「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2022年10月30日日曜日
2022年10月28日金曜日
真ん中に線を引いただけの道
エゾシカにぶつかった自動車が反対車線に飛び出して、走ってきたトラックと正面衝突した事故で、テレビが、シカへの対策がどうとか言っていたけれど、この事故のそもそもの原因はシカではなく、真ん中に線を引いただけの道のアッチ側とコッチ側から時速50キロ以上で自動車を走らせていることだよ。
この事故に限らず、真ん中に線を引いただけの道の上を、何台もの自動車がすれ違っていく様を見ていると、平気な顔をした乗客たちが列車の屋根やバスの窓に溢れ出ているインドの(昔の?)映像を思い出す。
『仮面ライダーBLACK SUN』:メモ
『ドライブ・マイ・カー』の流れでなんとなく「第一話だけのつもりで」観てしまった『仮面ライダーBLACK SUN』だが、なんだか、もしかしたら、続けて観てしまうかもしれない。
まず、「ショッカー問題」への対処が好かった。つまり、所謂「悪の組織」を、この21世紀の世界でどうやって成立させるかという「難問」に、一つの回答を示せているような気がした。嘗ての「ショッカー」のように世界征服を喧伝し、華々しく活動すれば、そりゃ、警察組織や、自衛隊や、国連が動いて、最後には米軍が核を持ち出すに決まっているので、日本政府(ゴルゴム党)が実はこっそり「ショッカー(的な集団)」でした、としたところは巧いと感じた。つまり、嘗てのナチスと同じように、「ショッカー」もちゃんと選挙で勝って政権を取ってました、と。まあ、世界征服の王道でしょう。因みに、現実の日本も「世界征服を企んだ」国。まだ大日本帝国と名乗っていたときのことだけど。有名なポツダム宣言にそう書いてあるから間違いない。リアルショッカーとはそもそも日本なのだ。
で、もう一つ巧いと思ったのは、怪人を「一般化」したこと。差別を受けてはいるが、社会の成員として既に世界中で暮らしているという設定にしたこと。これは一見すると、今どきの「差別のない世界」的モチーフを取り込んだだけのようだが、そうではない(それだけではない)。このお陰で、「ショッカー」の「悪巧み」の実戦部隊である「怪人」が人目につくところで「活躍」しても、社会にとって、ことさらに異様な光景にはならないのだ。つまり、怪人が暴れて死人が出たりしても、たまにある「ただ」の通り魔殺人事件レベルの「フツウさ」になる。怪人がありふれているので、「怪人などという人外の者が現れたということは、その背後に人間とは隔絶した悪の組織的なものが存在するのではないか?」ということにはならない。差別を受けながらも、怪人たちが「フツウ」に暮らしている社会では、「日本政府=ショッカー」は、割合気楽に怪人を使うことができる。ライダーと怪人の戦いが目撃されても、せいぜいが、過激派や反社会的勢力の方々が暴れている程度のものとして受け取られる。
「仮面ライダー」が、「悪の組織側」の怪人と戦う理由も、成り行きでそうなった感があってよかった(しかも、第一話でライダーに倒されたのがちゃんと「蜘蛛男」)。本郷猛のように、一個人が、世界征服を目論む世界組織を相手に、人間の自由のために(裁判とかではなく)肉弾戦をやるというのは、いくらなんでも無理がありすぎる(と、子どもでも思った)。
ほどよい「着ぐるみ感」も好い。
反怪人運動グループの頭目の今野のいや〜な感じも好い。
家福さんが仮面ライダーに変身したようにしか見えなかったのは勿論、『ドライブ・マイ・カー』を観たばっかりだから。
肯定的なことばかり書いたけど、まだ、第一話しか観てないからアテにはならない。
2022年10月26日水曜日
「王様」と「リセットボタン」
