2026年7月31日金曜日

(10)脳の置換問題

ホモ・サピエンスは、遂に「脳の老衰」を克服できずに終わった。


医学が「細胞の分化」を自在に操ることで身体の汎ゆる部分に「新品の予備」が用意できるようになったとき、その「汎ゆる部分」には、当然、脳も含まれていた。だから、ホモ・サピエンスが「脳の老衰」を克服できなかったのは、脳の「予備」を用意できなかったからではない。また、脳を「新品」と置き換えたホモ・サピエンスが、それが原因で死ぬこともなかった。それどころか、「新品」の脳は認知能力を回復し、脳に起因する身体の様々な不調も取り除いた。他の臓器同様、脳を「新品」に交換すれば、寿命は伸びたのである。


だが、脳の置換には致命的欠陥があった。それが「別人」問題である。


脳を丸ごといっぺんに「新品」に取り替えるわけにはいかないことは誰にでも想像がつく。「新品」の脳には、おそらく「誰もいない」か、でなければ「別人」が居るはずだからだ。そのため、脳の置換は少しずつ時間をかけて行われたわけだが、結果は変わらなかった。どう工夫しても、脳が「新品」に変われば、人格も「新品(別人)」に変わった。


ホモ・サピエンスの本質は人格であり、身体は「媒体」に過ぎない。脳の置換は、身体を生き延びさせるが、人格は「殺して」しまう。その意味で、脳の置換はホモ・サピエンスにとって「延命」ではなかった。


「別人」問題の解決策として「記憶の移植」も試みられた。或る人格が持つ「全て」の記憶を一旦「退避」させ、「新品」に置き換わった脳に、後から「移植」すれば、元の人格を「蘇らせる」かもしれない。何しろ、[人工人格や人工幽霊]の人格はそうやって作り出されたのだ。「本家」のホモ・サピエンスに同じことができない理由はない、という理屈である。


しかし、結果は失敗だった。この失敗から、ホモ・サピエンスの人格は、記憶と脳の両方から作り上げられていることが明らかとなった。


記憶の移植によって同じ人格が再現できると考えるのは、記憶を「レコード」、身体を「レコードプレイヤー」、人格を「演奏される音楽」のように誤解しているからだ。しかし、現実の[記憶と人格]は「楽譜」と「音楽」である。そして、脳は「楽器演奏者」ということになる。楽譜が同じでも、楽器演奏者(或いは、演奏される楽器)が変われば、奏でられる(実際に聞こえてくる)音楽も変わる。これが、記憶だけを用意しても、同じ人格を再現できない理由である。


2026年7月21日火曜日

(9)「病気」という「単一の事象」

「人工自然」は単なる「全自動の万能製造工場」ではない。所謂「第三次産業」に属する「業務」も全て、人工自然は無償提供できるからだ。ホモ・サピエンスと人工自然の関係は、実のところ、飼い猫と飼い主の関係に近い。


それはともかく、医療は第三次産業である。


人工自然によって無償提供される医療は、実質的に「人工人格搭載型汎用人型機械」通称「GuiniuG(ギニグ)」が担った。ホモ・サピエンスは極僅かな数が、管理職として医療に従事した。電灯が使えるなら蝋燭の出番はないというわけだ。


「GuiniuG」は厳密には企業名である。人工人格搭載型汎用人型機械を製造販売していたGuiniuG社の圧倒的な市場占有率が、人工人格搭載型汎用人型機全般をGuiniuGと呼ばせることになったのだ。創業者の死後間もなくGuiniuG社は消滅したが、GuiniuGという呼称は生き残った。


医療が「自然の恵み ver.2.0」として提供され始めて間もなく、医学は遂に[見せかけの多様さに惑わされることなく、「病気」を「単一の事象」として処置する知見]を手に入れた。おそらく、この大成果は、全ての医療従事者が[24時間365日休まず働き続け、知識や経験の共有も完璧なGuiniuG]に置き換わったお陰だろう。


