)によって、ネオも死ぬ(永遠に「地下鉄駅」から解放されない)ことになる。トリニティ、何がしたいの?

要するに、この場面は、たくさんの銃口を突きつけられた絶体絶命の状態で、恋のために命がけの取引を持ち出すかっこいいボンテージ女という「雰囲気」だけのもの。そもそも、最初にトリニティたちが、入り口を守る手下たちを皆殺しにして、「フランス人」が潜んでいる「会員制クラブ」に乗り込んでくる場面自体が、その後の展開(結局、あっさり敵に包囲されて銃を取り挙げられ、「フランス人」に「取引き(代わりに預言者の目をもってこい)」を持ちかけられることになる)を考えると、ただただ、銃撃戦を見せたいだけのもので、つまりは「雰囲気」。

でもまあ、「恋する女がイカれたことをする」という文脈でこの場面は展開しているから、銃を眉間に突きつけられた当の「フランス人」が、「この女(トリニティ)、こんなの全然、取引にもなんにもなってないし、俺を殺したら、ネオも助からないことすら分かってないんじゃないか? やべえなあ…」とビビって、トリニティの要求に応じるところを描きたかったのかもしれないけどね。つまり、ネオを道連れにしたトリニティの「無理心中」に巻き込まれるのはまっぴらだと思った「フランス人」が、トリニティの要求に応じるという理屈。でも、そうすると、トリニティの言い分を聞き入れてた「フランス人」は、どのタイミングでトリニティの銃口から解放されたのだろう? どう考えても「地下鉄」に乗り込む直前まで「人質」になっていたはず。「フランス人」に銃口を突きつけたトリニティが、周囲を警戒しながら、「地下鉄」乗り場まで移動している姿(画)は、滑稽。

【救済案】
①さっさとネオを引き渡さないならもうお前(「フランス人」)に用はない。私達(トリニティ)の仲間が「自力」でネオを見つけ出すから、お前(「フランス人」)はここで私達(トリニティたち)と心中しろ、という理屈なら、トリニティが持ちかけた「取引」は実効性がある?

②「フランス人」が「扉の鍵」のような存在で、「フランス人」を葬り去れば「自動的」にネオのところに行けるか、ネオが解放されるという「仕組み」になっているのなら、トリニティが持ちかけた「取引」は実効性がある?

…どちらでもなさそうなんだよね。

①の場合。「フランス人」がいなくなっても、トリニティの仲間が「自力」でどうにかするから、トリニティは「フランス人」は殺せるというのなら、そもそもあの場面で「フランス人」を殺す必要も脅す必要もない。一旦、「フランス人」の取引に応じたふりをして、悠然とあの場所から立ち去り、「自力」でネオを探し出せばいいだけ。そうすれば、トリニティもモーフィアスもセラフもみんな生きている状態で、ネオに会える。

②の場合。今度は「フランス人」の側が、取引などできる立場ではないことになる。「ネオを解放してほしかったら、預言者の目をもってこい」と言った時点で、ネオの為なら命も惜しくないトリニティに撃ち殺されて終わり。

やっぱり、あの場面は、ただただ、トリニティが「見栄を切る(歌舞伎用語)」ためだけにあるとしか思えない。というか、『マトリックス』シリーズって、この手の〔必然性も説得力もない、ただただ「カッコイイ場面のためのカッコイイ場面」〕だらけなんだよね。それがまた、軽薄でポンコツな印象を与える。

ついでのついでに書けば、キアヌの主演映画で、第一作目がすごく面白くて、でもその続編は「あれ?」ってのが、『マトリックス』以外にもう一つある。そう、『ジョン・ウィック』。いい人なんだろな、キアヌ。続編、断れないんだろうなあ。キアヌ主演のSF/ファンタジー系映画で言えば、『コンスタンティン』が一番好きだけど、これもうっかり続編なんか作ったら、「あれ?」ってなるに決まってるから、気をつけて。