この頃のロシアや中国を見ていればよく分かるが、連中は未だに「王様」を選んでいる。その逆が、新首相が2ヶ月でやめた英国や、前回、現役大統領が負けた米国。日本もギリギリそうかな? これらの国は、単に「リセットボタン」を選んでいるだけ。
同じ時代にいるが、知性現象的には、「周回遅れ」に進路を塞がれているような気分。
【付記】
選ばれた「王様」が優れていれば、選ばれた「リセットボタン」が優れているときよりも素晴らしい国が実現するだろう(何しろ「王様」だから、やりたい放題)。しかし、それは、程度の差に過ぎない。
逆に、選ばれた「王様」がハズレだった場合、それは、選ばれた「リセットボタン」がハズレだった場合とは本質的に違う事態である。「程度の差」どころではない。致命的である。ハズレの「王様」をお払い箱にして、心機一転仕切り直す方法が、革命とか謎の急死とかクーデターのような、血腥いものしかないからだ(ハズレの「王様」が自らの意思で自発的に退くことはない。失敗を認め、自らの意思で自発的に退けるなら、それはすでに、ハズレの「王様」ではない)。
「王様」ではななく「リセットボタン」を選ぶ賢明さはここにある。自分たちがリーダーとして選びだした人間が優れている保証はどこにもない。また、或る時点、或る段階、或る局面では優れていたとしても、人間というものは、時間の経過とともに変わるものだし、置かれた状況によっても変わる。所詮、人間の土台は生き物。何度でも言うが、人間は生命現象依存型知性現象という、極めて不安定でアテにならない知性体なのだ。体調も変われば、病気にもなるし、歳も取る。機械で言えば、「故障」。「初期不良」の場合もあるし、経年劣化や事故に拠る故障もあるだろうが、いずれにせよ、「故障」は起きうる。そうなったときのための対応策としての「リセットボタン」を予め選んでおくという、これこそが民主主義の知恵なのだ。
見様見真似民主主義国やナンチャッテ民主主義国は、ここでうっかり「王様」を選んでしまう。「私達のリーダー=王」という、原始時代以来の思考停止。しかし「王様」を選んでしまうと、ブレーキの効かなくなった自動車に乗り続けなければならないし、感電するヘアドライアーで髪を乾かし続けなければならない。嗚呼、泥沼。
2022年10月25日火曜日
『ドライブ・マイ・カー』:メモ
『CASSHERN』で、衝撃の棒読み俳優として出会った西島秀俊(後に、単にそういう喋り方の人だとわかったけど)主演の『ドライブ・マイ・カー』。
(以下、ネタバレありますよ)
もっとスカした映画だと思ったら、割と硬派な印象で好かった。やってることは極わかりやすい。全編を通じて、劇中劇のセリフに、登場人物の内面の言葉を代弁させている。あるいは、登場人物の内面を説明する「ナレーション」の役割か。例えば、『ワーニャ伯父さん』のセリフ練習用テープから聞こえてくる、死んだ妻音の声と、主人公家福との「セリフ」のやり取りが、そのまま、現実の二人の「対話」(死者と生者の対話)になっていて、しかもそれを代行運転ドライバーの女が聞いている、という巧い構造。その上、みさきは、家福と音の4歳で死んだ娘と同い年という「親切」ぶり。
オーディションのシーンで、高槻(岡田将生)が相手役にキスした瞬間に、家福が思わず立ち上がって演技を止めてしまったのは、そこに、2年前に音と謎の間男(家福は高槻だろうと考えている)との間にあったことを「見て」しまったからだろう。
環境音好きなので、全編ほぼBGMがないのも好い。
最後、みさきは、家福のSAABを譲り受けて韓国で暮らしている。頬のキズも手術し直していて、微笑む。「親切」なエンディング。
あと、アバンタイトルが40分! てっきり、オープニングタイトルは無しで最後まで行くのかと思った。つまり、アバンタイトルが「前日譚」なんだよね。先にやったけど。
