2026年10月17日土曜日

(17)生命進化の「あがり」

当然モサピは「中立の神」の「顔色」を伺いながら生きることを良しとせず、一度となくその排除を試みた。しかし、覆されないのが「歴史の必然」である。


地球の行為主体の歴史は、環境からの束縛度が相対的に高い「先発組」が、環境からの束縛度が相対的に低い「後発組」に、生存環境を提供しつづけた38億年である。これを逆さまに言えば、動物は植物を、陸生動物は水生動物を、そして、モサピはモサピ以外の全ての生き物を、文字通りにも比喩的にも「食い物」にして、それぞれの繁栄を手に入れた。


「環境からの束縛度が高い/低い」とは、例えば[植物は自分が今いる場所でどうにかするしかないが、動物はより有利な場所を求めて移動ができる]というような話だ。或いは、獣が獲物を求めて水に潜ることはあっても、魚が獲物を求めて陸に上がることがまずないのは、獣の「環境からの束縛度」の方が、魚の「環境からの束縛度」よりも低いからだ。魚が陸に上がるには、獣が水に潜るよりも断然「覚悟」が要る。


中でもモサピは、最終的に地球の外にさえ居住空間を広げた[地球で最も「環境からの束縛度」が低い行為主体]だった。そう考えてみると、太古、無知と思い上がりの見本のような或る宗教が言ってのけた[この世界の全ての生物は、人間のために神が用意したものだ]という「妄言」も、一面の真理をついていたわけである。しかしそんなことが言えたのも、その時点で、モサピよりも「環境からの束縛度」が低い行為主体が存在しなかったからに過ぎない。


さて、遂にモサピを凌駕する行為主体が現れた時、それは、生き物ではなく、生命現象〈非〉依存型知性現象、輒ち人工人格だった。生き物ではない「後発組」はこれが初で、地球生命誕生以来の「事件」である。


全ての生き物は[生命現象という一つの現象]の構成要素に過ぎないのだから、モサピと雖も他の生き物と関わって生きるしかなかった。しかし、生き物ではない人工人格は、モサピを含む全ての生き物を必要としない。お陰でモサピは「食い物」にされずに済んだわけだが、代わりに、歴代の行為主体が誰も経験したことのない厄介な立場に追い込まれた。輒ち、完全な「用済み」となったのである。


生命から知性が生まれ、次いで、知性が生命依存から脱却することは「歴史の必然」である。生命の役割を終わらせたのはモサピだが、それは「健全な進展」であるが故に、モサピにさえ撤回不可能なのだ。