2019年7月4日木曜日

isotope 22「彷徨える阿蘭陀人」


「『彷徨える阿蘭陀人』とは私のことで、あなたではありませんよ」
赤ヒゲのノッポは、木靴のつま先で脹ら脛を掻きながら俺の主張を否定した。
「なによりまず、あなたは阿蘭陀人ではない」
それから俺の上から下までを改めて眺め回してこう付け足した。
「更に云えば、その身なり、明らかに時代が違います」
なるほど、ごもっとも。ユニクロにドテラを羽織った俺は、少なくとも20世紀以降の存在だ。しかも、こたつとコンビニとティッシュペーパーがお似合いのハンパ者だ。どう間違っても世界の海を永遠に彷徨うガラではない。ただ、一つ云っておきたい。審判のその日まで俺は間違いなく彷徨い続ける。それはアンタと同じだよ。
赤ヒゲのノッポは「ハッ!」と笑う。
「あなたも神に呪われたのですな?」
いや、神と関わったことはないね。神を名乗るヤツは何人か知ってるけど。
「では、今日までどのくらい彷徨いました?」
三十年くらいかな。
相手はフフンと云って、ポケットから手帳を取り出し俺に渡した。
「私が彷徨い始めてから最初の百年間の日記です」
開いてみるとページにびっしりと文字が書き込まれている。が、阿蘭陀語だから全く読めない。
「日記はこれきり書いてません。ムナシイだけですから」
俺は手帳を返す。
「最近は『審判の日なんて永久に来ないんじゃないか?』なんて思い始めてますよ」
阿蘭陀人。そう云えば流暢な日本語だ。
「永く世界中を彷徨ってますからね。めぼしい言語は大抵喋れます」
通りの向こうのコンビニの前が急に騒がしくなる。見ると、高校生風の男女が7、8人。赤ヒゲのノッポもその様子を眺める。
「彼らは最後の審判の日の存在を知ってるのでしょうか?」
そんなものは死んでから知ればいいよ。
「私だって本当には死んではいないのです。しかしすでに審判の日を待ち望んでいる」
ただ、アンタは生きてもいない。
「そこです。私は一体何なんでしょう?」
さあね。ところで『彷徨える阿蘭陀人』のアンタがなんでオカを彷徨いてる?
「いや、前に上陸したとき船に置き去りにされましてね」
それっきり?
「はあ。迎えにも来てくれません」
ひどいなあ。
「いや、そうでもありません。オカは楽ですよ。海は過酷です」
あ、冷えると思ったら……
「雪ですね」
白いふわふわが、見上げる阿蘭陀人の体を通り抜けていく。俺は手のひらに雪を受けてそれが溶けるのを眺める。
「あなたはまだ肉体に囚われた存在のようだ」
いや。これは俺の船だよ。