ついでだから、Lynch道家としての病的に偏った感想を述べると、『INLAND EMPIRE』+『TPR』+『Fire Walk with me』という印象で、わかりやすかったし、好かった(Lynch菌の感染はなかったけど)。それぞれに、『INLAND EMPIRE』:劇中劇が「本編」を「侵食」している。『TPR』:広島から北海道への長旅が、グラナダからツイン・ピークスへの長旅を思わせた。『Fire Walk with Me』:劇中劇の本番の舞台の最後の場面が、ブラックロッジで泣き笑うエンディングのローラ・パーマーのようだと思った。
2022年10月24日月曜日
『パルプ・フィクション』最大の工夫
2022年10月23日日曜日
戦争が「愚か」だと言われる本当の理由
実は一番わかり易い『INLAND EMPIRE』
以前にも書いたが、『INLAND EMPIRE』は映画を「成仏」させる映画。
もっと丁寧に言えば、不測の事態で制作が中断された映画の主演女優を、その映画のリメイク版の主演女優が、映画を完成させるという手段を用いて「成仏」させる話。
もっと親切に言えば、オリジナル版の主演女優は、役に入った状態のままで、現実に殺されてしまったので、死んだあとも、その役から抜け出せず、「閉じ込められている」という状況にあった。それを、リメイク版の主演女優が、映画を完成させることで、彼女を役から解放し「成仏」させた。
2022年10月21日金曜日
2022年10月20日木曜日
『ミュンヘンMunich』:メモ
△2022年10月20日/Amazon Prime/エンドロールが始まって、初めてスピルバーグの映画だったことを知った。てっきり、ミュンヘンオリンピックでのイスラエル選手団拉致殺害事件を描いた映画だと思ったら、その事件を企てたPLOの「黒い9月」の黒幕達を、イスラエル政府の暗殺チームが殺していく話だった。暗殺が順調に行っている間は、ちょっとバカみたいな「スパイアクション映画+ゴッドファーザー映画」風で、おやおやと思ったが、立場が入れ替わって、主人公たちが「狩られ」始めると、少し好くなった。が、あくまで「少し」。標的を追って、イタリアとかギリシャとかフランスとかに行くけど、その風景がどこも、「有名観光地で殺人事件が起きる2時間ドラマ的」ロケーションで笑った。仲間のカールが殺される場面は、死亡フラグ立ち過ぎ。誰がどう見ても、ホテルのバーにカールが入っていった時点で、「はい、カール、死亡確定」と分かる。全体として、そういう陳腐さのある映画。
あと、これは映画そのものとは関係ないことだが、やっぱり、ナチス・ドイツの「正統後継者」はイスラエル。ナチス・ドイツを「反面教師」にして、やり方が巧妙になったのが今のイスラエル。国のため、国に忠誠を誓え、とやってることは両者とも全く同じ。
2022年10月18日火曜日
『妖婆 死棺の呪い』メモ
2022年10月17日/購入/大昔のエッセイで水木さんが絶賛していたので、購入して、観た。購入した理由はAmazon Primeになかったのと、900円と安価だったから。エッセイの中で水木さんが言っていた「昔のウクライナの農村の様子」も楽しめたし、三夜目の妖怪たちの登場場面も愉しかった。原題のタイトルにもなっていて、オープニングナレーションでも言及されている「ヴィー」というのは、魔女のことではなく、最後の最後に登場して、魔法陣の中のホマーを見つけて「そこにいる」と言う妖怪。昔観た『鬼太郎(アニメ)』に、やはり魔法陣の中を「見る」ことができる唯一の妖怪「ドセイ」というのが現れるが、元ネタはこの「ヴィー」だったのだと知った。魔法陣の中を見る時に、自分では目を開けられず、他の妖怪たちにまぶたを持ち上げてもらうところが全く同じだし、登場する状況もそのまま。あと、主人公ホマーがなんでこんな目に遭うことになったのかが一切説明されず、そもそも、あの村がなんだったのか、魔女は本当は老婆なのかお嬢様なのかも全く分からず、挙句の果てには、物語の最後で登場人物の一人に、全部ウソなんじゃないかって言わせてしまうあたりが、全体としてトボケていて好感。水木さんもきっと、こういう全体に漂うトボケた雰囲気が気に入ったのだろう。因みに、村人のなかで一番チカラのあるふうの老人の髪型とヒゲは、まるっきり、『ナウシカ』のユパ様。宮崎駿はきっとこの映画も観ているはずだから、もしかしたら、モデルなのかもしれない。
