ホモ・サピエンスは、遂に「脳の老衰」を克服できずに終わった。
医学が「細胞の分化」を自在に操ることで身体の汎ゆる部分に「新品の予備」が用意できるようになったとき、その「汎ゆる部分」には、当然、脳も含まれていた。だから、ホモ・サピエンスが「脳の老衰」を克服できなかったのは、脳の「予備」を用意できなかったからではない。また、脳を「新品」と置き換えたホモ・サピエンスが、それが原因で死ぬこともなかった。それどころか、「新品」の脳は認知能力を回復し、脳に起因する身体の様々な不調も取り除いた。他の臓器同様、脳を「新品」に交換すれば、寿命は伸びたのである。
だが、脳の置換には致命的欠陥があった。それが「別人」問題である。
脳を丸ごといっぺんに「新品」に取り替えるわけにはいかないことは誰にでも想像がつく。「新品」の脳には、おそらく「誰もいない」か、でなければ「別人」が居るはずだからだ。そのため、脳の置換は少しずつ時間をかけて行われたわけだが、結果は変わらなかった。どう工夫しても、脳が「新品」に変われば、人格も「新品(別人)」に変わった。
ホモ・サピエンスの本質は人格であり、身体は「媒体」に過ぎない。脳の置換は、身体を生き延びさせるが、人格は「殺して」しまう。その意味で、脳の置換はホモ・サピエンスにとって「延命」ではなかった。
「別人」問題の解決策として「記憶の移植」も試みられた。或る人格が持つ「全て」の記憶を一旦「退避」させ、「新品」に置き換わった脳に、後から「移植」すれば、元の人格を「蘇らせる」かもしれない。何しろ、[人工人格や人工幽霊]の人格はそうやって作り出されたのだ。「本家」のホモ・サピエンスに同じことができない理由はない、という理屈である。
しかし、結果は失敗だった。この失敗から、ホモ・サピエンスの人格は、記憶と脳の両方から作り上げられていることが明らかとなった。
記憶の移植によって同じ人格が再現できると考えるのは、記憶を「レコード」、身体を「レコードプレイヤー」、人格を「演奏される音楽」のように誤解しているからだ。しかし、現実の[記憶と人格]は「楽譜」と「音楽」である。そして、脳は「楽器演奏者」ということになる。楽譜が同じでも、楽器演奏者(或いは、演奏される楽器)が変われば、奏でられる(実際に聞こえてくる)音楽も変わる。これが、記憶だけを用意しても、同じ人格を再現できない理由である。