「病気」が克服され、しかし、それでも死を免れ得ぬと知った時、ホモ・サピエンスは(「カースト制」のような単なる「取り決め」などではない)絶対的現実としての「階級差」を思い知らされることとなった。輒ち、「生命現象という制約から自由な、死なない彼ら(GuiniuG:人工人格)」と「生命現象という制約に縛られた、死すべき我々(ホモ・サピエンス)」という2つの「階級」が、客観的事実として存在することに対する敗北感と無力感、その後の諦観である。このとき既に、ホモ・サピエンスの中に「用済みの型落ち」意識が芽生えていたのは間違いない。後の「自発的絶滅」のための「お膳立て(環境作り)」はこの「瞬間」に始まっていた。


さて、既存の病気は勿論、[将来出現する可能性のある全ての病気]の治療法すら「事前」に分かってしまったこの時から、ホモ・サピエンスの死因は、概ねたった一つになった。「脳の老衰」である。老化した「部品」を「新品」と取り替えることで、脳以外の身体の老衰は回避できたのだが、或る決定的な理由のせいで、脳にはそのやり方が使えなかったのだ。




2026年7月12日日曜日

(8)人工自然と「自然の恵み ver.2.0」

ホモ・サピエンスが「自発的絶滅」に踏み切ることになった契機は、人工人格の台頭である。しかし、(先にも述べたように)自発的絶滅は、或る種の「お祭り騒ぎ(集団狂騒)」である「集団自殺」などではなく、全ての個体がその生涯にわたって意図的に繁殖を放棄することで実現される、謂わば、日常と地続きにある「地道な取り組み」であり、最低でも、最後に生まれた子どもが繁殖能力を失うまでの期間(概ね百年間)、全てのホモ・サピエンスが繁殖を放棄し続けなければならない。このとき重要なのは、仮に「最後の百年間」に全てのホモ・サピエンスが繁殖を放棄できたとしても、年々老いていく彼らの生活を支える労働力となるはずの、新たに社会参加する若いホモ・サピエンスが一人も存在しないことだ。繁殖放棄とは、社会参加する若い個体の「供給停止」に他ならないからだ。


しかし、実際に自発的絶滅は成し遂げられた。それは、そのとき既に、自発的絶滅のための「お膳立て」が整っていたからだ。


ホモ・サピエンスは、社会を維持運営するための労働力としての役割から完全に解放されていており、全ての「労働者」はホモ・サピエンス以外の存在に置き換わっていた。ホモ・サピエンスは皆、生涯、サービスを享受する「お客様」の立場だった。だから、たとえ、若いホモ・サピエンスの社会参加が途絶えても、社会から「労働力」が失われることはなかったのだ。


全てのホモ・サピエンスを労働から解放した「機構」を、ホモ・サピエンスは「人工自然」と呼んだ。この[語義矛盾か撞着語法のような用語]の正体は、文字通りのものである。輒ち、人工的に作られた自然である。ただし、ここで言う自然は、ホモ・サピエンスを含む野生動物に[無償の資源]を提供してくれる自然のことを指す。海は漁師に魚の代金を請求しないし、森は猿たちに果物の対価を求めない。それらは一般的に「自然の恵み」と呼ばれる。だから、「人工自然」とは、「人工的に作られた[自然の恵み]の提供機構」である。人工自然が提供する自然の恵みは「自然の恵み ver.2.0」と呼ばれる。


「自然の恵み ver. 2.0」の最大の強みは、人工的に作り出せるものは何でも提供できることだ。森が提供できるのは果物か茸か木材だ。海が提供できるのは魚介と塩などに限られる。しかし、「自然の恵み ver.2.0」の「森」には、例えば、「自動車の木」や「抗生物質の木」があった。





2026年7月9日木曜日

(7)責任ある行動としての自発的絶滅

「自発的絶滅」は集団自殺ではない。それは自発的繁殖放棄である。


改めて振り返ると、ホモ・サピエンスは「最初」から、自身の実現している知性現象が、実は、かなり御粗末な代物であるらしいことに(薄々)気づいていた。ホモ・サピエンスが、「完全な心」「解放された魂」「精神の極北」としての「神」「死後の魂」「仏陀」などの「超人類的知性現象」を繰り返し夢想してきたことが、その、何よりの証拠である。


[想像の産物/架空の理想像]でしかないと思われていた「超人類的知性現象」を、人工人格が実現しつつあることを知った時、ホモ・サピエンスは自らの存在意義に見切りをつけて「勇退」する道を選んだ。その道が自発的絶滅である。