2022年10月16日日曜日
2022年10月14日金曜日
2022年10月11日火曜日
2022年10月10日月曜日
『職業"振り込め詐欺"』メモ
ナニカの切り抜き動画の中で岡田斗司夫がオモシロイと言っていた鈴木大介の『振り込め犯罪結社』を読んだら、著者がその「あとがき」でNHKスペシャル取材班の『職業”振り込め詐欺”』を薦めていたので、これも読んだ。
鈴木の本は、「悪」を糾弾しない私立探偵モノ風で、一気に読んでしまうほどオモシロかったが、NHKの本の方は、いかにもNHKっぽい生真面目さで、やや退屈だった。何より、「著者」が「犯人たち」の言動に対して、妙に怒ったり驚いたりして、(それがわざとでないなら)かなりオボコイと思った。
裏もオモテも関係なく、あらゆる商売が「詐欺」であることは、少し世の中が見えるようになれば誰でも自然に気づくこと。「詐欺」だからこそ、会社は「大きく」なるのだし、社長が豪邸に住んでいるのに平社員は安アパートに住んでいるのだ。そもそも商売で「儲け」られるのは、取引が「不誠実」だから。自分が百円で手に入れたものを、他人には二百円で譲り渡すからこその「商売」。その本質はどう取り繕ってもやっぱり「詐欺」。
オモテの世界の「合法な詐欺」が「真っ当な商売」と見做され許されているのは、言ってしまえば、「この程度までの騙しなら、お互い様なので、ヨシとしましょう」という合意のおかげ。要は「程度」の問題。「相手からカネを騙し取って懐を潤す」という仕組み自体は、「真っ当な商売」も「犯罪としての詐欺」も全く同じ。という「事実」に、本に登場する「エリート」詐欺師たちは気づいている。将来の起業のための資金を、銀行の融資で手に入れるのも、振り込め詐欺で手に入れるのも、実質的に「騙し取っている」という点では同じだ、と。
最初にも書いたが、こうした認識は別に新しいものではないので、特に、脅威も驚きも感じない。むしろ、与えられた環境に適応しようとする各生物個体の振る舞いを眺めているような気分。つまり、自然淘汰の実例。もちろん、人間の本分は遺伝子に抗う知性現象なのだから、自然淘汰の言いなりになっていては、人間である|甲斐《かい》がない。
2022年10月9日日曜日
【「最悪の平和」と「まだマシな戦争」】:メモ
岡田斗司夫がナントカいう中高一貫校の生徒たちに、【「最悪の平和」と「まだマシな戦争」】という二択を問うた。それで、また余計なことを考えた。
自分が選ぶとしたら、一も二もなく、「最悪の平和」。というのは、岡田斗司夫が提示した「最悪の平和」の条件である「毎年2万人の自殺者」が、自分にとってはそもそも最悪でもなんでもないから。
以上。
【付記】
自殺はその人の「趣味」。「趣味」が不謹慎なら「生き方」と言い換えてもいい。つまり「コレコレの条件・状況のとき、私なら自ら死を選ぶ」という意味での「生き方」。肝心なのは、同じ「コレコレの条件・状況」に置かれているにも関わらず、自殺を選択しない(生き続ける方を選ぶ)人がいること。「毎年2万人の自殺者」とはそういうこと。自殺しない人たちが毎年大勢いるから「毎年の自殺者」なのだ(一年目で人口の半分が自殺したというのなら、たしかに「最悪」の平和かもしれない。この調子で行けば、次の年に残り半分も自殺して国が消滅するからだ)。
