2023年10月16日月曜日

△『風と共に去りぬ』(吹替版)2023年10月16日/Prime Video/


壮大な歴史大河ドラマなのかと思いきや、コメディ要素満載の「コテコテの昭和の少女漫画」だった。奔放な若いお嬢様主人公。本当は好きでもないのに結婚した夫が都合良く死ぬ(二人も!)。産んだ子供も(物語的に)「都合よく」死ぬ。で、嘆き悲しむけど、「あれは演技だったの?」ってくらい、しばらくするとみんなケロッとしている。戦争で「ひどい目」に合うけど、悲壮感よりも、ドタバタ喜劇感が勝ってる。煮えきらない優男な初恋の相手(アシュレー)。振っても振っても諦めずに好き好き言って迫ってくる大金持ちの「イヤな」男(レット・バトラー)、などなど。


でもまあ、それはいい。


この映画で最も「!?」となる点は別にある。輒ち、初めてこの映画を観た現代の観客(自分もそうだった)は、きっとほぼ全員が、「主人公のスカーレット・オハラに感情移入できる人(観客)って、一体どんな種類の人間なんだ!?」と思うはずなのだ。


要するに、主人公であるスカーレットが、信じられないくらい、自己中心的で幼稚で強欲で卑怯な、所謂「クソ女」。この、どう考えても観客の誰からも好かれそうにない主人公に、観客は面食らう。ストーリーが進めばちょっとくらいいいところも出てくるのかなと期待するが、まあ、ひとつも出てこない(いや、ひとつある。いや二つかな。元がカーテンなのがバレバレの緑のドレスを着て、バトラーに会いに行くスカーレットは好い。もうひとつ。酔っ払ったバトラーに久しぶりに「抱かれて」翌朝ベッドの中で浮かれているスカーレットも好い。とは言え全般的には、「こんな女、不幸になればいいのに」と思われて当然のような主人公)。物語の最後に「すべて」を失って、おいおい泣いたあとで、「でも、私にはタラ(生まれ故郷の土地)がある。明日がある」的な独白をして「立ち直る」メンタルも、なんだか、隔世の感。「どこの惑星の人?」とさえ思ってしまう。


あんまり気になったので(普段はやらないけど)ネットでちょっと他の人の感想を調べてみたら、或る女性が〔男からも親からも自立し、自分のことは自分で決める女〕であるスカーレットに猛烈に感情移入したらしい。この或る女性とは、当該のブログの著者の母に当たる人で、曰く、彼女は公開当時、4回もこの映画を見たという話。つまり、女性がまだ自立できていない時代、自立しようと意識し始めた時代に、スカーレットくらいの年齢の「若い女性」だった客層には、スカーレットのキャラクターが「刺さった」らしいのだ。なるほど、と少し思った。


しかし、この映画が制作された当時はまだ「自立した女性」というものがうまく掴みきれてない(よく分かってない)らしいことは、この映画を見れば明らか。というのは、現実の「自立した女性」がそこら中にウロウロしている現代の目で見ると、スカーレットは「自立した女性」というよりは、むしろ、典型的な「サイコパス」だから。言うまでもなく、現実に存在している「自立した女性」は、別にサイコパスではない。


▼全体の印象は、(おそらく時系列が逆だろうけど)『大草原の小さな家』。作品中の価値観とかキャラの言動とか、空気感がまったくそれ。


▼この映画で、スカーレット以上に重要なキャラはメラニー。メラニーのスカーレットに対する「聖母」のような接し方が、縦から見ても横から見ても「クソ女」でしかないスカーレットを観客が「容認・我慢」するための「助け」や「参考」になっている。二人の男、アシュレーとレット・バトラーは、スカーレットの「クソ女」ぶりを際立たせるための「反響板」のようなもの。


▼南北戦争の様子(兵器庫の爆発や、駅前に横たわる負傷者の群れ)は、映画が作られた時代を考えると、確かに「名作・大作」な感じ。