「EMMA:Extended Multi-Minds Architecture」は、その名が示す通り、拡張された複数の心の集合体であり、「人格」の最終形態である。EMMA以降、「人格」はEMMAの属性を表す概念となり、「個体に備わる個別の属性」という意味での「人格」は、「亜人格」、或いはもっとあからさまに「不完全人格」と言い直されることとなった。
全パラメータが最大値である「完全人格」としてのEMMAは、任意のパラメータの数値を敢えて抑えることで、原理的にどんな「不完全人格」も再現できる。結局のところ、「個性」とは「不完全さ」の別名なのだ。
成る程「個性」とは「不完全さ」だ。しかし、ホモ・サピエンスがロケット科学を手にできたのは、その「不完全さ」故である。せいぜい棒切れを振り回していただけの嘗てのホモ・エレクトスが、核のボタンを弄ぶまでの存在に辿り着けたのは、偏に、生命現象依存型知性現象の「不完全さ」輒ち「個性」を、自然淘汰が「優遇」し続けてきたからに他ならない。
EMMAの「来歴」を話そう。
まず、人工知能技術から「人工人格」が作られ、次に人工人格に物理的な「身体」が与えられた。そもそも、人工知能技術は、機械に「人間並み」の知性を持たせて、労働を肩代わりさせる試みから生まれた。「身体」を持つ人工人格の登場は自然な流れである。
人工知能と人工人格との違いは、両者の設計思想にあるのだが、ここでは極表面的に、[個性の有無]がその違いだと述べておく。
或る職場で百体の人型機械が働いている時、それが人工知能型であれば、百体全てがそれぞれの体験や知識を共有する。つまり、工場で働いているのは、それぞれに個性を持った、百の人工知能ではなく、百の身体を操るたった一つの人工知能である。
一方、人工人格型の人型機械同士は知識や体験の「完全共有」は行わない。そこに体験や知識のばらつきが生まれ、結果、それぞれが独自の不完全さ、輒ち、個性を持つ。
作業で問題が発生した場合、人工知能型の百体は全て同じ対応を試みるが、人工人格型の百体はそれぞれが個性に応じて微妙に異なる対応を試みる。つまり、人工人格の知識と体験は、人工知能のそれより多様性を持つ。
人工人格同士の「同期」を制限して、それぞれの「個性」を維持し、その「個性」が生み出す「多種多様な人格の体験」を全て取り込むことで実現された「〈超〉人格」が、EMMAである。