一方で、「まだマシな戦争」では、職業軍人や志願兵の死は自殺者の死と同じに考えても構わないが、徴兵された市民が戦場で殺されるのは自殺者の死とは断じて違うし、今のウクライナのように、「戦争趣味(悪趣味)」などサラサラ無い民間人(市民)が数多く殺されるのも自殺者の死とは違う。喩えるなら、彼らは、「最悪の平和」で自殺者の巻き添えになって殺されてしまったようなもので、迷惑以外の何物でもない(投身自殺の真下に居たとか、アパートで隣室の焼身自殺に巻き込まれたとか)。「まだマシな戦争」で死ぬ人間の中には、他人の「趣味=戦争趣味」に無理やりつきあわされただけの人間が多く含まれる。
もう一つ、「最悪の平和」を選ぶ理由がある。それは、「まだマシな戦争」では、最低ラインが「殺してもいい」になるからだ。なんせ「戦争」だから。それで、結局は「なんでもアリ」状態になっていく。嘗てのことで言えば、神風、東京大空襲、原爆投下などだ。そこまで大々的でなくても、前線の兵士たちが、「どうせ殺すんだから」とか「殺されるよりマシだろう」という理屈で、「個人的」に、強姦や押し込みをやりはじめる。
「戦争状態」の野球の試合を想像してみよう。もしも相手チームの剛腕ピッチャーが打てなくて負けそうになったら、バットで殴りかかってそのピッチャーの利き腕をへし折ればいい。場合よったら殺したって構わない。相手チームや観客が人道的にどうとか騒いでも、「負けるわけにはいかないので、やむを得ない」という「理屈」が負けてる側では成立するし、一定の支持や「理解」も得られる。なんせ「戦争」なんだから。
「最悪の平和」ではこんなことは起きない。「強気(やぶれかぶれ)」の自殺志願者が、「どうせ自殺するつもりだったので、他の連中を道連れにしてやった」と、無差別殺人の動機を告白したとしても、社会全体がそれに理解を示すことはない。むしろ、不気味さと反発を覚えるだろう。これが、最近時々「問題」になっている「人を殺して死刑になりたかった」系の殺人事件なのだが、「平和」と「戦争」の決定的な違いがここにある。「戦争状態」の野球では相手のピッチャーを殺しても「大事件」はならないが、「平和状態」の「死刑になりたかった殺人」は、総スカンを食らう。2つの場合で、社会の「気質・人柄」のようなものが変わってしまうのだ。
国家や社会を個人に喩えると、にっちもさっちも行かなくなって戦争を仕掛けるのは、貧乏に嫌気がさして犯罪(振り込め詐欺など)に手を染めるようなものなのだ。堅気の世界に居たときと、裏社会に入ったあとでは、同じ人間でも「別人」になるアレが、「平和」を守る社会(国)と、「戦争」に踏み切った社会(国)にも起きる。だから、「まだマシな戦争」ではなく「最悪の平和」の方が、自分にとっては「まだマシ」なのだ。
【オマケ】(voice memo書き起し。ほぼ全て「まだマシな戦争」の悪口)
*「最悪の平和」で構わないと考えている人たちを殺しまくるのが、「まだマシな戦争」をやる連中。
*「最悪の平和」は自殺者が自らを殺す。「まだマシな戦争」では、「最悪の平和」の自殺者予備軍が他人を殺して生き延びる
*「まだマシな戦争」は一部の人達にとってだけ「まだマシ」なだけ。
*「まだマシな戦争」は、人間の幸せのためにではなく、人工人格の〔開発/発展〕に直に関わる場合にのみやっても構わないが、人間にそんな器用なことは出来ない。
*戦争は、昭和の時代の「ノミニケーション」や大学生の「一気一気」と同じで、他人の「趣味」につきあわされて命を落とすってことなので、巻き込まれた者にとってはただただ不愉快極まりないだけ。「最悪の平和」の自殺者は、状況はともかく、最終的には自分の決断で死ぬのであって、「一気一気」で無理やり酒を飲まされ急性アルコール中毒で息絶えるとか、ノミニケーションに毎晩つきあわされた挙げ句、肝臓癌になって藻掻き苦しみながら死ぬのとは全く違う。
*戦争というのは、国を挙げての自殺だからね。「最悪、今日貴方は死ぬかも知れないけど、こうなったらみんなで死にましょう。一か八かでいきましょう」ってことだから。だって、「まだマシな戦争」は、にっちもさっちも行かなくなって仕掛ける戦争だからね。「最悪の平和」は、毎年たったの2万人しか死なないけれど、「まだマシな戦争」は、潜在的には(可能性としては)、アチラとコチラの国民全員が「今年の死者」だから。