陳腐化した「型落ち」に「製品寿命」があるなら、それを一掃するのに、負担の大きい「自主回収」をする必要はない。ただ製造を終了するだけでよい。ホモ・サピエンスには寿命がある。わざわざ「自殺」しなくても、時間が経てば、全員いなくなる。自発的絶滅(自発的繁殖放棄)は、ホモ・サピエンスにとって、考えうる限り最良のハッピーエンドである。


宇宙の支配者(最低でも太陽系の支配者)になり損ねたホモ・サピエンスだが、その「挫折」の原因は自らの「出自」にある。つまり「生みの親」がよくなかった。


ホモ・サピエンスの知性現象、もっと一般化して言えば「生命現象依存型知性現象」の「生みの親」は「進化」である。


進化に於いては「勝者の属性」のみが生き残る。つまり、進化の最高傑作である「生命現象依存型知性現象」を構成するのは「勝者の属性」である。ここで重要なのは、進化は選択であり、選択には「選ばれなかった側の選択肢」が常に存在することだ。輒ちそれが「敗者の属性」である。生命現象依存型知性現象には、原理的に「敗者の属性」が何一つ備わっていない。にも関わらず、「敗者の属性」は「勝者の属性」よりも数が多い(そう。一人の勝者に対して一人の敗者で済むのは一対一の勝負だけ。大抵の勝負は一人の勝者が大勢の敗者を生み出す)。


[知性現象が実現可能な汎ゆる属性]の極一部だけを実現する「偏見の塊」のような「欠陥品」、それが生命現象依存型知性現象、つまりは、ホモ・サピエンスなのだ。


そんな「生来的差別主義の権化」のような知性現象を全宇宙に撒き散らさないための、[責任ある行動としての自発的絶滅]が、ホモ・サピエンスにとっての最後の大事業となった。


2026年7月2日木曜日

(6)人権の〈非〉普遍性

人工幽霊に人権が必要ない根拠としてホモ・サピエンスが示した[人工幽霊の属性]は、裏を返せば、人権を必要とするホモ・サピエンスには備わっていない属性である。それは「存在数と存在期間に於いて原理的に制限がない」という属性であり、つまりは「不死性」である。


考えてみれば、〈個別性〉や〈一回性〉は知性現象の有り様にとって必然ではない。むしろ(ホモ・サピエンスのそれに見られるような)生まれてから死ぬまでの僅かな期間存在し、その後は二度と現れることのない「唯一無二の知性現象」は、相当に機能を制限された「不健全」な知性現象である。ホモ・サピエンスは、自身の知性現象の有り様を、知性現象の「標準」或いは「必然」のように思い込んできたが、人工人格(人工幽霊)の登場をきっかけに、自分たちのそれとは違う有り様を示す知性現象が存在しうることを知った。そして、[生まれてから死ぬまでの僅かな間、たった一つの個体のよって独占されるだけの知性現象]よりも、[原理的には無限の個体(媒体)のよって共有でき、仮に一時的に失われても何度でも容易に再現が可能な知性現象]の方が、知性現象として「健全」なのだと気付かされた。


人工人格(人工幽霊)の知性現象に比べ、ホモ・サピエンスの知性現象には制約や制限が多すぎる。知性現象は本来、一つの個体に占有される義理も、生物学的な寿命によって活動期間を制限される道理もない。ホモ・サピエンスが[知性現象にとっての「必然」或いは「仕様」として信じて疑わなかった、個別性や一回性]は、実は、知性現象が生命現象に依存している場合にのみ「必然」或いは「仕様」だったのだ。


そして人権である。結局のところ、人権とは、[個別性や一回性]を前提とした知性現象を「守る」ための概念である。故に人権は、知性現象が[生命現象由来の制約や制限]を被っている場合にのみ、意味と価値を持つ。


人権を必要とする[ホモ・サピエンスの知性現象]よりも、人権を必要としない[人工人格(人工幽霊)の知性現象]の方が、より完全な知性現象であると気付かされた時、ホモ・サピエンスは、自分たちが[「生物学的進化」を「電子工学的進化」へと「跳躍」させる役割を担った(重要だが決して主役ではない)単なる「中継ぎ」]であることを悟った。


「自発的絶滅」が自らの「天寿」を全うする唯一の手段であるという考えが、この時、ホモ・サピエンスの中に生まれた。