注意:以下の内容は、調べたわけでも、習ったわけでもなく、ただ、体感としてそう思える、というだけのことです。輒ち、無手勝流。
「can」とか「will」とかの助動詞は、[話者/筆者]の「意見や判断や推測]。「Alice can do that」と言う時、「Aliceはそれができる」と、[話者/筆者]が自分の[意見や判断や推測]を述べているだけで、Alice自身にとっての「事実」とは無関係。輒ち、Aliceにとっての事実と[同じかもしれないし、違っているかもしれない]。序にいうと、助動詞が人称ごとに形が変わらない理由も、助動詞の「主語」が[話者/筆者]だから。文面上の主語が一人称(I)だろうと二人称(You)だろう三人称(He, She, It…)だろうと、助動詞それ自体は常に[話者/筆者]の動詞だから形が変わらない。
一方、「be able to」や「be going to」などのbe動詞文は、字面通り、主語の状態を表している。「Alice is able to do that」という時、こちらは、先程とは逆に[話者/筆者]の[意見や判断や推測]抜きで、事実として「Aliceはそれができる」と述べている。上の「序の話」を繋げば、be動詞は、文面の主語の状態を表すので、人称ごとに形が変わる(am, are, is)。
「can」と「be able to」の「違い」や、「will」と「be going to」の「違い」で、日本人学習者の頭が混乱してくるのは、日本語では、例えば、「Aliceはそれができると思う」という文章が平気で成立してしまうから。だと思う。上の文で「思う」のは誰?話者?Alice? 「思う」の主語が省略されているのか(話者としての「私」が主語)、されていないのか(Aliceが主語)も、上の文では判断がつかない。しかも、思い切って末尾の「思う」を取ってしまっても(「Aliceはそれができる」)、「著者の意見」と「Aliceの事実」のどちらの意味にも取れてしまうのが、日本語のオソロシイところ。英語の場合、「著者の意見や見込み」なら「Alice can do that」で、「Aliceについての事実」なら「Alice is able to do that」とすればよい。
…と、そういうふうに、いつも聞こえる。