*「まだマシな戦争」は、野球観戦とかオリンピックの応援とか「一日一時間レゴを作る」とかっていう「趣味」を、〔他人に押し付ける/他人から押し付けられる〕ってことなんだよ。例えば、野球に全く関心のない人が、贔屓チームを決めて年に数回以上必ず、球場に足を運んで応援しなければならない、もし、それをやらなかったら刑務所に放り込まれるとか、処刑されるとかってことになったら、タマッタもんだじゃないだろう? これが「まだマシな戦争」の社会の現場の「実感」。
*生き物の本質は、生き延びて繁殖するってこと。自殺するって人は、その生き延びて繁殖することを諦めるということを、自分の決断で行使しているだけ。あるいは、子どもを作ったあとに死ぬという選択も可能なんだけど。「戦争」に巻き込まれると、生き続けて繁殖するって行為を、他人の「趣味・生き方」の押し付けで、断たれる。これが「戦争」の、弁解の余地のない大問題であり大犯罪。
*「最悪の平和」で自殺する人たちは、自ら選んで自殺しなければ、生き延びられる環境に生きているということ。自殺は、まだ生き続けられる環境がなければ実現しないからね。
*「まだマシな戦争」は、他人の都合で、生き延びて繁殖することを放棄させられるから駄目。それは生命現象の原理に反する。生命現象の原理を行使できるってことがほんとうの意味での「自由」。権利とかナントカは、どうでもよくて、この生命現象の原理をなんでも行使できるってことが「自由」ってことなんだ。他人が、生命現象の原理の行使に干渉するってことが、「自由を奪う」ってこと。「まだマシな戦争」ではこれが起きるが、「最悪の平和」にこれは起きない。「最悪の平和」で生命現象の原理を行使できないことがあるのは、それは「他人の意思」ではなく「状況」がそうだから。結局、「最悪の平和」っていうのは、「自然状態」ってことなんだよ。自然状態って何かって言うと、それぞれの生物個体が、他者にはほとんど無関心で、直に干渉することもないまま、それぞれの思惑で、それぞれの活動をしている時に、どうしても生きづらい個体や種が現れるっていうただそれだけのこと。つまり、直接的に意図した者が誰もいないのに、「自殺」や「絶滅」に追い込まれる存在が〈自然に〉現れる状態。それをとやかくするのは、思い上がりで、たいてい巧くはいかない。実際にそういうことをやろうとして、失敗したのが、共産主義やファシズム。問題は、共産主義やファシズムは、或る特定の個体の「趣味」を実現させるために、それにそぐわない、他のあらゆる「趣味」を強制的にやめさせようとすること。
*岡田斗司夫が、「最悪の平和」と「まだマシな戦争」という二択に疑問を抱かないのは彼がサイコパス(自称)だからだよ。もっと具体的に言えば、自殺者と戦死者の区別がつかないからだよ。自殺者も戦死者も「殺された人間」に変わりはないから、同じものとして、数字の多い少ないで比べられる、と本気で思っているから。で、質問された側が、一瞬、「あれ?どっちを選べばいいかわからない」と思ってしまうのは、岡田斗司夫が自分でも言っている通り、彼の「口のうまさ」で、質問された人間も「サイコパス的判断基準」にひきこまれてしまっているから。「冷静」になって「いつもの自分」に戻れば、なにも迷うことはない。一方は、経緯はともかく、最期の決断は自分自身で行った自分で自分を殺した人々であり、この中には、「泥水をすすってでも生きてやる」とか「子供のために何が何でも今は死ねない」と誓った人たちはただの一人も含まれていない。他方の、戦死者には、今言った「何が何でも生き続ける」「絶対に今死ぬわけにはいかない」と思っていた人々さえも含まれる。自殺者と戦死者を天秤にかけてしまえるこの|雑駁《ざっぱく》さは、サイコパスならでは。