「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2018年10月28日日曜日
現の虚 2014-1-4【椿象】
集金の約束をすっぽかされた帰りに缶珈琲でも飲もうとビル裏の駐車場の奥にある安売り自販機に行くと先客がいた。
太った裸の上半身が緑色で、虫の顔をした大男。
暗い駐車場の中で明るいのは自販機の周りだけだ。その明るい自販機の前で、虫の顔をした上半身裸の緑色の肥満男が缶珈琲を飲んでいた。それは、俺のお気に入り、猿みたいな顔のハリウッドの人気俳優トミーリージョーンズがずっとテレビでCMしている銘柄の缶珈琲で、俺も飲もうと思っていたヤツだ。
CMの撮影かもしれない。トミーリージョーンズは降板して、この緑色のデブが新しいキャラクターになるのかもしれない。ハリウッド俳優のギャラは安くないから、それもある。でももしこの緑色のデブが新しいCMキャラになるなら、もう、この缶珈琲を買い続ける理由はないな。いや。CM撮影じゃないことは分かっている。CM以外の撮影でもない。撮影クルーの姿がないし、緑色のデブが全然作り物に見えないから。でも、デブが作り物に見えないのは、見た目よりも、きっとこの悪臭のせいだ。臭覚は視覚を圧倒する。つまり臭さはリアルな危険のシグナル。それは古代脳のお告げ。
カメムシのような悪臭が緑色のデブの辺りから強烈にニオって来たとき、俺の古代脳は「本物の危険が近くにいる」と警告を発した。背後では白いネグリジェみたいなものを着た守護天使が「早く逃げなさい」と俺に囁き、更に、俺の頭の中の操縦席に座った小さな俺はコンソールの右奥にある、黄色と黒の縞模様で囲まれた緊急事態用のボタンに手を伸ばした。透明のアクリル版の蓋を叩き割って押す赤いボタンだ。
だが俺が動き出す前に状況は変わった。
緑色のデブは、飲み終えた珈琲の空き缶をきちんと空き缶入れに入れると、こっちを見て、虫の顔でアッと驚いた。俺の姿に驚いたわけじゃない。いつの間にか俺の後ろに立っていたテンガロンハットの大男を見て驚いたのだ。飼い猫の散歩中だったらしいテンガロンハットの大男は、俺に猫のリードを預けると、緑色のデブの近くに一人で歩いて行った。
両者しばし無言で睨み合ったあと、テンガロンハットの大男は袖無しコートのポケットからオモムロにスプレー缶を取り出し、相手の顔に紫色の霧を吹きつけた。緑色のデブと悪臭は一緒に消えた。
テンガロンハットの男は、デブが消えた地面から何かを拾い上げ、小瓶に入れ、蓋をした。
「ただのカメムシだよ」
俺の足下で猫が云った。