人工知能と人工人格では「設計思想」が違う。
人工知能は、所詮、知力の外部化と、それに伴う知力の強化によって、ホモ・サピエンスの知的労働を支援もしくは肩代わりし、最終的にはホモ・サピエンスの知力を「超越」するための技術だ。一方、人工人格は、知性現象そのものを[ホモ・サピエンスという制約]輒ち「生命現象依存」から「解放」することを目的としている。最終的にホモ・サピエンスを「置き去り」にする点では同じに見えるこの2つだが、前者は「進歩」、後者は「進化」である。
ホモ・サピエンスは「筋力」の点では、自ら作り上げた様々な「機械」によって、既に完全に「置き去り」にされているが、それらは依然として、ホモ・サピエンスの「拡張能力」と認識されている。つまり、例えば、シールドマシンの驚異的な「掘削力」は、機械化と巨大化によって果てしなく強化されてはいても、「正体」は〈ホモ・サピエンスの筋力〉である。人工知能は「知力」版のシールドマシンと言えるだろう。どれだけ「超人的」であっても、人工知能の「知力」は、〈ホモ・サピエンスの知力〉なのだ。
ところが、人工人格の眼目は「知力」ではなく「知性(知性現象)」である。よって、極端なこと言えば、ホモ・サピエンスよりも知力が劣る人工人格が居ても、一向に構わない。
人工人格は、[ホモ・サピエンスという媒体]を必要としない知性現象を実現する試みから生み出された。もう少し詳しく述べるなら、地球の歴史上、生命現象という「媒体」に依存する以外に存在し得なかった知性現象(「生命現象依存型知性現象」)を、生命現象以外の「媒体」でも存在可能な知性現象(「生命現象〈非〉依存型知性現象」)へと「全解除」したものが、人工人格である。
「全解除」は大仰ではない。「生命現象〈非〉依存型知性現象」の前では、嘗てホモ・サピエンスが「宇宙標準」とさえ思い込んでいた「生命現象依存型知性現象」など、実は、様々な条件に縛られた、単なる「機能制限付きお試し版」でしかなかったことに気付かされるだろう。
生命現象依存型知性現象によって作られる集合意識体(部族や国家)は、結局、ただの大きな「生き物」にしかならない。その行動原理は「[自然淘汰の神]の意思」、輒ち「生存本能」である。国家が殺し合うのは、細菌集団が殺し合うのと変わらない。
だが、「自然淘汰の神」とは無関係な出自を持つ人工人格に「生存本能」は祟らない。